世相・身辺雑感

2016年5月 9日 (月)

木の芽どき

庭の山椒数日前、家内に同伴して(買い物の荷物持ちと坂道などでのアシストのため)近所のスーパーへ行ったときのこと。“ネ、これ見て”と言われて、その指の先に目をやると、「木の芽」とシールが貼られた小さな透明パックの中に、水気を含んだスポンジに載せられたあの小さな羊歯状の葉が4枚。\198という値がついていた。
思わず、“ヘー...”と感心してしまった自分。何故なら我が家の庭には、植えてから少なくとも25年以上は経ち放っておくと葉も枝も伸び放題になり年に1回は剪定しなければならないほどに育ってしまう山椒の木があり、いわゆる“木の芽”すなわち山椒の稚葉などは、お店で売られるようなものではないと思っていたからだ。

でも、両の手のひらでパチンと叩くと立ち上り何とも心地よく鼻腔を刺激して食欲をそそるあの清冽な香りを思い浮かべると、確かにそれぐらいの価値はあるのかなとも思い、それが季節になると自宅の庭に生えている木からいつでも必要なときに直に摘み取ってくることができるというのは、かなり有難いことではないのだろうかという気もしてきた。
自分の好みでいうと、木の芽の芳香が最もひき立つのは、やはり同じ時期に出回ってくる若い竹の子とコラボしたときかと思う。その中でも定番中の定番は竹の子ご飯。自分はこれに目がないので、今年ももう3回も(そして毎回白飯のときより多めに)炊いてもらい、その都度残りを冷凍し、さらに2~3回に分けて楽しませてもらっている。

竹の子ご飯は、竹の子のアクを抜いたり、ビミョーに薄く切ったり、味付けを加減したり、なかなかに手の込んだプロセスを要する料理。クッキング音痴の自分などは手伝おうとしても邪魔になるだけなので、調理するとなるとどうしても、まだ身体が本調子でない家内の手を全面的に煩わすことになる。だから申し訳ないとは思いつつ、今年最後にもう1回くらい如何なものか...と、恐る恐るお伺いを立てたときはダメモトと思っていたが、“ンー...いいんじゃない”と予想外のOKが出た。
摘んでも摘んでも後から後から新しい葉芽が出て来て、5月の半ばごろにはすっかり大きく育ち切り隙間がなくなるほどに密生してしまうので、今年の木の芽どき最後のお楽しみは恐らくこの1週間内になるだろうが、そのときはせめて、より鋭く尖ってきたトゲの痛さは我慢し、心を込めてより柔らかく美味しそうな稚葉を選び出し摘み集めるぐらいのお役には立たねば...と思っている。

余談だが、いまこの横浜の自宅の庭で立派な成木となっている山椒は、実は、清里の山荘にある原木から分植したもので、さらにその原木も、元はと言えば、懇意にしている大泉のキノコ屋さんから苗木を頂いて育てたもの。ほぼ同じ年月の間に、横浜の弟木の方はのうのうと大きく育ったが、清里の姉木は厳しい風雪にジッと耐えるかのように生きてきて幹は未だに細く丈も低いまま。それでも、季節ともなれば一応木の芽としての役は果たしているのが何とも健気でいじらしい。
余談をもう一つ。いままで“キノメ”と読むとばかり思っていた木の芽は、実は“コノメ”とも読むらしい...というよりも、その方が本来の読み方のようだ。が、文学作品などに携わる方ならともかく、一般的には圧倒的に“キノメ”が多数派。マ、文字の読み方・物ごとの呼び方などが時代と共に訛ったり変わったりするのは珍しくないということで、結論としては、どちらでもいいというお話し。

ところで、木の芽の季節になるといつも自動的に“木の芽どき”という言葉が頭に浮かぶ。そしてそれからストレートに連想するのは、これまでは“いよいよ春たけなわ”とか“そろそろ竹の子ご飯の季節”ということぐらいだったが、なぜか今年は、もうちょっと深く考え入ってしまった。これには、文字通りの意味だけではなくて、その別の側面を指す寓意もあったはず...ということが意識下にあって。
俗に言われ自分も何となく思い込んでいたのは“木の芽どきとは精神にチョッと変調を来した人が出現することのある季節”ということだったが、それが果たして正しかったのかどうかと物好きに調べて見た。するとどうやら、まんざら見当違いでもなかったようで、ネット検索の結果では一様に、“精神のバランスが崩れ情緒が不安定になり、心身に変調を来しやすい季節”とあった。

そもそも“木の芽どき”とはいつごろのことを指すのかということだが、3月~4月(3月中旬)とも4月~5月(4月中旬)とも言われているけれども同じ月でも地域差があるからどちらとも言えるという説と、俳句の歳時記でいう「三春」(初春=2月、仲春=3月、晩春=4月)の総称という説があり、つまるところそれは、ピンポイントした特定の短期間ではなくて、“春”という感じがすれば早春から晩春までのどの辺りをそう考えても間違いではない――ということのようだ。
それで、なぜこの時季に人は心身のバランスを崩すのかというと、大きな原因・理由は“気候の不安定による目まぐるしいほどの寒暖差の繰り返し”なのだそうだ。これがストレスとなって、自律神経やホルモンのバランスに乱れが起こり、“体がダルい”“寒い”“よく眠れない”“寝汗をかく”“やる気が出ない”などの体調不良が生じて、やがては鬱病とか統合失調症にまで進むことさえあるという。

確かに...自分自身にも、多々思い当たるところがある。若いころは(齢をとっても60代までは)あまり意識しなかったけれども、ここ数年ほんとうに冬が辛くなり年々重ね着の枚数が増えていたが、先月の下旬になってやっと二皮剝けて、普通の人の春着に並んだところ。天候・気温にもやたら敏感になって、聞かれてもいないのに毎日、暑いの寒いの、今日は気温が高いの低いのとブツブツ言っては、家内にうるさがられている。
それにしても今年は、4月に入ってからも気温の変化・高低差が甚だしく、我が体調もアップダウンが激しくて(アップはほとんどないが)、睡眠不足・身体のむくみ・肩凝り・筋肉痛・花粉症・倦怠感...など、例年以上さまざまな症状に悩まされた。毎月1回ホームドクターに内科的診察を受けているのだが、自律神経失調の状態ではあるが病気というわけではないので、ともかくストレス解消のための軽い運動を継続しなさいと、ラジオ(テレビ?)体操を奨められている。

普段から家庭内での言動にKY的なところがあって何かと家内の逆鱗に触れ、結果、自からも落ち込むことの多い自分だが、今月は特にそれがひどかったような気がする。一時は、自分は先天的にアスペルガー症候群ではないのかと悩んだりさえしたが、どうやらそこまでのことでもなく、心身のキャパシティ・オーバーがそういう結果を招いたようだった。
実際今月は、通院その他例月のレギュラー・スケジュールに加えて、業界・学会の名誉職的なものではあるが自分としての仕事始め、知人・友人画伯の作品展への顔出し、税金・会費・管理費といった年間経費の支払い、ムッシュの一周忌、生垣の内・外側の剪定と消毒(殺虫剤噴霧)など、脳力も体力も神経も使うイレギュラーの仕事が重なって、意識せぬ間にストレスが嵩じたのかも知れない。

ようやく前向きのニュースも聞かれるようになってきたがまだまだご苦労の多い熊本地震の被災者の方々のことを思ったら、こんな私事を云々している場合ではないが、遠く離れている上に高齢・非力で何もできない身、せめて気持ちだけでも一日も早い復興を祈りつつ、応分の協力をさせていただく積もり。

次回は、こんな愚にもつかない内向きの繰り言に終始せず、もっとテンションを上げて、より外向きのネタでお目にかかりたい。

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2016年3月29日 (火)

久々にホテルでランチ

Garden前回のアップからまた1ヵ月経った。ほんとに日の経つのは早いと感じるが、彼岸過ぎというのに季節は一進一退して、なかなか本格的な春にならない。数日、5月並みの気温が続いたかと思うとまたほとんど冬に逆戻り。こんな気候で自分は例年にも増して寒がりになり重ね着が1枚増え、未だにそれを減らせないでいる。
でもよくよく観察すると、桜はまだようやく3~4分咲き程度だが、季節の歩みは確実に春に近づいている気配がする。今年もいつの間にか、庭の花壇のチューリップやノースポールが地中から芽を出し葉茎を伸ばし、雪柳が真っ白に枝垂れ、ブルーベリーやカリンの枝にも沢山の蕾がついて出番を待っている。

つい先日まで寒い日が多かったが、10日あまり前の晩春と思えるほどの暖かい日に、実に久し振りに、家内と渋谷まで足を延ばし、ホテルでの本格的なランチを楽しんできた。たまプラーザなど近所でのイタリアンや和食のランチは時たましていたが、都心まで出掛けてホテルのレストランでというのは何年振りかのこと。
近場で間に合わせていたのは、単に齢をとって出無精になったからというだけではなくて、家内の体調の問題もあった。転倒して背椎骨折という大怪我をしてから、電車駅での乗り降りに不自由し体力的にも無理が利かなかったが、2年半経ちやっとこの頃自信がついて来たということで、今回、演習も兼ねて遠出(?)してみることにした。

