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2016年5月

2016年5月 9日 (月)

木の芽どき

庭の山椒数日前、家内に同伴して(買い物の荷物持ちと坂道などでのアシストのため)近所のスーパーへ行ったときのこと。“ネ、これ見て”と言われて、その指の先に目をやると、「木の芽」とシールが貼られた小さな透明パックの中に、水気を含んだスポンジに載せられたあの小さな羊歯状の葉が4枚。\198という値がついていた。
思わず、“ヘー...”と感心してしまった自分。何故なら我が家の庭には、植えてから少なくとも25年以上は経ち放っておくと葉も枝も伸び放題になり年に1回は剪定しなければならないほどに育ってしまう山椒の木があり、いわゆる“木の芽”すなわち山椒の稚葉などは、お店で売られるようなものではないと思っていたからだ。

でも、両の手のひらでパチンと叩くと立ち上り何とも心地よく鼻腔を刺激して食欲をそそるあの清冽な香りを思い浮かべると、確かにそれぐらいの価値はあるのかなとも思い、それが季節になると自宅の庭に生えている木からいつでも必要なときに直に摘み取ってくることができるというのは、かなり有難いことではないのだろうかという気もしてきた。
自分の好みでいうと、木の芽の芳香が最もひき立つのは、やはり同じ時期に出回ってくる若い竹の子とコラボしたときかと思う。その中でも定番中の定番は竹の子ご飯。自分はこれに目がないので、今年ももう3回も(そして毎回白飯のときより多めに)炊いてもらい、その都度残りを冷凍し、さらに2~3回に分けて楽しませてもらっている。

竹の子ご飯は、竹の子のアクを抜いたり、ビミョーに薄く切ったり、味付けを加減したり、なかなかに手の込んだプロセスを要する料理。クッキング音痴の自分などは手伝おうとしても邪魔になるだけなので、調理するとなるとどうしても、まだ身体が本調子でない家内の手を全面的に煩わすことになる。だから申し訳ないとは思いつつ、今年最後にもう1回くらい如何なものか...と、恐る恐るお伺いを立てたときはダメモトと思っていたが、“ンー...いいんじゃない”と予想外のOKが出た。
摘んでも摘んでも後から後から新しい葉芽が出て来て、5月の半ばごろにはすっかり大きく育ち切り隙間がなくなるほどに密生してしまうので、今年の木の芽どき最後のお楽しみは恐らくこの1週間内になるだろうが、そのときはせめて、より鋭く尖ってきたトゲの痛さは我慢し、心を込めてより柔らかく美味しそうな稚葉を選び出し摘み集めるぐらいのお役には立たねば...と思っている。

余談だが、いまこの横浜の自宅の庭で立派な成木となっている山椒は、実は、清里の山荘にある原木から分植したもので、さらにその原木も、元はと言えば、懇意にしている大泉のキノコ屋さんから苗木を頂いて育てたもの。ほぼ同じ年月の間に、横浜の弟木の方はのうのうと大きく育ったが、清里の姉木は厳しい風雪にジッと耐えるかのように生きてきて幹は未だに細く丈も低いまま。それでも、季節ともなれば一応木の芽としての役は果たしているのが何とも健気でいじらしい。
余談をもう一つ。いままで“キノメ”と読むとばかり思っていた木の芽は、実は“コノメ”とも読むらしい...というよりも、その方が本来の読み方のようだ。が、文学作品などに携わる方ならともかく、一般的には圧倒的に“キノメ”が多数派。マ、文字の読み方・物ごとの呼び方などが時代と共に訛ったり変わったりするのは珍しくないということで、結論としては、どちらでもいいというお話し。

