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2013年3月

2013年3月18日 (月)

とんび

“とんび”...と言っても、野鳥や昔の和風袖なし外套や建築関係の職人について語ろうというわけではない。昨晩が最終回だった同名のTBS連続テレビドラマの話だ。
近ごろは、ニュース、ドキュメンタリーや映画、スポーツ実況など以外はテレビ自体をあまり見なくなり、まして連続ドラマなどに魅かれることはほとんどなくなっていたが、これには久々に、心の琴線に触れられる思いをさせられた。

原作は直木賞作家重松清の同名小説で、不慮の事故で妻を亡くしたガテン系の父親が残された独り息子を男手ひとつで育てて行く過程で、息子の反抗期や大学受験、職業選択そして結婚といったさまざまの問題に直面し、不器用に悩み戸惑い一たんは反対することもありながらも、結局は息子の幸せを第一に願うことになるという、親子の絆を描いた話。
自分が全編のあらすじをここに紹介しても、その情感はなかなか伝わるものではないし、この番組を視た方も多いと思うのであえてこれ以上は書かないが、佳篇ではあった。

言うまでもなくタイトルの「とんび」は、“とんびが鷹を生んだ”から来ており、愚直な父親の方がとんびで、良くできた息子の方が鷹ということになるわけだろうが、このドラマを視て、自分が鷹になれたかどうかは別として密かにいまは亡き(あるいは年老いて離れ暮らす)父親を偲んだ世の息子たちは、少なくなかったのではないだろうか。
自分も、最初は家内に教えられて視始めたのだが、何かと身につまされ、不思議な符合点に思い出を誘われるところもあって、いつの間にかストーリーに惹き込まれていた。

時代は、原作の方では父親の生い立ちが自分のそれとほぼ重なるが、今回視たドラマではそれが10年ほど新しく設定されているので、社会背景の描き方が微妙に異なるし、そもそも男やもめの父親と一人息子というところが根本的に違っているのだが、それでもなおこのドラマには、自分の人生の節々と重なるところが幾つもあった。
それを感じさせられたのは、劇中の息子の方の生き方だけでなく、父親のキャラからも。二人の中に、自分自身と我が父親がゴチャ混ぜになって、二重写しに見えた。

他愛ない偶然の一致だが、息子は、高校時代は野球部で、父親は地方の国立大学でいいと思っていたのに東京へ出たいと言い早稲田(しかも自分と同じ法学部)に入ってしまい、しからば弁護士にでもなってくれるかと思っていたら全然畑違いの出版社を志望。
その都度、父親は、驚いたり、悩んだり、落胆したり、時には怒ったりもしたが、結局はそんな勝手な息子の生き方を認め、見守ってくれた。

もちろん自分は、ドラマのように母親と幼いころに死別してもいないし、劇中の息子のように年上子連れの女性と結婚したいなどと言って父親を逆上させたこともなく、自分で言うのもナンだが良妻賢母タイプの女性との縁を得、子宝にも恵まれて、ここまで平凡だがまずまず幸せな人生を送ってきたと思っている。
にもかかわらず、たまたまこのドラマを視る機会があった家内が、“ナンか、他人ごとと思えないヮ...”と自分にも視聴を薦めてくれたのには、大いに納得できるところがあった。

思えば、自主独行と言えば聞こえは良いが、自分もある意味で親の期待というか希望を裏切り、勝手気ままな道を選び歩んできた。
親としては経済的にも国立大の方が良かったはずだが、不肖の倅はそこまで気が回らず私大に入り、月謝は奨学金、小遣いはアルバイトで賄うと約束して、基本的に下宿代だけを負担してもらうことにしていたものの、たびたび金欠状態に陥っては、楽ではなかったはずの親に無心をしていた。

以前、「父の背中」の回にも書いたが、私学ではあったけれども法学部に入ったので、親は当然、司法試験を受けて法曹界に進むものと倅に期待していたはずだが、ドラマの主人公同様自分も、それに挑戦することなく、興味嗜好の延長で出版社に入社してしまった。
それでも、そこで志望(採用条件でもあった)通り、最初から編集の仕事に携われればまだ分かり易かったが、取りあえずということでマーケティングなどという分野を手伝わされ、そのままになり、旧弊な親にはまたぞろ期待外れだったに違いない。

恐らく親が一安心したのは、自分がしっかり者の家内と所帯を持って、一先ず自立できたときからだと思う。奨学金返済というマイナス持参金つきの結婚だったので、自分もしゃにむに頑張ったが、家内は薄給の中から遣り繰りして家計を支え、その上、盆暮れには亭主の両親にささやかながら小遣いまで送ってくれていた。
有難いことに、家内ばかりでなく家内の両親にも、何くれとなく支えてもらった。社会に出られるようになるところまでは故郷の両親の世話になったが、結婚してから後、今日の自分たちの暮らしを築き上げることができたのは東京の両親のサポートが大きかった。

