マーケティング随論

2013年7月22日 (月)

顧客を得るは難く失うは易し

数日前、「グリーンケア」という造園会社の代表(社長)なる人物から手紙が届いた。自宅を建て替える2~3年前から庭や生垣のケアをしてもらうようになり、建て替えてからも毎年のように、新規造園も含めてガーデニングの仕事を依頼し続けていた会社だ。
が、昨年11月に、年内の作業を依頼しようと思って電話を入れたところ、予定をとれるかどうか現場の担当者に聞いてみなければわからないということで、それっきり返事がナシのツブテとなり、結局、不満と失望のうちに付き合いを止める結果となった。

実はそのとき、2週間近く経っても返事がないので、再度こちらからわざわざ電話をしたのだが、それまでに何も確認が進んでいなかったらしく、待たされた挙句の果てに“年内には予定が取れません”と言われ、踏んだり蹴ったりになってしまった。
どうやら、現場担当者(職人?)が話をいい加減に聞いて放っておいたか、電話窓口の係員がチャンと伝えずまた再確認もしなかったか...ということだったようで、いずれにしても、こちらは大迷惑、ただただ憤慨に堪えなかった。

初めての依頼というわけでもなく、何度も仕事をしてもらっていた間柄なのに、そんな対応はあまりにもいい加減じゃあないかと頭から湯気を立てて怒りたかったが、それよりも急激に心が冷えて行き、この会社はダメだ(になった)ナという思いがこみ上げてきた。
付き合い始めたのは、確か一枚の投げ込みチラシがきっかけで、そのころは、いわゆる造園屋っぽい押しつけがましさのない営業や作業のセンスに好感が持てて、やがてリピーターになったが、ある時期から急に、違和感と失望感を覚えるようになった。

それは、この会社がウエブに力を入れ始め、メルマガを発行・送付し始めたころあたりからだったと思う。相手(つまり当方)がかつてどういう内容の仕事を頼んだ客であるかに関係なく、自分の方で売りたい仕事を一方的に提案してくるようになったのだ。
こういった商売は、いったん良い関係が生まれれば、剪定や消毒・施肥など季節ごとの定型的作業の需要が自然に継続するはずのものだが、この会社はそれらのフォローよりも、造園・エクステリアなど、新規のより値嵩の張る仕事に力を入れるようになった。

ウエブもメルマガも、それ自体が問題なわけではないし、値嵩の張る仕事を獲得したいと思うのも悪いとは言わない。ある意味では当然のことだろうが、そのために既存顧客の地味だが継続的な二ーズのフォローを忘れてしまった(ように見える)のはいただけない。
そんなことはないと抗弁するかも知れないが、その時期に前後して、担当者からのフォローも一切なくなってしまった。いまどき、昔風の植木屋でも、季節ごとに“そろそろまた手入れの時機ですね”ぐらいの挨拶はしてくるというのに...。

そんなわけでこの会社とは、こちらからするのは電話や手紙の時間も費用ももったいないと、あれ以来モノ言わぬまま絶縁していたが、今春になって突然アンケートが舞い込んできたので、このついでに一言言っておくかと、以上のような経緯について筆を執った。
冒頭の社長の手紙とは、それでやっと知ったらしいこの一連の事実に対する詫びと釈明と反省の弁で、先行して直接の電話もあったが、如何せん、こちらに言われていまごろ気がつくのではあまりにも遅過ぎると、もう二度と縒りを戻す気にはなれないでいる。

社長は、経営合理化のために顧客対応の業務を外注していたのでさまざまな不手際が生じ、客に迷惑をかける事態が頻発していると弁明していたが、こちらとしては、外注云々以前に、経営上のもっと根本的な問題がわかっているのかどうかに疑問を感じている。
つまり、経営において何を最も重視しどこに力を入れているのかという問題だが、この会社のそれは、社長の言から察するに少なくともこれまでのところは、既存顧客の定型的リピートオーダーではなかったようだし、顧客との関係構築でもなかったようだ。 

それらとは裏腹に、この会社が重視していたのは、たとえ一回限りでも値嵩の張る新規の仕事の獲得。力を入れていたのは、人や電話によるパーソナルな接触ではなくてウエブやメルマガによるデジタルなコミュニケーションだった。それも一方通行の...。
これは、二者択一的にどちらだけが正しくてどちらだけが間違っていると極めつけられる問題ではないが、優先順位は明らかだ。言うまでもなく、パーソナル・タッチの既存顧客重視が先で、デジタル・アプローチによる業務拡大はその上でということだ。

その点においてこの会社は、誤りとまでは言わないにしても大きなリスクを冒してしまったのではないかと思う。おそらく、自分のケースだけが特別だったわけではなくて、同じような原因・理由で、何割かの貴重な顧客を失ったに違いない。
ただ単に出入りのガーデニング業者に不満を持つ顧客という一個人としての立場からだけでなく、これまでにも機会あるごとに各所で何度も顧客サービスの重要性を書いたり話したりしてきたマーケティング専門家の端くれとして、あえてそう推測する。

が、かつては世話になったこともあったこの会社に対する今後のためのせめてもの餞として、また似たような世の野心的事業家のための他山の石として、今回のケースから学ぶべきことを、僭越ながら書き留めておこうと思う。
キーワードは、「顧客データベース」「顧客接点」そして「顧客コミュニケーション」。まとめて言えば“既存顧客重視の経営戦略”ということになり、すべてに“顧客”という言葉が、キーワード中のキーワードとして含まれてくる。

思うに、今回のケースは、この会社には顧客のデータベース(取引履歴が詳記された)というものが存在せず、電話応対係員の未熟さか怠慢のために客とその依頼の価値判断を誤り、その後のフィードバックもせずにダメ押しをしたということではなかったか?
これでは、客が嫌気を起こして離反して行くという最悪の顧客サービスの見本のようなもので、それを招いた原因は、顧客データの未整備と、電話窓口という顧客接点の軽視と、顧客に対する2ウェイコミュニケーションの欠如にあると断じられても仕方ないだろう。

もっと言えば、事業拡大もいいがそのためには、やたらと新企画などを提案して新規需要ばかりを掘り起こそうとするよりも、既存顧客の定期・定型ニーズに誠実に対応し、その実績から派生する紹介などをベースにしてネットワークを拡げて行くべきだった。
コミュニケーションのメディアも、この仕事の性格や客層を考えれば、デジタルメディアのインターネットだけではなくて(SNSに力を入れるのはいいが)、電話や手紙といったアナログメディアをあえて重視・活用すべきと思う。

こんな経営格言がある。“たった1人でも、顧客を獲得するということは決して容易ではないが、失うのは実に簡単だ”...という。また、“1人の新規顧客を獲得するためには、1人の既存顧客を維持するための5倍(一説では10倍)のコストがかかる”...とも。
してみれば、事業経営(特に起業期の)において、どこに着目し、何に力を入れるべきかは自明の理。これからでも遅くはないから、「グリーンケア」や同じような問題を抱えている世の起業家は、経営戦略の見直しを図った方がいいと思うが如何なものか。

ここに詳細を引用していると長くなってしまうからそうしないが、2008年2月11日付の拙ブログ「だから顧客が去って行く」もその際の参考になるかも知れないので、とりあえず上記にリンクを貼っておく。
なお、より積極的な興味をこのテーマに関して持たれた向きは、「ザッポス」または「ザッポス・ドットコム」で検索して、同社の関連記事を読まれることをお薦めする。

ほんの些細な私ごとに端を発して、思わず大口をたたいてしまったが、どうでもいい身の回りのことばかり書いている昨今、たまにはビッグマウスもご容赦を。

(マーケティング随論)顧客を得るは難く失うは易し

数日前、「グリーンケア」という造園会社の代表(社長)なる人物から手紙が届いた。自宅を建て替える2~3年前から庭や生垣のケアをしてもらうようになり、建て替えてからも毎年のように、新規造園も含めてガーデニングの仕事を依頼し続けていた会社だ。
が、昨年11月に、年内の作業を依頼しようと思って電話を入れたところ、予定をとれるかどうか現場の担当者に聞いてみなければわからないということで、それっきり返事がナシのツブテとなり、結局、不満と失望のうちに付き合いを止める結果となった。

実はそのとき、2週間近く経っても返事がないので、再度こちらからわざわざ電話をしたのだが、それまでに何も確認が進んでいなかったらしく、待たされた挙句の果てに“年内には予定が取れません”と言われ、踏んだり蹴ったりになってしまった。
どうやら、現場担当者(職人?)が話をいい加減に聞いて放っておいたか、電話窓口の係員がチャンと伝えずまた再確認もしなかったか...ということだったようで、いずれにしても、こちらは大迷惑、ただただ憤慨に堪えなかった。

初めての依頼というわけでもなく、何度も仕事をしてもらっていた間柄なのに、そんな対応はあまりにもいい加減じゃあないかと頭から湯気を立てて怒りたかったが、それよりも急激に心が冷えて行き、この会社はダメだ(になった)ナという思いがこみ上げてきた。
付き合い始めたのは、確か一枚の投げ込みチラシがきっかけで、そのころは、いわゆる造園屋っぽい押しつけがましさのない営業や作業のセンスに好感が持てて、やがてリピーターになったが、ある時期から急に、違和感と失望感を覚えるようになった。

それは、この会社がウエブに力を入れ始め、メルマガを発行・送付し始めたころあたりからだったと思う。相手(つまり当方)がかつてどういう内容の仕事を頼んだ客であるかに関係なく、自分の方で売りたい仕事を一方的に提案してくるようになったのだ。
こういった商売は、いったん良い関係が生まれれば、剪定や消毒・施肥など季節ごとの定型的作業の需要が自然に継続するはずのものだが、この会社はそれらのフォローよりも、造園・エクステリアなど、新規のより値嵩の張る仕事に力を入れるようになった。

ウエブもメルマガも、それ自体が問題なわけではないし、値嵩の張る仕事を獲得したいと思うのも悪いとは言わない。ある意味では当然のことだろうが、そのために既存顧客の地味だが継続的な二ーズのフォローを忘れてしまった(ように見える)のはいただけない。
そんなことはないと抗弁するかも知れないが、その時期に前後して、担当者からのフォローも一切なくなってしまった。いまどき、昔風の植木屋でも、季節ごとに“そろそろまた手入れの時機ですね”ぐらいの挨拶はしてくるというのに...。

そんなわけでこの会社とは、こちらからするのは電話や手紙の時間も費用ももったいないと、あれ以来モノ言わぬまま絶縁していたが、今春になって突然アンケートが舞い込んできたので、このついでに一言言っておくかと、以上のような経緯について筆を執った。
冒頭の社長の手紙とは、それでやっと知ったらしいこの一連の事実に対する詫びと釈明と反省の弁で、先行して直接の電話もあったが、如何せん、こちらに言われていまごろ気がつくのではあまりにも遅過ぎると、もう二度と縒りを戻す気にはなれないでいる。

社長は、経営合理化のために顧客対応の業務を外注していたのでさまざまな不手際が生じ、客に迷惑をかける事態が頻発していると弁明していたが、こちらとしては、外注云々以前に、経営上のもっと根本的な問題がわかっているのかどうかに疑問を感じている。
つまり、経営において何を最も重視しどこに力を入れているのかという問題だが、この会社のそれは、社長の言から察するに少なくともこれまでのところは、既存顧客の定型的リピートオーダーではなかったようだし、顧客との関係構築でもなかったようだ。 

それらとは裏腹に、この会社が重視していたのは、たとえ一回限りでも値嵩の張る新規の仕事の獲得。力を入れていたのは、人や電話によるパーソナルな接触ではなくてウエブやメルマガによるデジタルなコミュニケーションだった。それも一方通行の...。
これは、二者択一的にどちらだけが正しくてどちらだけが間違っていると極めつけられる問題ではないが、優先順位は明らかだ。言うまでもなく、パーソナル・タッチの既存顧客重視が先で、デジタル・アプローチによる業務拡大はその上でということだ。

