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2013年2月

2013年2月18日 (月)

O to O(オートゥオー)って何だ?  

1年あまり前に、ここで、ネットショッピングにハマっていると告白したことがあった。が、その後はだいぶペースも落ち着いて、いまは、以前とは少し違ったオンラインショッピングサイトの利用し方もしている。
欲しいものがあったらサイト上で即オーダーし宅配されるのを待つという買い方だけではなくて、情報収集のためにサイトをチェックし、目ぼしいモノを見つけたら実店舗へ足を運んで確認した上で購入するという買い方もするようになったのだ。

もっともこれが可能になるのは、広くチェーンストア展開をしていて尚且つオンラインストアも運営しており、基本的に両チャネルの間で扱い商品に違いがないという業態の企業に限られるが、近ごろはそういう営業方針のところがけっこう増えてきた。
さらにその中には、オンラインで注文しておいて店舗で受け取るとか、店舗に在庫が無くてもオンラインの方から取り寄せるとかすることができるというサービスを提供するところも出てきて、買う方は大いに便利になった。

自分も昔から著作や講演などで、折りに触れては、こういうどちらの買い方も可能になるようにすることが客の満足度をよりアップし、ひいてはそれが企業のビジネス成果の最大化に結びつくと説いてきたから、この現状は我が意を得たりというところ。
だがこれは、何も自分のオリジナル発想ではないし、米国の小売業などは(出発が実店舗であってもネットストアであっても)とうの昔から実践していたこと。消費者・顧客の便宜を考えれば、当然、そうする方が良いはずという結論に自然に達したからである。

実際、客の立場からすると、どちらのチャネルにも満足するところと不満なところがあり、どちらか一方だけしか利用できない、あるいは相互に融通し合えない小売業者よりも、そうではないフレキシブルな業者の方に、どうしても目が行くし足も向く。
自分の限られた経験だけからの話で恐縮だが、これまでネットショッピングで利用してきたいくつかのカジュアルウエア小売チェーン(UQ、GP、RO、UAなど)の中で考えてみても、いまは、そういう融通の利いたサービスを提供するROを重用する傾向にある。

何れも、ブランドとしての商品特性はそれぞれだが、業態はほぼ同じだし、ネット通販か実店舗のどちらか好きなチャネルを選んで買う、ネットで調べ買うのは店でということができるところも共通しているが、ROだけは、もう一歩進んだサービスが受けられる。
ネットショッピングは日時指定で宅配してくれるから手間なしのようではあるけれど、半面、その時間には在宅していなければならないという拘束もあり、商品の受け取りは自分の都合の良いときに店でということも可能ならばさらに便利で、ROではこれができる。

その上ROでは、店頭で取り置いてもらった現物を確かめたとき、もし予想外で気に入らなかったらキャンセルも可能であり、実際に商品を引き取らない限り、支払い義務も発生しない。注文の際にあらかじめカードなどで代金決済をしておく必要がないのだ。
また、ネットで調べて着目し店で確認購入しようと足を運んだとき、そこに在庫がなかったら取り寄せてもらうこともできるし、ネットではセール特価になっているアイテムが店頭で正価のままになっていた場合は、ネット価格にアジャストしてももらえる。

ということで自分も、相変らずチョコチョコといろいろなものを買っていると家内の顰蹙を買わないように、このサービスを上手く利用して、あまり目立たないようにショッピングを楽しんでいるが、真面目な話、小売業は本来、これでなければと思っている。
つまり、昔は“クリック・アンド・モルタル”などと言われいまではほとんど誰もがやっている“店販と通販のダブルチャネル化”ということだけに止まらない、チャネル間のいわば“相互乗り入れ”による“互恵・相乗効果”の創出が必要ということだ。

