超時空放談

2016年8月 1日 (月)

忙中徒然

一ヵ月に少なくとも1回、遅れても毎月月末までには...という心積もりで今年の1月から再開したこのブログだったが、とうとうその目標を自ら破棄し、ズルズルと延ばし延ばしにしてきた挙句、ほぼ二月、間を空けてしまった。
前回も5月末のつもりが6月初めにズレ込んでしまったことをあれこれ言い訳したが、今回も懲り性なく、また言い訳を繰り返す。と言っても別に誰も気にしちゃあいないだろうが、どうしてここまで延ばしてしまったかと、おのれ自身の気持の辻褄合わせのために。

まず、アップを予定していた7月の前半が、正直忙しかった。仕事がらみでは、4月から何回かにわたって行われてきた広告電通賞選考関係の会合の最終イベント、贈賞式と懇親パーティーが月初にあり、一週間後には、自分が数年間社員研修を引き受けていたダイレクトマーケティング・エージェンシーの20周年記念パーティーがあって、はるばる(?)都心まで足を運び、久し振りに帰宅が夜になった。
その間、兄弟同様にして育った故郷の従弟夫婦とその妹(は東京在住)が何十年振りかで訪ねて来て、たまプラーザでランチ、家でお茶をし、前後には家内と自分の通院、子供たちと孫の来宅、自身の気功教室や図書館通いなどのスケジュールが挿まり、これに日々のお使い(家内の代行)や買物の荷物持ち(家内に同行)などとが加わって、けっこう一杯々々だった。

Blueberry 後半は、自分の通院はそれほどでもなかったが、家内の通院がほぼ隔日、日によっては午前も午後もということがあって、自分もただ留守番でノンビリというわけにも行かず、自分なりに考えて何やかやと立ち回っているうちに結構忙しく日が経ってしまった。
庭のブルーベリーがいま摘み頃で、この時期になると毎年梅雨が明け暑さが本格化するのだが、遅れ遅れてやっと明けたものの、それまで続いた低温・多雨の所為かともかく湿気が多くて身体がむくみ、ただでも最近とみに回転が鈍ってきた感のある頭もフルに作動せず何をするのも億劫になって、ついダラダラとここに至る。

前半から後半まで、ズーッとそんな調子だったが、改まった所用・約束で外出したり他人と会ったりしたときには、それが良い刺激になってかえって心身がシャキッとした。人の暮らしには何かしら気分転換が必要なものだが、その意味で、招待を受けた両パーティーは自分にとって格好のリフレッシュメントだった。
どちらも業界の現役バリバリの人たちに会うし、ドレスコードも“スマートカジュアル”でいいとあって、ネービーのサマーブレザーにノータイで純白のボタンダウンシャツとオフホワイトのスリム綿パンをコーディネートし足許をプレーントウの黒ローファーという定番スタイルでキメたら、何やら若返った気分になった。

行き先は、前者がもう何十年と行き慣れた「グランドプリンスホテル新高輪」、後者はいま話題(と言っても早やオープン後2年になるが自分は初見参)の「虎ノ門ヒルズ アンダーズ東京」ということで、決して横浜から近くはないが、たまに真ッ都心に出かけ人込みの活気の中に身を置くのも悪い気はしなかった。
ただ、どちらのパーティーもブッフェ形式だったので、1時間も立ちっ放しでいたら足が棒のようになって参ったというのが本音。見回したところ、参加者の中ではどうやら自分が最高齢クラスだったようで、みんなは全然齢には見えないとおだててくれたものの、今さらながら足腰の衰えを実感した。

虎ノ門ヒルズでは時間に余裕があったので、お上りさんよろしく会場に入る前にビル周辺を一廻り。東京シャンゼリゼと自称する「新虎通り」にも出て広い歩道をしばし散策したが、その自称が当たっているかどうかはともかく、道は以前からそこにあったかのように、何の違和感もなく辺りの風景と同化していた。
宴たけなわとなり人いきれが増してきた頃、チョッピリ外気に触れたくなって52階の会場のテラスに出ると、薄闇の中に拡がっていたのは東京タワーも目立たなくなるほどに林立して煌めき瞬く高層ビル群のパノラマビュー。かくてその日、久々に自分の中の昼と夜の大東京のイメージがアップデートされた。

さて、従弟たちとの再会はたまプラーザ駅改札口で待ち合わせ。約束の時間に、お互い1メートルの至近距離に迫るまで気がつかず、危うく鉢合わせしそうになって“オーッ”とビックリ。最後に会った頃とくらべて、彼は見違えるほど恰幅がよくなっており、逆に自分はすっかりスリムになっていたためだった。
ランチはこちらで勝手に薦めて、味も値段もヴォリュームもまずまず及第点と評価していた行きつけのトラットリアへ。最初は互いの齢相応に和食辺りが良いかとも考えていたが、彼が昔から洒落者だったことを思い出してイタリアンに誘ったら即座に賛成し、また食べても喜んでくれた。

食後のお茶とスイーツは場所を変えて我が家で。骨折後の回復がまだ完全ではないのでランチには参加せず自宅で待機していた家内も一緒になって、まずは、今お互いがこうして元気で顔合わせできていることを喜び合い、長い間のブランクを埋め合う懐旧談と近況報告に花が咲いた。
中でも盛り上がったのは趣味の話。現在従弟は、夫婦で定期的に日本各地を旅したり、毎朝ウォーキングに勤しんだりしているとのことだが、自分より3歳若いとはいえ、その行動力には敬服...自分たちもまだまだ家の中で燻ってばかりはいられないと思った。

元来多趣味、若い頃は他人に先駆けたカメラ小僧で家の中に暗室を作りフィルムの現像から焼付けまで一切自分の手で行うほどの凝り性だった彼は、今はオカリナにハマっているという――よりも、同好会を主宰しアンサンブルを編成し町で定期コンサートを開くという活動を続けている程の、いわばセミプロ級になっているらしい。
オカリナ奏者と言えば宗次郎、楽曲としては中南米のフォルクローレなどを連想するが、YouTubeにもアップされている彼らのレパートリーは、「故郷」「浜辺の歌」「見上げてごらん夜の星を」「北の国から」...等々、日本の愛唱歌が主なよう。で、話が縦横に錯綜してお互いの少年時代に遡ると、思わぬ“秘話(?)”が披露された。

何と、彼のオカリナ・レパートリーには、自分が中学時代に作詞・作曲した曲も入れてあるとのことで、自分には直ぐにあれかとピンと来たが、訳が分からず目をパチクリさせている女性方の前で彼はその曲を唱ってみせ、自分も思わず途中からハモってしまった。
それは「負け試合」と題した曲で、当時音楽の授業の宿題として上げたもの。初歩の知識しかなかったから、シャープもフラットもつかないハ長調4分の4拍子、4分音符と8分音符だけで構成した二部形式(a/a‘/b/a’)の単純素朴な曲で、メロディーは遠藤実風、千昌夫や小林旭あたりが唱ったら丁度良さそうなカントリー演歌調。全体に長調だがサビ(b)のところで哀愁を帯びた短調に転じて最後にまた長調に戻るというところが我ながら気持ちよくて、実は、ムッシュとの散歩のときにはよく鼻歌で口ずさんでいた。

楽器とてロクなものはなく、従弟の玩具の鉄琴(せいぜい2オクターブくらいだったと思う)を叩きながら作った自分のいわば処女作だったが、その頃せいぜい小学校高学年に過ぎなかった彼が、譜面もなかった筈なのによくぞメロディーを正確に憶えていてくれた(歌詞は一部誤記憶があったが)と、ビックリすると同時に感動した。
稚拙ながら興味をそそられて同じ頃に同じようにして作った曲には、やはり調号なしで4分の4拍子二部形式、イ短調純邦楽風のメロディーと、ベートーベン作曲の学校唱歌「花売り」(原曲「マーモット」)に啓発された同じくイ短調二部形式で8分の6拍子の「虫の一生」と題する2つがあり、何れも自分の記憶には留めてある。

このことから、あの頃の自分の音楽的環境というもののタカが知れるが、その後はより多くの種類の音楽に触れ楽器も弄れるようになったのに、作詞・作曲したのは大学時代にたった1曲だけ。当時かぶれていたシャンソン紛いの、ギターで弾き語りする唄を書いたきり。いろいろ他のことにも興味が拡散し、社会人になってからは仕事と家族が関心の中心になって、これまですっかりそんなことは心の片隅に追いやっていた。
が、従弟のおかげで遠い日の懐かしい記憶が呼び覚まされ、何十年ぶりに感性(?)が蘇った気がして、暑さで茹だり湿気でふやけて何もする気が起きなかったにも拘わらず、無理に、独りミュートしたピアノに向かってみた。けれども...ダメ。もはや何のインスピレーションも湧いて来なかった。

つい最近まで、音楽は少なくとも聴くこと唄うことは癒しになっていたが、今では情けないことに、高音・重低音やハイキーの曲を長時間聴いているのが苦痛になってきた。これが老化というものなのだろうか?見た目年齢は何とかサバを読めても、中味はそういうわけには行かないのかも知れない。

この2ヵ月は、忙中徒然、機会あって図らずも今昔のさまざまな時空に想いを馳せ巡らせることができた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月19日 (月)

昔の夏、いまの夏

“言うまいと思えど今日の暑さかな”...そんな陳腐な句が思わず口をついて出る猛暑の今日このごろ。毎日、“観測史上最高温”だの、“40度超”だのというニュースが飛び交って、もういい加減ゲンナリする。
去年の夏もこうだったか、どうやって凌いだっけ...などと、考えても詮ないことをツイ、茹だった頭で思いめぐらしてしまうが、この数年は毎夏、同じように暑く、同じようにブツブツ言ってきたという記憶しか蘇って来ない。