その点においてこの会社は、誤りとまでは言わないにしても大きなリスクを冒してしまったのではないかと思う。おそらく、自分のケースだけが特別だったわけではなくて、同じような原因・理由で、何割かの貴重な顧客を失ったに違いない。
ただ単に出入りのガーデニング業者に不満を持つ顧客という一個人としての立場からだけでなく、これまでにも機会あるごとに各所で何度も顧客サービスの重要性を書いたり話したりしてきたマーケティング専門家の端くれとして、あえてそう推測する。

が、かつては世話になったこともあったこの会社に対する今後のためのせめてもの餞として、また似たような世の野心的事業家のための他山の石として、今回のケースから学ぶべきことを、僭越ながら書き留めておこうと思う。
キーワードは、「顧客データベース」「顧客接点」そして「顧客コミュニケーション」。まとめて言えば“既存顧客重視の経営戦略”ということになり、すべてに“顧客”という言葉が、キーワード中のキーワードとして含まれてくる。

思うに、今回のケースは、この会社には顧客のデータベース(取引履歴が詳記された)というものが存在せず、電話応対係員の未熟さか怠慢のために客とその依頼の価値判断を誤り、その後のフィードバックもせずにダメ押しをしたということではなかったか?
これでは、客が嫌気を起こして離反して行くという最悪の顧客サービスの見本のようなもので、それを招いた原因は、顧客データの未整備と、電話窓口という顧客接点の軽視と、顧客に対する2ウェイコミュニケーションの欠如にあると断じられても仕方ないだろう。

もっと言えば、事業拡大もいいがそのためには、やたらと新企画などを提案して新規需要ばかりを掘り起こそうとするよりも、既存顧客の定期・定型ニーズに誠実に対応し、その実績から派生する紹介などをベースにしてネットワークを拡げて行くべきだった。
コミュニケーションのメディアも、この仕事の性格や客層を考えれば、デジタルメディアのインターネットだけではなくて(SNSに力を入れるのはいいが)、電話や手紙といったアナログメディアをあえて重視・活用すべきと思う。

こんな経営格言がある。“たった1人でも、顧客を獲得するということは決して容易ではないが、失うのは実に簡単だ”...という。また、“1人の新規顧客を獲得するためには、1人の既存顧客を維持するための5倍(一説では10倍)のコストがかかる”...とも。
してみれば、事業経営(特に起業期の)において、どこに着目し、何に力を入れるべきかは自明の理。これからでも遅くはないから、「グリーンケア」や同じような問題を抱えている世の起業家は、経営戦略の見直しを図った方がいいと思うが如何なものか。

ここに詳細を引用していると長くなってしまうからそうしないが、2008年2月11日付の拙ブログ「だから顧客が去って行く」もその際の参考になるかも知れないので、とりあえず上記にリンクを貼っておく。
なお、より積極的な興味をこのテーマに関して持たれた向きは、「ザッポス」または「ザッポス・ドットコム」で検索して、同社の関連記事を読まれることをお薦めする。

ほんの些細な私ごとに端を発して、思わず大口をたたいてしまったが、どうでもいい身の回りのことばかり書いている昨今、たまにはビッグマウスもご容赦を。

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2013年5月27日 (月)

5月と言えば...

夏を思わせるような陽気が続いた5月も月末間近で、早くも今日は27日。そう言えば5月27日は...5月27日って...ウーン、何かの日ではないか...と頭のどこかに引っかかっていたが、確かアレではなかったかと念のため調べてみると、やっぱりそうだった。
「海軍記念日」――と言っても戦後生まれの人には全然ピンと来ないだろうが、自分たち戦中派は、戦後70年近く経ってもまだ、刷り込まれた記憶が消え去っていない。別に鮮烈な思い出があるわけでもなく、単にそう覚え込んでいただけのことなのだが...。

子供のころのことだから、一体それが何だったのか、なぜそうだったのかなどは、知る由もなかったが、1950年(明治38年)、東郷平八郎が率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に対して大勝利を収めた日本海海戦に因んで制定された記念日(戦前だけ)とか。と言っても、いまどきの若い人などは、東郷平八郎だ、バルチック艦隊だ、日本海海戦だ、なんて言ったって、チンプンカンプンだろう。わっかるかナァ?...わっかんねェだろうナァ?自分たちから見てさえも、明治は遥か遠くなってしまったから...。

そんなあまりにも古いことはマアどうでもいいとして、5月と言えば自分にとっては、世の中のイマの空気に触れて、頭も身体もシャキッとする季節。恒例の広告電通賞の選考が佳境に入って、普段より集中して頻繁に外出し、快い知的刺激を受けることになる。
それが先週末の総会で終了して、仕事は一段落、総合賞・各賞が決定し、後は7月の贈賞式を待つだけになった。格別にハードというほどのことでもないのだが、常日頃は自宅でマイペースを決め込んでいるだけに、終わると解放感を覚えるというのも本音。

とは言えこの期間は、いまの自分にとっては、ある意味で年間ハイライトの一つとも言える。現役の人々から見たらどうということはないのだろうが、そうではなくなった身には、まだまだ業界とつながっている、多少は役に立っている自分を実感できて元気になれる、願ってもない機会なのだ。
だからこの仕事は、お役御免を言い渡されない限りこれからもずっと続けたいと思っているし、最後まで何とか身体が動き、頭と感性がビビッドなままでいられたら本望だ。

そんな思いはともあれ、今年の選考会でもいろいろ感ずるところがあった。まず、昨年までとは異なったことが二つ。一つは応募・選考の種目で、もう一つは選考の方法だ。
それぞれ独立した種目だった「セールスプロモーション広告」と「ダイレクト広告」が統合されて、「プロモ&ダイレクト広告」という一種目になり、選考委員が受けるプレゼンテーションのかたちとして、従来の「企画概要」(書面)「プレゼンボード」(パネル)に新しく「サポート映像」(オーディオ・ビジュアル)が加わった。

事務局の説明では、旧2種目の統合は、新メディアの台頭や広告戦略の多様化に対応するための発展的融合であるとしているが、これらが別々に存在することの意味を評価し、両方の委員を担当して来た自分のような者の立場からすると、やはり残念なことではある。
これは、本当のところは「ダイレクト広告」の応募点数が昨年・一昨年と減少を続けた(今年も)ことから、他種目とのバランスを欠くということになったからではないかと想像しているのだが、だとすれば、そのような減少傾向の背景にも問題意識を持つべきと思う。

自分はどうも、この傾向に納得が行かない。テレビ・新聞などのマスメディアでも、年々、いわゆる「ダイレクト広告」の占める割合が増大しているし、ある意味ではそれ自体が「ダイレクト広告」とも言える「インターネット広告」も成長の一途を辿っているからだ。
「ダイレクト広告」は従って、広告の“カテゴリー”として収斂・衰退したのではなくて、コミュニケーションの“手法”ないしは“かたち”として、さまざまなマーケティング目的の各メディアの広告の中に、“拡散・定着・普遍化”したのではないかと推定できる。

事実、自分もこれまで選考を担当してきた「セールスプロモーション広告」(特にキャンペーン型)と「ダイレクト広告」(特に非通販目的)を構成する手法は限りなくボーダーレスになりつつあって、後者と言える筈の作品が、前者として応募されているケースが多い。
また、インターネット広告の中で益々存在感を強めてきている「Eコマース」はもちろんのこと、近年すっかり定番になった「モバイル」での来店誘致やアプリ・ダウンロード→会員化なども、目的・手法において「ダイレクト広告」に他ならないと思えるのだが、応募の際にはそれが意識されていないようだ。

極めつけるわけには行かないが、その原因の一つには、「ダイレクト広告」というものの定義づけ方、その種目内での部門区分のし方が、最近では初めのころと較べてとみに曖昧・大雑把になって、分かりにくくなっていることがあるかとも思う。
そしてそれが、広告主や担当代理店の注目・関心不足につながり、無理解・誤解を引き起こして、結果、「ダイレクト広告」という概念についての“啓蒙不徹底”という状態が生じ、応募への意欲低下や無関心を招いているのではないかという懸念がある。

因みに「ダイレクト広告」は、初期においては“広告接触者から何らかのかたちでのレスポンス・行動を発生させ、関係構築のためにその個人情報を顕在化させる”という目的の、“グラフィック/ダイレクトメール/TV・ラジオ/ニュ―メディア・クロスメディア”などによる広告と規定されていた。
ところが後期ではそれが、“通販または非通販”という形態の“ターゲットに具体的な行動を起させる”ことを目的とした広告という風に簡略化、そして本年はもっと単純に、“通販・非通販を問わずダイレクトアプローチの手法”で実施された広告ということに変化した。

この広告賞は、歴史的に種目区分が“メディア別”だったところに、「セールスプロモーション」「公共」などが、次元を異にする“目的別”というかたちで加わり、さらにその中に「ダイレクト」が、もう一つ次元の違う“コミュニケーション形態別”ということで含まれるようになって、何やら不整合感が発生した。
ということで、定義を明確にし直してもう一度「ダイレクト広告」という種目を復活させるべしなどと主張するつもりはないが、その実態としての浸透度・普遍化に鑑み、将来どこかで、現在の種目規定の全体的見直しを考えるなど、何らかの検討を望みたいものだ。

さて、本年度の「プロモ&ダイレクト」としての選考会は、昨年までの「セールスプロモーション広告」=インストアプロモーション/プロモーショナルキャンペーン、「ダイレクト広告」=通販プログラム/非通販プログラムの、2種目各2部門という区分に対して、プロモメディア/プロモキャンペーン/ダイレクトアプローチという3部門にわたって行われた。
受賞作品は、部門区分に照らして妥当なところに落ち着いたと思うが、全体を通じては、古いメディアを新しいアイディアで活かすという手法、SNSによる情報の拡散・共有とモバイルによる顧客エンゲージメントという戦略などが注目された。

オーディオビジュアル・プレゼンテーションは任意だったので、応募の53%だけだったが、やはりそのインパクトは強く、受賞にも大きな影響があったような気がする。
このことは、種目間においても言えるようで、全種目を通じてのグランプリは、今年も、潤沢な予算でオーディオビジュアル・メディアを中心に多角的な戦略を展開できる受賞常連の大企業に決定した。

そういう総合優勝にはもちろん文句をつける積もりはないが、スケールはなくとも一点キラリと光る作品にあげる、“技能賞”や“敢闘賞”や“殊勲賞”のようなものも今後考えられて良いのではないか...。

そんなアイディアが、フと頭に浮かんだのは、大相撲夏場所が昨日終わったばかりだからだろうか?

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2013年2月18日 (月)

O to O(オートゥオー)って何だ?  