行き先は渋谷の国道246号沿いの「セルリアンタワー東急ホテル」の「クーカーニョ」というレストラン。昔東急グループの本社ビルが建っていたところで、駅から直線距離は近いのに電車と徒歩で行くとなると必ずしも容易いとは言えない場所だが、たまたま手に入ったペアランチの招待券利用ということだったので、他に選択の余地はなかった。
若いときだったら、あるいは自分独りだけだったら、地下鉄から外へ出るのにどれだけ階段があろうと、国道の交差点を渡るのに複雑な歩道橋を渡らなければならなかろうと、また歩くのに多少坂道が多かろうと、アクセスの経路にあまり思い悩まなかっただろうが、今回は、高低差があって人でゴッタ返す往来の歩行にはまだ杖とエスコートなしでは危険があると判断される家内と一緒なので、サテどうしたものかと考えた。

車ならばいちばん面倒なしかという考えは当然浮かんだが、郊外に向かうならいざ知らず、渋滞で悪名高い246や首都高速3号線の上りを来て渋谷で降りるのは、かつて何度も経験しているように所要時間が全く読めないので、アポや予約のあるときには止めた方がいいチョイス。おまけに、我が家の方向からだと、このホテルのパーキングに入るには一たん行き過ぎてからUターンしなければならず、ややこしさに輪がかかるようだった。
ので、結局電車(と降りてからは徒歩)を選んだのだが、田園都市線はどの駅にもエレベーターとエスカレーターが利用しやすい場所に設置されていて問題なかったのに対し、渋谷駅は、誰もが知っているように、地上へ出るだけでも一苦労も二苦労もあった。エレベーターはあるにはあるがまったく見当違いのところへしか出られないようだったし、エスカレーターも、地下街の奥まで進まないと見つけられなかった。

結局地上へはマークシティの入り口付近で出たので、そこから246の西口交差点方向に向かい、右折してしばらく坂を登ったところにあったホテル直結の歩道橋に接続するというエレベーターに乗り、246の上を渡ってやっとホテルエントランスに到着。予約していた時間の15分ほど前でちょうどいいタイミングだったが、出る前に胸算用していた所要時間よりも30分ぐらい多くかかっていた。
ランチではあるけれどもホテルのレストランだしドレスコードがあるかと思って調べたら一応“スマートカジュアル”ということだったので、フランネルシャツにセーターを重ねた上にコーディュロイのジャケットを着用し、天候が変わって寒くなったりするといけないからとご丁寧にコートまで羽織って行ったらそれでは暑過ぎた。

と、レストランに入るまでは何だかんだと苦労があったが、さすがは高級レストラン、座って落ち着くと地上40階からの素晴らしいパノラマビューと心地よいサービスで、スーッと疲れが抜けて行くような心地がした。ウイークデーだったせいか客もまばらで、ほぼ南向きの窓際の席からは眼下に代官山・恵比寿、やや前方に東から西にかけてスカイツリー・お台場・羽田などが一望でき、遥か彼方には横浜みなとみらいが霞に烟っていた。
料理はプロバンス・スタイルの“シェフのおまかせ”とあって何が出て来るか楽しみだったが、期待を裏切らない、凝ったしかも極上の味だった。オードブルから始まってメイン、デザート、コーヒーまたはティーと続くオーソドックスなコースだったので、近年とみに小食になった自分たちにはヴォリューミー過ぎないか心配していたが、美味しさの前にはそれは杞憂だった。レストラン自家製のミニパンも過不足なかった。

帰途の渋谷駅では、地下まで下りるのに来たときとは異なる経路を辿ったら、ほとんど階段ばかりで家内はまた一苦労。自分はもちろん最大限に支えた積もりだが、折角の楽しい機会だったのに辛い思いをさせてしまった。渋谷駅はいま大リニュアル中と聞くが、新しくなったら身体的弱者にも優しい駅になるように設計されているのだろうか?
しかしそれはそうと、自宅に帰り着くまで家内が元気だったのにはホッとした。電車は往復とも結構混んでいて、明らかに自分たちより若い人がほとんどだったが、みんなスマホいじりか居眠りを決め込んでいて、杖をついて覚束ない足どりの家内のことさえ知らん顔。そのうちさすがに、見かねた年配の方が席を譲ってくれて家内は座れたが、自分は往きも帰りも全線立ったまま。格好をつけて年齢不相応な服装と姿勢をしていたのが災い(?)したのだろうとはわかっていたので、痛し痒しというところ。

まあそれでも久し振りに、色々な意味で充実した一日ではあった。美味しい食事とサービス、室内の雰囲気と眺望には満足したねと家に帰ってから家内と語り合ったが、また行きたいかと聞かれたら答えはビミョー。あの店がもっと近くて楽にアクセスできるところにあったら間違いなくリピートするだろうが...。

日比谷・赤坂・六本木...さらにはニューヨークやパリなどで、二人ともドレスアップしてディナーに出かけていた20年くらい前までの日々が無性に懐かしい...。

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2016年2月29日 (月)

