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2011年12月19日 (月)

地下鉄銀座線

師走のある日の午後のひととき、上北沢に住んでいるTさんと、ほぼ1年ぶりに、渋谷マークシティで会って、遅いランチを楽しんできた。以前にもここで書いたように、Tさんとは、仕事上のお付き合いから始まって、趣味を同じくするのを知ったところから、40年以上も続いている無二の遊び友達になり、つい先年まで、月1回のカラオケを楽しみ合う間柄だった。が、お互いの病気などのため、だんだん夜遊びを控えるようになり、このところ2~3年は、もっぱら、たまに会って食事をしながら、お互いの近況を報告し合い、健康談議に花を咲かせるだけになっている。
その日も、食べて、それぞれの体調や最近の医療情報、そのうちぜひ一曲、など、ひとしきり喋った後は、サッと切り上げて、暖かくなったころにまた...と、後日の再会を約した。が、せっかく久し振りに渋谷まで出て来たのだから、ちょっと買い物でもして行くかと、T急百貨店の東横店に寄るつもりで、マークシティの3階から、長い渡り廊下のようなところを通って、そちらへ向かった(つもりだった)。ところが、地下鉄銀座線の乗車専用改札口を右に見て、正面の古い階段を下りれば東横線改札向いの百貨店入口の前に出る...と思っていたら、とんだカン違いで、同じ2階でも、JR玉川口改札横に出てしまった。

渋谷駅の玉川口を利用されている方はよくご存知と思うが、この改札前のホールは、山手線外回り以外は、内回り・埼京線・地下鉄銀座線・半蔵門線・副都心線など、どの方面へもストレートには行けず、しかも段差を覚悟しなければならないという、中途半端でヤヤコシいところ。そこから百貨店へ入るためには、同階の店舗エリアの陰に隠れたエレベーターかエスカレーターを使えばいいのはわかっていたが、それにしても、店内の目指すフロアーに出るにはどこかでまたそれを乗り換えるか、かなり複雑に迂回するかしなければならなくなる(この百貨店の宿命!)ので面倒になり、いっそ地元のたまプラーザ店にでも寄って帰ろうと、そのまま地下へ向って(これも階段!)帰途につくことにした。
後で考えてみると、どうやら、もう一つ東側にある乗車ホーム直結の階段と間違えたようだったが、そのとき通り過ぎてきた改札口付近は、以前とくらべて幾分小ぎれいになったような気はしたものの、相変わらず天井が低くて狭苦しく、案内板も昔のまま。地下鉄なのに3階になるこの渋谷駅は、田舎から出て来たばかりのころ(昭和30年)は乗るにも降りるにも面食らったが、いま進行中の東横線の地下駅化・副都心線乗入れに伴って、大改造が行われるとか...。そうなったら、広さや天井高の問題は解決されるだろうが、わかり難さの方はどうなるのだろう。改造後も銀座線は3階のままらしいが、せめて、長年東京で暮らしている人でも時たま間違える、迷路のようなアクセスはなくしてもらいたい。

地下鉄銀座線についてそんなことを考えながら、田園都市線に揺られて帰宅したが、何とその晩、偶然にも、その銀座線のことをかなりディープなところまで掘り下げたテレビ番組に遭遇した。NHKの「ブラタモリ」だが、その夜は“地下鉄誕生の秘密”というタイトルで、東京メトロ銀座線の知られざる舞台裏を紹介していた。「ブラタモリ」は、原則的に東京都内の現在の街並に見え隠れする歴史の痕跡を、タモリの一癖も二癖もある視点・目線で探し歩くユニークな“街歩き”番組だが、そのマニアックさがこたえられず(それに井上陽水作・唱のエンディング・テーマ「MAP」もいい)、以前からよく視ていた。
この回も興味津々だったが、特に面白かったのは、現在銀座線と呼ばれている路線は、実は“浅草―新橋”間を「東京地下鉄道」、“渋谷―新橋”間を「東京高速鉄道」という、2つの別々の会社が敷設したもので、初め新橋駅はそれぞれに1つずつあり、全線統合されたときに東京高速鉄道の方が廃駅にされ、そのホームがいまも残っていること、東京地下鉄道が神田川の下をくぐり抜ける工事期間だけ仮設置されたため幻の駅と呼ばれている“万世橋駅”のホームも現存し、秋葉原のラオックス本店前歩道の地下鉄換気口から下りて行けること...など。初期には、硬貨を入れると90度回転する“ターンゲート・スタイル”という、昔のニューヨーク(はコインでなくトークンだったが)のような自動改札が導入されていたことなども、“へー、日本でもそうだったのか”と、改めて感じ入った。