それを調べてみて実際のところがわかったからといって何かの助けになるわけでもないが、思ったことをそのままにしておくのも何だか気が済まないので一応ウィキペディアを紐解いてみると、確かに、2010年以来そういう傾向にあるらしい。
もっと言えば、2000年代に入ってからは、それ以前と比べると統計的にも明らかに、年間の猛暑日の日数が多くなっているそうだ。齢をとるにしたがって夏がこたえるようになってきたと思っていたが、どうも齢のせいばかりではなかったようだ。

年寄りとペットは高温に弱いので、熱中症にならないようにご注意をと、このごろとみにテレビや新聞の話題として取り上げられるが、老夫婦と犬1匹の我が家は言ってみればその典型のような世帯。でもいまのところ、なんとか無事に過ごせている。
各部屋のエアコンを四六時中点けていればいいのだろうが、経済的な見地からもそういうわけにも行かず、できるだけ小まめにスイッチをオン・オフし、その代わりに扇風機は、メインのダイニングルーム用の他に、各人(犬)1台を備えている。

夜間などは寝苦しいから、エアコンは一晩中点けっ放しにしていたいところだが、それでは身体にもよくないと思うのでタイマーにしておくと、寝入ることはできても、夜半や早朝にどうしても目が覚めてしまい、このところは睡眠不足気味。
それと同じ理由かどうかわからないが、ムッシュも夏になってからやたらと朝が早い。暑くない時季には早くてせいぜい7時起きだったものが、6時半起き、6時起きになり、最近ではついに、5時半に叫び出すようになった。

もしやどこか具合でも悪いといけないと思い、こちらは飛び起きて洗顔もそこそこにケージに駆けつけるのだが、開けてやると元気に飛び出してきて、そのまま朝の散歩へ向い、帰って朝食を平らげると、後は午前中一杯、好きな場所でのんびりとまどろんでいる。
毎日その繰り返しなので、体調は悪くないのだろうと安心しているのだが、ただでさえもう少し眠っていたい早朝の貴重な時間を割かれるこちとらとしては、いささか困惑の態。一体どうしたらいいのか、何とかならないものかと悩んでいる。

それにしても暑い。夏は暑くて当たり前かもしれないが、昔からこんなだったろうか?東北の田舎にいた子供のころの夏の記憶は、最早さだかではないが、いまの東京や横浜ほどではなかったような気がする。
自分が幼少期を過ごした福島の阿武隈盆地は、いまでは全国でも有数の猛暑地域として知られているが、辛かったことはすっかり忘れてしまっているのかも知れないけれども、どうも、耐え難いほど暑かったという記憶はない。
わずかに覚えているのは、第二次大戦で日本が降伏しラジオを通じて天皇の詔勅が下った日と、高校野球の地方予選であえなく一敗地にまみれてしまった日。どちらの日も、真夏の太陽がジリジリと照りつけていた気がする。

何しろそのころは、エアコンはもちろんのこと、我々庶民の家には扇風機などというものすらなかったわけで、涼をとると言えばもっぱら団扇か扇子だけ。それでも何とか凌げていたのは、基本的に、気温もいまほどは高くなかったということではないのだろうか?
冷蔵庫や扇風機が手に入ったのは、世帯を持ち、長男が生まれてから。東京オリンピックが開催され、東京都が水不足になった年だった。暑さはさほど応えなかったが、赤ん坊が汗疹でむずかるので、あやしながら毎晩外に夕涼みに出ていたのを思い出す。

ところで、昔も暑くてたまらなかったという記憶があまりないのは、年齢や体力とも関係があったのかも知れない。幼少期、青年時代、働き盛りのころなども、暑くなかったはずはないのだが、自分のエネルギーがそれを吹き飛ばしていたようだ。
小・中・高校はもちろん大学にも、冷房設備などはなかったし、自分が第一線で働いていた時代はクールビズなどという都合のいい慣習もなく、真夏でもスーツにネクタイだったが、それでも別に不平不満も言わずに季節をやり過ごしていた。

とは言っても、大昔ではなくてふた昔かひと昔くらいまで時代が上がってくると、暑さの記憶もだいぶ鮮明になる。1984年、自分はひと夏猛暑のニューヨークにいたが、その年の日本もニューヨークに負けず、出国したときも帰国したときも暑かった。
88年には手術で三週間入院することがあって、梅雨明けのころ退院し快気祝いのつもりで京都旅行に行ったら、生憎好天を通り越した焼けつくような炎天に晒され、もう一度入院しそうになった。

記録に残ってはいないかもしれないが、88年も暑い夏だった。ちょうどその盛りの時期に、家内は大阪で行われた花博の展示場にボランティアで一週間ほど手伝いに行っていたが、酷暑の中での奉仕作業がたたってダウン、帰宅後即、三週間の入院となってしまった。

最近では2008年、家を建て替えた年。幸か不幸か、工事開始とそのための引っ越しが、7月中旬という夏のど真ん中になってしまった。そのときの経緯は以前「引っ越し狂騒曲」で書いたが、その夏は正直言って、古希越えの夫婦にはほんとうにキツかった。
統計では、2010年が観測史上最も暑かった夏ということになるらしいが、なぜか自分にはその印象が薄い。この年は、前立腺ガンを宣告され、精密検査や手術・入院のための手配・準備などで初夏から秋口まで忙殺されていて、それどころではなかったからだろう。

2011年以来の3年というものは、年々暑さがエスカレートしてきているような気さえする。齢も、一つまた一つと重ねているので、体感温度が、実際の気温に輪をかけたものになっているのかも知れない。
にもかかわらず、夫婦およびワンコともども、熱中症でダウンもせず、ここまで過ごせてきたのはまことに有難いという他ない。多病息災というか、何だかんだと医者通いの多い生活が自然に健康に留意する結果になって、案外幸いしているような気もする。

齢をとると、何かにつけていまの暮らしと比べて“昔はああだった、こうだった...”といった思い出話をするようになるが、自分も今回は、あまりの暑さのせいか、どうでもいい個人的な夏の思い出話を繰り広げてしまった。

さて、こう暑くては当然、山荘に逃げ込みたいところだが、7月末の前回からまたいろいろとスケジュールが入ってなかなか行けず、早や3週間経ってしまった。

今週の半ば過ぎくらいに何とか出掛けたいと思っているが、サテどうなるか...。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月15日 (月)

私とイギリス

先週、マーガレット・サッチャー元イギリス首相が逝去した...というニュースを目にして、フと自分が、長かった外資系企業ビジネスマン人生の中で、数年間ではあったが、米資企業だけではなくて英資企業でも働いていたことを思い出した。
いや、そのことを忘れていたわけではないから、“フと思い出した”というのは正確ではなく、むしろ逆に、いろいろな意味で忘れかねていたその当時の記憶が、“サッチャー”というキーワードで再びアーカイブから引き出されたと言った方がいいかも知れない。

その英資企業というのは「サーチ&サーチ・アドバタイジング」という国際総合広告エージェンシー。昭和の時代が終わるころだったが、イギリスでは日の出の勢いで成長しつつあって日本にも上陸、自分は請われて、日本法人の経営に参加することになった。
そのサーチ&サーチ(以下S&S)の記憶がなぜサッチャーと結びつくのかと言えば、知る人ぞ知る、このエージェンシーこそが、1979年の英選挙で保守党を大勝に導くキャンペーンを企画・演出し、彼女を首相に推し上げた蔭の立役者だったからだ。

広告表現の独創性もあって、業界ではそのときのことが後々までの語り草となり、その成功がS&S大躍進の大きなステップになったが、一方では積極的にM&Aを推進、世界の名門エージェンシーを次々と傘下に収めて、瞬く間に売上高世界第1位にのし上がった。
自分はその日本法人で、本来はマーケティングという専門分野での貢献を期待されたはずだったが、はからずも、現地トップとして財務・人事・本社折衝という総合広告エージェンシーの副社長としての責務も負うという、2重・3重の役割を担うことになる。

いま思えば汗顔の至りだが、自分はどうやらその辺りで一時期、ある種の自己過信に陥っていた気がする。それまで折角スペシャリストとしての地歩を築いて来たのに、柄にもなく、経営のすべての分野を掌握するジェネラリストを目指そうという欲が出てきたのだ。
その志とそれに向かっての注力は、必ずしも否定すべきものではなかったと思うのだが、残念なことに、運と現実の環境がそれに伴わず、十分に満足できる成果を上げることが適わなかった。もちろんそこには、自分の力不足もあったろうことは否めない。

幸か不幸かその時期は、バブル景気が膨らんで弾けた時代とピッタリ重なり、気がつくとイギリスでは本社が、過度のM&A投資が祟って銀行管理下に置かれる状態になり、経理担当者とは連絡がとれなくなっていた。
そこで止むなく日本で独自の資金繰りをしなければならない破目に陥ったが、このとき、名目だけだったイギリス人社長はすでに退陣しており、数ヶ月間というものは自分が、実質的な最高責任者として内外両面の陣頭指揮をとり、筆舌に尽くし難い苦労を味わった。

外資企業には間々あることだが、そうこうしている中にイギリス本社の旧経営陣はすべて入れ替わり、やがて日本法人にも新しいマネジメントが送り込まれて来て、いつのまにか事実上、自分の出る幕はなくなっていた。
かくて自分は“勇退”せざるを得なくなるわけだが、そこに至るまでのプロセスは米資企業のように単純率直ではなく、英本社からの使者は表面的にはこちらの貢献に敬意を表しつつも裏面では何かと落ち度を探り出し、自発的に身を退くように仕向けてきた。

さすが諜報戦略に長けたお国柄と、米資企業との違いに妙なところで感心したが、そんなことで怯むのは嫌なので堂々と自分の言い分を主張し、こちらから三行半を叩き付けてやった。けれどもよく考えてみたら、それこそ、向うの思うつぼだったかも知れない。
“白豪主義”に譬えるのも少し違うかもしれないが、アジア地区の本拠を日本ではなくてシンガポールに置き、現地トップの上に、オーストラリアやシンガポールなど旧イギリス植民地系の白人(好きな言い方ではないが)を持ってくる人事政策も感じが悪かった。