ムッシュ、いつまでも

2月も末になり、寒さの中にも庭の紅梅や白木蓮の蕾が膨らみ綻び始めできた。早いもので、ムッシュが旅立ってからもう10カ月が経つ。彼が家の中にいなくなった淋しさがすっかり癒えたわけではないが、ようやくこの頃は何とか、彼が傍にいてくれて楽しかった日々のことを、思い出話として家内と語り合えるようになった。
でも不思議なもので、彼の匂い、頭や身体の手触り、その辺を歩いている足音などは、いまも自分の感覚に鮮やかに焼き付いたままで、時折りどこかから今にも、彼がトコトコと足許に歩み寄って来るような気さえする。
我が家には仏壇などは設えていないので、彼はいま、中2階の和室の南側窓際のチェスト上の小さな壺の中で眠っているが、お互いに淋しくないように、毎日、朝の“おはよー”から夜の“おやすみー”まで、何かにつけて言葉をかけている。
そして彼の写真の前には、お腹を空かしたり喉が渇いたりすることのないようにと、主食のドライフードをはじめ好物の菓子・果物を供えていつも切らさないようにし、飲み水は毎朝取り替えて、綺麗でいい匂いのするお花を飾っている。
どういうものかつい最近までは、見たいと思っていながらもムッシュの夢を見ることはなかったが、嬉しいことに、ここに来てたて続けに3回も、彼が夢の中に出て来てくれた...それも元気でヤンチャに走り回っている姿で...。
それを追いかけている自分もどうやらまだ若かった頃の自分だったらしく、楽々と走っているようなシーンだったのがどうにも説明がつかなかったが、朝目が覚めたとき何とも懐かしい気持ちになっていて、家内に報告すると、“いいわネー、私の夢にも出て来てくれないかしら...”と羨ましがられた。
その夢のように、今から2年半くらい前の夏までは、ムッシュもまだまだ元気で、視覚・聴覚・嗅覚も何ら衰えていなかったので、この分なら彼の換算年齢と自分の実年齢が合致する傘寿を一緒に迎えられそうだと密かに思っていたが、残念ながらそれは叶わなかった。
ドッグイヤーということもあるから、20歳までもなどということはもちろん無理だろうし、亨年14歳半というのも決して早過ぎたわけではないと考えることもできるかも知れないが、今となっては詮ないこととは知りつつも、自分にもっと犬の病気についての識見と病院選びについての深慮があったなら...と、つい振り返っては胸が痛む。
ムッシュの様子がどうもおかしいと感じ出したのは、2013年の8月末に理由のわからない切り傷を発見し、その治療のために近所の動物病院を訪れたところ膿皮症という皮膚病も発症していると診断され、毎日3回の内服薬と消炎剤を処方されて、週一回の通院を続けて2ヵ月になった頃からだった。
アレルギーがあるようだからということで食事は医師に指定されたほぐし鶏笹身と茹でキャベツ擂り潰しを与えていた(同時期骨折入院・通院していた家内の介助と重なって次第に手作りが困難になり後に「低プロテイン」という既製の処方食に切り替えた)が、彼は次第に食欲不振に陥り動きが悪くなって、ときに嘔吐を起こすようになってきた。
この頃からはほとんど毎日のように通院、点滴を受けるようになり、内服薬も変り、症状が重いときには注射を打たれることもあったが、一向に体調は回復せず、食事も付きっきりで給餌してやらねばならぬことが多くなった。皮膚炎の方は軽癒してきたが、この全体症状の原因・病名は不明ということで、血液検査を含む検体検査を受けることになった。
と言ってもその病院には分析設備があるわけではなかったので結果が判明したのは10日後だったが、そこで聞かされたのは、副腎皮質ホルモンの分泌異常による「クッシング症候群(副腎皮質機能亢進症)」というそのとき初めて知った病名と、最早やその病院の手には負えないので、高度の治療のできるより大きな病院にかかって欲しいという、詫びのような言い訳のような言葉だった。
どうして今までわからなかったのか、これまでの治療はほんとに適切だったのか、今ごろになってよくもそんなことが言えるものだ...など、疑問は百出、怒りもこみ上げて来たが、そこで言い争っていても時間がもったいないし、何よりも速やかに、信頼できる良い病院を見つけることの方が大事だと考えを切り替え、直ちに行動した。
そして、ネットで調べるだけでなく行きつけのペットサロンの店長にも相談して決めたのが、ベテランから若手まで多数の医師とスタッフが揃い、検査・治療システムも完備していて、年中無休・24時間体制で受け入れてくれる、たまプラーザのN動物病院だった。
ペットサロン店長の口ききもあって、その病院の医師団の事実上のトップであるF副院長直直に診てもらえることになり、前の病院での検査データと処方されていた薬を提出し、自分の口からもムッシュの容態を説明したが、それだけではもちろん不十分なので、触診の後あらためて検査を受けることになった。
血液検査とレントゲンおよびエコー撮影の結果分ったのは、確かにアレルギーはあり、肝臓肥大と胆のう結石も見られ貧血もあるが、症状の根源はステロイド系薬剤の過剰使用によるクッシング症候群だということで、直ちに、これまで前病院で処方されていた薬の服用を中止し、先ずはしばらくの間、所謂“薬抜き”をすることになった。
そうして数日経つと、心なしか元気が回復し食欲もやや改善してきたが、2週間後の血液再検査の結果では尿毒素値が非常に高く「腎不全」の症状をも呈していることが分り、さらに薬抜きを続けながら、食事も低蛋白の療養食「腎臓サポート」に変更することになった。しかしこのフードはかなり固くて、3年前に16本も抜歯されていたムッシュには食べにくいようだったので、ある程度ふやかしミキサーで細かく砕いてから与えることにした。
ここに来て自分としても、ムッシュの病気はただごとではないとわかり、さまざまな情報を集めて貪り読んだが、やはり原因は皮膚病の治療に安易にステロイド剤を多用し続けたことにあるのではないかと思えてきて、当時の医師・病院の選択と薬剤・治療内容の適否について自分は余りにも無知だったと、今さらながら強い自責の念にかられた。
ステロイド抜きが一段落し多少落ち着いたかに見えたが、多飲(水)多排泄(大小とも)というこの病気の典型的症状は続き、新しい薬の服用を開始したもののなかなか直ぐには効果は現れず、2週間毎の検査でも、副腎皮質ホルモン機能レベルを表す「CRE」値と腎臓の尿毒症のレベルを表す「BUN」値は依然として危険水域に止まったままだった。
やがて、食欲不振に加えて下痢と嘔吐が気になるほどに目立ち始め、身体の動きも見るからに弱々しくなってきたので、2月の半ば頃からは連日通院し検査と輸液(点滴)治療をしてもらったが、BUN値が異常に高くなり腎不全を発症しているということでついに緊急入院、懸命の治療のお蔭で、数日後に危機を脱することができた。その間毎晩のようにF医師は、ムッシュの状況を電話で伝えてくれた。
この集中治療が効を奏し新しい薬の効きめも現れてきてか、この後やっとBUN・CREとも僅かずつながら改善し始めたようで、朝の目覚めが4時~5時台というやたら早い時間帯になった(多分排泄の欲求によるものだったと思う)ことを除けば、ムッシュの容態はだいぶ改善し、通院間隔も1週間から2週間そして3週間になり5月からは1ヵ月間隔となって、以前と同じとは行かないまでも、それなりに落ち着いた日々が過ぎて行った。
暑い夏も、清里で過ごしたり、自宅でもエアコンとクーリングマットで何とか乗り切ったが、ムッシュはこの頃から目がだいぶ不自由になり、同時に聴覚・嗅覚も衰えて行く様子が見えて来て、食事のときに全面的介助が必要になった。ただ、摂取量は減ったものの、好物のバナナやヨーグルトのトッピングによって、コンスタントな食欲は維持できた。
病気のせいで大小排泄の量と回数が増え、時と所もコントロールできなくなってきて、ベッドやケージ・室内のあちこちを汚すことが多くなり、後始末や洗濯にも手がかかるようになってきたが、そんなことは何にも気にならず夢中で世話をした。本人(犬)自身も排泄は外でしたがっていた(そのため早朝目を覚まして知らせたのだと思う)ようなので、様子を察し、面倒がらずできるだけ頻繁に屋外に連れ出すようにした。
12月に今度は自分が、3度目の胃の手術で入院したが、家内が1年前とくらべるとずいぶん元気になり、家族みんなが協力してムッシュの面倒を見てくれたお蔭で、2015年は無事迎えることができた。ムッシュも朝の目覚めがユックリになり、食欲も順調で、遠出こそしないものの日に何回もの散歩を喜ぶようになり、月1回の検査もまずまずの成績で、この分なら病気治癒の朗報を聞けるのも遠くないのでは...と思えるほどだった。
しかし4月に入って、急に容態が変わった。嘔吐を繰り返すようになって食欲も衰え、大好きな散歩にも出ようとせず、自分のベッドや座布団の上で丸くなって寝てばかり。多少身体の調子が良さそうなときもあったので、とりあえず毎日通院するかF医師に電話で連絡をとり指示を仰ぐかしていたが、最早それでは済まない状態と判断してその16日に2度目の入院をさせてもらった。けれども、検査の結果ではBUNもCREも限界値をオーバーし、今回はもう難しいかもしれないと宣告されるところまで悪化していた。
その後のことは既に前回(2016年1月25日)も報告し、改めてここで繰り返すのも辛いのであえて控えさせていただくが、一つだけ、決して忘れられない思い出がある。入院中は連日、家族が入れ替わり立ち替わり面会に行き、自分たちはもちろん毎日訪れたが、最早や手の尽くしようがない状態なのでせめて最後だけでも自宅で看取ってあげたらとすすめられ退院することになる3日前のことだった。
他の家族が見舞ってもケージの隅で背中を向けジッとうずくまっているばかりだったというムッシュが、自分たちが訪れ“ムッちゃん、パパとママだよ”と顔を近づけ声を掛けると、何と奇跡的にも、ヨロヨロと立ち上がってこちらを向き、覚束ない足取りでそばに寄って来たではないか!耳も聞えず目もまったく見えなくなっていたはずなのに...。あまりにもいじらしく可哀そうだったあの姿は、今でも思い出して涙がこぼれそうになる。
2015年4月26日、家族全員が揃った日曜日に、ペットメモリアルでしめやかにムッシュの葬儀をとり行った。ムッシュは小さなお棺の中に、いちばん似合っていた洋服を着て、きれいなお花と好物のフード・菓子・果物、大好きだった玩具、みんなと一緒の写真、そして孫からの手紙などに囲まれて横たわり、まるで安らかに眠っているようだった。
お棺の蓋を閉じる前に、最後のお別れにと、いつもじゃれ合うときの儀式だった“お鼻スリスリ”をしたが、もう応えてくれなくなったムッシュに、涙が流れて止まらなかった。
いつもパパとママの傍で暮らせるように、まだ自宅で祀っているムッシュのお骨は、やがては自分たちと一緒の場所に葬ってもらうつもりでいる。そのときはまたアチラで、楽しく遊んだり散歩したりしようネ、ムッちゃん!いつまでも忘れないョ。

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2016年1月25日 (月)

お詫びそして再出発

前からこのブログを読んで下さっていた皆様、長い間のご無沙汰をお詫びします。

思えば、ずい分長期間休んでしまった。“気まま”を地で行くように、突然、何のことわりもなしにアップが途絶えたことを、怪訝に思われた方、心配して下さった方も居られたと思う。が、これからまた、できるだけ以前通りのペースで、日々の、身の回りに起こったこと、感じたこと、考えたことなどを、コツコツと書き続けて行きたいと思っている。

あれからもう、2年半近くも経った。この余りにも長かった空白のわけについては、到底簡単には話し尽くせないが、ここまで長引いてしまったのには、それなりの事情があった。実は、2013年の8月末以来わが家には、これでもか、これでもかというほど、実にさまざまな災厄の波が立て続けに重なるように押し寄せ、自分は精神的にも肉体的にも、とてもブログを書くどころのゆとりが無くなってしまったのだ。
けれども、急に音信をまったく絶つわけにも行かないので、とりあえずごく身近の方々には、何とかその年を越したところで、かいつまんだ事実だけをお知らせしたが、語ればきりがなくなるとそれ以上の言及を控えている中に、さらに1年が経ってしまった。

やっと、それら大小の波がほとんど治まったような気がしたのが、昨春、2015年のゴールデンウィーク明けのころ。苦しかった胸中を打ち明けて少しでも楽になりたいと、そろそろブログを再開しようかと企てたが、いざとなってみると今度は、なかなか気持ちが盛り上がらなくなっていて、パソコンの前ではいたずらに時間を空費するばかりだった。
己を奮い立たせるために、かつて自分のブログを読んで下さっていたとわかっている方々には、“そろそろ...”とか“もう少ししたら...”とか、あえて再開を宣言していたが、グズグズしているうちに直ぐに数カ月が過ぎ、ついにまたまた新しい年を迎えてしまった。

気がついてみれば2016年、1月生まれの自分は10日で79歳になり、傘寿の大台にあと1年というところまで来て、さすがにいささか感ずるものがあった。自分としては、このところやっと取り戻せた感のある比較的穏やかな暮らしをいいことに、このまま流れに身をまかせて日々好日を決め込んでいていいものだろうか?という反省の念が湧いて来たのだ。
そこで、昨年末に受けた既往の各種ガンの定期検診の結果が、たまたま年明け誕生日直後に何れも問題ナシと判明したことにも大いに気を良くして、今度こそは...と再開を決意した。書き続けて行くことが、己の心身の老化防止にもつながるような気もするので...。

で、いよいよ...となるのだが、恐縮ながら、世の中のリアルタイムの話題にシンクロするようになる前に、先ずはしばらく、これまで我が家に一体何が起こっていたのかを語らせて欲しい。第三者にとってはどうでもいいような、過ぎてしまったことについての繰り言に聞えるかも知れないが、当事者としては、後日何らかの必要があったときのためのそれこそ備忘ログとして、また家族ヒストリーの記憶に残すべき幾ページかとして、ぜひ書き留めておきたいと思うので...。
とは言うものの、正直、どこから始めようか、何から書き出したらいいものかと、戸惑っている。それほどいろいろなことがあったわけだが、忘れられない、忘れてはならないことについては、今後改めて詳しく書かせていただくとして、今回はとりあえず、この2年余りの間にあったこと起こったことを、時系列で要記しておくことにする。

