« 花冷え | トップページ | 寒がり爺さんの遅い啓蟄 »

2013年4月15日 (月)

私とイギリス

先週、マーガレット・サッチャー元イギリス首相が逝去した...というニュースを目にして、フと自分が、長かった外資系企業ビジネスマン人生の中で、数年間ではあったが、米資企業だけではなくて英資企業でも働いていたことを思い出した。
いや、そのことを忘れていたわけではないから、“フと思い出した”というのは正確ではなく、むしろ逆に、いろいろな意味で忘れかねていたその当時の記憶が、“サッチャー”というキーワードで再びアーカイブから引き出されたと言った方がいいかも知れない。

その英資企業というのは「サーチ&サーチ・アドバタイジング」という国際総合広告エージェンシー。昭和の時代が終わるころだったが、イギリスでは日の出の勢いで成長しつつあって日本にも上陸、自分は請われて、日本法人の経営に参加することになった。
そのサーチ&サーチ(以下S&S)の記憶がなぜサッチャーと結びつくのかと言えば、知る人ぞ知る、このエージェンシーこそが、1979年の英選挙で保守党を大勝に導くキャンペーンを企画・演出し、彼女を首相に推し上げた蔭の立役者だったからだ。

広告表現の独創性もあって、業界ではそのときのことが後々までの語り草となり、その成功がS&S大躍進の大きなステップになったが、一方では積極的にM&Aを推進、世界の名門エージェンシーを次々と傘下に収めて、瞬く間に売上高世界第1位にのし上がった。
自分はその日本法人で、本来はマーケティングという専門分野での貢献を期待されたはずだったが、はからずも、現地トップとして財務・人事・本社折衝という総合広告エージェンシーの副社長としての責務も負うという、2重・3重の役割を担うことになる。

いま思えば汗顔の至りだが、自分はどうやらその辺りで一時期、ある種の自己過信に陥っていた気がする。それまで折角スペシャリストとしての地歩を築いて来たのに、柄にもなく、経営のすべての分野を掌握するジェネラリストを目指そうという欲が出てきたのだ。
その志とそれに向かっての注力は、必ずしも否定すべきものではなかったと思うのだが、残念なことに、運と現実の環境がそれに伴わず、十分に満足できる成果を上げることが適わなかった。もちろんそこには、自分の力不足もあったろうことは否めない。

幸か不幸かその時期は、バブル景気が膨らんで弾けた時代とピッタリ重なり、気がつくとイギリスでは本社が、過度のM&A投資が祟って銀行管理下に置かれる状態になり、経理担当者とは連絡がとれなくなっていた。
そこで止むなく日本で独自の資金繰りをしなければならない破目に陥ったが、このとき、名目だけだったイギリス人社長はすでに退陣しており、数ヶ月間というものは自分が、実質的な最高責任者として内外両面の陣頭指揮をとり、筆舌に尽くし難い苦労を味わった。

外資企業には間々あることだが、そうこうしている中にイギリス本社の旧経営陣はすべて入れ替わり、やがて日本法人にも新しいマネジメントが送り込まれて来て、いつのまにか事実上、自分の出る幕はなくなっていた。
かくて自分は“勇退”せざるを得なくなるわけだが、そこに至るまでのプロセスは米資企業のように単純率直ではなく、英本社からの使者は表面的にはこちらの貢献に敬意を表しつつも裏面では何かと落ち度を探り出し、自発的に身を退くように仕向けてきた。

さすが諜報戦略に長けたお国柄と、米資企業との違いに妙なところで感心したが、そんなことで怯むのは嫌なので堂々と自分の言い分を主張し、こちらから三行半を叩き付けてやった。けれどもよく考えてみたら、それこそ、向うの思うつぼだったかも知れない。
“白豪主義”に譬えるのも少し違うかもしれないが、アジア地区の本拠を日本ではなくてシンガポールに置き、現地トップの上に、オーストラリアやシンガポールなど旧イギリス植民地系の白人(好きな言い方ではないが)を持ってくる人事政策も感じが悪かった。