長年米資企業に馴染んで、いっぱしの国際ビジネスマンになったつもりでいた身には、そういう権謀術策はある種のカルチャーショックだったが、いまとなっては、実に貴重な体験と勉強をさせてもらったと思える心境になっている。
ただ本音を言えば、その数年間は、自分の本来歩むべき道から外れて、マーケティング専門家としては何も充電することができなかったのが、後で悔やまれた。まったく無駄な年月だったとは思わないが、足踏みして、放電する一方だったような気がする。

このわずかな期間の経験だけで極めつけて言うのも短絡的だが、そんなわけで、自分にとってのイギリスは、いつの間にか、働く場所としては残念ながら好ましいとばかりは言い切れない国になってしまっていた。
しかしだからと言って、イギリスという国の個人と風土は嫌いではない。元気なアメリカ・アメリカ人とはまた違う、懐かしさと心の安らぎのようなものが感じられることがあるからだ。オフ・ビジネスや旅先での人との触れ合いの中で、ずいぶんそれを実感した。

最初にロンドンを訪れたのは、いまから四十何年も前のこと。リーダーズダイジェストの時代に、初めての海外出張で米フロリダでの国際会議に出席した後ヨーロッパから極東にかけての各国オフィスを歴訪するという1ヵ月半の世界一周旅行をしたときだった。
日本を出て最初の2週間は、米国内でニューヨークを中心に西から東そして北から南また北へと移動し、次いでイギリスに向かったが、摩天楼が林立し忙しなく人と車が行き交う国からロンドンの市内に入ったときには、なぜか、何とも言えずホッとした。

ほど良く古びた石壁のビルと背の低い交通信号が落ち着いたたたずまいを見せ、街行く人々に道を尋ねても、誰もがとても親切に対応してくれたし、タクシードライバーのマナーも安心でき、季節はまだ春にはほど遠かったのに、大気さえ暖かく思えた。
経済は実際には低迷していたのかも知れないが、“揺篭から墓場まで”と譬えられた社会福祉が充実していた時代のこの国の人々はみんな穏やかで、訪問した英オフィスの人々も上から下まで、まだ旅慣れていなかったこの日本人を、1週間、大歓待し続けてくれた。

初めてのアメリカもエキサイティングだったが、イギリスもすっかり好きになった自分は、その後、アムステルダムなど欧州での国際会議があった際には、取引先企業のロンドン・オフィスなどにも用件をつくって、帰途に立ち寄り旧交を温めるようになった。
もちろん仕事がらみだが、ビートルズがオーディションを受けて不合格になったというデッカ・スタジオを見学したり、当時の話題ミュージカル「オー!カルカッタ」を観にウエストエンド(確かアデルフィ劇場?)に連れて行ってもらったことが忘れられない。

リーダーズダイジェストを退社した後しばらくは、イギリスに縁がなくなっていたが、S&Sでのクライアント「ブリティッシュ・エアウェイズ」(英国航空)とは個人的にも親しくなっていたので、十何年振りかでまた、イギリスを訪れる機会ができた。
1991年の湾岸戦争で国際線乗客激減という営業的打撃を蒙った英国航空が、欧州線利用促進のため、あえて停戦直後に、“東京―ロンドン+欧州内1都市往復運賃5万円”という特別ツアーを企画、自分もプライベートの資格でそれを利用できることになったのだ。

たまたま娘が高校を卒業し大学に入学することになっていた春休みだったので、そのお祝いを兼ねて家内と3人で参加し、ロンドン4泊+ローマ3泊というコースをとったが、彼女たちにとって初めてのロンドンは、予想以上に楽しめたようだった。
ハイドパークやテムズ河畔の散歩、リージェントストリートやボンドストリートでの買い物、ハロッズでのアフタヌーンティー、ウィンザー城への遠出、ホテルの傍の何でもないカフェでの朝食...等々、イギリスは彼女たちの心にも、忘れ難い思い出を焼きつけた。

早いもので、あれからもすでに20年余り、その間公私でフランスやイタリーやドイツには何度か旅することがあったが、なぜかイギリスには立ち寄る機会がなかった。
いまは、体調の問題とムッシュのことがあるので、海外旅行に出ることそのものがなかなか難しいが、できればイギリスには、もう一度行っておきたい気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月18日 (月)

とんび

“とんび”...と言っても、野鳥や昔の和風袖なし外套や建築関係の職人について語ろうというわけではない。昨晩が最終回だった同名のTBS連続テレビドラマの話だ。
近ごろは、ニュース、ドキュメンタリーや映画、スポーツ実況など以外はテレビ自体をあまり見なくなり、まして連続ドラマなどに魅かれることはほとんどなくなっていたが、これには久々に、心の琴線に触れられる思いをさせられた。

原作は直木賞作家重松清の同名小説で、不慮の事故で妻を亡くしたガテン系の父親が残された独り息子を男手ひとつで育てて行く過程で、息子の反抗期や大学受験、職業選択そして結婚といったさまざまの問題に直面し、不器用に悩み戸惑い一たんは反対することもありながらも、結局は息子の幸せを第一に願うことになるという、親子の絆を描いた話。
自分が全編のあらすじをここに紹介しても、その情感はなかなか伝わるものではないし、この番組を視た方も多いと思うのであえてこれ以上は書かないが、佳篇ではあった。

言うまでもなくタイトルの「とんび」は、“とんびが鷹を生んだ”から来ており、愚直な父親の方がとんびで、良くできた息子の方が鷹ということになるわけだろうが、このドラマを視て、自分が鷹になれたかどうかは別として密かにいまは亡き(あるいは年老いて離れ暮らす)父親を偲んだ世の息子たちは、少なくなかったのではないだろうか。
自分も、最初は家内に教えられて視始めたのだが、何かと身につまされ、不思議な符合点に思い出を誘われるところもあって、いつの間にかストーリーに惹き込まれていた。

時代は、原作の方では父親の生い立ちが自分のそれとほぼ重なるが、今回視たドラマではそれが10年ほど新しく設定されているので、社会背景の描き方が微妙に異なるし、そもそも男やもめの父親と一人息子というところが根本的に違っているのだが、それでもなおこのドラマには、自分の人生の節々と重なるところが幾つもあった。
それを感じさせられたのは、劇中の息子の方の生き方だけでなく、父親のキャラからも。二人の中に、自分自身と我が父親がゴチャ混ぜになって、二重写しに見えた。

他愛ない偶然の一致だが、息子は、高校時代は野球部で、父親は地方の国立大学でいいと思っていたのに東京へ出たいと言い早稲田(しかも自分と同じ法学部)に入ってしまい、しからば弁護士にでもなってくれるかと思っていたら全然畑違いの出版社を志望。
その都度、父親は、驚いたり、悩んだり、落胆したり、時には怒ったりもしたが、結局はそんな勝手な息子の生き方を認め、見守ってくれた。

もちろん自分は、ドラマのように母親と幼いころに死別してもいないし、劇中の息子のように年上子連れの女性と結婚したいなどと言って父親を逆上させたこともなく、自分で言うのもナンだが良妻賢母タイプの女性との縁を得、子宝にも恵まれて、ここまで平凡だがまずまず幸せな人生を送ってきたと思っている。
にもかかわらず、たまたまこのドラマを視る機会があった家内が、“ナンか、他人ごとと思えないヮ...”と自分にも視聴を薦めてくれたのには、大いに納得できるところがあった。

思えば、自主独行と言えば聞こえは良いが、自分もある意味で親の期待というか希望を裏切り、勝手気ままな道を選び歩んできた。
親としては経済的にも国立大の方が良かったはずだが、不肖の倅はそこまで気が回らず私大に入り、月謝は奨学金、小遣いはアルバイトで賄うと約束して、基本的に下宿代だけを負担してもらうことにしていたものの、たびたび金欠状態に陥っては、楽ではなかったはずの親に無心をしていた。

以前、「父の背中」の回にも書いたが、私学ではあったけれども法学部に入ったので、親は当然、司法試験を受けて法曹界に進むものと倅に期待していたはずだが、ドラマの主人公同様自分も、それに挑戦することなく、興味嗜好の延長で出版社に入社してしまった。
それでも、そこで志望(採用条件でもあった)通り、最初から編集の仕事に携われればまだ分かり易かったが、取りあえずということでマーケティングなどという分野を手伝わされ、そのままになり、旧弊な親にはまたぞろ期待外れだったに違いない。

恐らく親が一安心したのは、自分がしっかり者の家内と所帯を持って、一先ず自立できたときからだと思う。奨学金返済というマイナス持参金つきの結婚だったので、自分もしゃにむに頑張ったが、家内は薄給の中から遣り繰りして家計を支え、その上、盆暮れには亭主の両親にささやかながら小遣いまで送ってくれていた。
有難いことに、家内ばかりでなく家内の両親にも、何くれとなく支えてもらった。社会に出られるようになるところまでは故郷の両親の世話になったが、結婚してから後、今日の自分たちの暮らしを築き上げることができたのは東京の両親のサポートが大きかった。

ここまで、自分なりにずいぶん努力してきた気でいたが、顧みて、親・縁戚、周囲の友人・知人、職場での上司・同僚・部下、取引先の有力者や仕事上の先輩・後輩...など、さまざまな関係の人々の尽力・助力があったからこそ、自分のいまがあると思う。
「とんび」を視て、人間というものは、そういう周りの愛情、善意、引立て、協力などによって支えられていることを悟り、それに感謝して、自分も周りにそうして行くようになるものだということに、改めて気付かされた。

「とんび」に出てくる父親の方はまだ働き盛りのままドラマは終わったが、その息子の方の生き方と己のそれとが重なる自分も、もはやその父親のそのまた親ほどの齢に達した。
いまでは、どちらかと言えば、自分を息子の方の立場に置いて来し方を振り返り親を偲び感傷に浸るよりも、親の方の心に自分を投影して子を思う境地に至っている。