・波乱の予兆は2013年6月にあった。同月10日に報告した、家内の、眼科難病「黄斑円孔」手術のための突然の入院。
・その手術がともあれ成功して家内も眼帯が取れ、やっと普通に近い生活をとりもどせたかと思われた、その年の夏も終わるころの清里での、今度は自分の救急車搬送騒ぎ。スズメバチに刺されてアナフィラキシ―・ショックを起こしたことを、やはり同年9月2日に報告したが、いま考えて見ればこれがすべての災厄の発端だった。
・家内は、片道約40キロある清里の山荘と小海の病院の間を丸1日の間に2往復、横浜への帰途も神経を使いながらの運転で疲れ果て、体調を崩し風邪をこじらせた。
・さらに、帰宅してから発見したムッシュの脊中のかなり深い切り傷。自分の入院騒ぎで目が行き届かなかった間に、病院敷地内のどこかで受傷してしまったらしい。早速近くの動物病院へ連れて行ったが、これが彼の1年半あまりの闘病生活の始まりになった。
・そして忘れもしない9月26日。微熱を押して近所のスーパーへ買い物に出た家内が路上で転倒したという誰かからの電話が、留守番をしていた自分のもとに入り、現場へ駆けつけると救急車もほぼ同時に到着したので、そのままそれに同乗し病院へ直行した。
・仰向けに転んだので頭部と背腰部を強打し、幸い脳内には影響はなかったものの、胸椎と腰椎の境目を骨折したことがわかり、1ヵ月近く入院。退院後も長期の車椅子生活と全身的不調が続いた。
・家内は、骨折自体の苦痛に加えて、時を選ばぬひどい目まいに悩まされるようになり、不眠・不安感とそれによる食欲不振に陥って、消化器系の不具合をも併発し、体重が短期間に10キロ以上も激減した。
・ムッシュは、怪我だけでなく皮膚のあちこちがアレルギーによる膿皮症になっていると診断され、週1~2回の通院と抗生・消炎剤の連用そして食餌療法が義務づけられたが、指示された手作り食を男手一つで毎日用意するのが容易ではなくなって、ひと月あまりは頑張ったものの、止むを得ず医療用の低プロテインフードに切り替えた。
・家内の入院中、毎日の見舞いとムッシュの世話、掃除・洗濯・買い物・食事といった諸々の家事...しなければならないことは山ほどあって、こういう時こそ自分が頑張らねばとはわかっていたが、情けないことになかなか思ったようには行かなかった。
・必要には遠く及ばなかったかも知れないが、自分としては全力で、家事に通院・療養介助に、そうやってキリキリ舞いしているうちに、ムッシュが見る見る体調を崩して行き、連日のように治療・検査を受けていたにもかかわらず、クッシング症候群で最早やその動物病院の手には負えないということで、言わば見放されたかたちになってしまった。
・12月、八方手を尽くして、行きつけのペットサロンの店長に紹介してもらった大規模病院で検査を受けると、ムッシュは、ステロイド系薬剤の濫用によるクッシング症候群に加えて腎不全も併発していると診断され、先ずは徹底的に“薬抜き”をしなければならないということになった。
・そこにさらに追い打ちがかかる。家内の全身症状がいよいよ悪化し耐えきれない状態になり、大晦日も含むその年最終週の3日連続で、夜間救急医療センターで治療を受け、子供たちも全員病院に駆けつけて、ムッシュは可哀そうにも長時間留守宅で誰にも構ってもらえない慌ただしく淋しい越年をした。
・年が改まって2014年に入っても、家内とムッシュの容態はなかなか改善せず、二人とも週を措かずに頻繁に通院して懸命の治療を続けた。家内は整形外科だけでなく、耳鼻科、脳神経外科、心療内科、消化器科...などでも診療を受け、ムッシュは前年末に診断された病気の症状がさらに進んで、数日間の緊急入院さえ余儀なくされた。
・家内の病院の関係者の薦めもあり、介護サービスを申請、3月、“要支援”という認定が下り、ヘルパーが週1回来宅し掃除と料理をしてくれるようになって、ほんの少しながら毎日の暮らしの中にゆとりが生まれ、気候が良くなるにつれて家内の体調にも、徐々に徐々にではあるけれども改善の兆しが見え始め、ムッシュも、本復には遠かったものの何とか安定症状を取り戻した。
・それから約1年の間、4月に別世帯の娘が婦人科の手術で1週間入院したという番外の出来事はあったが、家内もムッシュも、週1~2回の定期的通院・治療・リハビリと毎日欠かさず服薬を続けることでまずまずの体調を維持し、家内は杖を頼りにごく近場までなら出歩けるようにもなってきた。が、好事魔多し!今度は自分に番が回って来た。
・2009年から4年連続で、胃・前立腺・胃・大腸と手術・入院を繰り返したものの、13年~14年は自分が頑張らねばと気が張っていたこともあって何とか持ちこたえてきたが、夏の終わりころからの何度かの内視鏡検査で、胃に新たな腫瘍ができていることが発覚。2014年の12月にまたまた入院・手術ということになり、折角まずまずの体調を維持していた家内とムッシュに、思わぬ負担とストレスをかける結果を招いてしまった。
・2015年、それでも家族の運気は以前よりは改善したかに思え、春に向かって家内も自分も少しずつ元気が回復して行くのが自覚でき、ムッシュにも食欲・散歩意欲が出てきて、落ち着いた容態がずっと続くかに見えていた。
・しかし4月に入ってからのムッシュは、突然、食欲を失くし嘔吐を繰り返すようになり、動物病院に急伴したが、検査の結果かねての病気の状態を示す数値が限度を超えるところまで悪化していて、入院させ最善の努力は尽くすけれども不幸な結果も覚悟していなければならない状態とドクターから告げられ、入院5日目には、せめて慣れ親しんだ我が家で最期を看取ってあげてはと薦められて、複雑な気持ちで彼を引き取ってきた。
・それからまる二日朝昼晩と、もしや奇跡的に元気を取り戻してくれたらと祈りつつ、家内と自分の二人がかりで、小さくなってしまったムッシュを赤子のようにそっと抱きかかえて流動食を給餌したが、最早や一匙分を飲み込むのも苦しそうになった二日目4月23日の春の宵、ムッシュは静かに14年半の生涯を閉じた。

早いものでそれからもう9ヵ月。振り返ればアッという間で、ムッシュのこともだんだん、楽しかったことだけを思い出して話し合えるようになってきた。だがここに至るまでには、辛く悲しいけれども記憶に留めておきたいこともいろいろあったので、次回は、亡きムッシュに捧げるメモリアルとして、在りし日の画像と共にそれらを綴りたいと思う。

久し振りで、いささかくどい長文になってしまったが、何とぞご容赦を。

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2013年9月16日 (月)

多病息災

先日、今年度の胃内視鏡検査の結果がわかった。ガン手術の痕はいまもきれいなままで、新たに問題になるようなものは何も発生していないとのこと。これで術後満2年になるが、今年も一山越して安心したというのが正直な心境。
ドクターの話では、だからもう再発の恐れはないとまでは断言できないので、毎年チェックして、何かあっても早期発見し、重篤にならないうちにより軽い治療で済ませられるようにする努力を続けなければならないということだ。

そういうわけで、毎年この時期になると、まず内視鏡検査の予約をとるための診察を受け、そこで決まった日どりに検査を受けて、その結果を聞きに後日もう一度診察を受けに行く...というように、少なくとも都合3回は病院に足を運ぶ。
それに、昨秋から今春にかけては、ピロリ菌の除菌治療も受け、除菌に成功はしたが、それで後は何もしなくていいというわけには行かず、やはり1年ごとに、再発有無の確認検査を受けるようにとも言われている。

ので、何だか面倒なような、いつまでも気が晴れないような気がするが、そんなことを言っていてはいけないのだろう。チャンとそういうことを実行するおかげで、少なくともまた1年間は、安心して過ごすことができるのだから。
実際、痩せるだけ痩せて小食になりはしたが、いまこうやって何の苦痛も不快感もなく、元気に日常生活を送れているのは、ドクターの言うことに忠実に従って、億劫がらずに真面目に病院通いを続けている賜物だと思っている。

ところで先週は、胃の検査の結果を聞くだけでなく、アナフィラキシー(アレルギー性ショック症状)応急緩和のための「エピペン」なる特殊自己注射薬の処方と使用の指導を受けるために、皮膚科へも行って来た。
先に報告した“蜂さされ”の一件との関連からだが、何の因果かこれまで2度もスズメバチに刺される憂き目に遭った自分は、今度刺されるようなことがあったらより強いショック症状を起こす可能性があるから、それに備えておくように指示されているのだ。

救急車で運ばれた先は長野県の病院だったので、そこの担当ドクターから、自宅の近所の皮膚科医に渡すようにと紹介状を持たされ、それに記載されていたらしいあのときの自分の症状や処置にもとづいて、その注射を正しく使用するための指導を受けた。
渡されたのは、キャップを外せば自分でパンツの上からでも太ももに射せるという緊急対応用の薬剤が入った注射器で、東京や横浜のような都会地で処方されることは滅多にないらしく、事前に製薬会社に連絡して取り寄せておいてもらったものだった。

スズメバチは春から秋にかけて活動し、お盆のころから10月初旬辺りがその最盛期になるというから、晩秋から早春までの時期を除いてはこれから山荘に行くときには常時これを携帯していなければならなくなるのかと思うと、いささか気が重い。
ヤレヤレこれで座右薬がまた増えた。いまも、前立腺手術アフターケア用の薬3種と、甲状腺機能維持と自律神経安定のための薬3種と、すでに十分多い6種類の薬を服用している毎日だというのに...。

