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2011年12月

2011年12月26日 (月)

かくて、今年も暮れ行く

いつもの2週間に1回のペースだと、次回が正月三が日と重なってしまい、新年早々気忙しくなるような気がするので、年末ご挨拶を兼ねてもう1回書かせていただく。

12ヵ月経つのが、年毎に早くなって行く。今月も、師ではないけれども走り回って、もはやあと数日。今年は、社会的にも個人的にも、実に忙しく、何かと波乱含みの1年だった...。特に12月はいろいろあって...。
というのも、実は、すでに報告している胃の手術のアフターケア以外に、甲状腺機能低下症と歯周炎の治療のため、内科と歯科・口腔外科などへも通院していたので...。これは、最近始まったわけではなく、考えてみたら甲状腺などはもう1年半以上前からのことになるが、その合間を縫って(?)毎年、外科手術も受けているのだから、忙しいわけだ。これで風邪でも引いたら目も当てられないが、幸いいまのところ、その兆候はない。

病気話は辛気臭いし、聞かされる方も鬱陶しいだろうから、もうするつもりはなかったのだが、3年続けての入院・手術の上に、こうアチコチの具合が悪くなってくると、凡人はツイ口に出してストレスを発散したくなる。運悪く今回を読まれた方は平にご容赦を。
それにしても数年前までは、人間ドックに入ってもほとんどどこも異常なく、花粉症の時季以外は常用薬など処方されたことがないのを自慢にしていたが、いまでは毎日、朝4種類、晩2種類の薬の服用を命じられている身。いろいろな診療科目の医者から決まって言われることだが、やはり加齢(!)のせいなのだろうか?

家内は長年、循環器科と整形外科のお世話になっていて、そのお蔭で、常時健康管理がなされているかたちになっており、自分ほど極端なアップダウンなく、まずまず年齢相応の元気さを維持できているが、最近、もう一人(1匹?)の家族、ムッシュが、動物病院に入院、手術を受ける羽目になった。
半年前に、左耳の下部に血疣のようなものができているのに気がついて病理検査をしてもらったところ、良性の黒色腫という診断で、積極的な治療も薦められないまま、自分の病気のこともありそのままにしていたが、気になって、別の病院でセカンド・オピニオンを聞いたら、やはり手術して除去するに越したことはないと言われた。

ついでに、他部位・臓器の診察・検査もしてもらったら、四肢や内臓には特に悪いところはないが、だいぶ歯石が付着しているのでかなり抜歯しなければならないかも知れないと言われ、大ショック。自分でも気をつけて、ガーゼなどで歯磨きしてやってきたつもりだったが、効き目がなかったようで、ムッシュに申し訳ない気持ちになった。
黒色腫のこともそうだが、適切なアドバイスをしてくれなかった前の先生を恨めしくも思ったけれど、いまさら後ろ向きなことを言ってみても始まらず、手術・抜歯は可哀そうでも、それによって今後の健康が確保されるならと、新しい先生の励ましを聞いて前向きに考えることにした。

さて、そんな諸々はあったが、ムッシュは無事、手術部位の抜糸も済み、付けていたエリザベスカラー(ペットの怪我や手術の後など患部を舐めたり触ったりしないように首に巻きつけるパラボラアンテナ状のプラスティックの襟巻)も取れて、歯はだいぶ少なくなったものの、すっかりいつもの元気さに戻った。職人さんに入ってもらい庭木と生垣の剪定も終わったし、年賀状も出し終えて、あとは除夜の鐘を待つばかり。
本年は、自分もあまり大掃除とか張り切って無理をせず、家内のお節料理の支度も、適当に手を抜いてもらうよう懇請した。何と言っても、体調第一だし、少なくとも年内一杯は寒気が厳しいようだから...。家内は無理をしないでと言っているが、大晦日から元日にかけての、ご近所御嶽神社への恒例初詣は行くつもりだ。そのために、完全防寒用のロング・ダウンコートも買って、用意は万全だ。

今年は、病気がちだったとは言え、年頭に抱負として掲げていたことがほとんどできなかったので、来年については、それを持ち越して実現できれば良しとし、それ以上の大きなことは言わないでおく。
ただ、望むらくは、身体が動き体力がいま程度あるうちに、もう一度でいいから、ゲレンデ、リンク、グリーンに出て、スキー、スケート、ゴルフをしておきたい。...と言ったら、何を無理して...と笑われるだろうか?それには先ず、手術後の順調な回復が前提なのはわかっているし、こうやって普通に暮らせているだけでも有難いと思わなければならず、贅沢は言えないのかも知れないが...。