このことは、マーケティングをマクロに考えた場合ごく当たり前に“マルチチャネル・マーケティング”とか“マルチチャネル販売戦略”という言い方をされ、それなりに浸透したものと思っていたが、最近また別の言い方で、新たなスポットが当たってきたようだ。
それは、“O to O”(Online to Offline)という略語で表され、Weblio辞書によれば、“オンラインとオフラインの購買活動が連携し合う、またはオンラインでの活動が実店舗での購買に影響を及ぼすといった意味の用語”と定義づけられている。

自分がこのバズワードの存在を知ったのは、実は、ごく最近、何かマーケティング関連の目新しいブログネタはないかと、“2013年の広告・マーケティング戦略...”といったキーワードでウエブ上の情報を検索していた途上でだった。
それまで見逃していたが、2月4日のYAHOOニュースに“2013年広告・PR業界注目のキーワードは!?”という一項があって、業界誌「宣伝会議」の本年1月号で、2013年最も注目すべきキーワードとして“O to O”が選出されたと報じられていた。

近ごろは、経済誌は目を通すものの業界誌にはすっかりご無沙汰していたので、恥ずかしながらそれまで気がつかなかったのだが、調べてみるとそれ以前の2011年ごろにも、この用語に注目した記事が、日経新聞電子版や業界関係者のブログに載っていた。
さらにその出自を辿って米国のサイトも覗いてみると、どうやら遅くとも2010年にはすでに、この略語は使われ始めていて、もともとはLocal Commerce、Mobile Commerceの観点から、ネットから実店舗への送客戦略として唱えられ出したらしいこともわかった。

スマホの普及で、Eコマースのモバイル部分が急速にメジャー化し、ソーシャルメディアなどをベースにした地域密着型情報発信が店舗送客に大きく寄与することがわかって、改めてオンラインとオフラインの密接な連携の重要性が認識されたからだったようだ。
確かにこれは、ある種のマルチチャネル戦略ではある。が、自分が認識しているようなマクロで双方向的なものではなくて、どちらかと言えばオンライン主導の単方向的なものであり、そのあたりのニュアンスが、O to Oの“to”に出ているような気がする。

タイミングを逃して実際に宣伝会議1月号の記事を読んでいないので、当たっていないかも知れないが、広告業界もこのO to Oに注目しているのは、多分、米国が起点となって日本にも着実に及んでいるこのトレンドに、大きな商機ありと見ているからなのだろう。
まあ、それはそれでいいが、こうなったらこのO to Oには、オンからオフだけではなくて、オフからオン、つまり店舗からネットへという流れも併せ持つようにして行かなければなるまい。そのようなバランスが実現されたとき、この戦略は完璧なものとなる。

聞くところによれば「楽天」の三木谷社長も、“O to O抜きでは楽天のビジネスモデルは完成しない”と言っているそうだが、自分が考えているのと同じような“双方向性を持ったヴァーチャル(ネット)とリアル(実店舗)の融合”のことを指しているのだろうか?
細かいことを言うと実は、O to Oという呼称のtoの単方向性が少し引っかかって、このような戦略はごく平凡に“マルチチャネル・マーケティング”と呼んだらいいのにと思っているのだが、実体が整って来さえすれればそれはどうでも良いかも知れない。

いまさら秘策・新策というほどでもなく、当然の基本策だが、楽天のようなオンライン・ベースの新興企業だけでなく、オフライン・ベースの伝統的な各企業も、固定観念を取り払ってぜひこの際、業績アップ・拡大のために、この戦略を取り入れてもらいたいものだ。

成功のための具体的施策? それは、企業主導という発想を切り替え顧客の立場になって考えれば、自ずと浮かんで来るはずだ。

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2013年2月 4日 (月)

春立ちぬ

...と言いきってしまうにはまだ少し早いかもしれないが、確かに寒の内よりは寒さが和らいだと感ずるようになってきた今日このごろ。2月に入って今日は立春...近年珍しく、暦の上での節気と実際の気候がほぼ合致していることを実感する。
陽が落ちるとさすがに一気に気温は下がるが、朝のムッシュとの散歩どきなどはもう、かつての刺すような冷えはなく、道端の植え込みには、連日見かけた霜柱も立っていない。明らかに、陽光には暖かみが加わってきた。