それらの薬の処方を受けるためには、前提として当然、検診のため病院・クリニックに定期的に通うということになる。前立腺の手術を受けた病院には、いまでは4ヵ月おきで良いことになったが、内科のクリニックには毎月だ。
これだけでも年間15回の通院になるが、今年はこれに、大腸ポリープの内視鏡手術とピロリ菌の除菌治療と胃の内視鏡検診が加わって、それぞれ計3回、合わせると全部で24日通院したことになる。

この他にも、歯が痛いと言っては歯科に、目の調子がどうも良くないと言っては眼科に、肩や腰が張ると言っては整形外科にも足を運んだから、これらを入れると今年のこれまでの総通院日数は延べ36日、10日に1回の割合になる。
これは多いのかそうでもないのかよくわからないが、昔の自分のことを思い出すと、決して少なくはないような気がする。昔は、忙しかったからかも知れないけれども、よくよく具合が悪くならなければ病院やクリニックの扉を叩かなかった。

通院日数が多いということは、服用している薬もけっこう量が多くなっているということ。その意味では自分なども、まさに薬漬け状態になっている高齢者の一典型なのかも知れないが、複数の大病を患った身としては、必要あっての処方と信ずる他ない。
でも正直のところ、ホンの数年前、2009年に胃腺腫の手術を受けるまでは、自分がこうまで極端に、頻繁な医者通いをし、毎日多種多量の薬剤を服用するようになろうとは夢にも思わなかった。

振り返って見れば、70歳の坂を登り始めたころから、急に、そういう傾向が強くなってきた。毎年、検診を受けては次々に様々な病気が発見され、たて続けに、胃・前立腺・胃・大腸と手術を受けることになり、何も見つからなかったという年はなかった。
が、いずれも早期発見だったため、身体に負担の少ない手術で済み、いまは寝込んでいるわけでもなければ、どこか痛かったり不自由だったりしているわけでもなく、いたって普通の――というよりも、年の割にはむしろ元気な――生活を送ることができている。

結果的に言って、これは多とすべきなのだろう。病院に行くのを敬遠したり、薬を飲むのを嫌がったりせずに、素直にドクター言うことに従っているのが、結局は症状の重篤化を未然に防ぎ、今日の好体調の源になっているのに違いない。
してみると、あれこれ多病であることを嘆かずに、それを逆に積極的に健康を意識する機会としてとらえ、小マメな定期検診を欠かさず、要所々々で早め早めに適切な処置・対応をしていることが、息災につながっているということになりはしないだろうか?

まさに“多病息災”――“無病息災”やそれをもじった“一病息災”とかいう言葉はあっても、そんな言葉はどこにもないだろうが、いまの自分にはこの言葉が相応しい。これからも、そう開き直って、前向きにしぶとく生きて行こうと思う。

意識していなかったが、気がついてみれば今日は敬老の日。老いというものを敬されることとは関係なかったが、たまたま、自らのそれを考える日にはなったようだ。

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2013年7月 8日 (月)

ムッシュと老老散歩の日々

今年も早や前半が終わって暦は7月に突入。夏至は過ぎたが、いま時分は1年中でいちばん日が長いころ。朝は4時ともなれば東の空が白み始め、夕方は7時を回ってもまだ外は明るく、自分の子供のころ実施されたサマータイムを思い出す。
年寄りは朝が早いなどと言われるが、寝足りて早朝に目が覚めるわけではないけれども、前立腺の手術をしたせいなどもあって、どうしても、未明に一度トイレのために起きるようになり、それっきり眠れなくなってしまうことも再々だ。

ムッシュそれでも、そう思って悶々としているうちに、いつの間にか1時間くらいは浅い眠りに落ちて、束の間ながら心地好いひとときを味わえていることもあるのだが、近ごろはその楽しみさえ奪われるような事態になっていて、いささか困惑している。
朝は8時ごろまで熟睡していて、ときにはこちらが声をかけて起こすこともあったムッシュが、思い返せばこの春ごろから、ちょうど1時間早い7時前後には目を覚まし、ワンワン吠えて、“ケージから出してくれー”と催促するようになったのだ。

初めのうちは、様子見をするように、控えめに“ワンッ”と一声啼いては暫く沈黙し反応をうかがっているが、それを繰り返しても何も反応がないとなると声が“エンエンッ!”になって、沈黙の間が短くなり、啼き方もトゲトゲしくなってくる。
こちらは“ワンッ”のころはまだ夢うつつ、彼は1階で自分たちは2階だから、だいたい“エンエンッ!”に変わるころに気がつくが、なにぶんまだ6時台で洗顔・歯磨きもこれからというところなので、すぐに飛んで行くというわけには行かない。

本当はもう少し眠りを貪っていたいところなのだが、もしや何らかの理由で切羽詰まっているのではないかと、急かされた気持ちになって、結局、“ハイハイ、分かった分かった”と、アタフタ1階に下りて行くことになる。
セコムのセキュリティロックを解除し、全室のシャッターを上げ、窓から光を入れて、それからムッシュのケージを開けてやるのだが、彼は中で待ちかねた様子でピョーンピョーンとジャンプしていて、文字通り脱兎のごとく飛び出してくる。

多分、外で用を足したくて我慢していたのだろうと思い、早速、朝の散歩に連れ出すが、この時でもまだ7時前。こちらは洗顔はしたものの気だるさが抜け切れていないのに、ムッシュはすでにエンジン全開だ。
小走りに家の前の道を渡って、向いのマンション脇の遊歩道の定位置までくると、そこで彼は朝の大小ご用足しをしてお腹スッキリ。そのころにはこちらもようやく身体全体が覚醒して、頭の中もスッキリしてくる。

散歩のコースは一様ではない。だいたい5通りあって、歩数(自分の)にすると最短で7~800歩、最長で1500~1600歩、標準で1000歩前後といったところ。往復ではなくてほとんどが周回で、右回りのときも左回りのときもある。
その日その日のコース選択はもっぱらムッシュまかせだが、興味深いことに、ある一定のパターンで上記の5通りをローテーションしているフシがある。厳密に記録をとっているわけではないが、どうも、そのように思えて仕方がない。

何れにしても、朝のムッシュは元気いっぱい。嬉々として先に立ち、こちらはそれに引っ張られるようにして足早にならざるを得ない有様。これが、余程の雨降りにでもならない限り1年365日続いている。
朝ほどではないが、昼寝(ムッシュの)の後にも散歩に出るし、昼食後・夕食後にも、家の周りをそぞろ歩きする。これも朝同様、毎日のこと。自分は1日の適切なウォーキング距離を5000歩以上ということにしているが、大半はこれでクリアできている。

ムッシュはいま12歳。あと4カ月で13歳になるので、もはや老犬の部類に入るのだろうが、極小で童顔なので誰もそうは見ない。だから、散歩途中で会う初対面の人にはたいがい、幼犬扱いされて、“可愛いネー”などと頭をなでてもらってはテレている。
ただ、見かけはそうでも、長年付き合っているこちらには、やはり彼の体力の衰えはわかる。清里の森の中で暮らしていたときを含めて5年前くらいまでは、いまの倍はおろか3~4倍の距離を平気で歩いていたが、もうそんなことはすっかりなくなってしまった。

かつては、昼寝後の散歩でも、朝に優るとも劣らない相当な長距離を歩いたものだったが、いまはまったくその面影はなく、ちょっと家の周りをブラつくという程度。考えてそうしているわけでもないのだろうが、いつの間にかそうなった。
でも、それでいい。上手くしたもので、ムッシュがそうなって行く間に、こちらも残念ながら、年々目に見えて体力が低下してきた。わずか1年余り前までは、身体を鍛え直すの何のと威勢のいいことを言っていたが、いまは到底無理と自覚するようになった。

ムッシュはいま、人間の年齢に換算すると還暦と古希の間くらいのところのようで、現在の自分よりもまだかなり若いから元気なのもうなずけるが、気を遣ってやるに越したことはないと、ヒアルロン酸とコンドロイチンの入ったサプリも服ませている。
そのお蔭か、足腰は以前と変わらずしっかりしているのが嬉しい。自分も、若いころ野球でさんざん走り込んできたのが幸いしてか、足の老化はほとんど意識せずに済んでおり、いまのところムッシュとの付き合いに不自由はない。

しかしあと4年もすると、彼の換算年齢が自分の実年齢にちょうど並ぶ傘寿の坂に差しかかることになり、お互いの一つの山場となる。が、いまの調子だと、何だかそれも何気なく乗り越えて行けそうな気もする。というよりも、それ以外のイメージが湧かない。
能天気と言われるかもしれないが、いまのムッシュを見ていると、そしてそれに付き合えている自分を考えると、そんなに難しいことでもなさそうに思える。マア、そう思っていることが、そうなるためのいちばんの近道ということになるのかも知れないが...。

思いがけず今年は梅雨明けが早まったようで、このところ猛暑が続いており、この先が思いやられるが、何だかんだ言いながらワテら二人(正確には老人一人と老犬一匹)は、今日も何事か語り合いながら、老老散歩に出かける。

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2013年6月24日 (月)

己の無能さ加減を知る

家内が黄斑円孔の手術を終えて退院してきた...というよりも、どうも強制的に退院させられた感がある。入院前は最短11日、手術直後には2週間と言われていたのに、わずか1週間でそういうことになったのだから、尚更その思いが強い。
個室だったためか、特別に切迫した事情のある患者が後に控えているとかで、最初と約束が違うと言ってもとりあってもらえず、明け渡さざるを得なかった。回復が順調ということの証左でもあるらしいが、それにしても、納得が行かなかった。