1年あまり前に、ここで、ネットショッピングにハマっていると告白したことがあった。が、その後はだいぶペースも落ち着いて、いまは、以前とは少し違ったオンラインショッピングサイトの利用し方もしている。
欲しいものがあったらサイト上で即オーダーし宅配されるのを待つという買い方だけではなくて、情報収集のためにサイトをチェックし、目ぼしいモノを見つけたら実店舗へ足を運んで確認した上で購入するという買い方もするようになったのだ。

もっともこれが可能になるのは、広くチェーンストア展開をしていて尚且つオンラインストアも運営しており、基本的に両チャネルの間で扱い商品に違いがないという業態の企業に限られるが、近ごろはそういう営業方針のところがけっこう増えてきた。
さらにその中には、オンラインで注文しておいて店舗で受け取るとか、店舗に在庫が無くてもオンラインの方から取り寄せるとかすることができるというサービスを提供するところも出てきて、買う方は大いに便利になった。

自分も昔から著作や講演などで、折りに触れては、こういうどちらの買い方も可能になるようにすることが客の満足度をよりアップし、ひいてはそれが企業のビジネス成果の最大化に結びつくと説いてきたから、この現状は我が意を得たりというところ。
だがこれは、何も自分のオリジナル発想ではないし、米国の小売業などは(出発が実店舗であってもネットストアであっても)とうの昔から実践していたこと。消費者・顧客の便宜を考えれば、当然、そうする方が良いはずという結論に自然に達したからである。

実際、客の立場からすると、どちらのチャネルにも満足するところと不満なところがあり、どちらか一方だけしか利用できない、あるいは相互に融通し合えない小売業者よりも、そうではないフレキシブルな業者の方に、どうしても目が行くし足も向く。
自分の限られた経験だけからの話で恐縮だが、これまでネットショッピングで利用してきたいくつかのカジュアルウエア小売チェーン(UQ、GP、RO、UAなど)の中で考えてみても、いまは、そういう融通の利いたサービスを提供するROを重用する傾向にある。

何れも、ブランドとしての商品特性はそれぞれだが、業態はほぼ同じだし、ネット通販か実店舗のどちらか好きなチャネルを選んで買う、ネットで調べ買うのは店でということができるところも共通しているが、ROだけは、もう一歩進んだサービスが受けられる。
ネットショッピングは日時指定で宅配してくれるから手間なしのようではあるけれど、半面、その時間には在宅していなければならないという拘束もあり、商品の受け取りは自分の都合の良いときに店でということも可能ならばさらに便利で、ROではこれができる。

その上ROでは、店頭で取り置いてもらった現物を確かめたとき、もし予想外で気に入らなかったらキャンセルも可能であり、実際に商品を引き取らない限り、支払い義務も発生しない。注文の際にあらかじめカードなどで代金決済をしておく必要がないのだ。
また、ネットで調べて着目し店で確認購入しようと足を運んだとき、そこに在庫がなかったら取り寄せてもらうこともできるし、ネットではセール特価になっているアイテムが店頭で正価のままになっていた場合は、ネット価格にアジャストしてももらえる。

ということで自分も、相変らずチョコチョコといろいろなものを買っていると家内の顰蹙を買わないように、このサービスを上手く利用して、あまり目立たないようにショッピングを楽しんでいるが、真面目な話、小売業は本来、これでなければと思っている。
つまり、昔は“クリック・アンド・モルタル”などと言われいまではほとんど誰もがやっている“店販と通販のダブルチャネル化”ということだけに止まらない、チャネル間のいわば“相互乗り入れ”による“互恵・相乗効果”の創出が必要ということだ。

このことは、マーケティングをマクロに考えた場合ごく当たり前に“マルチチャネル・マーケティング”とか“マルチチャネル販売戦略”という言い方をされ、それなりに浸透したものと思っていたが、最近また別の言い方で、新たなスポットが当たってきたようだ。
それは、“O to O”(Online to Offline)という略語で表され、Weblio辞書によれば、“オンラインとオフラインの購買活動が連携し合う、またはオンラインでの活動が実店舗での購買に影響を及ぼすといった意味の用語”と定義づけられている。

自分がこのバズワードの存在を知ったのは、実は、ごく最近、何かマーケティング関連の目新しいブログネタはないかと、“2013年の広告・マーケティング戦略...”といったキーワードでウエブ上の情報を検索していた途上でだった。
それまで見逃していたが、2月4日のYAHOOニュースに“2013年広告・PR業界注目のキーワードは!?”という一項があって、業界誌「宣伝会議」の本年1月号で、2013年最も注目すべきキーワードとして“O to O”が選出されたと報じられていた。

近ごろは、経済誌は目を通すものの業界誌にはすっかりご無沙汰していたので、恥ずかしながらそれまで気がつかなかったのだが、調べてみるとそれ以前の2011年ごろにも、この用語に注目した記事が、日経新聞電子版や業界関係者のブログに載っていた。
さらにその出自を辿って米国のサイトも覗いてみると、どうやら遅くとも2010年にはすでに、この略語は使われ始めていて、もともとはLocal Commerce、Mobile Commerceの観点から、ネットから実店舗への送客戦略として唱えられ出したらしいこともわかった。

スマホの普及で、Eコマースのモバイル部分が急速にメジャー化し、ソーシャルメディアなどをベースにした地域密着型情報発信が店舗送客に大きく寄与することがわかって、改めてオンラインとオフラインの密接な連携の重要性が認識されたからだったようだ。
確かにこれは、ある種のマルチチャネル戦略ではある。が、自分が認識しているようなマクロで双方向的なものではなくて、どちらかと言えばオンライン主導の単方向的なものであり、そのあたりのニュアンスが、O to Oの“to”に出ているような気がする。

タイミングを逃して実際に宣伝会議1月号の記事を読んでいないので、当たっていないかも知れないが、広告業界もこのO to Oに注目しているのは、多分、米国が起点となって日本にも着実に及んでいるこのトレンドに、大きな商機ありと見ているからなのだろう。
まあ、それはそれでいいが、こうなったらこのO to Oには、オンからオフだけではなくて、オフからオン、つまり店舗からネットへという流れも併せ持つようにして行かなければなるまい。そのようなバランスが実現されたとき、この戦略は完璧なものとなる。

聞くところによれば「楽天」の三木谷社長も、“O to O抜きでは楽天のビジネスモデルは完成しない”と言っているそうだが、自分が考えているのと同じような“双方向性を持ったヴァーチャル(ネット)とリアル(実店舗)の融合”のことを指しているのだろうか?
細かいことを言うと実は、O to Oという呼称のtoの単方向性が少し引っかかって、このような戦略はごく平凡に“マルチチャネル・マーケティング”と呼んだらいいのにと思っているのだが、実体が整って来さえすれればそれはどうでも良いかも知れない。

いまさら秘策・新策というほどでもなく、当然の基本策だが、楽天のようなオンライン・ベースの新興企業だけでなく、オフライン・ベースの伝統的な各企業も、固定観念を取り払ってぜひこの際、業績アップ・拡大のために、この戦略を取り入れてもらいたいものだ。

成功のための具体的施策? それは、企業主導という発想を切り替え顧客の立場になって考えれば、自ずと浮かんで来るはずだ。

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2012年5月14日 (月)

宅配と訪問販売の間

ムッシュと散歩している途中で、ご近所の何軒かの家の前に食事宅配会社の車がとまっているのをよく見かけるようになった。ご高齢の夫婦二人だけかどちらか一人だけのお宅だが、そう言えばいつの間にか我が町内にも、そういう、いわゆる高齢者世帯(我が家もその中の一つになるのかも知れないけれども)が増えた。どこかの団地やマンションのように“孤独死”などという話しは、さすがにこれまで一度も聞いたことがないが、どのお宅も、かつては同居していた子供世代がとうに巣立って、いまでは2世代以上にわたる家族で同居しているお宅はごくわずかしかなくなってしまった。
先日、生垣を剪定していたら通りかかって、“お元気ですナ、お若い!”と声をかけて来られた裏のTさんも、聞けばもう88歳とか...やはりご夫婦二人だけの暮らしで、運転も止め、杖をついて時たま歩いてはおられるが、奥さんが日常の買い物に出かけるのもだんだんお辛くなってきたようで、食事の宅配サービスを重用していると言っていた。幸いまだ若い(?)我が家の場合は、同じ夫婦二人暮らしでも、車であれ徒歩であれ出歩くのに不自由しない(というよりもむしろ積極的に外出するのが好きな方だ)し、これまで食事の宅配サービスというものは、受けた経験はもちろん、考えてみたこともない。

とは言え、将来のことはわからない。もしかしたらいつかそのお世話になることがあるのかも知れないが、そういう食事をしている自分たちの姿はどうも想像できない。根拠はないが自分たちは、おそらくグッドバイ寸前まで忙しく動き回っているような気がする。が、宅配という商品入手方法の便利さは、いまでも、好きで利用しているネットショッピングですでに十分認識しているから、我が家の場合には、買い物に出かけるのが苦労になったら、完パケの食事ではなくて、自分で調理するための食材やせいぜい惣菜を届けてもらう、“ネットスーパー”利用の方向に走るということはあるかも知れない。
...と言う程度の関心しかいままではなかったのだが、調べてみると宅配は、単に物流の形態としてだけではなくて、商品・サービスと結びついたビジネスのかたちとして急激に成長していることがわかった。通信販売などの諸々の商品の配送手段という意味でだけはなくて、ある特定の商品または商品ジャンルの全マーケティングプロセスというニュアンスにおいてということだ。特に、食品・飲料分野での事業展開が積極的に進められているようで、製造・流通小売・サービスなどそれぞれの業態から、さまざまな企業が参入しており、市場規模は1兆円を優に超え、2013年には2兆円に迫ると言われている。

ただ、一口に“食品宅配”と言っても、事業母体、扱い商材、顧客開拓・受注チャネルなどの違いによって、いくつかのパターンに分かれるようだ。事業母体としては、食品・飲料のメーカーもあればその流通・小売業者あるいは関連サービス業者、さらに異業種からの新規参入もあり、扱い商材としては、調理済み食事から惣菜、加工食品・生鮮食材、またミネラルウォーターまで、そして顧客獲得・受注については、インターネット・チラシ広告、店頭告知・紹介などから定期カタログやメルマガの配布、そして電話・ファックス・メール・訪問などにつなげるチャネルがあるようだ。
参入している個別企業を見ると、すでに実績があり一般にも名の知られている事業者としては、パルシステム(生協)、イトーヨーカ堂、西友、イオン、セブンイレブン、森永乳業、明治乳業、サントリー、ワタミ...などがあり、ローソン、紀ノ国屋、マルエツ、サミットストア、ユニー、三越、キューピー、マクドナルド...などがそれらを急追、食品流通市場の川上から川下までにわたるあらゆるポジションの企業が入り乱れて、特に、スーパー、コンビニエンスストア、乳製品メーカーなどの業界では、同業者間での熾烈な競争が繰り広げられている。

それかあらぬか、先日我が家は、望んだわけでもないのに、ライバル関係にある乳業2社の宅配契約勧誘の訪問を、たて続けに受ける破目に。先に来たのは「森永」だ。ある日、家内が買い物に出かけていて自分とムッシュとで留守番をしていたとき、インターフォンのチャイムが鳴った。モニター画面を見ても、ダークスーツ姿の若い男性としかわからず、ムッシュが大声で啼きたてるため何を言っているのか聞えないので、もしや取引銀行の新人担当者が挨拶にでも来たのかと、とりあえず顔を出した。すると、年配のやはりスーツ姿の男性と二人連れで、若い方が何かモゴモゴ言っている。
牛乳や健康ドリンクの類いが何本か入った袋を門扉越しに差し出して、どうやら“試飲してみて欲しい”ということらしく、“森永から来た”と言っているのはわかった。新入社員が先輩に連れられてサンプリングの現場研修を受けているようにも見えたので、“本社の人?”と聞いたらそうだという。“2~3日後にビンの回収に参ります”と言われたが、そのときは商品普及のための単なるPR・調査活動の一環かと思い、ツイ気軽に受け取ってしまった。でも、一緒に置いて行ったパンフレットを見ると、どうも来たのは販売店の人間らしく、そう言えば名刺も置いて行かなかった。

家内が帰って来て、事の顛末を話すと、“そんなもの受取ったらダメよ、後でしつこくセールスされるんだから...だいたい宅配の牛乳なんてスーパーで売っている値段の倍はするのヨ。そういうところが来ても、出て行って話を聞くまでもないの!”と叱られた。まことにご尤も、当方、日常生活必需品の買い物に関する常識の無さと、突然の訪問者に対する脇の甘さを反省するばかりだったが、大企業の名前を出すだけで己の身分も明らかにせず、曖昧な言を弄してお人好しの老人に取り入り、とにかくセールスの足掛かりをつくろうとしたあの連中のやり方には腹が立ち、ブランドに対する強い違和感も覚えた。
その理由の第一は、アポもなく事前の予告的情報周知もなく、突然訪問というかたちで他人の時間に割り込んで来たこと。そして第二は、キチンとした身形をして知名度のある企業の名前を出せば門前払いはされないと思ってか(こちらはまんまとそれに引っかかってしまったわけだが)、本来の身分を“詐称”した(と言ってキツければ“明確に社名・個人名を名乗らなかった”)こと。これではその辺の胡散臭い訪問販売そのものではないか?“大森永”ともあろうものが意識してこのようなやり方を進めているのだとしたらとんでもないことだし、もし無意識だったら、ずいぶん杜撰なことだと思った。