しかし相変らず、パソコン時はもちろん、何もしていなくとも、室内での手袋はなかなか外せない。そのお蔭か今年の霜焼けは、昨年ほど酷くなってはいないが、それでも傍目には気の毒なほどに映るらしく、家内に勧められて1年ぶりに皮膚科へ行って来た。
テレビはあまり見ないが、本とパソコンで目が疲れて仕方がないので眼科にも。が、別に視力が落ちているわけでもなく、齢相応で仕方がなかろうということで、ドライアイ治療と白内障予防の点眼薬を処方されて帰って来た。

というわけで、アチラが終わればコチラと、こまごまとした医者通いはなかなか絶えないが、懸案だった消化器系の検査・診察は、どうやら、これまでのように毎週あるいは隔週といったほどのことはなくなって、かなり間遠になった。
前回のブログアップ日の翌日・翌々日と、告知していた大腸ポリープ切除部の病理分析とピロリ菌除菌薬服用効果判定の結果が出たのだが、それぞれ次の訪院・検査は、1年後および2ヵ月後でいいということになった。

上記の結果は、こんな言い方をしては適切ではないかも知れないけれども1勝1敗の成績。まことに幸いなことに、大腸ポリープの方は良性だった(つまりガンではなかった)が、残念なことに、ピロリ菌の方は除菌でき切れていなかった。
そのため、またまた大粒かつ大量の抗生物質(4カプセル+1錠)を、1日2回1週間、服み続けなければならない破目になり、その苦しみからやっと先日解放されたばかり。胃の再発や腸の悪性化を防ぐためとは言え、なかなか楽ではない。

話は変わるが、このところ我が家では、例の、次々と明らかになってくるアマチュア体育競技指導者の一連の体罰事件の話題で沸騰している。と言っても、自分と家内の見解が異なり紛糾しているわけではない。むしろ、これに関しては珍しく意見が一致している。
二人とも、高校時代は運動部に属し(家内はバスケットボール、自分は野球)、その方面での名門校では決してなかったけれども、一応は平均的なそのころの高校運動部生活を経験しているから、この問題に無関心ではいられないのだ。

自分たちの限られた範囲での体験・知識・伝聞だけからものを言うのは独り善がりのそしりを免れないだろうし、またそれもたまたまのことだったかも知れないが、単純な結論から先にいうと自分たちの時代、周辺では、あれほどまでのことはなかった。
家内の学校は旧高女系の共学校で、男性の運動部監督や顧問などはいなかったそうだから、当然あのようなことは起ころうはずもなく、自分の方も、かなりバンカラな校風の男子校だったにもかかわらず、そういったことはついぞ聞いたことがなかった。

ただ自分の場合、いわゆる1000本ノックとかグラウンド100周(ほんとに1000本や100周なわけではない)といった、ブッ倒れるまでの猛練習はあった。が、これは、辛くはあったけれども、後で、瞬発力や耐久力を養うためのトレーニングとして理解できた。
監督・顧問やコーチからゲンコツやビンタを喰らったことは一度もない...自分だけでなく、部員の誰もがそうだったし、友人たちが所属していたバスケットや柔道やラグビーなど他の運動部、他校の野球部でも、知る限りそんな話はなかった。

体罰は運動部の必要悪的伝統...みたいな暗黙の思い込みが、昨今の体育会出身者のマインドのどこかに潜んでいるような気がするが、いつからそんなことが、高校体育の中でも罷り通るようになったのだろうか?
自分たちの時代、高校運動部全般についてはどうだったか知る由もないが、自分の周辺だけが特殊だったとも思えない。根拠はないが、全国的にそのような極端なことはなかったと思う。当時は、戦前の軍国主義に対する反動で、教育の現場は意外に民主化していた。