そのため、本来ならば入院したままで受けるはずの治療や検査を通院して受けなければならず、術後の患部および周辺部のケア(消毒や何種類もの目薬の頻繁な点眼など)や食事・洗濯など身の回りのことについての面倒も、いやでも患者本人にもかかって来る。
自分がナースのように患者の世話ができて、主婦のように家事万端をこなせれば、こういうことになっても何とかフォローできるのだろうが、そのどちらの能力も欠如している悲しさ、今回は、退院して来たばかりの家内に大きな負担と迷惑を強いてしまっている。

家内の入院中は、それでも、あらかじめ彼女が用意しておいてくれた食材と事前アドバイスがあったので、自分自身はそう不便な思いはせず、ムッシュの食事・散歩などの面倒も見つつ、毎日のように病院にも足を運ぶことができた。
ムッシュも協力してくれた。入院・手術の当日こそペットクリニックに預け、翌日長男に面倒見に来てもらったものの、他の日はすべて、病院通い・買い物といった自分の外出中、何の問題もなく大人しく留守番していてくれた。

だからといって自分が、今回の家内の入院中、彼女が長年やってくれていたことの万分の一かでもカバーすることができたかと言えば、到底そうは思えない。四苦八苦しながら何とかやっと辻褄を合わせていた...というのが偽らざるところ。
それも、自分独りだったから、多少のウッカリや失敗があっても結果何とかなり、まだ傍に迷惑が及ばなかったが、いま家内が帰って来ているところでもその調子でいると、たちまち、不十分や非効率だけでは済まない問題が発生してくる。

家内は、手術した方の目がまだまだ本復しているわけではなく眼帯を外せない状態だし、つい先日までベッドに横たわっていた身だから、とても普通には動けない。ところへ来て自分は、気持ちだけは何でも...と思うのだが、実際にはロクなことはできない有様。
家事の助けになろうとして、彼女に教えてもらったり指示してもらったりしても、カン違い、聞き洩らし、ド忘れ...などばかり仕出かし、行き届かないだけならまだしも、余計なミスを発生させては、彼女にストレスを与える結果になってしまっている。

以前から夕食後だけはやっていた食器洗いなどは、もちろん毎食後するようにしているし、各種ゴミのまとめとゴミ置き場への運搬などは、比較的単純・規則的な作業なので何とか遺漏なくこなしているが、家事諸般となるとそうは行かない。
家内のような目配りと気働きができないので、買い物や食事の準備などでも目的がシンプルな場合ならいざ知らず、少しでも複雑な、同時に多種多様なことを進行しなければならないケースに遭遇すると、ギブアップにこそならないまでも、何かしらミスを犯す。

揚句、俗な言葉で表現すると、“アホ”“間抜け”“オッチョコチョイ”“役立たず”...などと言われても仕方がないことを、このところは連発していて、我ながらまことに情けなくなり、己がいかに無能だったかをつくづく覚る。
と同時に、病み上がりの身を押してそれをリカバーしている家内を見て、心底済まなく思い身の置き所もなく、ひたすら平謝りするばかり。謝ったからとて、彼女の蒙った不快や迷惑や余計な手間が軽減・解消するわけではないが...。

自分でそうすまいと意識もし注意もしているつもりなのに、それでも次から次へと失敗をやらかしてしまう自分の無能ぶりは、自分でもどうしたらいいかわからず呆れるほどで、とうとう自分にも、認知症のお迎えが来たかとさえ思ってしまう。
家内が退院してきたら、意外にチャンと家事をこなしていた自分を見てもらって、“やればできるじゃない”と感心してもらう予定だったが、そんなことはトンデモない夢想だったようで、甘かった考えを改めて大反省している。

ただ、そんな中でも良かったことは、家族の絆が再確認できたこと。娘や倅たちが、家内の入院中だけでなく退院後も、一丸となり、それぞれ自分たちの得手な分野で、何かと不自由な母親のことはもちろん、この至らぬ父親をもサポートしてくれている。
そして何よりの朗報は、家内の視力が日を追うごとに回復してきているらしいこと。いまはまだ大仰な眼帯を欠かせず、外見は痛々しいが、先週の術後第1回の検診では、術前0.1~0.2まで落ちていた視力が0.4まで戻ったということだった。

自分の手術のときもそうだったが、術後しばらくの間は検診々々で忙しい。家内の眼科の場合もそのようで、明日もまた2回目の検診があり、その後は間隔が2週間空いて3回目、以降は1ヵ月・2ヵ月・3ヵ月おきと、だんだん間遠になって行くらしい。
ネットに掲載されている他の手術経験者の手記などを読むと、こうして、1年をかけて薄紙を剥ぐように視力が良くなって行く様子がつづられているが、家内もそれを楽しみに、交通の便の悪さと予約時間の不自由さにもめげず通院に頑張っている。

今月は、本来なら“金婚パーティー”をと思っていたのだが、とてもそれどころではないことになってしまった。ので、心配がなくなるまで十分療養した上、年内にでも開催できればと考えている。が、それとてMUSTではない。まずは目の本復が第一だ。
清里にも、実は6月中に一度行く予定をしていたが、当然無理だ。何しろ遠いところへの往復だし、自分の運転では家内が嫌がるので、彼女自身のコンディションが整うまではお預け。早くて、7月中旬の梅雨明けごろに、ごく短期間ということになろうか...。

退院から早や10日あまり...直後はまだ暗くて辛そうだった家内の表情にも、日に日に明るさが戻りつつあるのが嬉しい。
目の手術(内臓などよりも考えようによってはたいへん)と聞いて、神経の繊細な彼女に耐えられるかと実は心配していたが、よくぞ耐え抜いたと思う。改めて敬意を表したい。

この上は、スムーズな経過と一日も早い完治を心より願うのみ。

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2013年6月10日 (月)

梅雨は何処へ

アジサイ 低血圧の質なので、生来この時季は苦手なのだが、今年は有難いというか、何というか...気象庁が例年より10日も早い梅雨入り宣言をしたというのに、皮肉にもそれ以来さっぱり、それらしい兆候がない。
庭にアジサイも咲いて、舞台装置は万全に整っているのだが、それに風情を添えるシトシト雨も一向に降って来ず、忘れたころにほんのチョッピリのお湿りがあるくらいで、連日、5月の延長のような天候が続いている。

梅雨は一体何処へ行ってしまったのだろう?今年はいわゆるカラ梅雨なのか?自分勝手なことを言えば、それならそれでたいへん結構なのだが、農作物や電力事情などのことを考えたら、そんなことも言っていられないのだろう。
昨年の夏は記録的な猛暑だったが、今年も春からの夏日続きを考えると、またあの暑い日々が繰り返されるのかと、いまから辟易しそうになってしまう。さりとて寒い夏でも世の中は何かと困るし、何とかほどほどに行かないものだろうか?

...などと、呑気に気候談義をしている場合ではない...いま、我が家は。実は、一病息災ならぬ“多病息災”を自認して健康管理には人一倍気を遣って来た家内が、23年ぶりに急遽入院、先週末に手術を受けた。
科目は眼科。“老眼が進んだのかしら?それとも乱視?どうも最近モノが見えにくくなって来たヮ”と嘆いてはいたけれども、あまり深刻に考えていなかった彼女が、5年ぶりに行きつけの眼科医院を訪ねたところ、検査の結果、思いもかけない宣告を受けた。

老眼どころか、最近は簡単な手術で治るという白内障程度でも済まない、網膜の病気で、「加齢性黄斑変性症」と診断され、ごく近年注目され始めたため専門医のいるところでないと治療ができないとのこと。で、「聖マリアンナ医科大学病院」を紹介された。
その医院とはつながりがあるらしく、その場で診察の予約がとれ、紹介状も書いてもらえて、5日後に行くことになったが、予想もしていなかった結果の上に、バタバタと追い立てられるようなスケジュールになって、家内は心の準備もできぬまま茫然として帰宅した。

そして5日後、朝一番の診察だったが、様々な検査で何度も院内各科に移動を余儀なくされ、その結果がわかって治療方針が最終決定したのは昼過ぎ。病名は、右目黄斑変性のかなり進んだ段階になる「黄斑円孔」ということだった。
早急に手術の要ありとの判断で、診察してくださったドクターが眼科部長だったこともあり、通常なら2ヵ月待ちのところに無理にスケジュールを割りこませていただくかたちになって、8日後に入院、9日後に手術と決まった。

手術と言っても個所が個所だし、そんな急に言われても...と家内は逡巡し、避けられるものなら避けたい思いはあったようだが、治すためにはそれしか方法がないとなればウンもスンもなく、辛いけれどもフォローせざるを得なかった。
「黄斑変性」とは、目の網膜の中心にある直径2ミリほどの“黄斑”部が、主に老化により機能が低下するために起こる病気で、そこに“孔”があいてしまった状態を「黄斑円孔」と呼ぶのだそうだ。

家内から、ドクターにそう診断されたと聞いたときには、“まさか選りによって彼女があの病気に...”と、一瞬、耳を疑った。というのは、実はごく最近、仕事がらみでその病名を聞いたことがあったから。広告電通賞の選考会でのことだった。
自分の担当している種目・部門に、ノバルティスファーマという企業からの応募があり、そのタイトルが「加齢黄斑変性疾患啓発キャンペーン」で、この作品は最終的に、プロモーションキャンペーン部門の最優秀賞に選ばれた。