ここまで、自分なりにずいぶん努力してきた気でいたが、顧みて、親・縁戚、周囲の友人・知人、職場での上司・同僚・部下、取引先の有力者や仕事上の先輩・後輩...など、さまざまな関係の人々の尽力・助力があったからこそ、自分のいまがあると思う。
「とんび」を視て、人間というものは、そういう周りの愛情、善意、引立て、協力などによって支えられていることを悟り、それに感謝して、自分も周りにそうして行くようになるものだということに、改めて気付かされた。

「とんび」に出てくる父親の方はまだ働き盛りのままドラマは終わったが、その息子の方の生き方と己のそれとが重なる自分も、もはやその父親のそのまた親ほどの齢に達した。
いまでは、どちらかと言えば、自分を息子の方の立場に置いて来し方を振り返り親を偲び感傷に浸るよりも、親の方の心に自分を投影して子を思う境地に至っている。

自分自身の人生の残高も少なくなってきて、逝ってすでに久しい親たちに対しては、時折、少しでも孝行できただろうかという反省と納得が交錯する中、いまはただ懐かしく有難く、、素直に感謝の念を抱くのみ。
だが、未だ気楽な独身を続けている息子たちに対しては、孝行せよとまでは言わないから、何とか親の目の黒い中に身を固めて、とりあえず一安心させて欲しいと、このごろ切に思う。そう言っても、こればかりは思うようにはならないのはわかっているが...。

原作の良さか、演技・演出の力か、「とんび」を視て、沢山の人々が、泣き、笑い、共感し、何かの思いを新たにしたことをネット上で知ったが、自分もツイ、いろいろなことを感じ、考えてしまった。
親としてはテレくさいから、薦めることまではしないけれども、再放送の機会があったら倅たちも視てくれればいいが...と、内心思わないでもない。

小説に読み耽っているのもいいが、たまにはテレビドラマを視るのも悪くない。

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2013年3月 4日 (月)

当世我が家の電力事情

庭の紅梅3月に入ると、やっと本当の春が近付いてきたという気がする。今年は立春のころにも珍しく気温が上がった日があって、もしやと気を持たされたが、やはり季節はそう甘くなく、この1ヵ月というものの寒さは、例年通り厳しかった。
が、ようやくこのところに来て、今度こそという期待の持てる温暖な日が続いている。近所のお宅の白梅はとうに満開になって、早くからあたりに芳香を漂わせていたが、この陽気に我が庭の紅梅(豊後梅)も、遅ればせながら花を開かせ始めている。


春が来て、日中の陽光がタップリと降り注ぐようになると、リビング・ダイニング・寝室・書斎...とすべての居室を南側に置いている我が家は、やっとそのおかげでエアコンや床暖房の使用が減るが、特に寒かったこの冬は、それらに頼ってずいぶん電力を消費した。
夫婦二人だけの暮らしだから、さほどにはなるまいと毎年思うのだが、建て替えの際にあまり深く考えずオール電化にしてしまい、二人ともすっかり寒がりになったこともあって暖房と給湯を多用するので、冬季にはいっぺんに電気代が跳ね上がる。

それでもエアコンや床暖房は、経済料金の時間帯を意識して小まめにオン・オフし、暖をとりながらもムダが生じないように注意しているが、風呂の湯沸かしと保温がどうも上手くコントロールできず、しょっちゅうエネルギーロスの状態を起こしている。
風呂はこの季節、寝る前に身体を暖めるため夜間に使うので、お湯張りとシャワーに必要なタンク内の湯量を確保するため夕食後に沸き増しを設定するのだが、そのタイミング・設定量のどちらの問題かわからないけれども、どうも納得が行かない結果になるのだ。

我が家の風呂は、湯量・温度・保温時間などは一たんコントロールパネルで設定すれば、常に自動でその状態が維持されることになっており、設定時間内ならばいつでも、お湯の温度と量は一定になっているはずなのだが、なぜか、実際にはなかなかそうならない。
自分が先に使い、終わってから30~60分くらい間をおき家内が使って、自分の開始から家内の終了までが十分に保温の設定時間内に収まっていても、しばしば、家内のときに湯温が下がっていたり、量が減っていたりということがあり、またその逆のこともある。

結果、消費湯量は、まずまず標準に近いところで何とか止まることもあるものの、冬場はたいがいその1.5倍、下手をすると2倍近くになることもあり、それは取りも直さず電力と水量もそれだけ使ったことになるので、不経済だったとわかり頭が痛くなる。
取扱説明書と首っ引きでいろいろ試みてみるのだが、どうやっても上手く行かず、いまはもう、多少のことは仕方がないかと諦めの状態。メーカーに問い合わせてみればいいのかも知れないが、どうせ電話やメールで聞いてもわからないだろうと匙を投げている。