ところで、木の芽の季節になるといつも自動的に“木の芽どき”という言葉が頭に浮かぶ。そしてそれからストレートに連想するのは、これまでは“いよいよ春たけなわ”とか“そろそろ竹の子ご飯の季節”ということぐらいだったが、なぜか今年は、もうちょっと深く考え入ってしまった。これには、文字通りの意味だけではなくて、その別の側面を指す寓意もあったはず...ということが意識下にあって。
俗に言われ自分も何となく思い込んでいたのは“木の芽どきとは精神にチョッと変調を来した人が出現することのある季節”ということだったが、それが果たして正しかったのかどうかと物好きに調べて見た。するとどうやら、まんざら見当違いでもなかったようで、ネット検索の結果では一様に、“精神のバランスが崩れ情緒が不安定になり、心身に変調を来しやすい季節”とあった。

そもそも“木の芽どき”とはいつごろのことを指すのかということだが、3月~4月(3月中旬)とも4月~5月(4月中旬)とも言われているけれども同じ月でも地域差があるからどちらとも言えるという説と、俳句の歳時記でいう「三春」(初春=2月、仲春=3月、晩春=4月)の総称という説があり、つまるところそれは、ピンポイントした特定の短期間ではなくて、“春”という感じがすれば早春から晩春までのどの辺りをそう考えても間違いではない――ということのようだ。
それで、なぜこの時季に人は心身のバランスを崩すのかというと、大きな原因・理由は“気候の不安定による目まぐるしいほどの寒暖差の繰り返し”なのだそうだ。これがストレスとなって、自律神経やホルモンのバランスに乱れが起こり、“体がダルい”“寒い”“よく眠れない”“寝汗をかく”“やる気が出ない”などの体調不良が生じて、やがては鬱病とか統合失調症にまで進むことさえあるという。

確かに...自分自身にも、多々思い当たるところがある。若いころは(齢をとっても60代までは)あまり意識しなかったけれども、ここ数年ほんとうに冬が辛くなり年々重ね着の枚数が増えていたが、先月の下旬になってやっと二皮剝けて、普通の人の春着に並んだところ。天候・気温にもやたら敏感になって、聞かれてもいないのに毎日、暑いの寒いの、今日は気温が高いの低いのとブツブツ言っては、家内にうるさがられている。
それにしても今年は、4月に入ってからも気温の変化・高低差が甚だしく、我が体調もアップダウンが激しくて(アップはほとんどないが)、睡眠不足・身体のむくみ・肩凝り・筋肉痛・花粉症・倦怠感...など、例年以上さまざまな症状に悩まされた。毎月1回ホームドクターに内科的診察を受けているのだが、自律神経失調の状態ではあるが病気というわけではないので、ともかくストレス解消のための軽い運動を継続しなさいと、ラジオ(テレビ?)体操を奨められている。

普段から家庭内での言動にKY的なところがあって何かと家内の逆鱗に触れ、結果、自からも落ち込むことの多い自分だが、今月は特にそれがひどかったような気がする。一時は、自分は先天的にアスペルガー症候群ではないのかと悩んだりさえしたが、どうやらそこまでのことでもなく、心身のキャパシティ・オーバーがそういう結果を招いたようだった。
実際今月は、通院その他例月のレギュラー・スケジュールに加えて、業界・学会の名誉職的なものではあるが自分としての仕事始め、知人・友人画伯の作品展への顔出し、税金・会費・管理費といった年間経費の支払い、ムッシュの一周忌、生垣の内・外側の剪定と消毒(殺虫剤噴霧)など、脳力も体力も神経も使うイレギュラーの仕事が重なって、意識せぬ間にストレスが嵩じたのかも知れない。

ようやく前向きのニュースも聞かれるようになってきたがまだまだご苦労の多い熊本地震の被災者の方々のことを思ったら、こんな私事を云々している場合ではないが、遠く離れている上に高齢・非力で何もできない身、せめて気持ちだけでも一日も早い復興を祈りつつ、応分の協力をさせていただく積もり。

次回は、こんな愚にもつかない内向きの繰り言に終始せず、もっとテンションを上げて、より外向きのネタでお目にかかりたい。

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