わが国では“特定商取引”という括り方をされている「通信販売」「訪問販売」「電話勧誘販売」などの中で、通信販売はいまではすっかり体系化され市民権を得ているが、訪問販売や電話勧誘販売は、なお問題が多い商法として、一般消費者から決して歓迎はされていない。太陽光発電・住宅リフォーム・宗教(商品ではないが)...などの招かざる直接宅訪による勧誘、墓地分譲・結婚仲介・先物投資...などの望まざる直接電話による勧誘には、自分も一市民としてきわめて迷惑で腹立たしく感ずるのみならず、もとマーケターとしての目から見ても、なんと稚拙で理屈に適わないことをしているのだろうと呆れ返る。
そもそもそんなビジネスのやり方をしていたら、たまたま間違って売込みや成約に結びつくことはあっても、大方の場合その商品・ブランドに対する疑念を増し反感を高める結果になって、長い目で見ての成果は決して得られないはず。事前にも事後にも、売り手と対象客の間に良好な関係を構築するという努力が何もなされていないからだ。関係構築とは、少なくとも、たとえばチラシその他の周知メディアである程度の予告をし事前認知を得ておくこと、そしてコンタクトの事後にも(その可否如何にかかわらず)相手に迷惑をかけないかたちでのフォローアップ・コミュニケーションをはかることである。

そのような一連のプロセスが、最も始原的なかたちでのマーケティングと言えるわけで、そのプロセスの前後を省略したいまの訪問販売や電話勧誘販売はマーケティングの体をなしておらず、従ってビジネスとしての真の成功を得られるわけがない。ところで、宅配の話が途中で訪問販売にズレてしまったが、宅配は個宅訪問のかたちをとるビジネスではあるけれども訪問販売とイコールではない。だから大方の企業は、この事業を前記のようなオーソドックスなプロセスにしたがって展開し成功させているのに、何を狙ってかそれを問題の多い訪問販売のかたちと組み合わせている企業の意図は理解に苦しむ。
牛乳の宅配事業は確かに、定着させることができれば、価格競争の厳しい量販店での販売に比べれば安定して収益性の高いビジネスになるから、今後のためそこへ注力するのは経営方針として間違っていないが、だったら、マーケティングを知り尽くしているはずの森永ほどの企業なら、訪問販売まがいの短絡的なアプローチに走らず、手間隙かかるようでも段階を踏んだ戦略をとったらどうなのだろうか?結局その方が、事業の長期的観点からすれば成功確率が上がり、ひいては採算性も良くなるはずだから...と自分などは思う。余計なお世話かも知れないが...。

そんな理屈を捏ねていると、例の勧誘員が試飲サンプルのビンを回収に来た。“貴方が出るとまた話がややこしくなるから私が出ます”と家内が出て行ったので玄関のドアーの内側で聞くともなく聞いていると、“ウチでは牛乳は私がお店でしか買わないの!そういうことのワケが何もわかっていない年寄りにこういうものを勧めないでネ!”と家内がピシャリと断っているのが聞えた。(ワケのわからない年寄り?‼ トホホ...)

サテ、これで一件落着かと思っていたら、日を置かずまたインターフォンが鳴った。モニターを見ると中年の大人しそうな女性だったが、またムッシュが騒いで言っていることが聞えないので、こんどは家内が出て行ったら、“明治乳業です...宅配牛乳のお勧めに参りました”だと...。ヤレヤレ...

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2012年3月 5日 (月)

ポイントプログラムはSPかCRMか?

“ポイントカードはお持ちですか?”“ポイント会員になりませんか?”...と、いまはどこで買い物をしても、またサービスを受けても、ポイント、ポイント、ポイントだ。日本人の9割以上は何らかのポイントを保有していると言われるが、自分自身のことを考えてみても、クレジットカード、エアライン、高速道、携帯電話、百貨店・スーパーなどの小売チェーン、家電量販店、ドラッグストア、オンラインショップ、そして銀行、書店、ブティック、レストランと、いつの間にかすっかりポイント漬けになっているのに気付く。
その中には、意識して会員になったものもあれば、結果としてそうなったことを知ったものもあり、それぞれに対する関心の程度はマチマチだが、積極的にどれかのポイントを貯めてどうにかしようというほどの意欲もないので成行きにまかせているうち、新たにゲットするそばから古いものが無効になって行く。大半のものについては、特に大きな期待を持ったりしているわけでもないので、それはそれでいいのだが、中には、ポイントの得失について節目々々にリマインドしてくれるものもいくつかあって、その都度、有難いような、だけど残念なような思いにさせられることがしばしばある。例えば...

ここ2~3年、清里の山荘へは年間に数えるほどしか行かなくなっているが、往復には中央道を使うので、毎年ある程度のETCポイントが貯まる。と言っても、節約のために通勤時間帯割引きなどを利用することが多いので、大した得点にはならない。けれども、折角換金できるものをムザムザと捨てるのももったいないから手続きをするわけだが、それで得られるものの割には、しなければならないことが面倒だし、どういうわけかいつも、あと少しだけ走り方が足りなかったために、換金できた分とあまり変わらないポイントを期限切れでムダにする結果になり、やれやれまたか...という思いにさせられる。
似たような思いをするのはETCの場合だけに限らない。ずいぶん長い間利用している国際クレジットカードは、プレミアムカードなので年会費を支払わなければならず、一定額以上使わないとそれがチャラにならないのだが、このところしばらく海外旅行に出ていないため国内での買い物だけでは消費が追いつかず、不本意なまま会費を徴収される破目になる年がある。この1年がそうだったが、さりとて会費を支払いたくないからと言って相当な額の不必要な追加出費をするのも本末転倒だしと、これも何となく割り切れぬ思いを抱いて、そろそろこのカードも辞めどきかなどと考えたりもする。

でも、このポイントプログラムというものには、必ずしも不満ばかりを抱いているわけではなくて、時にささやかな特典も享受して、意味を感じていることもある。最近はなくなったが以前は、貯めたエアラインのマイレージを航空運賃やホテル料金の支払いにずいぶん充当していたし、携帯電話の使用で貯まったポイントをバッテリーと交換したこともあれば、某プレミアム国際カードのポイントをチョッピリ気の利いた景品に交換したこともあった。小売チェーンやドラッグストアなどのポイントは、少額でも利用回数が多いだけにすぐに現金代りに使えるようになって便利だし、銀行のポイントも、ネットバンキングの手数料を省くことができて役に立った。
そんな限られた経験からも、確かにこの制度は、あって悪いものではないと実感するが、消費者としての立場からは、ポイントのつくことが購買活動における何にも優るメリットで、いまのような仕組みが十分満足に値するものであるかと問われれば、何のためらいもなくイエスとは答えられない。躊躇のもとの第一は、前記でフラストレーションを打ち明けたように、有効期限の短さだ。そう設定しておかなければ引当金がどんどん嵩んで行ってしまうという理屈はわかるが、貯めるそばから期限切れになって行くような有効期間の短いプログラムは、初めから積極的に利用しようという気が起きなくなる。

第二は、ポイントのつき方が“使用金額”のみに対応しているということ。それ自体は間違いではないし、顧客評価基準の一つを満たしてはいるから文句はつけられないが、それだけで済ましているところが引っかかる。つまり、もう一つの評価基準である“購入頻度”も、ポイント・ゲットに反映されて然るべきと思うのだ。本来ポイントプログラムは、リピーターづくりないしは顧客の囲い込みを目的として始まったはずだが、なのに、使用金額だけで利用頻度が考慮されていないというのはおかしい。そもそも、このプログラムの源流は“Frequent Shopper(多頻度購入者)Program”(略してFSP)だったはずだ。
現在のポイントプログラムは、事実上、購入の頻度にかかわらず会員なら誰にでも一律に適用される単なる割引還元制度で、“多頻度購入客こそ収益への貢献度が最も高い優良顧客”という証明済みの大原則に基づくFSPとは、似て非なるものになってしまっている。このレベルのプログラムは、顧客情報の取得を必要としないスタンプ・切手方式の“販売促進”手法として昔から存在しているが、本来あるべき姿の顧客ロイヤルティ形成のためのプログラムが、これと混同されてしまっているのだ。というよりも、“ポイントプログラム”というあいまいな概念の和製英語による呼び方がいけないのかも知れない。

紛らわしいからここでは、顧客情報の取得に基づくデジタル化されたプログラムの方をFSPと呼び、アナログによる単純な販促プログラムをスタンプ方式と呼んで区別するが、スタンプ方式は販促が目的だからいまのままで良いとしても、FSPの方はこのまま(実態として単なる販売促進)では、会員が最適なサービスを得られないばかりでなく、それを提供する企業の方としても、満足な優良顧客形成ができないということになるだろう。ポイントプログラムを取り入れている大半の企業が、これは販促の手法としてそれなりの効果を上げているのだからこのままでいいと言うなら、何をか言わんやだが...。
提案したいのは、一消費者としても一退役マーケターとしても、企業はこれを、「CRM」的見地から、もっと直接的に言えばポイントプログラムの本質であるはずの「ロイヤルティプログラム」という立ち位置から、見直すべきだということ。わざわざ会員の個人情報を獲得しておき、それをデータベースとして持ちながら、ほとんどの場合、プログラム利用の対価として提供されるサービスには、会員の要求・希望や利用実績(特に頻度)そして購買内容が反映されておらず、それらを踏まえていれば会員満足をより高めつつ収益も増大させられるであろう大きな可能性が開発されないままになっているからだ。

キーポイントは、“顧客情報分析”と“コミュニケーション”。機械的に会員の獲得ポイント・データの管理をしているだけではなくて、会員個人とその購買情報が結びついたデータを分析するところから、掘り起こすべき顧客満足と収益拡大の可能性が見えてくるし、アンケート調査をはじめ、キャンペーンや利用明細報告や商品情報など諸々の発信活動を行いそれに対する受け皿を設定するところから、思わぬ飛躍のヒントが得られる。こういった施策をとることによって、獲得し蓄積した会員情報は常時更新され、長期にわたる双方向の個別コミュニケーションが可能になって、会員はさらに活性化される。
見えてくる可能性、得られるヒントには、ポイントのより高い換金レートや倍率とか、高額な景品アイディアといった、金銭的欲求を刺激するだけの“特典”的なことばかりではなく、非会員には得られない優先権や優待サービスといった非金銭的で心理的な欲求を満たす“特権”的なものもある。カナダの調査会社Maritz Researchでは、前者を“ハード・ベネフィット”後者を“ソフトベネフィット”と呼んで、いわゆるポイントプログラムでは、ハードよりもむしろソフトを充実させることこそが重要だとしているが、これは十分、耳を傾けるに値する指摘ではないだろうか。

この見解は、VISAカードがスポンサーになってMaritz Research社が2011年12月~2012年1月に行った調査の報告書「Maritz insights: the loyalty report」として発行されており、同レポートにはその他にもきわめて示唆に富んだ内容が掲載されているので、興味のある方はぜひwww.maritzcanada.com.をビジットされることをお薦めしたい。

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2012年1月23日 (月)

拡大するネットショッピングのシニア市場

“近ごろ、ネットショッピングにハマって、要らないものまで買ってしまうお年寄りが増えているンですって”...と、ある日の朝食の後に、顔は笑っているが真面目な口調で、自分の目を見ながら家内が言った。ギクッ!...胸に手を当て...なくとも、思い当るところ大あり。昨年12月だけでも、バタバタッと3回、ネットショッピング・サイトでウエア類を注文し、晦日近くと新年早々にそれを受取っており、数日前も、図書館では予約者が多くて1年経っても借り出せる順番が回って来そうもない人気作品を、6冊まとめて購入したところだったので...。
これまで購入したことのある2~3のネットショップから1週間と間を置かず送られて来るメルマガを一読すると、3回に1回ぐらいは何かしら“あってもいいかな...” と思うものが見つかるので、言われれば確かにこのごろ、実際に必要なものを探して買おうとするついでに、いまでなくてもいいものまで買っているかも知れない。購入手続きは夜間ひとり書斎に籠っているときパソコンからひっそりと、品物の受取も時間帯指定をして一日の間のなるべく目立たないタイミングに...と気を遣いつつ。別にやましいことをしているわけではなし、そんなにコソコソすることもないのだが、常日頃これ以上持物を増やさないでくださいと言われている手前、チョッピリ後ろめたい気がして...。

自分のお小遣いの範囲内でささやかに遊んでいるようなもので、家計に影響を及ぼしたり、そのために家の中が散らかったりしているわけではないのだから、もっと堂々としていれば良いのだが、何となくそういう態度になってしまうのはどういうわけだろう?多分それは、オンラインコマース(消費者の側から言えばネットショッピング)における商品・サービスの年々着実な質的向上とそれを上手に利用することによる消費生活の合理化という新しい流れを、伝統的な買い物観の持ち主である家内に説明して自分のしていることを正当化しようとすると家庭内に要らぬ摩擦が生じるので、それを避けるために、姑息な生活の知恵を発揮しているだけのことなのかも知れない。
それにしても、このネットショッピングの普及スピードは目覚ましいようで、一向に伸びの衰えを見せず、5年前には総人口のわずか5%だったものが現在では40%前後にも達していると言われている。別の統計では、ネットショッピングの利用者は、全インターネットユーザー(全人口の推定約80%)の90%以上とも報告されているので、この数字のどちらをより信じどう読み解くかによっても見方は変わって来るだろうが、何れにしてもネットショッピングは、いまやかなりの浸透度で消費者の生活の中に定着しつつあると言っても、あながち言い過ぎにはならないのではないだろうか?