で、ときどき家内と共にボヤくのは、清里山荘のガス焚きの風呂はシンプルでいいね...ということ。ボイラーを高温にすればたちまちお湯張りはできてしまうし、足し湯の量も温度調節も手加減一つ。それにくらべてオール電化の風呂は何と融通が利かないことか。
お湯張りの量を監視している必要もなく、出しっ放しを気にしなくて済み、すべてボタン一つ押すだけで事足りるというのは確かに手間要らずかも知れないが、それだけに、自分自身で管理しているというよりも、システムに振り回されているという感は否めない。

もっとも、オール電化にはそんな問題点ばかりあるわけではない。防火・中毒事故防止など安全の点からすれば、石油やガスによるシステムの追従を許さず、高齢にさしかかっていた自分たちが何の疑問ももたずこれに決めてしまった理由もそこにあった。
でも、実際に利用し始めてみると、いろいろ予想していなかったことが明らかになってきた。前記したような風呂関係の問題もあるが、根本的なことは、これは電力が正常に、リーズナブルな料金で供給されて初めて意味を持つシステムだという点だった。

それを思い知らされたのが、2年前のあの大震災と、それに伴った8時間に及ぶ大停電、そしてかなりの日月にわたった計画停電の実施...など。いまはもう節電がすっかり身に付いて慣れてしまったが、あのときは一時、オール電化住宅にしたことを悔やんだ。
その後も、よくよく調べてみたらIHクッキングヒーターが決して省エネではないことを知り、時間帯で3段階の料金設定がなされていて日中に電力を使うとむしろ通常よりも割高になることなどもわかって、いまではより細かく気をつけた電力の使い方をしている。

すなわち、家内が洗濯・アイロンがけをしたり食器洗い機を使ったりするのは最も料金が安くなる23時~7時の時間帯、掃除機をかける(自分も)のはさすがにこの時間帯だと寝た子を起こしてしまうから次善の時間帯(7時~10時、17時~23時)に。
炊飯器を使用するのは、朝食のためにはもちろん7時前で、夕食のためには17時過ぎてから。調理には、複数の加熱メニューを同時進行しなければならない場合には止むを得ずIHを使っているが、あの大停電以来、総じてカセットコンロが大活躍している。

しかし、繰り返し言ってしまうが、冬季の風呂の温度維持と沸かし湯量コントロールだけはどうしても上手く行かない。「エコキュート」とか言って、基本的に夜中の低料金時間帯に沸かしたお湯を貯めておいて使い回すというシステムが噛み合わないのだろうか。
我が家の場合は、ボイラーも貯湯タンクも1階の屋外にあり、浴室が2階にあるので、冬場は沸かすそばから冷えてゆき、また、1階から2階へ回る途中でも、ある程度の温度ロスが生じるということがあるのかも知れない。

そんなわけで我が家のオール電化は、いまさら取り返しもつかないので、満足と不満が相半ばする中で何とか折り合いをつけて利用してきたが、昨年秋からユーザーが抵抗する術もないままに料金値上げが実施され、何とも割り切れない思いをしている。
福島原発のあのような事故で電力の生産性が低下した分と事後処理や補償のためにかかる費用の分を単純に転嫁し、しかもチャッカリと自社の利益だけは確保しようとしているような印象を受け、そんな企業経営の仕方ってアリか?と、どうにも納得が行かない。

いろいろ勉強してみると、そもそもオール電化住宅は、原子力発電を有効に活用するためのシステムであり、オール電化の普及を図ることで原子力発電の建設を推進しようとする、政・財界の利害が一致した戦略的意図があったというではないか。
つまり、巷間いろいろ言われているように、やはり“初めに原発ありき”ということだったわけで、それを承知しないまま、良いことづくめとばかり思って導入した自分たちは、脱原発が叫ばれているいまとなっては、非常に複雑な心境だ。

そこで当然、電力は必要だが安全でエコな供給システムで代替できれば...という方向に関心が向くわけで、実は、その代表格とも言える太陽光発電については2年ほど前から検討を始め、すでに4業者の話を聞いている。が、未だ導入に踏み切る気持になれていない。
一般的に導入に際してのポイントとなっているのは、設置にかかる初期投資、国や自治体の補助金、余剰電力の買い取り価格、そして何年で元が取れる計算になるか...などだと思うが、我が家の場合それ以前に、根本的に気になるところがあるのだ。

それは、直接接触できている業者というのがメーカー直系ではない中小の施工会社で、どこまで責任を持っているのかわからず、にもかかわらずそれぞれ特定のメーカーを推奨するのでシステムの比較検討ができない、また、やたら初期施工費の値引きばかりを強調し、保証や管理・アフターサービスの話をしない...と言った点。
それに、何軒かずつ各社の施工住宅を見て回ったが、後付けの場合にはどうも工事の完成度が低くて、まだまだこれは発展途上ではないかという印象を受けた。

ということで、期待の太陽光発電は、設置や余剰電力買い取りの価格もさることながら、もっと実績が増えてシステム・工事・サービスなどの品質がこなれてからでも遅くはないのではないかという気がして、様子見をしている。
もっとも、先に限りのある当方、そのうちどうでもよくなってくるかも知れないが...。

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