自分自身の人生の残高も少なくなってきて、逝ってすでに久しい親たちに対しては、時折、少しでも孝行できただろうかという反省と納得が交錯する中、いまはただ懐かしく有難く、、素直に感謝の念を抱くのみ。
だが、未だ気楽な独身を続けている息子たちに対しては、孝行せよとまでは言わないから、何とか親の目の黒い中に身を固めて、とりあえず一安心させて欲しいと、このごろ切に思う。そう言っても、こればかりは思うようにはならないのはわかっているが...。

原作の良さか、演技・演出の力か、「とんび」を視て、沢山の人々が、泣き、笑い、共感し、何かの思いを新たにしたことをネット上で知ったが、自分もツイ、いろいろなことを感じ、考えてしまった。
親としてはテレくさいから、薦めることまではしないけれども、再放送の機会があったら倅たちも視てくれればいいが...と、内心思わないでもない。

小説に読み耽っているのもいいが、たまにはテレビドラマを視るのも悪くない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年2月 4日 (月)

春立ちぬ

...と言いきってしまうにはまだ少し早いかもしれないが、確かに寒の内よりは寒さが和らいだと感ずるようになってきた今日このごろ。2月に入って今日は立春...近年珍しく、暦の上での節気と実際の気候がほぼ合致していることを実感する。
陽が落ちるとさすがに一気に気温は下がるが、朝のムッシュとの散歩どきなどはもう、かつての刺すような冷えはなく、道端の植え込みには、連日見かけた霜柱も立っていない。明らかに、陽光には暖かみが加わってきた。

しかし相変らず、パソコン時はもちろん、何もしていなくとも、室内での手袋はなかなか外せない。そのお蔭か今年の霜焼けは、昨年ほど酷くなってはいないが、それでも傍目には気の毒なほどに映るらしく、家内に勧められて1年ぶりに皮膚科へ行って来た。
テレビはあまり見ないが、本とパソコンで目が疲れて仕方がないので眼科にも。が、別に視力が落ちているわけでもなく、齢相応で仕方がなかろうということで、ドライアイ治療と白内障予防の点眼薬を処方されて帰って来た。

というわけで、アチラが終わればコチラと、こまごまとした医者通いはなかなか絶えないが、懸案だった消化器系の検査・診察は、どうやら、これまでのように毎週あるいは隔週といったほどのことはなくなって、かなり間遠になった。
前回のブログアップ日の翌日・翌々日と、告知していた大腸ポリープ切除部の病理分析とピロリ菌除菌薬服用効果判定の結果が出たのだが、それぞれ次の訪院・検査は、1年後および2ヵ月後でいいということになった。

上記の結果は、こんな言い方をしては適切ではないかも知れないけれども1勝1敗の成績。まことに幸いなことに、大腸ポリープの方は良性だった(つまりガンではなかった)が、残念なことに、ピロリ菌の方は除菌でき切れていなかった。
そのため、またまた大粒かつ大量の抗生物質(4カプセル+1錠)を、1日2回1週間、服み続けなければならない破目になり、その苦しみからやっと先日解放されたばかり。胃の再発や腸の悪性化を防ぐためとは言え、なかなか楽ではない。

話は変わるが、このところ我が家では、例の、次々と明らかになってくるアマチュア体育競技指導者の一連の体罰事件の話題で沸騰している。と言っても、自分と家内の見解が異なり紛糾しているわけではない。むしろ、これに関しては珍しく意見が一致している。
二人とも、高校時代は運動部に属し(家内はバスケットボール、自分は野球)、その方面での名門校では決してなかったけれども、一応は平均的なそのころの高校運動部生活を経験しているから、この問題に無関心ではいられないのだ。

自分たちの限られた範囲での体験・知識・伝聞だけからものを言うのは独り善がりのそしりを免れないだろうし、またそれもたまたまのことだったかも知れないが、単純な結論から先にいうと自分たちの時代、周辺では、あれほどまでのことはなかった。
家内の学校は旧高女系の共学校で、男性の運動部監督や顧問などはいなかったそうだから、当然あのようなことは起ころうはずもなく、自分の方も、かなりバンカラな校風の男子校だったにもかかわらず、そういったことはついぞ聞いたことがなかった。

ただ自分の場合、いわゆる1000本ノックとかグラウンド100周(ほんとに1000本や100周なわけではない)といった、ブッ倒れるまでの猛練習はあった。が、これは、辛くはあったけれども、後で、瞬発力や耐久力を養うためのトレーニングとして理解できた。
監督・顧問やコーチからゲンコツやビンタを喰らったことは一度もない...自分だけでなく、部員の誰もがそうだったし、友人たちが所属していたバスケットや柔道やラグビーなど他の運動部、他校の野球部でも、知る限りそんな話はなかった。

体罰は運動部の必要悪的伝統...みたいな暗黙の思い込みが、昨今の体育会出身者のマインドのどこかに潜んでいるような気がするが、いつからそんなことが、高校体育の中でも罷り通るようになったのだろうか?
自分たちの時代、高校運動部全般についてはどうだったか知る由もないが、自分の周辺だけが特殊だったとも思えない。根拠はないが、全国的にそのような極端なことはなかったと思う。当時は、戦前の軍国主義に対する反動で、教育の現場は意外に民主化していた。

それがいまの強権的管理の体質に変わり始めたのは、もっと後からのことだったのではなかろうか。これも根拠はないが、東京オリンピックなどがあってスポーツ至上主義が高まり、そのためなら多少のことはやむを得ないとされる風潮が生まれ始めたころか...。
その先頭に立ったのが戦前の軍国主義的教育を受けて来た指導者たち...自分らなどより一回り以上年上の人々だ。そして、その人たちに直接教育・指導を受けたのが戦後生まれ、自分らよりも一回り近く下の世代。自分たちはちょうどその狭間にあった。

自分たち戦中派は、良くも悪くも、戦前と戦後の両極端の教育を受け、第2次大戦の敗戦を境にその価値観が180度転換するという混乱を経験したので、いささかアナーキーなところがあり、人格形成時期に、戦前派・戦後派のどちらにも与することができなかった。
つまり、スポーツに限らず、学校や職場や組合などで後輩・次世代を指導してゆく際に、何の疑いもなく“しごきの鬼”になり切れるほどの信念も持てず、常に懐疑的で、他人を攻撃するより自己批判が先に立った。

だが、嫌な記憶もある。小学校の低学年のとき、戦前派の教師がクラス担任になり、軍人志望で果たせなかったとかのその教師は、戦争はすでに終わっていたというのに、わずか十歳にも満たない児童を対象に、自分の思い描いていた軍国主義を実現しようとした。
クラスはいくつかに班分けされ、ある班の誰か一人が何かミス(他愛もないことだったと思う)をすると、連帯責任だとして班長がその班全員を平手打ちし、こんどは全班長を級長が同じようにして、最後に級長が教師に、吹っ飛ぶほどの往復ビンタを張られたのだ。

往復ビンタを張られた児童とは、実は自分で、その度に、痛みや恐怖のみならず、子供心にも納得できない理不尽さを強く感じた。だから“なぜボクだけをシバく...”という顧問宛の手紙を遺し自殺した桜宮高校バスケットボール部主将の気持は察して余りある。
幼かったから、そこまで思い詰めるに至らなかったし、“これは体罰でも何でもなくてただの暴力に過ぎない”とか“自尊心を傷つけられた”とか意識する知恵も術もなかったが、こんなことは何のタメにもならないのにという思いだけは、深く胸の底に残った。

教育やスポーツの現場で、ハードトレーニングは能力・体力の向上のためにあって然るべきだろうし、原義ではなくて比喩的な意味での“スパルタ式訓練”も肯定できる範囲内にあるが、体罰の導入はどう見ても科学的な根拠がなく、何の役にも立たないと思う。
体罰で信頼関係が形成されるなどという理屈も成り立たない。そこにあるのは、教師と生徒、監督と選手といった立場を利用して絶対服従を強請する主従関係の形成、その上に立った上位者の特権意識から来る自己満足でしかない。

スポーツ至上主義結構。それを個人や学校や企業や国家の達成目標の一つにするのもアリだとは思うが、そこに体罰(というより実態は明らかに暴力)を持ち込むのは、決してあってはならないことと思う。一部でとは言え、それが構造的に黙認されていた罪は大きい。
プロは、そのような考え方を捨て切れなかったら悪しき結果が自分自身に戻ってくるだけだから自業自得だが、アマの場合は、間違った指導者がついたら自分の人生・将来が台無しにされるという大問題が起きる。ここは根本的に改革しなければならないところだろう。

橋本大阪市長の言を批判する向きもあるが、我が国の教育やスポーツを長期的視点で考えるとき、それぐらいの抜本的なことをしなければ同じことがまた繰り返される。
春が立ち、万物が希望にふくらむ息吹を感ずるようになったと思っていたが、心も冷えつきそうな連日の報道から、つい我が身の昔まで振り返って、この問題を考えてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 3日 (月)

残暑なお厳しく...

8月がいつの間にか終り、9月に入った。が、夏はまだ終わっていない。“9月”という字面だけ見ると、どちらかと言えば秋に差しかかったような感じがするのだが、先月からチットモ衰えを見せないこの暑さは何なのだろう。
昨年もこんなだったか...一昨年も...と思い返してみるが、どうもハッキリと記憶が蘇って来ない。もっと過去の、いくつかの特定の年のことは憶えているのに...。これって、ボケの兆候か?