もっとも上記の数字は全年齢層の加重平均に基づくもので、60歳以上のシニア(要するに高齢者)層だけに焦点を絞ると、また違ったことが見えて来るようだ。さまざまなサンプルに対してさまざまな手法で行った基準の違うさまざまな調査データがあるので、どれか一つだけを取り上げて一概に断定的なことは言えないが、基本的にこれまでは、シニア層へのパソコン普及率は全年齢層合計のそれと比較するとかなり低く、したがってインターネットおよびネットショッピングの利用率も決して高いものではなかったのに、2010年までの3年間の推移を見るとそれが急速に伸びているということだけは、どのデータを通じても傾向として観て取ることができる。
ちなみに、総務省の「通信利用動向調査」によれば、60歳以上の年齢層のインターネット利用率は、この3年間で20.4%の伸びを見せているという(全年齢層合計のそれはわずか2.7%でしかないというのに)。また別の調査では前記のように、ネットショッピング利用者は全ネットユーザーの90%以上に達している(富士通総研「インターネットショッピング調査報告書」)とも言われているし、60歳以上のシニアだけでも7割近い人々が日常的にオンラインショッピングを利用している(NTT・gooリサーチ「シニアの情報端末保有情況に関する調査」)というデータもある。

これを以ってクリティカルマスと断じ、大騒ぎするのはまだまだ時期尚早だろうが、少なくともインターネット、もっと言えばネットショッピングの世界で、シニア市場というものが着実に拡大しつつあり、無視し得ない質とサイズに進化しつつあるということは、傾向として間違いないと言えるだろう。事実(と無理にこじつけるわけではないけれども)、十数年前から始めて、ポツリポツリとしか利用していなかったものが、環境や生活スタイルの変化による必要に迫られてというところはあるものの、近年急に頻度が増した自分のネットショッピング歴も、この流れに重なるところがある。
頻度増の第一のキッカケは、家の建て替えのため清里の山荘で半年暮らしたことだった。何しろ、仕事で東京へ出るための幹線鉄道や高速バスの券売所へ出るのに車でも15~20分かかり、近くには大手銀行の支店も書店もないところ。そこでは、日常不可欠な乗車券の予約に、書籍の購入に、銀行の決済に、インターネットが絶大な力を発揮し、ネットショッピングにもすっかり慣れてしまった。第二のキッカケは、この3年間毎年入院・手術を繰り返し、退院しても何となく出無精になって、直接店舗で買い物を楽しむ機会がグンと減ってしまったこと。どうやらこれで自分は、娯楽と実益を兼ねて、よりディープにネットショッピングの世界にのめり込んだようだ。

と言っても、家族を心配させるようなレベルではまったくない。書籍はコンスタントに、CD・DVDはときどき購入するが、モノがモノだから大人買いすると言っても金額はタカが知れたもの。たまに雑貨・服飾品のようなものを探して買うことがあるが、それにしてもせいぜい1~2万円以内の特価品。これまで買ったものの中での唯一の高額品は6年前には10万円を超える価格だったノートパソコンで、最近たて続けに買ってしまった防寒用のアウターとインナーのウエア類は、まとめ買いした割には、1回平均5~6千円に過ぎない。これぐらいは可愛いものじゃあないか...というのが自分の言い分だが、でも、いま要らないものまで買い込むのは止めて...と、家内には釘を刺されている。
さて...そういう内輪話を書き連ねているだけではマーケターとして芸がないから、ここで、自分の場合のささやかなネットショッピング経験を、“なぜシニア層はネットショッピングにハマってしまうのか”、“どんなショッピング・サイトをどう見てどう使い分けているのか”、“何に満足し何に不満足なのか” などの切り口から自己分析をし、一見ミスマッチのようにも感じられる高齢者とネットの接点、アピールポイントなどを浮き彫りにしてみようかと思う。もちろん、個人的でまだ狭く浅い経験・観察がベースだから、結論としては偏向性があり、汎用的なものにはならないかも知れないが、何がしかのヒントにはなるだろうと思うので...。

自分がよく利用するショッピング・サイトは、「アマゾン」「楽天」「ユニクロ」そしてたまに「無印良品」「ヤフー」「ソニー」...など。最初の経験は「アマゾン」で、書店で探していたがどうしても見つからなかった本がそこで手に入り、これは重宝なものだと思った。だが、独自の画面レイアウトと組織的な導線設計には感心したものの、小うるさいレコメンデーションと問い合わせしにくさにはやや辟易し、と言ってそれ以上の満足も不満足も特になく、一言で“便利”というのが率直な感想。ここでの買い物が面白いとか楽しいとかいう感覚は持てなかった。今日まで最も長く付き合い、購入の回数も額も最も多いが、良くも悪くも、どこから見ても典型的な米国流を押し通しているサイトという印象だ。
ネットショッピングが面白くなったのは、「楽天」や「ユニクロ」で買い物をするようになってから。楽天のショップで買い物をしたのも、最初は探していた本だったが、次は欲しかった銘柄の腕時計を検索しているうちに偶然、楽天のサイトに行き当たり、そこでは同じ商品がさまざまな加盟ショップからさまざまなディスカウント価格で売りに出されていて、じっくり比較して決められるのが非常に楽しく合理的に感じられた。楽天からはそれまでにも、各種のメルマガが送られてきていたが、このとき以来“メンズファッション”のそれも来るようになり、嫌いではない方面ということもあってときどき眼を通すようになったら、ついにはウエアやガジェットなども買うところまで引き込まれた。

楽天のサイト・デザインは、店によっててんでんバラバラ、色彩感覚も全体にゴチャゴチャで好き嫌いはあるかも知れないが、不思議と、バーゲン会場に入り込んだようなある種の活気があって、ショッピングの楽しさを味わわせてくれているような感じがする。ある意味、きわめて日本的というかアジア的で、この感覚がこれから本格化させようとしているという海外市場で通用するのだろうかと懸念していたら、米国のサイトは日本のそれとはガラリと変わって、抑えた単純化した色調のスッキリしたものになっており、基本コンセプトは変わっていなかったが、だいぶ垢ぬけた印象だった。
アメリカンなウエブデザインと言えば、白バックに直線や囲みを多用して写真やコピーを整然と配列したレイアウトがショッピング・サイトの定番で、楽天と同じモール業のeBayやスーパーのウォルマートですらそのかたちに準拠しているが、アマゾンとは逆に日本から世界に進出した「ユニクロ」が、アマゾン同様、海外のサイトで本社(日本)流を貫いているのは面白い。ニューヨーク店などのサイトも、微細な点を除けば日本のものとまったく同じと言ってよく、楽天の姿勢とは対照的だ。ただこれは、偏狭なナショナリズムなどからではなくて、ウエブを起点としてウエブを軸にした発想・展開をして行くと当然にこうなるということを、同社自身が確認しての結果だということで、これは重要だ。

告白すると実は、自分がいまいちばんハマっているのは「ユニクロ」。新聞折り込みチラシは入るのに店が近くになくて気軽に足を運べず、やっと店に行っても混雑していたり在庫がなかったりで、ネットで買えないものかと社名で検索したら、エラく使い勝手のいいサイトだった。トップページこそチラシと似た感覚だったが、アマゾンなどよりもさらに体系的でわかり易いウエブデザインで、商品そのものについての説明、サイズやカラーのオプション、ユーザー・レビュー、在庫などの情報も至れり尽くせり、アチコチに飛びながら夢中になってそれらを見て、読んでいるうち、縦横無尽にサイト内をザッピングできている自分自身に、愉快感と満足感のようなものが湧いて来さえした。
基本的に決して高額でなく、お買い得情報も多いので、ツイ、本来いまでなくてもいいが買い置きしてもいいと、まとめ買いしてしまうのがこの店。それも、矢継ぎ早に送られて来るメルマガにシテやられる。手を変え品を変えたキャンペーン情報に、こんども何か良いものが見つかるのではないかと期待を持たせられるのだ。惹句や色彩感覚が楽天のようにドギツくないのも、緊張感と財布の紐を緩ませる要因になっている。ショッピング・サイトとしてほとんど不満はないが、唯一あるとすれば“送料”。5000円だか以上買わないと無料にならないが、これもまとめ買いさせる策戦のうちか...。

ということで、“なぜネットショッピングにハマるのか”と尋ねられれば、基本的には、シニアには時間と小金と好奇心はあるが対照的に体力と行動力がないから...ということにでもなろうか。正価よりも格安に買い物ができる、ポイントが貯まる、などというショッピングの醍醐味を、老いて初めて知ったということもあるかも知れない。“サイトの好み”という点では、「ユニクロ」のような系統立って整理され、それでいてメリハリの利いたウエブデザインがわかり易く好ましいと思っている。「楽天」のような止めどない作りには、やや疲れを覚えるし、「アマゾン」でさえそう感じるときがある。
“使い分け”ということでは必ずしもパターン化しているわけではないが、大勢としては、必要なものを決めて探すときはアマゾン、ウインドウショッピングやセール会場回りといった感覚で掘り出し物探しをするときは楽天、案内や広告に惹かれどちらの目的も持って買い物に行くときはユニクロ...といったところ。で、配送のスピード・質の向上などもあって、全体的に言えば“シニアのネットショッピングに対する満足度”は意外に高い。が、配送料の一律無料化ないしは低額化が実現されていないこと、問い合わせをしたいとき電話が使いにくいこと、などには不満がある。

だいぶ長々と書いてしまったが、ここからシニアとネットショッピングの接点、アピールポイントが読み取れる結果になっているだろうか?それはどうあれ、自分はこれからも気を遣いつつ、でもイソイソと、このささやかな楽しみを続けて行くに違いない。

いまアレコレ言っている家内だって、1~2年も経ったら、ケータイを使ってネットスーパーで買い物をしているかも知れない。

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2011年11月 7日 (月)

デジタルとアナログの狭間で

先日NHKから、“放送受信料「クレジットカード継続払」のお知らせ”なる文書が届いた。カード会社からの利用明細では年額と引落し日だけしかわからないので、それが何月から何月までの期間に対応するものなのかを確認したいと、家内が家計簿記帳のため問い合わせていたものに対する返信だったようだが、そのような文書発行サービスは来年の4月から取り止めになるという連絡文も、そこには併せ記載されていた。
理由は、業務改善の一環として、受信料を専ら番組充実に振り向けたい、紙の使用を減らして資源の有効活用に寄与したい...など、もっともなことではあったが、問題は、今後受信料明細を確認し、それを書類のかたちで保存したい人は、パソコンかケータイによるインターネットを通じて、NHKのウエブサイトにアクセスし、自分でプリントアウトするほか方法がなくなるという点。当然そのためには、あらかじめ、所定のサイトへの会員登録手続きをしておかなければならなくなる。