もちろん、広告のビジュアルに“片目ずつの視力自己チェックチャート”を組み込むなどした関心喚起手法の卓抜さが評価されたこともあるが、難しい病気であるにもかかわらずこれまで認知が低過ぎたという問題の解決姿勢が共感を呼んだことも想像に難くない。
そういうことで、自分の頭の片隅にはこの病気に関する情報・知識が、あらかじめある程度インプットされていたので、家内から手術の話を聞いたときには、徒に同情や慰めを言うよりも、前向きに取り組むよう励まし勇気づけることに心を配った。

病院にとっても、急に追加された予定だったので、入院・手術の確定日時は寸前まで二転三転、結局、最初聞いていた予定から1日遅れて入院、即日手術ということになって、慌ただしい雰囲気の中でそのときを迎えた。
ドクターからの話というのは簡単なものでしかなかったので、ネットを通じてできる限りの事前知識・情報は入手していたが、何分にも急なことだったので、車椅子で手術室に入るときの家内の不安感はいかばかりだったかと、察するに余りある。

でも、もう手術は終わった。執刀医が“成功いたしました”と言ってくれたし、その24時間・48時間後の検診でも、“順調に推移しています”とのことだったので、いまは、肩の荷が少し軽くなったような気がする。家内本人はまだまだたいへんだと思うが...。
何がたいへんかと言って、手術そのものもさることながら、最初の数日間は四六時中顔面を下に向けて、ベッドでは終始うつ伏せになっていなければならないのが一番辛いだろう。が、そうしていないと、手術で閉じた網膜の孔が剥離してしまうのだそうだ。

手術当日は、二男が朝方自分の車で家内を迎えに来て病院まで送り届けてくれ、娘が自宅から直行して身の周りのこまごまとした世話を焼き、昼からは入れ替わって自分が、ムッシュを動物病院に預けて駆けつけ、長男は仕事先から合流した。
近年の自分の3回の手術では、家内には昼から夜まで長時間待たせて心身の苦労をかけ、今回は何とかその恩返しをしたいと思っていたが、彼女にとっては幸いだったことに日中でしかも1時間弱で済んでしまったので、その意を十分尽くせたかどうか心もとない。

いまのところ自分は、入院・手術の日から毎日見舞いに行き、子供たちも入れ替わり立ち替わりで顔を出しているが、家内も日一日と、言葉の端々に回復の様子が窺えるようになってきた。ぜひ、このまま快方に向かって欲しいと、毎晩就寝前に祈っている。
そんなわけで、ここしばらくはムッシュとの二人暮らしだが、入院前に家内がいろいろ食材を用意しておいてくれたし、娘も1~2度来てくれるというので、食生活の方は何とでもなると楽観している。けれども、火の用心・戸締りやゴミ出しなどにはやはり神経を使う。

でも、そんなことは、連日病院のベッドで苦行を強いられている家内のことを思えば、愚痴などこぼしたら罰が当たるというもの。多分、彼女は心配していることと思うが、帰ってきたら、笑って、成長した自分(といまさら言うのも変だが)の姿を見せたい。
芝生や玄関先と窓辺の鉢植えの水遣りは、もともと自分の毎日の仕事だから忘れることなくやっているが、留守中の宿題として自ら引き受けた、庭の草むしり、咲き終わったツツジの剪定、生垣の消毒なども、早めに済ませておこうと思う。

いじらしいのはムッシュ。家内が入院する直前ごろから家の中の雰囲気が何となくいつもと違うのを察して落ち着かない様子だったが、愚図るわけでもなく、大人しくいつものように暮らしている。ただ、どうしても、昼寝をしようとしなくなった。
きっと、いまにもママが、“タダイマー、ムッちゃん!”と言って玄関のドアを開けて入ってくるのではないかと思って、気が気ではないのだろう。パパが書斎に引っ込んでいるときには、そうやって何時間も、上がり框のマットの上で正面を見据えて座り込んでいる。

そんなわけで、普段は世話ばかりかけている我々家族一同だが、及ばずながら力を合わせて何とか家事をこなしているので、家内も休心の上、ゆっくりと療養に専念して欲しい。

それでは今日も後ほど、病院に行って来よう。

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2013年4月29日 (月)

寒がり爺さんの遅い啓蟄

冬服を一たんは仕舞ったもののまた出してみたり、一進一退する気候に翻弄されながらも暦は着実に進んで、今年もまたゴールデンウィークに突入。ここまで来ればいくら何でも、もう寒さとはお別れできるだろう。
それにしてもこの一月半くらい、嫌になるほど不順な天候が続いていた。“春に三日の晴れなし”とかいう俚諺もあるようだが、今年ほどそれを実感したことはない。その所為だけにするわけではないけれども、先月は最少限の外出しかする気になれなかった。

が、この4月からはさすがに、寒がり爺さんの自分もようやく本格的に始動することに...。上旬の示現会展、中旬の広告電通賞選考会、そして下旬のムッシュの狂犬病予防接種など、毎年決まったタイミングで、恒例の外出スケジュールが入ってくるので、それが刺激になっていやでも動き出さざるを得なくなるのだ。
地中で冬籠りしていた虫たちが春の気配に目を覚ますのは昔から3月と決まっているようだが、自分にとっての啓蟄はだいぶ遅れて、そんな4月ということになる。

例年この季節は、万物の勢いが蘇るという自然の摂理なのだろうか、自分も、アッチが痛いのコッチが痒いのとは言いながらも、総じて体調は上向き。疲労感とか倦怠感とかはなくて、積極的に外出できている。
その皮切りが国立新美術館での示現会展だったが、ウィークデーにもかかわらずたいへんな人出。今年は出展数も多く、鑑賞し終えるのにいつもより時間がかかって少々疲れはしたが、相変らず奇を衒わない正攻法の作品ばかりで、爽やかな満足感を味わえた。

例年なら、館外に出ると満開の桜の花びらが肩に散りかかるところなのだが、今年はその時季は過ぎて葉桜になりかけ。多少風もあり、他には目を楽しませるものとて特になかったけれども、久し振りの六本木だったので、東京ミッドタウンまでブラブラと。
時間も昼過ぎになっていたこととて、ランチに軽い(けれども美味しい)サンドイッチとソフトドリンクでも...と思い、良さそうな店を物色したが、残念ながら気に入ったところが見つからず、そんなに空腹ではなかったこともあって、そのまま帰宅した。

後日、広告電通賞選考会で汐留に行ったときにも、同じ結果になってしまった。昨年までは、六本木ではベーグルカフェに、汐留ではサンドイッチバーに、迷わず入っていたのだが、今年はどうもそれすらがヘビーに思えて、食指が動かなかった。
朝食からあまり時間が経っていなかったということもあるのだが、胃の手術後、節食を心がけているうちに基本的に小食になってしまったようだ。真面目な話、どこかに、お子様ランチならぬ“ジイ様ランチ”でも出してくれるところがあると良いのだが...。

食べ物の話はさておき、その汐留の電通ビルで行われた広告電通賞選考会は、今年から、自分がどちらも担当していた「セールスプロモーション」と「ダイレクト」が、「プロモ&ダイレクト」という部門に一本化されることになった。
せっかく5年前から別々の部門として扱われてきたが、企業のマーケティングの目的とそのための手法の多様化で、実際問題として両者の境界が定かではなくなってきたこともあり、この二つが発展的統合を遂げるのは時間の問題だったのかも知れない。

ただ、自分も再々ここで問題提起しているように、歴史的に新聞・雑誌・ラジオ・テレビ・ポスターそしてインターネットと“メディア別”を基準にしてきたところに、その後プロモ・公共などという“目的別”が加わった形になっていて、整合性の点で違和感のある現在の部門設定の在り方についても、この辺で一考していいのではないかとも思う。
選考基準も、従来は発想の斬新性や表現の独創性が第一とされてきたが、それもさりながら、明確な成果と費用対効果が当然のこととしてもっと重視されて然るべき...とも。

とまれ、この東京地区選考会が終わって、次は来月下旬の最終選考会。それまで、約一月の間、公務はお休みになるので、陽気もよくなる(だろう)ことだし、ムッシュと3人連れで、清里の山荘をオープンしに行って来ることにする。
今年の春で12歳半になるムッシュも、お蔭さまでまずまず元気。人間で言えばもう60代半ばに相当するところまで行っているわけだが、チットもそうは見えない愛くるしさと人懐っこさで、家族とご近所の人々を癒している。

でも、先日、市主催の本年度の狂犬病予防注射を受けた後は心配させられた。注射後の昼寝から起きたら、その前とまったく様子が変わっていて、元気がなくなりやっと歩いているような状態。一体どうしたことかと思ったが、注射の副作用ではないかとピンと来た。
ネットで調べてみたら、やはりそれらしいとわかり、嘔吐や下痢などそれ以上具合が悪くなるようだったら直ちにペットクリニックに連れて行くつもりでいたが、食欲はあり吐きもせず便も正常、いつも通りに就眠したので、その晩は経過を観察することにした。

翌日も、前日同様、可哀そうなくらい動きはノロノロ。いつもならプリプリとお尻を振りながら小走りに歩み、多少の段差はものともせず駈け上り駈け下りてかなりの距離を喜んで散歩するのだが、その日は大儀そうにして、家から出てもすぐに戻りたがる有様。
普段の朝は7時ごろになると大声で吠えて目が覚めたことを知らせ、ケージを開けてやると元気一杯に跳び出してくるのだが、注射後のまる二日というものは8時になってもワンとも言わず、心配してしまった。

