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2013年9月

2013年9月16日 (月)

多病息災

先日、今年度の胃内視鏡検査の結果がわかった。ガン手術の痕はいまもきれいなままで、新たに問題になるようなものは何も発生していないとのこと。これで術後満2年になるが、今年も一山越して安心したというのが正直な心境。
ドクターの話では、だからもう再発の恐れはないとまでは断言できないので、毎年チェックして、何かあっても早期発見し、重篤にならないうちにより軽い治療で済ませられるようにする努力を続けなければならないということだ。

そういうわけで、毎年この時期になると、まず内視鏡検査の予約をとるための診察を受け、そこで決まった日どりに検査を受けて、その結果を聞きに後日もう一度診察を受けに行く...というように、少なくとも都合3回は病院に足を運ぶ。
それに、昨秋から今春にかけては、ピロリ菌の除菌治療も受け、除菌に成功はしたが、それで後は何もしなくていいというわけには行かず、やはり1年ごとに、再発有無の確認検査を受けるようにとも言われている。

ので、何だか面倒なような、いつまでも気が晴れないような気がするが、そんなことを言っていてはいけないのだろう。チャンとそういうことを実行するおかげで、少なくともまた1年間は、安心して過ごすことができるのだから。
実際、痩せるだけ痩せて小食になりはしたが、いまこうやって何の苦痛も不快感もなく、元気に日常生活を送れているのは、ドクターの言うことに忠実に従って、億劫がらずに真面目に病院通いを続けている賜物だと思っている。

ところで先週は、胃の検査の結果を聞くだけでなく、アナフィラキシー(アレルギー性ショック症状)応急緩和のための「エピペン」なる特殊自己注射薬の処方と使用の指導を受けるために、皮膚科へも行って来た。
先に報告した“蜂さされ”の一件との関連からだが、何の因果かこれまで2度もスズメバチに刺される憂き目に遭った自分は、今度刺されるようなことがあったらより強いショック症状を起こす可能性があるから、それに備えておくように指示されているのだ。

救急車で運ばれた先は長野県の病院だったので、そこの担当ドクターから、自宅の近所の皮膚科医に渡すようにと紹介状を持たされ、それに記載されていたらしいあのときの自分の症状や処置にもとづいて、その注射を正しく使用するための指導を受けた。
渡されたのは、キャップを外せば自分でパンツの上からでも太ももに射せるという緊急対応用の薬剤が入った注射器で、東京や横浜のような都会地で処方されることは滅多にないらしく、事前に製薬会社に連絡して取り寄せておいてもらったものだった。

スズメバチは春から秋にかけて活動し、お盆のころから10月初旬辺りがその最盛期になるというから、晩秋から早春までの時期を除いてはこれから山荘に行くときには常時これを携帯していなければならなくなるのかと思うと、いささか気が重い。
ヤレヤレこれで座右薬がまた増えた。いまも、前立腺手術アフターケア用の薬3種と、甲状腺機能維持と自律神経安定のための薬3種と、すでに十分多い6種類の薬を服用している毎日だというのに...。

それらの薬の処方を受けるためには、前提として当然、検診のため病院・クリニックに定期的に通うということになる。前立腺の手術を受けた病院には、いまでは4ヵ月おきで良いことになったが、内科のクリニックには毎月だ。
これだけでも年間15回の通院になるが、今年はこれに、大腸ポリープの内視鏡手術とピロリ菌の除菌治療と胃の内視鏡検診が加わって、それぞれ計3回、合わせると全部で24日通院したことになる。

この他にも、歯が痛いと言っては歯科に、目の調子がどうも良くないと言っては眼科に、肩や腰が張ると言っては整形外科にも足を運んだから、これらを入れると今年のこれまでの総通院日数は延べ36日、10日に1回の割合になる。
これは多いのかそうでもないのかよくわからないが、昔の自分のことを思い出すと、決して少なくはないような気がする。昔は、忙しかったからかも知れないけれども、よくよく具合が悪くならなければ病院やクリニックの扉を叩かなかった。

通院日数が多いということは、服用している薬もけっこう量が多くなっているということ。その意味では自分なども、まさに薬漬け状態になっている高齢者の一典型なのかも知れないが、複数の大病を患った身としては、必要あっての処方と信ずる他ない。
でも正直のところ、ホンの数年前、2009年に胃腺腫の手術を受けるまでは、自分がこうまで極端に、頻繁な医者通いをし、毎日多種多量の薬剤を服用するようになろうとは夢にも思わなかった。