長年米資企業に馴染んで、いっぱしの国際ビジネスマンになったつもりでいた身には、そういう権謀術策はある種のカルチャーショックだったが、いまとなっては、実に貴重な体験と勉強をさせてもらったと思える心境になっている。
ただ本音を言えば、その数年間は、自分の本来歩むべき道から外れて、マーケティング専門家としては何も充電することができなかったのが、後で悔やまれた。まったく無駄な年月だったとは思わないが、足踏みして、放電する一方だったような気がする。

このわずかな期間の経験だけで極めつけて言うのも短絡的だが、そんなわけで、自分にとってのイギリスは、いつの間にか、働く場所としては残念ながら好ましいとばかりは言い切れない国になってしまっていた。
しかしだからと言って、イギリスという国の個人と風土は嫌いではない。元気なアメリカ・アメリカ人とはまた違う、懐かしさと心の安らぎのようなものが感じられることがあるからだ。オフ・ビジネスや旅先での人との触れ合いの中で、ずいぶんそれを実感した。

最初にロンドンを訪れたのは、いまから四十何年も前のこと。リーダーズダイジェストの時代に、初めての海外出張で米フロリダでの国際会議に出席した後ヨーロッパから極東にかけての各国オフィスを歴訪するという1ヵ月半の世界一周旅行をしたときだった。
日本を出て最初の2週間は、米国内でニューヨークを中心に西から東そして北から南また北へと移動し、次いでイギリスに向かったが、摩天楼が林立し忙しなく人と車が行き交う国からロンドンの市内に入ったときには、なぜか、何とも言えずホッとした。

ほど良く古びた石壁のビルと背の低い交通信号が落ち着いたたたずまいを見せ、街行く人々に道を尋ねても、誰もがとても親切に対応してくれたし、タクシードライバーのマナーも安心でき、季節はまだ春にはほど遠かったのに、大気さえ暖かく思えた。
経済は実際には低迷していたのかも知れないが、“揺篭から墓場まで”と譬えられた社会福祉が充実していた時代のこの国の人々はみんな穏やかで、訪問した英オフィスの人々も上から下まで、まだ旅慣れていなかったこの日本人を、1週間、大歓待し続けてくれた。

初めてのアメリカもエキサイティングだったが、イギリスもすっかり好きになった自分は、その後、アムステルダムなど欧州での国際会議があった際には、取引先企業のロンドン・オフィスなどにも用件をつくって、帰途に立ち寄り旧交を温めるようになった。
もちろん仕事がらみだが、ビートルズがオーディションを受けて不合格になったというデッカ・スタジオを見学したり、当時の話題ミュージカル「オー!カルカッタ」を観にウエストエンド(確かアデルフィ劇場?)に連れて行ってもらったことが忘れられない。

リーダーズダイジェストを退社した後しばらくは、イギリスに縁がなくなっていたが、S&Sでのクライアント「ブリティッシュ・エアウェイズ」(英国航空)とは個人的にも親しくなっていたので、十何年振りかでまた、イギリスを訪れる機会ができた。
1991年の湾岸戦争で国際線乗客激減という営業的打撃を蒙った英国航空が、欧州線利用促進のため、あえて停戦直後に、“東京―ロンドン+欧州内1都市往復運賃5万円”という特別ツアーを企画、自分もプライベートの資格でそれを利用できることになったのだ。

たまたま娘が高校を卒業し大学に入学することになっていた春休みだったので、そのお祝いを兼ねて家内と3人で参加し、ロンドン4泊+ローマ3泊というコースをとったが、彼女たちにとって初めてのロンドンは、予想以上に楽しめたようだった。
ハイドパークやテムズ河畔の散歩、リージェントストリートやボンドストリートでの買い物、ハロッズでのアフタヌーンティー、ウィンザー城への遠出、ホテルの傍の何でもないカフェでの朝食...等々、イギリスは彼女たちの心にも、忘れ難い思い出を焼きつけた。

早いもので、あれからもすでに20年余り、その間公私でフランスやイタリーやドイツには何度か旅することがあったが、なぜかイギリスには立ち寄る機会がなかった。
いまは、体調の問題とムッシュのことがあるので、海外旅行に出ることそのものがなかなか難しいが、できればイギリスには、もう一度行っておきたい気がする。

|

« 花冷え | トップページ | 寒がり爺さんの遅い啓蟄 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私とイギリス:

« 花冷え | トップページ | 寒がり爺さんの遅い啓蟄 »