同様の、紙による連絡文書送付の廃止とそれに替えたウエブ閲覧への移行という企業側の都合による一方的な変更は、我が家の場合、実は1年ほど前からケータイ(au)の利用明細に関しても経験済みで、いまは否も応もなくそれに対応しているところ。なので、こんども、やれやれNHKもか、これも世の流れで仕方のないことなのかと、一たんはあきらめにも似た感懐を抱いたが、パソコンやケータイを持っていない人、あるいは持っていてもインターネットを使いこなせていない人などはどうするのだろうという疑念が残った。
そういう方々にくらべれば多少の心得はあるかも知れない自分にしても、決して、唯々諾々としてそのような通知を受け入れ、何の苦労もなくそういう変更にフォローできているわけではない。慣れるまでは利用ガイドと首っ引きで、試行錯誤を繰り返し、暗証番号を間違えてやり直したり、自分で決めたはずのIDやパスワードを忘れて何度も取り直したりしながら、やっと最近、何とかスムーズにログインして、求める情報に辿り着き、正しくプリントアウトできるようになったところだ。

いろいろな会員サイトやショッピングサイトなどで、さまざまな暗証番号・ID・パスワードを使っているので、最初のうちは、どれがどれのものだったかゴッチャになり、何度もログインに失敗して、パスワードなどはその都度、仮のものを発行してもらっては登録し直す始末で、けっこう神経を使い、手間もかかった。セキュリティのために必要だとは重々理解しつつも、未だに、こういうことは面倒なものだという感じは否めない。
この種の情報はケータイからもアクセスできることになっているわけだが、電話とメールとカメラと歩数計ぐらいの機能しか利用していない家内はもちろん、自分も、ケータイを使う気にはなれない――などと恰好をつけて言うよりも、ケータイは“使えない”と言った方が正直になる。ボタンが小さく押し辛いし、画面・文字が小さくて見えにくく、情報に辿り着くための操作もいろいろ複雑で、なかなか覚えられないのだ。世はスマホブームで、全ケータイの半分はスマホになっているというが、こちとらはガラケーでさえ、せっかくの多機能を生かし切っていない。

こんな状況をまさに裏付けるかのような調査報告をネット上で見かけた。いまやパソコンの世帯普及率は76%、ケータイのそれは95%を超えているのに、年齢層を60歳以上に限るとパソコンの普及率は52.7%に減り、しかもそれをインターネット接続に利用している人はわずか7%程度になってしまうというのだ。ケータイをインターネット接続のために使う人に至っては0.7%という統計誤差的な微々たる数字だそうで、信じられるものかどうかもわからないほどだが、要は、自分たちのような年代の人間は、情報をパソコンやケータイを通じてインターネットから得るということをあまりしないということなのだろう。
とすれば、auやNHKのような方針転換は、そういう人たちに対する一種の“情報差別”になるのではないだろうか?あえて問い合わせてはいないのでわからないが、何らかの代替策は講じられているのだろうか?利用料明細という情報そのものの価値・重要性の高低についての企業としての判断と、それにもとづく今回のような措置の適否の議論は一先ず擱くとして、これをキッカケに顧客に対する情報提供におけるデジタル化への傾斜に拍車がかかるとしたら問題だ。そういう企業は、将来世の中の情報はデジタル一色になり、アナログなかたちの情報は不要になるとでも信じているのだろうか?

自分が関わってきた、ビジネス・コミュニケーションの世界でも、企業から市場に向けて発信する情報がアナログからデジタルへと年々シフトして行く様子が、広告費統計などから如実に見てとれる。圧倒的だったマスメディアのシェアが目に見えて下がって行き、代わりにインターネットがハイペースで伸びている。マスメディアの中でも特に、新聞・雑誌という印刷メディアの凋落ぶりが目立ち、断然たるトップシェアを維持してきたテレビさえも、ジリ、ジリと、その数字が下がりつつある。
そんなところからか、“テレビはもはや死に体だ”とか、“いずれ広告はインターネットに席巻される”とかいったことを言い出すお先走りのジャーナリズムも出て来ているが、それはどうだろうか?確かにインターネットには、広告メディアとして、在来のメディアの次元を超えた機能的特性があり、それが利用シェアを急激に拡大させているのは事実だが、やがてそれによってすべてのビジネス・コミュニケーションが置き換えられるとか、アナログメディアにはまったく用がなくなるなどと考えるのは、当たっていないと思う。

インターネットは、これまでの諸アナログメディアのあり方に多大な影響を与えていることは間違いないし、それぞれが情報通信の世界においてかつて占めていたウエイトを大きく変えてしまうほどのインパクトを持っているものであることも否定できないが、それらをまったく駆逐してしまうような存在にはなるはずがないと自分は思っている。アナログメディアは、インターネッというデジタルメディアの出現によって、当座は何らかのマイナスを蒙っているかも知れないが、変容のための新しい生命を吹き込まれ、新たな機会を得ていることもまた、疑いを入れないところではないだろうか?
テレビが出現したときに映画産業がダメになってしまうと言われたが、結局いまどうなっているか?通販が急速に台頭したときいまにも店舗販売がなくなってしまうようなことが言われたが、その後実際にそのようなことが起こったか?話が飛躍するけれども、アメリカン・チェリーの輸入が自由化されたとき日本のサクランボ農家は壊滅してしまうと騒がれたが、いまどちらのサクランボがより売れているか?これらの例を引いて一概に論ずるのは乱暴かもしれないが、そういったかつての大騒ぎの顛末を考えてみると、いまの“インターネット一辺倒”、“デジタル万能” 論の先行きも見えてくるような気がする。

自分たちシニア世代の大部分は、ケータイやパソコンを自在に使いこなせず、結果的にデジタル情報への対応が不得意であるところから、それだけのことで“化石”とか“情弱”とかいった侮蔑的な陰口を叩かれることがあるようだが、おかしなことだ。そう言っている連中は、自分たちのような世代がすっかり交代するとすべての人がデジタル情報の端末機器を操るようになり、紙に印刷されたかたちで届けられるようなアナログな情報はまったくお呼びでなくなるとでも思っているらしいが、上記のような例を引用するまでもなく、長く受け入れられてきたものは、そんなに簡単にはその存在理由と価値を失わない。
浅学菲才にして感覚的にしか言えないが、いくら世代が代わろうとも、また情報技術が進んでも、人間が人間のままである限り、アナログ情報は必要であり続けると思う。人間の五感というものは本来、デジタルなかたちだけで発信される情報を受け入れ続けることに耐えるようにはできていないのではないかと思うからだ。人間は生理的に、意識的であれ無意識的であれ、デジタルな情報は一たんアナログな情報に変換してからでなければ、ある一定のキャパシティ以上は受け入れ切れないのではないだろうか?故スティーブ・ジョブスが生涯追求していたのも、そのことへの答えだったのではないかと思う。

アナログ情報とそれを運ぶさまざまなかたちのアナログメディアは、デジタル情報とデジタルメディアによってすべからく機械的に置き換えることができるような存在ではなく、存在すべき本来的な意味があって存在してきたし、これからも当然に存在し続けるものだと思う。ただし、デジタルと無関係にでも対立的にでもなく、相互に関わり合い、影響し合い、立ち位置と役割を変容させながら...。
ビジネスコミュニケーション・メディアについても、同様のことが言えるだろう。これから見えてくるのは、新デジタルメディアと旧アナログメディアの交代という図式ではなくて、新旧相関の結果としての相互補完的共存ということになるのではないか。そして、そう考えず単純に情報の完全デジタル化という未来を想定して突っ走る業界や企業は、市場や顧客の中に根源的に存在しているものが見えぬまま偏ったビジネス成果に向かって進み、気がついたときには大きなものを失っているということになるのではないかと懸念する。

...と、デジタルとアナログの狭間を行きつ戻りつし、auやNHKのサービス方針変更通知からそんなことを考えてしまった自分は、時代とズレているのだろうか?

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2011年7月25日 (月)

...ったく、銀行というところは

ソーシャルメディア・マーケティングの勉強の足しになるかと思って「コトラーのマーケティング3.0」という本を買ったら、カバーの帯に“消費者志向はもう古い!”という惹句が大々と書かれていたので、いささかカチン!と来た。自分が普段からマーケティングにおける顧客志向の大切さを説き、それこそが最強のビジネス戦略などとアチコチで書いたり話したりしている立場だからということもあるが、それよりもっと直接的には、いまちょうど、ある企業(見出しにあるように“銀行”)の、そういう配慮の無さによる個人的な迷惑・不快を蒙っている最中だったからだ。
この本は、読めばわかるが、決して帯書きにあるような上滑りなことを主張しているわけではない。巻末の「マーケティング3.0の10の原則」という章でも、「原則1:顧客を愛し、競争相手を敬う」「原則7:顧客を獲得し、つなぎとめ、成長させる」「原則8:事業はすべてサービス業」と、顧客志向の重要性に言及しており、コトラー本人も、古いとか新しいとかは言っておらず、“マーケティング3.0も、消費者志向の2.0と同じく消費者を満足させることを目指す”としている。

またこの本には、“ソーシャルメディア時代の新法則”という副題もつけられているが、これも必ずしも当たっておらず、こうまで言い切ってしまうのは、いささかこじつけに過ぎる気がする。思うに、この本の日本語版の出版社・編集者は、「マーケティング3.0」という原著のタイトルに刺激されて、これにいま流行りの“ソーシャルメディア”を組み合わせれば最強のアピールになると踏み、“...はもう古い!”というところまで、筆が走ってしまったのだろう。
...とは言っても、自分は別にこの本の批判をしているつもりはない。謳い文句をまともに受け止めた人(自分のような)からすれば読後に若干の違和感はあるが、ここで説かれていること自体は、特に革新的ではないにせよ肯定し共感できることばかりで、この本が、マーケティングの過去から現在までの歴史を踏まえて今後のあるべき方向性を示唆している好著であることは間違いない。その意味ではこれは、マーケティングのハウトゥー書ではなくて“哲学書”とでも言うべきで、帯書き惹句が誤解を招きそうなのが残念だ。

オッと、前置きがすっかり長くなってしまったが、今回ログっておきたいと思ったことは、実は上記の本の読後感ではなくて、冒頭で引き合いに出したような、銀行の消費者志向の欠如による、個人顧客としての我が家の迷惑体験。直接の当事者は家内だが、途中から自分も参加、現在も進行中だ。発端は、つい先ごろ家内が、自宅最寄りにある我が家のメインバンク(というほど大層なものでもなく、家内と自分の各種支払・受取の口座がそこにあるという程度の意味)へごく一般的な用事(引出すとか、預けるとか、別のタイプの預金にする...とか)で出掛けたときに、そこの若い女性窓口行員から掛けられた一言。
その銀行とは、旧財閥系のMとSが中核になって形成されているメガバンクMS銀行のあざみ野支店。我が家では地理的に最も近いということで、そこがまだSと合併せずMだった時代からの取引で、もう20年以上になる。リスク分散や運用のため、外資系を含む他の2~3行とも取引をしているから、そこに預けてあるのは大したものではないけれども、それでもソコソコの価値があると思われているのか、これまでにもよく、外回りの営業担当者から、普通預金を定期に、定期が満期になると投信に...などという話しはあった。