振り返って見れば、70歳の坂を登り始めたころから、急に、そういう傾向が強くなってきた。毎年、検診を受けては次々に様々な病気が発見され、たて続けに、胃・前立腺・胃・大腸と手術を受けることになり、何も見つからなかったという年はなかった。
が、いずれも早期発見だったため、身体に負担の少ない手術で済み、いまは寝込んでいるわけでもなければ、どこか痛かったり不自由だったりしているわけでもなく、いたって普通の――というよりも、年の割にはむしろ元気な――生活を送ることができている。

結果的に言って、これは多とすべきなのだろう。病院に行くのを敬遠したり、薬を飲むのを嫌がったりせずに、素直にドクター言うことに従っているのが、結局は症状の重篤化を未然に防ぎ、今日の好体調の源になっているのに違いない。
してみると、あれこれ多病であることを嘆かずに、それを逆に積極的に健康を意識する機会としてとらえ、小マメな定期検診を欠かさず、要所々々で早め早めに適切な処置・対応をしていることが、息災につながっているということになりはしないだろうか?

まさに“多病息災”――“無病息災”やそれをもじった“一病息災”とかいう言葉はあっても、そんな言葉はどこにもないだろうが、いまの自分にはこの言葉が相応しい。これからも、そう開き直って、前向きにしぶとく生きて行こうと思う。

意識していなかったが、気がついてみれば今日は敬老の日。老いというものを敬されることとは関係なかったが、たまたま、自らのそれを考える日にはなったようだ。

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2013年9月 2日 (月)

生まれて初めての救急車

山荘に行くのは、環境がふだんとはガラリと変わるところに身を置き日常から脱出して、多かれ少なかれ非日常による気分転換を求めてのことなのだが、環境の変化も何も事と次第によるわけで、ときにトンデモない非日常に遭遇することもある。
先月末の9日間、4週間振りで山荘に行ってきたが、1日くらいは雨に降られたものの、他の日はまずまずの好天で、この分なら穏やかに気持ちよく帰宅できると思っていたところ、途中で予想もしていなかったハプニングに捲き込まれる破目になった。

いまからすればもう数日前のことになるが、滞在も予定の半ばを越したその日のその時は、「萌木の村」の「ハットウォルデン」にランチをしに行って、村長の弟で村の専務の船木淳さんに久し振りに会い、楽しく近況などを語り合って、気分よく帰宅したところだった。
食卓に座って一休み、家内とお茶を飲みながらノンビリと、この25年間何かと世話になってきた淳さんとの思い出話にあれこれ花を咲かせていたら、卓の下に置いていた(ので当然自分からは見えていない)左の足首に、突然、激痛が走った。

グサリ!と、何か切れ味の悪い刃物で抉られたような感じのする強い痛みに、思わずそこに手をやると、かなりの手応えのある異物感。...と思っているうちに、何か大きな虫様のものが下から飛び出してきた。
それは一気に逃げもせず、手の届く近くの窓枠に止まったので、目を凝らしてよく観たところ、何と!態はそんなに巨大ではないが、紛れもなく、あの身の毛もよだつダンダラ縞のスズメバチではないか!

一瞬、ヤラレた!それにしても何でこんなところに...と思ったが、詮索よりも、ともかくそれ以上の被害は食い止めなければという気持ちが先に立ち、家内から分厚い雑巾を受け取って夢中でソイツを押さえつけ、ビニ袋の中に取り込んだ。
と同時に念頭をよぎったのは、自分がスズメバチに刺されたのはこれで2度目だから、早急に手当てをしなければ危険な状態になりかねない...ので、とにかくどこかの病院に連絡して指示を仰ぐ必要があるということ。

1度目に刺されたのはやはりこの山荘の中、もう25年近く前で、そのときかかったのは長坂の甲陽病院だったが、今回は一刻を争うという気持ちがあったので、管理センターに相談して、より近い野辺山のクリニックに、家内の運転で駆けつけた。
刺された方の足はズキズキ痛むが、歩けないほどではなかったので、自力で乗降しクリニックの中に入ったら、たちまち、待機していたドクターとスタッフに抱きかかえられるようにしてベッドに寝かされ、酸素吸入器・血圧脈拍計などを装着された。

自分で状況を説明できたし、当然意識も明確(のつもり)だったので、自身にそれほどの切迫感はなかったが、何やらすぐに頓服剤を服用させられ、注射も打たれて、性急に反応確認などをされ、そこに至って、どうやらそう簡単なことではないらしいとわかってきた。
自分ではそれとは意識していなかったが、後で聞いたところによると、このとき、顔面は蒼白になっていて、ただでさえ低い血圧が下がるだけ下がり、脈拍も、測定計器を疑うほどまで微弱になっていたそうだ。