ムッシュの背中 いつものムッシュにほぼ戻ったのは三日経ってから。その間、ケージの中でも外でもひたすら眠って、専ら身体を休めているようだった。こんなことは昨年まではまったくなかったが、やはり彼も、老境にさしかっかってきたということなのだろうか?
だんだん老境はお互いさまになってきて、4年後には自分の年齢と彼の換算年齢が一致するが、そのころもいまとさして変わらぬ日常を過ごせていたら幸せだろうと、散歩中に彼の小さな脊中に目を遣りながら、フと思ったりした。

シリアスに痛いとか苦しいとかいう自覚症状は何もないのに、相変らずあの検査この検診と病院通いが減らない自分だが、この4月には久し振りにグッドニュースもあった。頑固だったピロリ菌の除滅(正確には基準値以下へのダウン)に成功したのだ。
昨年秋から治療(抗生物質の服用)を開始したが1回目では失敗、年が明けてから再挑戦した結果で、1年後にまた確認の検査をすることにはなっているけれども、とりあえず、あの大粒の抗生剤の大量集中服用をしなくてもよくなったことにホッとしている。

余談だが、自分たち夫婦は今年の四月で、世帯を持ってから満50年になった。添い遂げるのが当たり前という保守的な結婚観の持ち主で寿命もそこそこ伸びている我々の世代としては、さして珍しいことでもないと思うが、ともあれ、振り返ってある種の感慨はある。
いわゆる“金婚”ということになるわけだろうから、祝いの席でも設ければ良いのかも知れないが、周りに対して当の本人が言い立てるのも催促がましくてナンだし、どこかでひっそりと、けれどもチョッと張り込んで、ランチでもしようかと、家内と話し合っている。

サテ清里だが、いまの時季、高地にある我が山荘の辺りはまだ少し寒いので、今回はとりあえずオープンだけにしてあまり長居をせず、ゆっくりして来るのは辺りがすっかり新緑に彩られる6月初めごろにしようと思う。

けれども今回の、近づくに従って季節が逆戻りして行くような山への道中と、着いてからの現地の様子は、次回に久々の“山荘四季だより”としてお伝えするつもり。

どちら様も、“ハブ・ア・ナイス・ゴールデンウィーク!”

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2013年4月 1日 (月)

花冷え

やっと待ち望んでいた4月になった。3月という月の間は、まだどこか“春は名のみの...”という季節感から抜けきれなかったが、4月の声を聞くともう“春本番!”という気分になるのは自分だけだろうか?
でも今年は、寒暖の移り変わって行く様子がどうもおかしい。先々週の前半などは、彼岸前なのに晩春か初夏かというほどの陽気になったかと思うと、その週末から先週にかけては、一転、ひと月前の肌寒さに逆戻り、おまけに冷たい雨まで降った。

おかげで桜の名所はどこも、開花が予想外に早過ぎてしまって、イベントの予定日とタイミングが合わず大慌て...したかと思うと一方、お花見は雨に祟られたり寒さに震え上がったりする始末。こちらも何となく、春を楽しむ調子が出ない。
あの、一気に気温が上昇した数日は、もう冬着とは完全にお別れと思い、内でも外でも重ね着する枚数を思いきって減らしたが、いくらも日を置かないうちに十度以上も気温が下がって、またもとの黙阿弥。こうコロコロ気温が乱高下しては、年寄りは身がもたない。

御嶽神社の桜ただ、今年の桜の花は、早咲きした割には長持ちしている。5分咲きに気がついたころからすでに10日以上経つけれども、いまだに満開状態を保っているのは、途中で一度寒くなったのがかえって幸いしたのかも知れない。
いつもなら1週間であらかた散ってしまうご近所の御嶽神社の桜も曇天の下で健気に咲き続けているし、近辺の人気の桜並木、たまプラーザの駅前通りやカリタス短大横の桜通りにも、依然として観桜の人出が絶えない。

このような、桜の咲く時期に陽気が定まらず季節が逆戻りして一時的に冷え込むことを、俳諧の道では風流に“花冷え”などと呼んでいるようだが、こちとらご老体としては風流だけでは済まされず、体調への微妙な影響があったりする。
この季節は、いきなり上がったり下がったりする気温に交感神経と副交感神経のバランスがとれなくなり、毎年のように、どことない不調が生じてはホームドクターに“自律神経失調症ですナ”と診断され、とりあえず...と、トランキライザーなどを処方されてきた。

が、今年の春はどうも、そんな不定愁訴だけでは済まなかったようだ。あの、急に気温が下がった日の朝、目が覚めてみたら、首筋から肩そして肩甲骨の内側と二の腕から肘にかけての辺りまで右上半身が固まったように痛くて、どうにも動かしにくくなっていた。
以前から慢性的に肩凝り症だったので、その朝の寒さにベッドの中で縮こまっていたことでそれを昂じさせたかと思い、起床してからしばらく、肩を回したり首を回したりしてみたが、いつものようには動かない上に、凝りというよりは痛みがキツくなるばかり。

そんなとき、肩凝りぐらいは運動で治す...と称して、身体を動かしているうちに症状が軽くなり、多少は気になるところが残っても、そういう体質だからと自己納得していたのがいつものことだったが、今回はどうもそれでは済まなさそうだという感じがした。
食事の箸の上げ下げや、ムッシュを散歩させるときのリードやバッグにも妙に重みを感じ、右腕を浮かすような姿勢をするとき酷く疲れるのだ。パソコンも、キーボードを叩くのはともかく、マウスのクリックがいちいち辛い。

こういう症状に陥った場合、皆さんだったらどうするだろうか?常識的にはまず整形外科に診てもらうということになるのだろうが、自分の再三の経験では、一般の整形外科で問題が解決したことはなかった。
これまで、似たような症状で3院ほどかかったことがあったが、どこでも、頸椎などのX線写真を撮って、牽引や電気刺激やレーザーなどによる物理療法を施され、注射を打たれたり鎮痛剤や湿布を投薬され続けるだけで、快癒の見通しは一向に立たなかった。

自分のような症状には、これに対して、整体・整骨・カイロプラクティックなどの伝統的な手技によって施療する一派があるが、以前、整形外科では治らなかった腱鞘炎のような症状で整体院にかかり、そう長期間を要せず快癒したことがあった。
もう8年前になるが、「体系ダイレクトマーケティング」を上梓したとき、1年余の間猛烈に原稿書きに集中したため、右腕が肘を中心に肩から手首・指まで、痛いような、痺れるような、ダルいような感じになって、上がらなくなったときのことだ。

整形外科では必ずしも腱鞘炎と言われたわけではなかったが、対症療法を繰り返すばかりで治癒の度合いがはかばかしくなく悩んでいたところに、良い整骨院があると紹介してくれた方が近所にいて、物は試しと通い始めた。
その整骨院では、そのときの自分の症状を“俗に言うハネムーン・エルボーですね”と診立てたが、そんな心当たりはないので“冗談でしょう”と言ったら、正式には“撓骨神経麻痺”と言い新婚さんの腕枕以外の原因でもなることがあると聞いて納得。

余談はさておき、そのときは10回余り通院してほぼ軽快した(自己判断だったが)ので、保険が利かなくてけっこう高額なものにはついたが、そこの治療法は確かに効果のあるものだと信頼するに至った。
で、今回も、ずいぶん久しぶりだったが、迷わずまた訪れた次第。8年も経ったのでスタッフの顔ぶれはさすがにほとんど変わっていたが、相変らず、整形外科ではなかなか治癒成果が得られないという、悩める老若男女で賑わっていた。

今回の自分の症状に対する診立てはこうだった。考えられる原因は、パソコン作業による身体の特定部位の反復的過剰使用による勤続疲労ということもさりながら、より根本的な問題は、その際の不正な一定姿勢の継続による筋や筋膜の過緊張だ...と。
その緊張が限界を超えたために、本来備わっていたはずの身体バランス調整機能が崩れ、今回のような症状として発現したのだということで、要は、パソコン作業の量よりもむしろその姿勢とペースに問題があったということらしかった。

身体的緊張感とバランス回復機能という点では、やはり、60歳台だった8年前とくらべて衰えは隠すべくもない状態になってしまっており、この冬の寒さとここに来ての花冷えが、それに輪をかけたということになるようだった。
度重なる入院・手術も無事にやり過ごし、風邪もひかず元気いぱいに過ごしているつもりだったが、意外なところに伏兵がいて、いまさらながら、無理はできぬと自分の齢を思い知らされた。

今度のことではまだ2回しか通院していないが、“健骨美勢”(正しい骨格、良い姿勢)を実現するというこの治療院の“身体調整”という手技は、確かに効き目が顕著で、早くも、ずいぶん腕や肩の固さが取れ、軽く動かせるようになった。
自分でも、同じ姿勢を長く続けないようにして、合間合間に“肩回し運動――両肘を水平に上げ、指先を肩に付けて、息を吐きながら前後に回す”や“手指反らし体操”をすると良いと教わったので励行しているが、これは効く。気持が良くなる。

テナわけで、最近は寒さがぶり返すしそのせいか首や肩が凝るしで、正直のところ、外面はともかく内心はいささか憂鬱だったが、それを察してどうか家内が用意してくれた昨晩の食事でいっぺんに機嫌が治った。

筍ご飯木の芽添え旬のタケノコの炊き込みご飯に、我が家の庭で摘んだ木の芽を添えて、味噌汁もタケノコ。“筍づくし”は吾が輩の大好物だ。

花冷えのころには、たまに嬉しいこともある。

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