が、その日の窓口行員の話というのは、要するに保険加入の勧め。そういうことを頼んでいたわけでも、相談を持ちかけていたわけでもなかったけれども、自分の一昨年・昨年の入院・手術費用が加入していた保険でほぼ完全に賄えたこともあり、たまたま、家内自身も何らかの保険への加入を検討する必要性は感じていた矢先だったので、一応、話を聞いてみる気になった。勧められたのは、入院給付があり先進医療特約がついている医療保険で、中高年世代でもまずまずの範囲の月額保険料で加入できるということだった。
それ自体は悪くないと思って心が動いたが、家内は、複数の持病のため朝・昼・晩と多種の薬を服用しているのでおそらく加入は無理だろうと、あまり乗り気にならなかった。するとその行員は、服んでいる薬によっては大丈夫だから、その名前を教えて欲しいとさらに粘る。家に帰らないとわからないと家内が答えると、それを調べてもう一度ここに来て下さいと言われた。その話を聞いて自分は、保険のセールスをするのに客に何度も足を運ばせるとは、銀行というところはずいぶん態度の大きな商売をするものだと思った。

それでも、人の好い家内は、服用中の薬のリストをつくって、また銀行に足を運んだ。そういう言い方をする限りは当然その場で適格かどうかがわかるのだろうから、そうなって初めて本格的に話を聞き、十分時間をかけて考え、納得できたら後日改めて加入申し込みするかも知れないし、あるいはそこまで行かないかも知れない...という程度の気持ちで。ところがその日、事態は思いがけない段階にまで進んでしまった。
窓口行員の他に“保険コンサルタント”なる女性が現れ、服用中の薬による加入の適・不適格は、申込書に記入するかたちをとってもらわなければわからないということで、家内は内心、話が違うとは思いつつも、アレヨアレヨという間に一方的に押し切られ、手続きさせられてしまった。その保険はMSの系列保険会社のもので、同行が扱っているはずの他3社の5タイプの保険(自分で調べて後でわかったことだが)については一切説明がなく、家内自らが比較検討した上で自由意思で選択するということはできなかった。

とうわけで、首を傾げつつも、最初の話の通りに聞いていたような条件(保障内容・保険料・制約など)で加入できるのなら結果オーライということにしてもいいと、家内はその日はそれで戻ってきたが、それからしばらく経ってまた、例の窓口行員から呼び出しがかかった。先日の結果が判明したのだろうとは想像がついたが、それにしても、こちらから頼んだことでもなく、またこれまでローンなどで世話になったこともないのに、何故、顧客の方が再三足を運ばなければならないのかと不快感を新たにしながら顔を出したら、とんでもない報せが待っていた。
何と、聞かされていたこととは大違いで、加入の条件は、服薬中の疾病に対する保障は5年間免責、保険料5割増し(5000円アップ)だという。もちろん、そんな条件で加入する気には毛頭ならないし、大丈夫のようなことを言っていてこの答えとは一体全体どういうこと?だからこちらは最初から無理だろうと気乗りしなかったのに、さんざん手間と足労をかけさせておいて“馬鹿にしないでョ!”と、家内は怒り心頭。自分も話を聞き、これは“非・顧客志向”もいいところだし、のみならず商売の手法にも問題があると直感した。

問題の一つは、今回のような銀行窓口での保険販売の前提とプロセス。もう一つは、加入申込というかたちで保険会社に渡った家内の個人情報の行方。単に“加入を取り止める”と言うだけではこちらに徒労感と不快感だけが残り、銀行との間には何もなかったことになってしまうので、それでは納得できないと、上記のポイントについての見解を書面で回答して欲しいと要求した。銀行・保険会社からは何度か電話があり、来宅もあって、再三、問題点と要求の趣旨について説明したら、保険会社からは“当該個人情報は返却・抹消はできないが責任を持って管理する”という責任者名での署名・捺印のある文書が送られて来たので、それはそれで一応了とすることにした。
しかし銀行の方は、こちらの言い分はわかったが、それに対する見解(肯定するのか否定するのかわからないが)については、“本部の意向により書面では提出しないことになった”と、電話で言ってきた。どうやら、言われていることがチットもわかっていないようで、顔が顧客よりも本部の方に向いているらしく、自分たちの商法に問題があることの自覚もない。“...ったく銀行というところは”と、怒りを通り越して驚き呆れるほかなく、そんな回答では到底受け入れられないと、それを突っぱねたことは言うまでもない。

「保険業法施行規則」ではその211条に、“銀行業務で知り得た顧客に関する非公開情報(顧客の預金・為替取引・資金の借入れ等に係る情報、その他特別の情報)が保険募集に利用されることにつき、事前に当該顧客の書面その他の適切な方法による同意がある場合を除き、この非公開情報を保険募集に利用してはならない。”と定めて、銀行の圧力販売を禁止しているが、厳密に言えば今回の家内のケースは、それに抵触している疑いがあり、自分は、銀行がそれを自覚していないとしたら怠慢だと思っているわけだ。もっとも、知っていてそうしているのだったら尚更悪質だが...。
また、“服用中の薬の名前を聞いて適格かどうかを知るだけ”と言いながら、それを申込書に記入させて結果的に家内の健康状態に関する個人情報を取得した経緯については、明らかに途中での“すり替え”ないしは“行き過ぎ”があり、これは、「個人情報保護法(正確には“個人情報の保護に関する法律”」の15条(利用目的の特定)、16条(利用目的による制限)、17条(適正な取得)にも引っかかるような気がする。長くなるので原文は省略するが、関心の向きはhttp://kantei.go.jp/jp/it/privacy/houseika/hourituan/030307houan.html
を参照されたい。

いちばん気に食わないのは、このような法的な問題点だけでなく、こちらが希望したわけでもないのに個人の時間を拘束して一方的にセールストークを行い、その上商品の購入をお願いする立場なのにもかかわらず自ら顧客の方に足を運ぼうとせず、逆に顧客の足を再三店に運ばせるという、高姿勢かつ無神経な商法。そして顧客から問題を指摘されたときに、頭だけは下げるが決して事実関係を書面上の記録に留めようとはせず、結果的にそのことがどこにもなかったことになるように持って行こうとする、自己保身の姿勢。
銀行窓口での保険販売は、業界では「銀行窓販」と通称されているそうだが、この“窓販”では、我が家の場合だけでなく、預金者個人情報の無断流用、行員の不適格と知識・説明力不足、成績至上主義、などが原因で、これまでにも、特に高齢者に対するトラブルが頻出していたとの報告がある。「社団法人 生命保険ファイナンシャルアドバイザー協会( JAIFA)」も、保険業の信用のためにこういった点を危惧し、さまざまな角度からの調査・分析を行った上で、生保商品の銀行窓販のこれ以上の拡大に反対している。

誤解を招かぬように言っておくならば、自分は、すべての銀行がそうだと言っているわけではないし、感情的になって銀行の果たしている役割を全否定しているわけでもない。ただ、これまでにも1度ならず不愉快な目に会わされて(ここでも06年9月14日08年2月11日に書いている)、銀行という組織の体質にはホトホト参り、世のためお互いのために何とかならないものかと、せめてもの弱者の抵抗を試みているだけなのだ。
自分はさまざまな支払い・受取り口座をこの銀行支店に集中しているので、腹が立ったからと言ってそれを直ちに他の銀行に移すということも面倒でなかなかできないが、家内は、自分の方だけ泣き寝入りは癪だと、ちょうど満期だったこともあり、ここの普通・定期預金を全額引き出してしまった。

先週末現在、銀行側の結論はまだ出ておらず、今週支店長が来宅すると言っているが、サテ本質的な問題の解決になるかどうか...。

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2011年6月 5日 (日)

今年の広告賞選考会で感じたこと

先週末で、いまの自分にはけっこうハードだった1週間が終わり、正直、一息ついているところ。毎年5月の最終週には、月曜から金曜までにわたり定例の広告電通賞の各部門最終選考会と総会が行われ、自分の出番はそのうち3日だけなのだが、事前に資料を読み込んだり、選考会当日は限られた時間の中で神経を集中して応募企画・作品の審査をするので、その最中はそうも思わないけれども、後になってジワーッと疲労感が出てくるのだ。
と言ってもこの仕事は、直接現場に関わることがほとんどなくなった自分にとって、広告のいまをまとめて垣間見る絶好の機会。審査対象の企画・作品に触れることはもちろん、久し振りに顔を合わす業界の人たちや大学の先生たちとの会話に快い知的刺激を覚えるし、他愛もないことだが、出掛けるに際して普段のユルいウェアからタイ&ジャケットにビシッと身を固めると、背筋がシャンとして元気が湧き出てくるような気がする。

週末に帝国ホテルで行われた総会の広い会場には、自分が直接担当したSP(セールスプロモーション)およびダイレクトの2部門を含む新聞・雑誌・ポスター・ラジオ・テレビ・インターネットなど全部門の、100点近くの入賞企画・作品のプレゼンテーションボードが、壁面一杯に展示されていて、開会までの暫時の待ち時間にそれらを一わたり見させてもらったが、選考を通じて今回も変わらず感じさせられたことがあったという思いの半面、こうやって見ても、いま一つ知りたいことがわからないという思いも残った。
総会での、審議会および主催者代表の挨拶は、当然、去る3月11日の大震災とその後の電力事情悪化によるこの業界への多大な影響に触れていたが、この賞の応募締切りが同月の末日だったため、ほとんどすべての企画・作品の出品はそれ以前になされていたようで、その内容自体には影響が及んでいないように見受けられた。昨年の景気は、2年続いた低迷からようやく脱して、ゆるやかな回復基調に乗っていたところだったとかで、応募のあった企画・作品にもその状況は反映されていることが見てとれた。

前置きが長くなったが、“今年の広告賞選考会で感じたこと”は大小いくつかある。まずは応募点数の問題。全部門区分を通じての総点数の増減はともかく、自分が関わっている「SP広告」部門と「ダイレクト広告」部門の中のサブ区分(SPは「インストアプロモーション」と「プロモーショナルキャンペーン」、ダイレクトの方は「通販プログラム」と「非通販プログラム」)ごとに見ると、両部門とも、えらくバランスが欠けていた感じがした。
具体的に言うと、SPではその原型ともいうべきインストアプロモーションが少なくて、さまざまな要素が複合したプロモーショナルキャンペーンが圧倒的に多く、ダイレクトでは逆に、原型である通販プログラムの方が多くて、伝統的な店舗販売モデルにその原理とシステムを導入・適用した非通販プログラムが極端に少なかった。ダイレクト広告部門はそのせいもあってか、全体の応募点数も昨年よりかなり減っていた。

SP部門でなぜそういう傾向になったのかを考えると、それは、SP(広告全般にそうだが)が追求しなければならない目的と達成しなければならない成果の幅が、かつてよりも格段に拡がり、またハードルも高くなっているからに他ならないという結論に行き着きそうだ。SPはもはや、期間や場所を限って効果を刺激・促進しようとする戦術ではなくて、長期・広汎囲にわたって成果を積み上げ支えるための“戦略”として考えなければならないところに来ているのではないだろうか。
実際、SP部門に応募があった企画・作品の中で、文字通り“販売促進”という従来的な結果だけを求めそのことだけを評価しようとしているものは、全体の約半数で、残りの半数はむしろ、関心度・認知度・好感度アップといったことを目的とし、成果も、PR・パブリシティ効果を上げたことを以って良しとしている。このことから、今日のSPは、伝統的なSPが追求してきた目的・成果を“核”としながらも、その役割の幅を、伝統的に“純広告”と言われてきたものの領域にまで拡げ、“マクロな意味での広告”とでも謂うべき存在に進化したと言ってもいいかも知れない。

広告あるいはSPがそういう総合的なものなると、その目的達成のためのチャネルとしてのメディアも、複合的なかたちで利用されるのが必然的になるから、SP広告のほとんどすべて、ダイレクト広告の大半が、いわゆる“クロスメディア”になるのも当然のことと言え、そうなると、広告の評価をメディアごとにしているだけでは全体が見えなくなるのではないかという懸念を、自分などは抱いてしまう。この広告電通賞についても、既存の各メディアと並んで、クロスメディア(自分は“マルチメディア”と言う方が適切と思う)という部門があってもいいのではないかと夢想したりしているのだが、どんなものだろう。
ただ、クロスメディアと言っても、“伝統的な意味での広告”について盛んに唱えられてきたメディアミックスやメディアインテグレーションと同様に考えていては、認識不足の誹りを免れないだろう。それは、単に複数のメディアを重層的に使うだけのことではなくて、それぞれのメディアの持ち場・役割が適切に設定され有機的に組み合わされて、それらが追求目的に向かって緻密に相関しながら集約されるかたちになっていなければならず、事実、成功したSP・ダイレクト広告の企画は、そのように設計されていた。