それがいまの強権的管理の体質に変わり始めたのは、もっと後からのことだったのではなかろうか。これも根拠はないが、東京オリンピックなどがあってスポーツ至上主義が高まり、そのためなら多少のことはやむを得ないとされる風潮が生まれ始めたころか...。
その先頭に立ったのが戦前の軍国主義的教育を受けて来た指導者たち...自分らなどより一回り以上年上の人々だ。そして、その人たちに直接教育・指導を受けたのが戦後生まれ、自分らよりも一回り近く下の世代。自分たちはちょうどその狭間にあった。

自分たち戦中派は、良くも悪くも、戦前と戦後の両極端の教育を受け、第2次大戦の敗戦を境にその価値観が180度転換するという混乱を経験したので、いささかアナーキーなところがあり、人格形成時期に、戦前派・戦後派のどちらにも与することができなかった。
つまり、スポーツに限らず、学校や職場や組合などで後輩・次世代を指導してゆく際に、何の疑いもなく“しごきの鬼”になり切れるほどの信念も持てず、常に懐疑的で、他人を攻撃するより自己批判が先に立った。

だが、嫌な記憶もある。小学校の低学年のとき、戦前派の教師がクラス担任になり、軍人志望で果たせなかったとかのその教師は、戦争はすでに終わっていたというのに、わずか十歳にも満たない児童を対象に、自分の思い描いていた軍国主義を実現しようとした。
クラスはいくつかに班分けされ、ある班の誰か一人が何かミス(他愛もないことだったと思う)をすると、連帯責任だとして班長がその班全員を平手打ちし、こんどは全班長を級長が同じようにして、最後に級長が教師に、吹っ飛ぶほどの往復ビンタを張られたのだ。

往復ビンタを張られた児童とは、実は自分で、その度に、痛みや恐怖のみならず、子供心にも納得できない理不尽さを強く感じた。だから“なぜボクだけをシバく...”という顧問宛の手紙を遺し自殺した桜宮高校バスケットボール部主将の気持は察して余りある。
幼かったから、そこまで思い詰めるに至らなかったし、“これは体罰でも何でもなくてただの暴力に過ぎない”とか“自尊心を傷つけられた”とか意識する知恵も術もなかったが、こんなことは何のタメにもならないのにという思いだけは、深く胸の底に残った。

教育やスポーツの現場で、ハードトレーニングは能力・体力の向上のためにあって然るべきだろうし、原義ではなくて比喩的な意味での“スパルタ式訓練”も肯定できる範囲内にあるが、体罰の導入はどう見ても科学的な根拠がなく、何の役にも立たないと思う。
体罰で信頼関係が形成されるなどという理屈も成り立たない。そこにあるのは、教師と生徒、監督と選手といった立場を利用して絶対服従を強請する主従関係の形成、その上に立った上位者の特権意識から来る自己満足でしかない。

スポーツ至上主義結構。それを個人や学校や企業や国家の達成目標の一つにするのもアリだとは思うが、そこに体罰(というより実態は明らかに暴力)を持ち込むのは、決してあってはならないことと思う。一部でとは言え、それが構造的に黙認されていた罪は大きい。
プロは、そのような考え方を捨て切れなかったら悪しき結果が自分自身に戻ってくるだけだから自業自得だが、アマの場合は、間違った指導者がついたら自分の人生・将来が台無しにされるという大問題が起きる。ここは根本的に改革しなければならないところだろう。

橋本大阪市長の言を批判する向きもあるが、我が国の教育やスポーツを長期的視点で考えるとき、それぐらいの抜本的なことをしなければ同じことがまた繰り返される。
春が立ち、万物が希望にふくらむ息吹を感ずるようになったと思っていたが、心も冷えつきそうな連日の報道から、つい我が身の昔まで振り返って、この問題を考えてしまった。

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