そんなこととは露知らなかったが、何しろ話されていることはみんな聞えていたので、チョッとこのままでは済まなそうだけれどもこれからどうなるのだろうなどと考えていたら、そのうち、“救急車!救急車を呼んで!”と叫ぶドクターの声が聞えた。
(エーッ、救急車?ここだけでは不十分で、別の病院へ移送されるのかな?こりゃ大変だ!)などと頭の片隅で思いめぐらしているうちに救急隊員が到着。ウンもスンもなくストレッチャーに移され、ボディー・手足を固定されて、そこから運び出され車の中へ。

意識不明になっていたわけではないので、経緯は一部始終、目を開けて見ていたが、車内は思ったより狭く、医療器具や計器のようなもので三方を囲まれ、隊員の男性2人とクリニックからの付き添いの女性看護師さんで一杯一杯のようだった。
車はピーポーピーポーとサイレンを鳴らしながらかなりのスピードで走っているのがわかり、カーブや悪路にさしかかるらしい度に、左右・上下に身体が揺れ、固く浅いいストレッチャーに当たって痛かったが、そんなことを言っている場合ではないと我慢した。

付き添いの看護師さんが腕に何か薬を注入しマッサージをしている様子がわかり、隊員が絶えず声をかけてきて、姓名・年齢・住所・電話番号・持病・アレルギー・既往症・喫煙飲酒習慣・常用薬などを聞き出し、本人の意識の確認をする。
寒くはないか、気持ちは悪くないかなどとも尋ねられたが、長袖シャツ・ジーパンにセーターという着の身着のままで来てしまった割には、毛布も掛けてもらっているらしかったので特に寒くはなかった。

身動きならぬままそうしていて気懸りなのは、飛ばしに飛ばす救急車を後からマイカーで追っている家内のこと。いま、精神的にも身体的にもたいへんな思いをしているだろう、とんだことになってしまって済まない、という思いがヒシヒシと胸に迫った。
だいぶ走ってやっと目的地に到着したらしいので、相当遠くまで来たのだろうと思ったら、何と、清里から優に30キロ以上はある長野県小海の、佐久総合病院小海分院とわかった。家内は途中で救急車に置いて行かれ、道を尋ねながら辿り着いたようだった。

救急車から下ろされてからもう一度診察を受けたが、応急手当はとりあえず上手く行っていたものの、数時間後に再びアナフィラキシー(ショック症状)が起こる可能性があるので、万が一の際のケアのため一泊入院しなければならないという結論に。
自分で運転して遥々ここまで同行してくれた家内は、心身共にさぞ疲れていたに違いなかったが、自分に代わって入院手続きをすべて済ませてくれ、薄暮の道をまた清里の山荘に帰って行った。不慮の事故とはいえ、まことに申し訳ない結果になってしまった。

その後の自分はといえば、右腕には点滴の注射針、胸に心電図の電極、左人差し指には脈拍センサーのクリップが取り付けられ、それらの何れからも長いチューブやコードが何本も延び可動式点滴台とモニターに接続されて、がんじがらめで身動きならず。
モニターのディスプレイには、心臓の鼓動・脈拍・血圧・酸素濃度・呼吸数などが表示され、それをナースセンターでも終夜監視しているらしく、2~3時間ごとに見廻りがあって、結局、ロクに睡眠がとれなかった。

それでも、無事に夜は明け、7時半ごろに担当ドクターの巡回診察があって、もう安心でしょうということになり、晴れて無罪放免。10時ごろには家内が迎えに来てくれ、やっと、嵐のような一昼夜が終わった。
己の問題だから、自分は痛かろうと眠れなかろうと構わなかったのだが、長距離を2度も往復した家内には何と言っていいかわからないほど苦労を掛けてしまった。山荘に残しておくわけにも行かず終始車に同乗していたムッシュも、いい迷惑だったに違いない。

何の因果で2度も刺されたのか、災難という他ないのかも知れないが、外へ出ると割合い普通にスズメバチが飛び回っている森の中の生活は、こうなってみると少し腰が退けてくる。しばらくは、あの“ブーン”という羽音が耳に付いて離れないだろう。
いまは刺され傷の痛みもほとんど癒え、横浜での日常に戻っているが、今回の清里行では、楽しかったこと、有意義に過ごしたことも数あった中でも、どうしても、生まれて初めて乗ることになってしまった救急車の1件が、強く印象に残った。

なかなか得難い経験をしたと思ってはいるが、できれば3度目は繰り返さないで済むようにしたいものだと密かに念じている。

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