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2011年12月 5日 (月)

人生いろいろ

家の花々 生垣のサザンカや鉢植えのクリスマス・カクタスが一杯に花をつけて、本年もとうとう、12月に入った。このところ、ポツリ、ポツリと、喪中欠礼の葉書が送られてくるようになり、そろそろ年賀状の宛先整理を始めなければと気を急かされて、年の瀬が迫って来たことを実感する。古希を越えてからは毎年のように感じていることだが、今年も、ここまでアッと言う間だった。未曽有の大災害のあった前半もそうだったが、自分的には、検診・入院・手術・療養で明け暮れた後半を、特にそう感じる。
この時期になると、ツイ、そうやって1年を振り返るのが癖になってしまっているが、同時に、この齢になると毎年、その1年ずつを積み重ねて来た長い歳月をも振り返り、いまさらどうしようもないのに、自分のこれまでの生き方を、あれこれ反省してみたり納得してみたりして、フと、心が未だ満たされぬような、でも、ある程度は満たされているような、微妙な感懐を抱くことがある。今年の後半のような、いろいろな分野の注目される立場の人々の生き様が、事件や訃報のかたちで世間の耳目にさらされた年は、特にそうだ。

学校の勉強は良くできたけれどもカジノに溺れて、自分が会長の立場にあった企業の子会社グループから途方もない巨額の金を借り出した、大手製紙会社の創業3代目。人気プロ野球球団を持つ巨大マスコミの最高権力者の球団人事への介入を、企業コンプライアンス違反と告発して退任を迫り、逆に解任されたその球団のGM。自分が魅かれて飛び込んだ伝統演芸界のしきたりに不満を唱えそこを飛び出し、破天荒な言動で物議をかもしながらも実力で自らの一派を成して生涯を全うした落語界の異端児。...などに関して聞えて来るさまざまな話には、いまの境涯に辿り着くまで必ずしも平坦な道ばかりは歩んで来なかった自分も、多々感じさせられるところがあった。
例の製紙会社の事件は、中小企業ならいざ知らず、いやしくも上場企業でそういうことが起こり得るのかというのが、この報道に接したときに先ず頭に浮かんだことだったが、創業家の一族が経営の実権を握っている会社と知って、ありそうな話だと腑に落ちた。そういう会社で働いたことも、そういう取引先と付き合ったこともない自分には想像もつかないが、そういうことが長い間明るみに出ないで済んでいたこの企業グループの経営幹部たちは、一体、どこを向いて、何を目的として生きてきたのかと思う。

親会社の巨大マスコミから出向させられて子会社の人気プロ野球球団のゼネラル・マネジャーになった人物が、自分の専管事項だという球団人事の決定を親会社のワンマン会長が引っくり返したからと言って理不尽と抗議し退陣を迫った事件も、一見小気味良いような気がしないでもないけれども、その背景に実はあるのかも知れない真の目的と、直接対決ではなくて第三者に訴えるという方法を選んだ意図がよくわからない。なので、自分もそうだが世の宮仕えサラリーマン諸氏にも、共感できなくもない部分と覚めてしまう部分が出てくるのではないだろうか。
そこへ行くと、かの異端児落語家の生き様は、好き嫌いは別にしてわかり易い。少なくとも自分の仕事のフィールドでは、体制におもねず組織に頼らず、自分流を貫き通したところは見上げたもので、ときに顰蹙を買い、問題を引き起こすこともあったが、思うまま、気ままにものを言い行動しながらも、仕事の上での業績はチャンと残したのは立派。好きな道に入って、一生それを追求して、それが自分の満足にもつながるという生き方は、したいと思っても普通なかなかできるものではないが、それをかなり強引にやってのけたこの男、ある意味では羨ましい。

顧みて、自分の生き方はどうだったろうか?自分は、個人事業者としてやっていけるほどの特別な才能も甲斐性もなかったので、結局、当たり前に会社勤めをするというかたちで、学校を出て以来の半世紀近くを過ごしてきたが、その間、必ずしも自ら望んでのことではなかったけれども、数回、働き場所を変えた。より納得行く(仕事的にも経済的にも)働き方が可能になるためにそうしたことがほとんどだったが、不本意ながらそうせざるを得なかったことも、間々あった。別に、飽きっぽかったわけでも腰が落ち着かなかったわけでもなく、自分の前に展開された機会に積極的に関って行った結果、そうなった。
会社は度々変わったが、仕事のフィールドは変えなかったので、自分としてはこの半世紀に、あまり不連続性・不整合性を感じてはいない。が、そのために、しなくていい苦労もしたし、家族をはじめ周囲の親しい人々には心配もかけたようで、いまとなってそれに気付き、遅まきながら済まなかったと思い、もし自分も多くの友人たちのように、1つの会社で自分の仕事人生を全うすることができていたら、どんなに幸せな一生だったかと思わないでもない。でも、人それぞれ、価値観もいろいろだから、自分個人としては、いまにつながっているこれまでの自分の生き方を、悔やまないことにしている。