記録によればここ数年は毎年、それこそ“記録的”な暑さが続いているようだが、なぜか記憶は途切れ途切れ。もしかしたら3年続けて手術し、どの年も初夏から秋にかけて検査だ入院だと、暑さを気にするどころではなかったからかも知れない。
ただ、昨2011年は大震災後の節電・エアコン自粛のため寝苦しい夜を幾夜もすごしたこと、4年前の2008年は自宅建て替えのための家財整理・引っ越し準備で茹だるような暑さに気息奄々、ダウン寸前になったことは強く記憶に残っている。

今年は世界的に見ても過去最高の暑さだというが、さもありなん。毎日玄関先の鉢植えや庭の草木・芝生に水遣りをするのが自分の役割になっているが、朝の9時ごろからすでに灼けつくような直射日光で、鍔広の麦わら帽子とサングラスを忘れようものならたちまち首筋と脳天と目をやられてしまう。
ムッシュの散歩はさすがに、夏場は陽が高く上がる前と陽が翳ってからだけにしているが、昼寝の後にもするのが習慣になっているので、本人(犬?)が嫌がらない限り用足しがてらにごく短時間連れ出すけれども、そのときも、人犬ともにキャップは欠かせない。

夏はご近所の顔なじみのワンちゃんたちに会う機会が少なくなっているのでどうしているのかそのパパやママにお話しを聞くと、老いも若きもみんな、エアコンを効かした部屋に閉じこもって、外へ出たがらないのだという。
そこへ行くと我が家のムッシュは、もうすぐ12歳になるというのに元気なものだ。この暑さに、舌を出してハァハァゼイゼイは言っているが、動きは鈍くなく食欲も旺盛で、夜はよく眠るしお腹の具合も良好。察するに、加齢とともに無駄な体力消耗をしなくなり、休むときはしっかり休んでいるのがいいのかも知れない。

自分たち老夫婦も、有難いことに夏バテ知らずで過ごせている。鰻やステーキなどスタミナ溢れる食事を積極的に摂るようにしているわけでもなく、栄養ドリンクなどを常用しているわけでもないが、まずまず元気に日を送っているという自覚がある。
思うに、ムッシュ同様、齢相応の無理のないペースで起居していることがそれを支えているのだろう。それに、結果論的に覚ったことだが、エアコンなどを安易に多用せず、せいぜい扇風機を活用して、なるべく自然の摂理に副った防暑をしていることも...。

我が家では、子供や孫たちが訪ねて来たり来客があったとき、長時間の外出から帰宅したときや室内がよほど高温になっているときなどはその限りではないが、ムッシュが昼・夜就眠するとき、自分たちが夜入眠するときなど以外には、基本的にエアコンは点けない。
その代わりに、在宅中、起きている間は、家中の窓と言う窓は開放し、食堂・居間・書斎では扇風機が大活躍をしている。ただし、自分も家内も入眠時にはタイマーで30分から1時間エアコンを点けるし、夜中や早朝に目が覚めて眠れなくなったときなどにもそうする。もちろん冷房温度はエコ効果のある28度にセットして。

最初は、せっかく家を新しくして各室にエアコンを付けたのだから、より快適に暮らすためフルに活用しようと思っていたのだが、あの原発大事故とそれによる電力不足・料金高騰で考えが変わり、エコロジーとエコノミーの両エコを意識するようになった。
特に緻密な計算をしていまのような使い方をしているわけではないが、これで熱中症的な体調になったこともなく無事に過ごしているのだから、そう見当外れなことにも当たらないのだろう。

もちろん、これでまったく暑くないはずはないし、涼しいとまで強弁するつもりはないが、昨年・今年の二夏の大部分をこの方式で過ごしてみると身体の方が順応してくるもので、そんなに苦しくもなく何とか凌げてしまっている。
だいたい、半世紀近く前、6畳一間のアパートに新所帯を持ったころ、そして子供が生まれて3DK の集合住宅に移り住んだころまでは、エアコンなど想像外で、長男・次男が赤ん坊の時代は、いつもおデコをシッカロールで真っ白にしながら扇風機だけで頑張っていた。

オフィスも、自分が入社したリーダーズダイジェストは当時としては相当先端的な自社ビルだったが、土・日曜は休日でエアコンを停止してしまうため、真夏の休日出勤では内緒で、上着を脱ぎ捨ててランニングシャツにステテコという前近代的な姿で仕事をすることもあった。
そんな時代の夏の涼み場と言えば、デパートと喫茶店。街の要所々々にあり、仕事で外を回っているビジネスマンが途中でチョッと立ち寄っても別段の不自然さはないので、吹き出た汗を引っ込めるために自分もずいぶんとお世話になった。

いま、あまりにも朝から暑い日などは、家内と食後のアイスコーヒーを飲みながら、“あのころはこんな日、どうしていたんだっけ...”などと語り合うことがあるが、なぜか二人とも、暑くてたいへんだったということは思い出せない。
きっと、若くて暑さぐらいは平気だったのかも知れないし、それぞれ家事に仕事に忙殺され、そんなことを気にしている暇もなかったのかも知れない。あるいはそのころはいまほど暑い夏ではなかったのかも...まさか、そんなこともないだろうが...。

毎朝ムッシュを散歩させているとき、自分は半袖Tシャツに短パンの超軽装だが、その横を働き盛りの近所の小父さん・お兄ちゃんたちが、長袖Yシャツにネクタイを締め小脇に上着を抱えてバス停へ急ぐ姿を見ると、ああたいへんだなァと思う。
同時に、子供たちや娘婿にも思いが及んで、ご苦労さん、元気で頑張ってくれョと祈る。そして自分にもかつてはそういう日々があったことを思い出す。何とか恙なくここまで辿り着けていることを誰にともなく感謝しながら...。

ところで、この1ヵ月というもの雨らしい雨が降っていないが、そろそろ台風シーズン...急に大雨がやって来るなどということはないのだろうか。
生来、どちらかというと雨はあまり好きな方ではないのだが、こう日照り続きだと、一雨あってもいいかという気になってくるから勝手なものだ。

根拠はあまりない体感お天気屋の希望的観測だが、暑さも今週あたりをピークに、後は少しずつ治まって行くばかりではないのだろうか...次回をアップするころにはもしかしたら秋の気配も忍び寄っていたりして...。

と、そう願いたいのだが、果たしてそんなに上手いことは行かないのだろうなァ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年4月 2日 (月)

テレビで懐かしい店に出逢えた

テレビ東京の夜の10時台は、“日経スペシャル”と冠のついた「未来世紀ジパング」とか「ガイアの夜明け」とか「カンブリア宮殿」など、なかなか面白い経済特集番組が帯になっているので、タイトルによって、ときどきチャンネルを合わせている。先日も、“世界のスーパー新潮流:札幌・八ヶ岳・NY―ローカル・スーパーの逆襲...”という新聞の番組表の見出しに惹かれて、「未来世紀ジパング」を視てしまった。特にスーパー業界に興味を持っていたわけではないのだが、八ヶ岳、NY...と来たので、そこのスーパーなら若しかしたら、あの店が出て来るのではないかと期待を持ったのだ。
その回の内容は、日本でもアメリカでも、長引く消費不況で苦戦が続いているスーパーマーケット業界に、これから目指すべき方向を示唆しているかも知れない新しい潮流が生まれている...という話。“Every day low price”で世界最大の売上高を誇る巨大スーパーにのし上がった「ウォルマート」の戦略に代表されるように、世界中どこでもほとんどのスーパーは、生き残るためにとにかく低価格競争ということで凌ぎを削ってきたが、どうやらそれが限界に達して、地域密着型というか顧客要望特化型というか、そういった新たな方向に路線転換を余儀なくされ始めたということだ。

番組内で紹介されていたのは、そういう、売り上げや出店数などの規模を追求することなく、ひたすら顧客の要望に応えようと品ぞろえやサービスの充実に徹してきた、日米のいくつかのスーパー。日本では八ヶ岳山麓の北杜市や北海道の札幌市から、アメリカではオレゴン州ポートランドやニューヨークのアッパーウエストサイドからのレポートだった。札幌やポートランドのスーパーは、初めて聞く名前だったが、北杜市とニューヨークのそれは、若しや?と思っていたのがズバリ的中、よく知っている(どころではないお馴染みの)店で、あまりにも懐かしかったので、家内にも声をかけた。
ニューヨークの店以外はどの店も地方都市に所在するので、番組ではこれらをひと括りにして“ローカル・スーパーの逆襲”という見出しをつけていたが、確かにその、客との距離の近さと声の聞こえ方のダイレクトさ、それを反映した仕入れ・品ぞろえのユニークさとサービスのフレンドリーさは、都会のこの業態の店では忘れられた、地方ならではのものかも知れない。けれども、ここで取り上げられたニューヨークのスーパーにしても、大都会の真っ只中に位置する店であるにもかかわらず、そんな古き良き小売業者のローカリズムが、脈々と息づいているように感じられた。

さて、3年余ぶりにテレビの画面で出逢って懐かしさ一杯の気持になった八ヶ岳山麓のスーパーは、「ひまわり市場」と言って、わが山荘のある清里に隣接した大泉地区(下新居交差点近く)にある。清里には、なぜかスーパーというものが根付かず、開店してもほんの短期間しか存続しなかったので、この店には20年以上前に山荘を建てて間もなくから買い物に行っていたが、そのころの店舗は現在とは道路を挟んで反対側の場所にあり、建物は正直言って古ぼけて汚らしく、品ぞろえも雰囲気もいかにも田舎スーパー(失礼な言い方でごめんなさい)といった、パッとしない感じの店だった。
だから、たまにその近くに用事があったときに寄ってみるぐらいで、あまり積極的にそこで買い物をする気にはなれず、だいぶ長い間ご無沙汰していたが、3年半前に自宅建て替えのため半年間山荘暮らしをすることになったとき、久々に足を向けてみてビックリした。その2~3年前(2006年頃?)に現在の場所に移転し、店舗の建物・売場レイアウトだけでなく、品ぞろえから接客、サービスアイディアまで何もかもが一新され、とても魅力的な店に生まれ変わっていたのだ。代が替わったのか、資本が代わったのか、事情はよくわからないが、経営者が若い人になったらしかった。