銀座線は、日本の地下鉄第1号として誕生し、ちょうど自分が生まれた時代に全線開通したようだが、自分が上京して来たころも、東京にはまだそれ以外の地下鉄路線は存在していなかった(厳密には丸ノ内線の一部だけが開通していたらしいけれども)。それだけに、渋谷・青山・赤坂・虎ノ門・新橋・銀座・日本橋・上野・浅草といった当時の東京都心のほとんどの繁華街・オフィス街を縫うように走り、浅草松屋、上野松坂屋、日本橋三越・高島屋、銀座松屋・三越・松坂屋、渋谷東急(東横店)などの百貨店とも地下で直結していたこの路線はまことに便利この上なく、あのころからズッと、通勤に仕事での移動にそしてプライベートにも、都内での交通手段として不可欠なものになっている。
サラリーマンになってからは、自宅と勤務先と取引先の位置関係から、銀座線がメインではなかった時代もあったが、渋谷・青山・新橋にオフィスがあり、赤坂・虎ノ門・銀座などに取引先があった期間もけっこう長かったので、早くて本数が多くて時間の正確なこの電車は、どれほど重宝したかわからない。いまでも銀座線は、毎年、広告電通賞の選考会(汐留に出るために新橋まで)や、業界団体の本部に顔を出すとき(三越前まで)など利用するし、日展や示現会展が東京都美術館で開催されていた時代(2006年まで)には、毎年、上野までこれで行っていた。

考えてみると、他の(特に新しい)地下鉄路線の駅には、まだ乗降しておらずしたがって近辺の様子もピンと来ないところが少なからずあるが、銀座線の駅は長い間にすべて乗り降りしており、そのたいていの駅のホームや地下道や地上出口付近の景色は頭に入っている。もっとも、上野より先の稲荷町や田原町などは最近とんと用事がなくて行っていないから、しばらく見ないうちに、すっかり様子が変わってしまっているかも知れないが...。そう言えば浅草にも、ここのところずいぶんご無沙汰だ。昔はよく、暮れや正月に仲見世をブラついては大黒家に寄って、江戸前の天丼を楽しんで来たものだったが...。
思い出に残っているところと言えば、やっぱり、先ずは上野の地下街か。いまは「メトロピア」だか「エチカ」とかいうカタカナ名前の小洒落たショッピングモールになっているらしいが、その昔は数十軒の大衆食堂が軒を連ね、上野駅で乗降する旅行者にささやかな満足感を提供していた。東北なまりがとび交い故郷の匂いがするこの街の食堂で帰省の夜行列車に乗る前に黙々と掻き込んだ、あのカツ丼の味が忘れられない。忘れられないと言えば、今年の初めまで数軒が細々と営業を続けていた神田駅の「地下鉄ストア」も。天井が低くて仄暗く、なにやらうら寂しさも漂っていた、あのレトロ感がたまらなかった。

ところで、知っている人はとっくの昔に知っていたかもしれないが、自分としてはやっと最近になってわかったことがある。それは、銀座線のホーム長の謎。渋谷もそうだけれども、赤坂見附・銀座などのホームで電車を待っているとき、どうも銀座線のホームは他の地下鉄のホームよりもかなり短いのではないかと感じていた。幅も狭く天井も低いし、どうしてかなと思っていたら、これは、建設費を抑えるため架線ではなくて線路脇のレールから集電することにしてトンネル断面を小さくし、その結果車両自体も小さく短くなり、6両編成の全長も100m弱になって、短いホームでも足りることになったということだ。
でも、それなら“なぜ6両編成なのか?”という突っ込みが当然入り、その答えは“運行開始当時はそれで収容能力は十分と思われていたから...”と、いささかアヤフヤになって、それよりも、わずか15km足らずの路線距離の中に19駅という、他路線とくらべて極端に高い駅密度こそが、短い車両・短いホームの根本原因に他ならないという説の方がもっともらしく思えてくる。が、この鶏と卵のどちらが先か、本当のところはよくわからない。また、後で知ったことだが丸ノ内線も銀座線と同じ集電方式(第三軌条)で6両編成だというけれど、丸ノ内線のホームがあまり短く感じられないのはなぜなのだろう?約25km内に25駅という、銀座線よりも余裕のある駅密度がそう感じさせるのだろうか?

あまり興味のない方には、どうでもいいことだったかも知れないが、キッカケがあったら一度語ってみたいと思っていた地下鉄咄。こうやって書いてみて、自分も嫌いな方ではないと気がついた。子供のころから鉄道地図は好きだったけれども“鉄ちゃん”の意識はまったくなかったが、もしかして、“駅鉄”とか“路線鉄”とかいう言い方があるとしたら、自分はその端くれなのかも知れない。

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