考えてみると、自分がそういう道を辿ることになったのには、どうも、世に出て最初に勤めた会社の企業風土を通じて培われた価値観・思考スタイルが大きく影響しているようだ。終戦直後に日本に上陸した米資の出版社だったが、社長から新入社員まで、肩書きでなく個人名で呼び合い自由に意見を主張し合うようなリベラルな社風、年齢や経歴や男女の別や人間関係などに関わりなく仕事の上で実力のある者が登用され評価される明快な能力主義は、生来気ままで世渡り下手な自分のような者にも極めて馴染み易く、それが、後年にいたるまで、自分の求める生き方の基準になった。
まだ一人前ではなかった入社したてのころは別として、タフな経験を積み自信もつき、社内における自分の存在価値を認めてもらえるようになってきてからは、会社と自分とは、雇用・被雇用というよりも、責任と成果をめぐっての契約関係にあると理解するようになり、会社に対しては、自主的な貢献意欲は持っていても、ウエットな依存心や忠誠心というものは、だんだん希薄になって行った。そして、仕事上で意見の不一致が出てくるようになったり、会社と自分の間のギブアンドテイクのバランスが崩れてきたときには、お互いに訣別を意識することも仕方がないのかも知れないと割り切るようになった。

そうやって、キャリアアップを目指し、前向きに転進を重ねて行ったわけだが、成功だったときばかりではなく、失敗も一度ならずあった。いつも迷いのないポジティブな気持ちでいられたわけではなく、実は、悩み苦しんだことも少なくなかった。籍を置いた会社がすべて100%の外資企業ばかりだったわけではなく、合弁会社や純国内資本の会社だったこともあって、カルチャーの食い違いや衝突もあり、スペシャリストや部門責任者としての立場から経営者としての立場に変わったことでの、持ち味発揮の難しさも痛感した。
だが、身についてしまった思考スタイルや価値観は、おいそれと変えられるものではなく、どこへ行っても自分は、“長いものには巻かれよ”といった身の処し方はできず、“権力闘争”などということにも興味は持てなかった。そしていつしか、自分が目指すべきは、組織のしがらみに囚われずに、仕事上の契約を成功裡に遂行することによって、会社に寄与すると同時に自己の能力も高めて行くことと思えてきて、ゴールは、ひとつの会社の中で階段を登りつめることではなく、どこへ行っても通用する能力を有する人間になることではないか、という信念を持つようになっていた。

働いてきた組織がいわゆる大企業ではなかったから、自分には、話題の会社のような事件について穿ったコメントはできないが、長く外資会社にいた者の視点から言わせてもらうならば、これは良くも悪くも情緒的な、日本の企業ならではの展開ではないかという気がする。欧米の企業だったら、こんな経過を辿らずにもっと早々と、シンプルでドライな結論が出されているのではないだろうか?
たぶん多くの人が、我が身・我が社の場合に置き換えてこの事件に興味を寄せていると思うので、自分も、仮に当事者の一人だったとしたらどういう行動を取ったろうかなどと考えを廻らしてみたが、簡単に結論は出なかった。そもそも、自分のような気まま者は、こういう企業には初めから受け入れられなかっただろうし、受け入れられていたとしても、我慢できなくなって、途中で飛び出していたかも知れない。

最近の話題に触発されて、思わず自分の来し方を振り返り、いまさらながらそれに理屈づけをしてしまったが、本音を言えば、我が子らの世代はこの父親のように突っ張らず、もっと柔軟で堅実な生き方をして、無事に平穏に、いま父親がいる地点よりも遠くまで辿り着いて欲しい...そんなことを、年の暮れのこのごろ、頻りに思う。

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コメント

> いま父親がいる地点よりも遠くまで辿り着いて欲しい...

腹に浸み渡りました。。。

投稿: 山本隆 | 2011年12月 5日 (月) 16時23分

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