富士山・南アルプス・八ヶ岳を望む高原のスーパーにもかかわらず、この店の一番の売りは新鮮な魚介類。中でも、毎週末のこの道50年というベテラン職人による本格鮨の手握りサービスと、年何回かの本マグロ解体即売会が大人気で、近隣だけでなく東京からも情報(社長がブログで発信している)を知ったファンが駆けつけるほど。番組では、その盛況と客の喜んでいる声が活き活きと伝えられていた。自分たちも清里で暮らしている間、ずいぶん足繁く通ったが、風光明媚な周辺環境だけでなく、まるで個人商店のような親しみのこもった応対が、とても爽やかに心地よく感じられた。
この店で特筆できるのは鮮魚だけではない。土地柄で、もちろん農産物や天然の食材も豊富かつ新鮮。調味料なども、中央では無名だが品質の優れたものが置いてあるし、パンやケーキも地元店の逸品を取り揃えてくれていて、都会のお洒落な店にヒケをとらない味を楽しめる。店外のフリースペースやアネックスでは、ときにイベントが行われたり、やはり地元の制作者の人たちが、手芸雑貨・アクセサリーなどのワゴンセールを繰り拡げていたりして、さながら自由なバザール的雰囲気も...。この店は、客ばかりでなく地元の業者も大切にし、地域に根差して共に栄えて行こうとしているという印象を受けた。

さて、番組に登場したもう一つの懐かしいスーパーは、ニューヨーク、マンハッタンのブロードウェイ80丁目にある「ゼイバーズ」。1934年(自分の生れた年よりも前!)に街の小さなお惣菜屋さんとして創業し、抜群の味と“最高品質の商品を適正な価格で販売する”というモットーで人気を博して大成功し、大きくはなったが店舗の場所も変わらずに現在に至っているという老舗で、いまではありとあらゆる食品・食関連用品を扱っているけれども、商売の原点となったオリジナルお惣菜は、tasting(試食)して買ってもらうという昔ながらのスタイルを愚直に守っている。
この店の名物としてテレビで真っ先に紹介されていたのは、自家製のスモークサーモン。自分たちも、ベーグルでサンドイッチにするため買い求めたことがあるが、抜群の美味。実際に遭遇したことはないけれども、あのブラピも常連客だそうな。それともう一つのこの店の売りはチーズで、世界中から仕入れた600種類もあるというチーズが、店の入り口からごく近い売場に、天井まで隙間なく積み上げられている。チーズだけではない。パンもケーキもジャムもコーヒーもジュースも、1階は食料品で溢れかえるばかり。そして2階へ行けば便利で面白そうなキッチン用品が、これも所狭しとばかりに並んでいる。

この店を訪れるようになったキッカケは、ネットやガイドブックの情報だったか口コミだったか忘れてしまったが、もともとは自分たちが、時間や形式などに拘束されずホテルの自室で気ままに軽い食事をするための食材(たいがいベーグルとクリームチーズとトマトかオレンジのジュースということになるが)を仕入れようとして恰好の店を当たっていたことが底辺にある。「ゼイバーズ」に行き着くまでにはそれが、街角の屋台だったりその辺のデリだったり、普通のスーパーだったりしたが、ここを知ってからは、他所では味も値段も満足できなくなった。何しろ、美味い上に滅法安いのだから仕方がない。
この店では、アメリカにしては珍しい親切を受けた忘れられない思い出がある。通い始めのころだったが、他の店でいろいろな買い物をした後で寄ったために両手が手提げ袋で一杯になっていて、そこで買ったものが入った袋をレジ横に置いたままカードにサインをし、間抜けなことにそれを忘れて店外へ出てしまった。が、何歩か歩いたところに店の人が大声を上げて追いかけてきて、それを手渡してくれた。そのときは有難いやら恥かしいやらだったが、あとで思い返して心が暖まった。あのまま気がつかずにホテルまで帰って来ていたら、そのときの旅はきっと心残りなものになっていただろうといまも思う。

家の建て替えや自分の病気続きで、外国にはもう5年近く出かけていないし、山荘へ行っても、ここのところ出無精と短期滞在ばかりでロクに出歩いていないが、先日のテレビ番組を視て、また「ひまわり市場」や「ゼイバーズ」に買い物に行きたくなった。
ニューヨークには、身体が本調子になるまでもう少しの間は無理かも知れないが、大泉にはこんどのゴールデンウィークあたりにでも行って、久し振りに鮨でも買ってきたい。

やっと暖かくなり、心身に活気が蘇ってきたので、そんなことも考えられるようになった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年2月20日 (月)

冬の星座

2月も末に近づきつつあって、日中は陽射しが暖かくなったと感じる日もあるが、日が暮れると相変らず冷えが厳しく、季節はまだまだ冬から抜け切っていないと思わせられる。にも拘わらず自分は、雪か雨でも降らない限り、その寒い暗がりの中での散歩(?)を、この何年間というもの欠かしたことがない。と言っても、ただでも寒がりの自分が自発的にそうするほど酔狂なわけではなく、ムッシュの生活リズムに引き摺り回され、止むを得ずそうしているのだ。長年一緒に暮らしているうちに、朝食前とお昼寝(彼の)後の中・長距離散歩と、昼食・夕食後の小散歩が、すっかり習慣化してしまった。
夕食後の小散歩は、夏だったらまだ暮れきってもおらず、人通りもあるし、夕涼みの感覚でエンジョイできるのだが、いまの時季はさすがに、震え上がるほど寒い上に辺りは真っ暗で、行き合う人も極端に少ない。だから自分などは、外へ出て5分も経つともう我慢ができなくなって、“お家に帰ろうョ”と彼に向って弱音を吐くのだが、彼は立ち止ってアッチを向いたりコッチを向いたり、なかなか動こうとしない。誰か知っている人やワン友と出逢うのを待っているのだ。付き合っているこちらは楽ではないけれども、本人(犬)の心中を察するといじらしいものがあり、しばし、グッとこらえることにしている。

でも、冬の宵の散歩は辛いことばかりでもない。雲がなく大気の澄んだ日には、空を見上げると満天の星が見えて美しい。我が家は南に向かって緩やかに傾斜している低い丘陵地に位置しているので、東から西にかけての空が大きく開けており、晴れた夜には屋外に出るとまず真っ先に、三つ星が並んだオリオン座が自然に目に飛び込んでくる。星座にはあまり詳しくないので、その他にわかるのは北斗七星くらいだが、ずっと西の方へ首を廻らすと、ひと際明るく輝いている星(金星)が目に入り、もっと上を仰ぎ見ると、もう一つ、天空高くよく光って目立つ星(木星)があって、それらの間を縫うように、赤いライトを点滅させながら航空機が飛翔して行く。これはなかなかファンタスティックな眺めだ。
そんな冬の夜空のパノラマを観察していると、束の間、寒さも忘れるような気分にさせられ、単純だが、目で見た印象がすぐに唱になって、自然に口から出てくる。

木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく 奇しき光よ
ものみないこえる しじまの中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる...

ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮をゆびさす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる

戦後の昭和22年に発表された、ご存知文部省唱歌中等音楽1、「冬の星座」(W.S.ヘイズ曲、堀内敬三詞)。九品仏にあった堀内先生のお宅には、自分が社会人になりたてのころ何度か仕事でお邪魔したことがあるが、あの辺りを先生も犬連れでそんな宵に散歩し、近くの多摩川上空を見上げて想を得られたのかどうかはわからないけれども、けだしこの歌は、神秘的な冬の夜空の情景を雄大なスケールで描いて万人の共感を呼んで止まない。自分なども、60年以上も前に教わったはずの歌詞が、1番も2番も、当時抱いたイメージとともにクッキリと脳裏に焼き付いている。
もちろんそのイメージとは、いまも現実に目の当たりにしている満天星の冬の夜空で、1872年に書かれたというヘイズの原曲も、広大なアメリカのそのような情景に触発された曲かと長い間思いこんでいたが、日本語とは似ても似つかぬ詞だったことを、後年になって知った。音楽関係の仕事に携わっていたころ、カントリー&ウエスタンのアルバムを制作するために選曲をしていて、その曲が「Mollie Darling」という甘く素朴なカントリー・ラブソングだったことを知ったのだ。エディ・アーノルドやエルトン・ブリット、スリム・ホイットマンなども唱っていたスタンダードナンバーで、これはこれでいい味があり、自分の中ではどちらも、珠玉のような愛唱歌となっている。

ところで、この歌を唱っていると必ず一緒になって浮かんでくる...というか、これとゴッチャになってしまう、次のような曲がある。

月なきみ空に きらめく光 嗚呼その星影 希望のすがた
人智は果なし 無窮の遠に いざ其の星影 きわめも行かん

雲なきみ空に 横とう光 ああ洋々たる 銀河の流れ
仰ぎて眺むる 万里のあなた いざ棹させよや 窮理の船に

戦前・戦中派でないと馴染みがないかも知れない、明治43年に制定された統合中学唱歌2の中の「星の界」(杉谷代水詞、C.C.コンバース曲)で、原曲は「Erie」という名の器楽曲...と言うよりも、キリスト教式のお別れ会で必ず唱われるあの讃美歌312番「いつくしみ深き...」と言った方がわかり易いだろう。興味のない方にはどうでもいいことだが、この「星の界」と「冬の星座」がゴッチャになるほどよく似ていることが、自分にとっては長年の謎(大袈裟か!)だった。それぞれまったく別の曲なのに、同時に唱うときれいに重なってしまうのだ。余談だが、「故郷の人々」と「ユモレスク」、「キラキラ星」と「アマリリス」なども同様で、こういう関係の曲を“パートナーソング”と言うらしい。
「星の界」「冬の星座」のどちらも、16小節で日本語詞が8・7調、メロディーが日本人好みのヨ・ナ(ファ・シ)抜き長音階でリズムがまったくと言っていいほど同じ。1つ1つの音符を照らし合わせるとずいぶん違うし、コード進行の形式も異なるのだが、全体としてはとてもよく似ているという印象を受ける。双方とも同じように天界や星をテーマにし、“銀河”とか“無窮”とか共通の語彙が使われていることが、一層、それから受ける印象や思い浮かべる光景を似たものにすることに拍車をかけている。根拠のない自分だけの想像だが、作曲者がどちらも、アメリカのマサチューセッツ州とケンタッキー州という同じような風土でほぼ同時代に生きた人たちであること、杉谷詞に対する堀内詞の無意識のオマージュといった偶然も、もしかしたら潜在意識下で作用しているのかも知れない。