ここで、インターネットのことを、少々突っ込んで話しておきたい。「インターネット広告」のために投下される費用は年々急速に増え続け、いまやテレビ広告のそれに次ぐ位置にランクされているのは各位がご承知の通りだが、このメディアが、伝統的な意味での“広告”という概念の延長線上で、単にそのような目的追求のためだけのものとして理解され利用されているのは、今日のマーケティング戦略プランニングの上であまりにも役不足ということになる。
改めて言うまでもないが、インターネットはコミュニケーションメディアであるだけでなくトランザクションチャネルでもあり、インプレッション機能だけでなく、トラフィックとインタラクションの機能をもフルに活かして、マーケティングの開始・先導のみならず、推進・拡大・維持・完結と、その全プロセスにわたって活用されなければならず、その意味で、クロスメディア構築における“情報の出入り口”として、“受発信の基盤・中心軸”として、さらには“効果の増幅・波及装置”として、不可欠な役割を担う。

今回のSP広告部門への応募企画・作品からは、そのことが、理屈はともあれ実態として見てとることができたように思う。告知メディアの1つとしてインターネット広告を挙げていたものは全体の半分ちょっとに過ぎなかったが、その記載がなかったものにも、告知サイト、コンテンツサイト、コンテストサイト、コミュニティサイト、ネットワーキングサイトなど、すべてに、何らかのかたちでインターネットが活用されていた。トゥイッター・動画・ブログなどのいわゆるソーシャルメディアの利用も、昨年とくらべて格段に積極的になり、その使い方も戦略・戦術的に進化して、大いに効果が上がっていた。
ダイレクト広告部門におけるインターネットの役割については、このメディアの諸機能とダイレクト広告の相性から言って、さらに明快かつ当を得た活用企画の応募があるだろうと期待していたのだが、その通販プログラムの区分には、単なる販売チャネルミックスとして以上の利用例は見られなかったし、非通販プログラムということでの応募企画に至っては、1件を除いて、インターネットの活用以前にダイレクト広告として規定されている概念の理解を疑うようなものばかりで、非常に落胆させられた。

“いま一つわからない”と言ったのはそのあたりのことで、今日のマーケティングは、市場ターゲティング・顧客関係強化・ROI重視...など、ダイレクトマーケティングの本質に限りなく迫りつつあり、そのためインターネットが縦横に重用されているはずなのに、なぜそれが表面化して来ないのだろうかという疑問が浮かぶのだ。
大多数の企業は、そういう世界的潮流を理解・認識しようとしていないのか?それとも、認識はしていても方法論的にまだ勉強不足状態なのか、あるいは、実際にはそのような動きがあっても、それが各メディア別の広告として拡散されて、1つの大きな流れとして確認されないだけなのか?...その辺を見極めたくて、総会会場に掲げられたインターネット広告入賞企画・作品のボードを観察したのだが、とうとうわからなかった。

できたら、自分のような特定部門だけの選考委員には見えない、全部門の応募企画・作品を相関させた視点からの解説を、誰かにしてもらえると有難いのだが...。

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2011年4月 4日 (月)

消費のすゝめ――日本復興のために、あえて...

悲しくとも辛くとも、時だけは容赦なく過ぎて行く。あれから早や3週間あまりが経ち、ようやく余震の規模と回数は少しずつ下火になってきたような気がするものの、原発事故収束の見通しは依然として不透明なまま。自分の身の周りでは、スーパーなどでの品不足は何故か相変らずだが、ガソリンスタンドの行列は見なくなり、計画停電もこのところ中止続きで、幾分生活が落ち着いてきた。しかし、被災地ではまだまだ行方不明者の捜索と避難民の苦しい生活が続いていることを思うと、申し訳ないような気持ちになる。
だが、そんな中でも、地元の小・中学校の卒業式がとり行われたり、高校野球春の選抜大会に被災地校が出場して精一杯の健闘を見せたり、仮設住宅建設の槌音が聞えてきたりと、徐々にではあるが、事態改善と復興に向けての歩みが始まったように見受けられる。

まことに感激に堪えないことに、日本中・世界中の有名・無名の人々とさまざまな組織からの義捐金や物資提供、そして100を超す国々からの人的・物的・技術的支援を受けて、いまや、当面の被災者救済のためのサポート体制は極めて充実したものになりつつあるように思える。が、この未曽有の大災害からの真の復興は、残念ながらそれだけでは実現できない。日本国民はこれから、さし当たってのことだけではなく何十年ものスパンにわたって、そして被災地のことだけではなく日本国全体のことを考えて、この問題に取り組んで行かなければならなくなるだろう。
今回失ったものはあまりにも大きかった。大地震・津波による各地の直接被害だけでなく、原発事故沈静・安全化のための途轍もない出費、またその事故による電力不足のための産業の停滞、そういう状況下での自粛ムードによる消費の落ち込みなど...これらを取り戻すのは容易なことではないだろう。被災者の救済、被災地や被災施設の復旧・再生には、長期にわたる莫大な出費が必要になる(政府試算では国の年間税収の半分にも当たる25兆円)と言われているが、これは、いかに世界中の人々や国々の友情や善意が厚くとも、それで補いきれるものではなく、罹災を免れた人々が、電力をできるだけ復興のための産業推進に回そうと計画停電に協力しても、それだけでは到底追いつかない。

では、どうしたら良いのだろうか?どんな分野で誰が何をなすべきなのか?政治は?企業は?消費者は?そしてメディアやマーケターは?...復興のためのグラウンドプランとロードマップは当然、国家が作成に着手しているはずだし、一般・経済ジャーナルおよび識者も続々と、さまざまな角度からその方向性を提言しつつある。自分もそれについての多少の意見は持っていなくもないが、そこまでの広い範囲にわたってこの問題を論ずることは自分の分には余るので、もとマーケターという己の身の程をわきまえた範囲内で、偏向かつ独断的ではあるが、復興への道筋を考えてみることにした。
さて、身も蓋もない言い方かも知れないけれども、先立つものは実質的にやはりお金ということになるのだろう。すなわち、強固な国家財源が存在しなければ、被災地の復興のみならず今後の国全体の維持・安定化もおぼつかなくなるのは自明の理だ。だからそれを確保するためには、国としての歳入を増やす必要が出てくるわけで、すでに政府内では、時限的増税や暫定的新税の創設、特別国債の発行などの案が提議・検討され始めているようだ。それらは止むを得ないことなのかも知れないが、マーケターの性としては、安易にそういう方向に走らずに、少しでもその分を、正攻法で減らせないものかと思いたくなる。

マーケターなら、既存の税制の下で、借金などはなるべくせずに、“知恵”を出すことによって大いに経済を振興し税収をアップしてそれに当てるべきと考える。幸い――と言っては語弊があるかもしれないが――今回の災害を免れた消費者がこの日本の国にはまだ沢山いるはずだから、そういう人々に、この際ぜひ、被災地への善意に加えて消費意欲も燃やしてもらい、企業はそれに応える商品やサービスを開発し市場に最大限にアピールして全力で販売を推進すれば、消費税収が増えるだけでなく企業の業績が上がって法人税収も増え、雇用と従業員に対する待遇も向上して個人の所得も増し、それによってまた所得税収も増える――という好循環がもたらされることになるのではないかと思うわけなのだ。
物事はそう簡単ではないのは百も承知だが、あえてそんなことを言い出したのには訳がある。震災後の企業は(特に大企業ほど)、その多大な奉仕・貢献には素直に敬意を表したいと思うものの、ビジネス活動に関しては、必要以上に消極的になり過ぎているのではないかと思うからだ。その傾向は、テレビや新聞などのマスメディア上の広告掲載状況からよく見てとれる。無論、ああいう大災害の発生時とその直後は、メディアのコンテンツが報道中心になるのは当然のことで、テレビのCMタイムが一斉にACジャパン(旧名・公共広告機構)のものに差し替えられ、新聞のラ・テ面と社会面が記事一色になったのは止むを得ないことであったが、その傾向が3週間以上を経過したいまでも後を引いているのは、企業本来の目的からしてそれでいいのかと、いささか気になってしまう。

この非常時に消費意欲を刺激して商業目的を追求することなど、日本人としての倫理感覚が許さない...と思うのは、自分自身にもよく理解できるのだが、国家経済の牽引役である大企業がそういう本来の活動をいつまでも抑制していては、国中が沈滞ムードに落ち込み、景気はなかなか回復しにくいと思う。極端な消費の減退は国の収入にマイナス影響を及ぼして復興予算の確保すら困難にし、根本的な国力の衰退を招きかねない。ためらいを感じるかも知れないが、消費者も被災地以外の人々は、こういうときだからこそ普段通りに生活し、精一杯働き、しっかりとお金を使って、経済を活性化させる必要があるのではないだろうか。それが結果的には、被災者への支援にもつながると思って...。
これは、単なる理想論や“風が吹けば桶屋が儲かる”式の屁理屈ではない。実際にそういう目的を満足させるに相応しいマーケティング手法があることは、経験豊かなマーケターなら知っているし、それを今回の大震災に関して企業のとるべきマーケティング戦略として提言している識者・実務家も、すでに何人か存在する。それは、「Cause-related Marketing」――大義(Cause)関連付けマーケティング――と呼ばれる、特定の商品やサービスの購入が社会貢献に結びつくことを訴求して販売促進を図るマーケティングの手法で、単なるチャリティ活動とは違い、企業のブランドイメージ・アップと収益拡大を最終目的とするものだが、実例を紹介すれば、アゝあれかと思い当る向きも少なくないはずだ。

パートナーとなる社会貢献団体との関わり合い方によっていくつかのかたちがあるが、最もポピュラーで広く採用され、成功事例も多いのが、「Purchase-triggered donations」(購買起因型寄付)と言われるもので、消費者の1回の購入や利用毎に支払い額の一部(一定金額またはパーセンテージ)がパートナー団体を通じて貢献目的のために寄付される仕組み。米国「アメリカンエキスプレス」の“自由の女神修復募金キャンペーン”がその元祖とされ、日本でも「ボルヴィック」の“マリ共和国井戸造り支援キャンペーン”などの例がよく知られ、今回の大震災に際しても「アマゾン」や「グルーポン」などが、この手法によるキャンペーンを展開している。
これは確かに、企業の持つ商品やサービスの特性と貢献目的がピッタリと合致した場合には、企業は社会的責任を果たしたと評価されつつなお収益の大幅アップとブランドイメージの向上まで望み得る、良いことづくめのマーケティング戦略だ。けれどもそれは、あくまでも期間的・商品的に限界が存在するプロモーション的な活動であり、今回のような途方もない規模と長丁場にわたる国家経済の振興に寄与するための企業のマーケティング活動は、それだけで十分というわけには行かない。そのためには、これまで普通にやってきたことを、これまで以上に質を高め、より量をアップして行わなければならない。

それには、特別な大義や手の混んだ戦術などはむしろ必要ではなく、シンプルに消費者が欲しくなるようなものを考え出し、買いたくなるように訴求するという、マーケターとクリエーターの“真の、基本的な力量”が要求されてくる。
また消費者もこの際はそれに対応して、倹約・貯蓄しているだけでなく、ノーマルな消費生活に復帰する必要がある。ローンまでして背伸びした浪費をするのは論外だが、自分の許容範囲内で好きなことに目一杯お金を使うのは、自分の人生を楽しくするだけでなく国の経済力強化に結びつき、その恩恵がまた自分に還元されてくると考えれば良いのだ。

お金は使えば生きてくる。かつて“消費は美徳なり”と言った人がいたが、その言のもとになったケインズの「有効需要の原理」は、いま改めて見直されても良いのかも知れない。

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