ムッシュとの冬の宵の散歩がだいぶ横道に逸れ、個人的な長年の疑問にまで話が飛んでしまったが、ものはついでというから(強引!)、ここでもう一つだけ、この曲に関する疑問を取り上げさせていただく。実は自分は、なぜか歌詞もよく知っていてチャンと唱えるのに、「星の界」を学校で教わった覚えがない。多分、母か姉がよく口ずさんでいたのを、傍にいて聞き覚えたのだろうと思うが、その代わり、まったく同じメロディーで歌詞が異なる次のような歌を、昔(中学時代?)どこか(学校の授業?)で誰か(音楽教師?)に、女声合唱曲として教わったように記憶している。

何にか譬えん 尊き母を 夜すがら輝く 御空の北斗
人生航路の 行く手に耀り 行けども行けども 耀りてやまず

何にか譬えん やさしき母を 湧き出て尽きざる 谷間の泉
慈愛は御胸の 奥より流れ 汲めども汲めども 溢れてやまず

「讃美歌312番」と「星の界」が一緒になったような詞だが、自分としては、コンバースのあの曲にはこの詞がいちばんシックリ来るような気がしている。特に2番を唱うと、年甲斐もなくいまも鼻の奥がツーンとし、眼がウルウルしてくる。作者不詳でタイトルも定かでないようだ(自分の記憶では「母の愛」だったような気がする)が、もしご存知の方がおられたら、ぜひお教えいただきたい。

サテ、夜になると冷え込む時期はもうしばらく続くようだが、今宵もムッシュは散歩を休まないだろうから、自分も気持を奮い立たせて付き合ってやらねば...。で、また空を見上げてあの曲を口ずさむことになるのだろうが、出てくるのはどの歌詞か...。

今回は、季節の夜話のつもりが、とんだマニアックで懐旧的な音楽談義に脱線してしまい、自分と同年代の一部の物好きな方々以外(多分大半の方)にはたいへん失礼いたしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月19日 (月)

地下鉄銀座線

師走のある日の午後のひととき、上北沢に住んでいるTさんと、ほぼ1年ぶりに、渋谷マークシティで会って、遅いランチを楽しんできた。以前にもここで書いたように、Tさんとは、仕事上のお付き合いから始まって、趣味を同じくするのを知ったところから、40年以上も続いている無二の遊び友達になり、つい先年まで、月1回のカラオケを楽しみ合う間柄だった。が、お互いの病気などのため、だんだん夜遊びを控えるようになり、このところ2~3年は、もっぱら、たまに会って食事をしながら、お互いの近況を報告し合い、健康談議に花を咲かせるだけになっている。
その日も、食べて、それぞれの体調や最近の医療情報、そのうちぜひ一曲、など、ひとしきり喋った後は、サッと切り上げて、暖かくなったころにまた...と、後日の再会を約した。が、せっかく久し振りに渋谷まで出て来たのだから、ちょっと買い物でもして行くかと、T急百貨店の東横店に寄るつもりで、マークシティの3階から、長い渡り廊下のようなところを通って、そちらへ向かった(つもりだった)。ところが、地下鉄銀座線の乗車専用改札口を右に見て、正面の古い階段を下りれば東横線改札向いの百貨店入口の前に出る...と思っていたら、とんだカン違いで、同じ2階でも、JR玉川口改札横に出てしまった。

渋谷駅の玉川口を利用されている方はよくご存知と思うが、この改札前のホールは、山手線外回り以外は、内回り・埼京線・地下鉄銀座線・半蔵門線・副都心線など、どの方面へもストレートには行けず、しかも段差を覚悟しなければならないという、中途半端でヤヤコシいところ。そこから百貨店へ入るためには、同階の店舗エリアの陰に隠れたエレベーターかエスカレーターを使えばいいのはわかっていたが、それにしても、店内の目指すフロアーに出るにはどこかでまたそれを乗り換えるか、かなり複雑に迂回するかしなければならなくなる(この百貨店の宿命!)ので面倒になり、いっそ地元のたまプラーザ店にでも寄って帰ろうと、そのまま地下へ向って(これも階段!)帰途につくことにした。
後で考えてみると、どうやら、もう一つ東側にある乗車ホーム直結の階段と間違えたようだったが、そのとき通り過ぎてきた改札口付近は、以前とくらべて幾分小ぎれいになったような気はしたものの、相変わらず天井が低くて狭苦しく、案内板も昔のまま。地下鉄なのに3階になるこの渋谷駅は、田舎から出て来たばかりのころ(昭和30年)は乗るにも降りるにも面食らったが、いま進行中の東横線の地下駅化・副都心線乗入れに伴って、大改造が行われるとか...。そうなったら、広さや天井高の問題は解決されるだろうが、わかり難さの方はどうなるのだろう。改造後も銀座線は3階のままらしいが、せめて、長年東京で暮らしている人でも時たま間違える、迷路のようなアクセスはなくしてもらいたい。

地下鉄銀座線についてそんなことを考えながら、田園都市線に揺られて帰宅したが、何とその晩、偶然にも、その銀座線のことをかなりディープなところまで掘り下げたテレビ番組に遭遇した。NHKの「ブラタモリ」だが、その夜は“地下鉄誕生の秘密”というタイトルで、東京メトロ銀座線の知られざる舞台裏を紹介していた。「ブラタモリ」は、原則的に東京都内の現在の街並に見え隠れする歴史の痕跡を、タモリの一癖も二癖もある視点・目線で探し歩くユニークな“街歩き”番組だが、そのマニアックさがこたえられず(それに井上陽水作・唱のエンディング・テーマ「MAP」もいい)、以前からよく視ていた。
この回も興味津々だったが、特に面白かったのは、現在銀座線と呼ばれている路線は、実は“浅草―新橋”間を「東京地下鉄道」、“渋谷―新橋”間を「東京高速鉄道」という、2つの別々の会社が敷設したもので、初め新橋駅はそれぞれに1つずつあり、全線統合されたときに東京高速鉄道の方が廃駅にされ、そのホームがいまも残っていること、東京地下鉄道が神田川の下をくぐり抜ける工事期間だけ仮設置されたため幻の駅と呼ばれている“万世橋駅”のホームも現存し、秋葉原のラオックス本店前歩道の地下鉄換気口から下りて行けること...など。初期には、硬貨を入れると90度回転する“ターンゲート・スタイル”という、昔のニューヨーク(はコインでなくトークンだったが)のような自動改札が導入されていたことなども、“へー、日本でもそうだったのか”と、改めて感じ入った。

銀座線は、日本の地下鉄第1号として誕生し、ちょうど自分が生まれた時代に全線開通したようだが、自分が上京して来たころも、東京にはまだそれ以外の地下鉄路線は存在していなかった(厳密には丸ノ内線の一部だけが開通していたらしいけれども)。それだけに、渋谷・青山・赤坂・虎ノ門・新橋・銀座・日本橋・上野・浅草といった当時の東京都心のほとんどの繁華街・オフィス街を縫うように走り、浅草松屋、上野松坂屋、日本橋三越・高島屋、銀座松屋・三越・松坂屋、渋谷東急(東横店)などの百貨店とも地下で直結していたこの路線はまことに便利この上なく、あのころからズッと、通勤に仕事での移動にそしてプライベートにも、都内での交通手段として不可欠なものになっている。
サラリーマンになってからは、自宅と勤務先と取引先の位置関係から、銀座線がメインではなかった時代もあったが、渋谷・青山・新橋にオフィスがあり、赤坂・虎ノ門・銀座などに取引先があった期間もけっこう長かったので、早くて本数が多くて時間の正確なこの電車は、どれほど重宝したかわからない。いまでも銀座線は、毎年、広告電通賞の選考会(汐留に出るために新橋まで)や、業界団体の本部に顔を出すとき(三越前まで)など利用するし、日展や示現会展が東京都美術館で開催されていた時代(2006年まで)には、毎年、上野までこれで行っていた。

考えてみると、他の(特に新しい)地下鉄路線の駅には、まだ乗降しておらずしたがって近辺の様子もピンと来ないところが少なからずあるが、銀座線の駅は長い間にすべて乗り降りしており、そのたいていの駅のホームや地下道や地上出口付近の景色は頭に入っている。もっとも、上野より先の稲荷町や田原町などは最近とんと用事がなくて行っていないから、しばらく見ないうちに、すっかり様子が変わってしまっているかも知れないが...。そう言えば浅草にも、ここのところずいぶんご無沙汰だ。昔はよく、暮れや正月に仲見世をブラついては大黒家に寄って、江戸前の天丼を楽しんで来たものだったが...。
思い出に残っているところと言えば、やっぱり、先ずは上野の地下街か。いまは「メトロピア」だか「エチカ」とかいうカタカナ名前の小洒落たショッピングモールになっているらしいが、その昔は数十軒の大衆食堂が軒を連ね、上野駅で乗降する旅行者にささやかな満足感を提供していた。東北なまりがとび交い故郷の匂いがするこの街の食堂で帰省の夜行列車に乗る前に黙々と掻き込んだ、あのカツ丼の味が忘れられない。忘れられないと言えば、今年の初めまで数軒が細々と営業を続けていた神田駅の「地下鉄ストア」も。天井が低くて仄暗く、なにやらうら寂しさも漂っていた、あのレトロ感がたまらなかった。

ところで、知っている人はとっくの昔に知っていたかもしれないが、自分としてはやっと最近になってわかったことがある。それは、銀座線のホーム長の謎。渋谷もそうだけれども、赤坂見附・銀座などのホームで電車を待っているとき、どうも銀座線のホームは他の地下鉄のホームよりもかなり短いのではないかと感じていた。幅も狭く天井も低いし、どうしてかなと思っていたら、これは、建設費を抑えるため架線ではなくて線路脇のレールから集電することにしてトンネル断面を小さくし、その結果車両自体も小さく短くなり、6両編成の全長も100m弱になって、短いホームでも足りることになったということだ。
でも、それなら“なぜ6両編成なのか?”という突っ込みが当然入り、その答えは“運行開始当時はそれで収容能力は十分と思われていたから...”と、いささかアヤフヤになって、それよりも、わずか15km足らずの路線距離の中に19駅という、他路線とくらべて極端に高い駅密度こそが、短い車両・短いホームの根本原因に他ならないという説の方がもっともらしく思えてくる。が、この鶏と卵のどちらが先か、本当のところはよくわからない。また、後で知ったことだが丸ノ内線も銀座線と同じ集電方式(第三軌条)で6両編成だというけれど、丸ノ内線のホームがあまり短く感じられないのはなぜなのだろう?約25km内に25駅という、銀座線よりも余裕のある駅密度がそう感じさせるのだろうか?

あまり興味のない方には、どうでもいいことだったかも知れないが、キッカケがあったら一度語ってみたいと思っていた地下鉄咄。こうやって書いてみて、自分も嫌いな方ではないと気がついた。子供のころから鉄道地図は好きだったけれども“鉄ちゃん”の意識はまったくなかったが、もしかして、“駅鉄”とか“路線鉄”とかいう言い方があるとしたら、自分はその端くれなのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 5日 (月)

人生いろいろ

家の花々 生垣のサザンカや鉢植えのクリスマス・カクタスが一杯に花をつけて、本年もとうとう、12月に入った。このところ、ポツリ、ポツリと、喪中欠礼の葉書が送られてくるようになり、そろそろ年賀状の宛先整理を始めなければと気を急かされて、年の瀬が迫って来たことを実感する。古希を越えてからは毎年のように感じていることだが、今年も、ここまでアッと言う間だった。未曽有の大災害のあった前半もそうだったが、自分的には、検診・入院・手術・療養で明け暮れた後半を、特にそう感じる。
この時期になると、ツイ、そうやって1年を振り返るのが癖になってしまっているが、同時に、この齢になると毎年、その1年ずつを積み重ねて来た長い歳月をも振り返り、いまさらどうしようもないのに、自分のこれまでの生き方を、あれこれ反省してみたり納得してみたりして、フと、心が未だ満たされぬような、でも、ある程度は満たされているような、微妙な感懐を抱くことがある。今年の後半のような、いろいろな分野の注目される立場の人々の生き様が、事件や訃報のかたちで世間の耳目にさらされた年は、特にそうだ。

学校の勉強は良くできたけれどもカジノに溺れて、自分が会長の立場にあった企業の子会社グループから途方もない巨額の金を借り出した、大手製紙会社の創業3代目。人気プロ野球球団を持つ巨大マスコミの最高権力者の球団人事への介入を、企業コンプライアンス違反と告発して退任を迫り、逆に解任されたその球団のGM。自分が魅かれて飛び込んだ伝統演芸界のしきたりに不満を唱えそこを飛び出し、破天荒な言動で物議をかもしながらも実力で自らの一派を成して生涯を全うした落語界の異端児。...などに関して聞えて来るさまざまな話には、いまの境涯に辿り着くまで必ずしも平坦な道ばかりは歩んで来なかった自分も、多々感じさせられるところがあった。
例の製紙会社の事件は、中小企業ならいざ知らず、いやしくも上場企業でそういうことが起こり得るのかというのが、この報道に接したときに先ず頭に浮かんだことだったが、創業家の一族が経営の実権を握っている会社と知って、ありそうな話だと腑に落ちた。そういう会社で働いたことも、そういう取引先と付き合ったこともない自分には想像もつかないが、そういうことが長い間明るみに出ないで済んでいたこの企業グループの経営幹部たちは、一体、どこを向いて、何を目的として生きてきたのかと思う。

親会社の巨大マスコミから出向させられて子会社の人気プロ野球球団のゼネラル・マネジャーになった人物が、自分の専管事項だという球団人事の決定を親会社のワンマン会長が引っくり返したからと言って理不尽と抗議し退陣を迫った事件も、一見小気味良いような気がしないでもないけれども、その背景に実はあるのかも知れない真の目的と、直接対決ではなくて第三者に訴えるという方法を選んだ意図がよくわからない。なので、自分もそうだが世の宮仕えサラリーマン諸氏にも、共感できなくもない部分と覚めてしまう部分が出てくるのではないだろうか。
そこへ行くと、かの異端児落語家の生き様は、好き嫌いは別にしてわかり易い。少なくとも自分の仕事のフィールドでは、体制におもねず組織に頼らず、自分流を貫き通したところは見上げたもので、ときに顰蹙を買い、問題を引き起こすこともあったが、思うまま、気ままにものを言い行動しながらも、仕事の上での業績はチャンと残したのは立派。好きな道に入って、一生それを追求して、それが自分の満足にもつながるという生き方は、したいと思っても普通なかなかできるものではないが、それをかなり強引にやってのけたこの男、ある意味では羨ましい。

顧みて、自分の生き方はどうだったろうか?自分は、個人事業者としてやっていけるほどの特別な才能も甲斐性もなかったので、結局、当たり前に会社勤めをするというかたちで、学校を出て以来の半世紀近くを過ごしてきたが、その間、必ずしも自ら望んでのことではなかったけれども、数回、働き場所を変えた。より納得行く(仕事的にも経済的にも)働き方が可能になるためにそうしたことがほとんどだったが、不本意ながらそうせざるを得なかったことも、間々あった。別に、飽きっぽかったわけでも腰が落ち着かなかったわけでもなく、自分の前に展開された機会に積極的に関って行った結果、そうなった。
会社は度々変わったが、仕事のフィールドは変えなかったので、自分としてはこの半世紀に、あまり不連続性・不整合性を感じてはいない。が、そのために、しなくていい苦労もしたし、家族をはじめ周囲の親しい人々には心配もかけたようで、いまとなってそれに気付き、遅まきながら済まなかったと思い、もし自分も多くの友人たちのように、1つの会社で自分の仕事人生を全うすることができていたら、どんなに幸せな一生だったかと思わないでもない。でも、人それぞれ、価値観もいろいろだから、自分個人としては、いまにつながっているこれまでの自分の生き方を、悔やまないことにしている。

考えてみると、自分がそういう道を辿ることになったのには、どうも、世に出て最初に勤めた会社の企業風土を通じて培われた価値観・思考スタイルが大きく影響しているようだ。終戦直後に日本に上陸した米資の出版社だったが、社長から新入社員まで、肩書きでなく個人名で呼び合い自由に意見を主張し合うようなリベラルな社風、年齢や経歴や男女の別や人間関係などに関わりなく仕事の上で実力のある者が登用され評価される明快な能力主義は、生来気ままで世渡り下手な自分のような者にも極めて馴染み易く、それが、後年にいたるまで、自分の求める生き方の基準になった。
まだ一人前ではなかった入社したてのころは別として、タフな経験を積み自信もつき、社内における自分の存在価値を認めてもらえるようになってきてからは、会社と自分とは、雇用・被雇用というよりも、責任と成果をめぐっての契約関係にあると理解するようになり、会社に対しては、自主的な貢献意欲は持っていても、ウエットな依存心や忠誠心というものは、だんだん希薄になって行った。そして、仕事上で意見の不一致が出てくるようになったり、会社と自分の間のギブアンドテイクのバランスが崩れてきたときには、お互いに訣別を意識することも仕方がないのかも知れないと割り切るようになった。

そうやって、キャリアアップを目指し、前向きに転進を重ねて行ったわけだが、成功だったときばかりではなく、失敗も一度ならずあった。いつも迷いのないポジティブな気持ちでいられたわけではなく、実は、悩み苦しんだことも少なくなかった。籍を置いた会社がすべて100%の外資企業ばかりだったわけではなく、合弁会社や純国内資本の会社だったこともあって、カルチャーの食い違いや衝突もあり、スペシャリストや部門責任者としての立場から経営者としての立場に変わったことでの、持ち味発揮の難しさも痛感した。
だが、身についてしまった思考スタイルや価値観は、おいそれと変えられるものではなく、どこへ行っても自分は、“長いものには巻かれよ”といった身の処し方はできず、“権力闘争”などということにも興味は持てなかった。そしていつしか、自分が目指すべきは、組織のしがらみに囚われずに、仕事上の契約を成功裡に遂行することによって、会社に寄与すると同時に自己の能力も高めて行くことと思えてきて、ゴールは、ひとつの会社の中で階段を登りつめることではなく、どこへ行っても通用する能力を有する人間になることではないか、という信念を持つようになっていた。

働いてきた組織がいわゆる大企業ではなかったから、自分には、話題の会社のような事件について穿ったコメントはできないが、長く外資会社にいた者の視点から言わせてもらうならば、これは良くも悪くも情緒的な、日本の企業ならではの展開ではないかという気がする。欧米の企業だったら、こんな経過を辿らずにもっと早々と、シンプルでドライな結論が出されているのではないだろうか?
たぶん多くの人が、我が身・我が社の場合に置き換えてこの事件に興味を寄せていると思うので、自分も、仮に当事者の一人だったとしたらどういう行動を取ったろうかなどと考えを廻らしてみたが、簡単に結論は出なかった。そもそも、自分のような気まま者は、こういう企業には初めから受け入れられなかっただろうし、受け入れられていたとしても、我慢できなくなって、途中で飛び出していたかも知れない。

最近の話題に触発されて、思わず自分の来し方を振り返り、いまさらながらそれに理屈づけをしてしまったが、本音を言えば、我が子らの世代はこの父親のように突っ張らず、もっと柔軟で堅実な生き方をして、無事に平穏に、いま父親がいる地点よりも遠くまで辿り着いて欲しい...そんなことを、年の暮れのこのごろ、頻りに思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