年が明けたら、もう1つの恒例初詣、川崎大師にも行くつもりでいる。無理をしようというのではない。あそこまで出掛けるのはMy Pleasureだし、長年続けていてまだまだイケると思っているものを、用心深くなり過ぎて中止するのもスッキリしないから...。
いつもだいたい1時間、徐行でしか進まない行列に並んでお参りの順番が来るのを待つが、文庫本1冊とiPodを携帯して行けば、それくらいは一向に苦にならない。そのためも含めてお正月の暇つぶし用に、新刊書を3冊購入し、図書館からも4冊借りてある。

毎年末に振り返っているが、この、気ままに書き飛ばしてきた備忘ログも、お蔭さまで満6年経った。7年目も、自分が70代の中間点に達する直前の1月9日から始めて、基本的にこれまで同様のペースとタイミング(2週間に1回、原則月曜日)で続けて行きたいと思っているので、相変わりませず宜しくお付き合いのほどを...。

本年はまことに有難うございました。どうぞ、良いお年を!

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2011年12月19日 (月)

地下鉄銀座線

師走のある日の午後のひととき、上北沢に住んでいるTさんと、ほぼ1年ぶりに、渋谷マークシティで会って、遅いランチを楽しんできた。以前にもここで書いたように、Tさんとは、仕事上のお付き合いから始まって、趣味を同じくするのを知ったところから、40年以上も続いている無二の遊び友達になり、つい先年まで、月1回のカラオケを楽しみ合う間柄だった。が、お互いの病気などのため、だんだん夜遊びを控えるようになり、このところ2~3年は、もっぱら、たまに会って食事をしながら、お互いの近況を報告し合い、健康談議に花を咲かせるだけになっている。
その日も、食べて、それぞれの体調や最近の医療情報、そのうちぜひ一曲、など、ひとしきり喋った後は、サッと切り上げて、暖かくなったころにまた...と、後日の再会を約した。が、せっかく久し振りに渋谷まで出て来たのだから、ちょっと買い物でもして行くかと、T急百貨店の東横店に寄るつもりで、マークシティの3階から、長い渡り廊下のようなところを通って、そちらへ向かった(つもりだった)。ところが、地下鉄銀座線の乗車専用改札口を右に見て、正面の古い階段を下りれば東横線改札向いの百貨店入口の前に出る...と思っていたら、とんだカン違いで、同じ2階でも、JR玉川口改札横に出てしまった。

渋谷駅の玉川口を利用されている方はよくご存知と思うが、この改札前のホールは、山手線外回り以外は、内回り・埼京線・地下鉄銀座線・半蔵門線・副都心線など、どの方面へもストレートには行けず、しかも段差を覚悟しなければならないという、中途半端でヤヤコシいところ。そこから百貨店へ入るためには、同階の店舗エリアの陰に隠れたエレベーターかエスカレーターを使えばいいのはわかっていたが、それにしても、店内の目指すフロアーに出るにはどこかでまたそれを乗り換えるか、かなり複雑に迂回するかしなければならなくなる(この百貨店の宿命!)ので面倒になり、いっそ地元のたまプラーザ店にでも寄って帰ろうと、そのまま地下へ向って(これも階段!)帰途につくことにした。
後で考えてみると、どうやら、もう一つ東側にある乗車ホーム直結の階段と間違えたようだったが、そのとき通り過ぎてきた改札口付近は、以前とくらべて幾分小ぎれいになったような気はしたものの、相変わらず天井が低くて狭苦しく、案内板も昔のまま。地下鉄なのに3階になるこの渋谷駅は、田舎から出て来たばかりのころ(昭和30年)は乗るにも降りるにも面食らったが、いま進行中の東横線の地下駅化・副都心線乗入れに伴って、大改造が行われるとか...。そうなったら、広さや天井高の問題は解決されるだろうが、わかり難さの方はどうなるのだろう。改造後も銀座線は3階のままらしいが、せめて、長年東京で暮らしている人でも時たま間違える、迷路のようなアクセスはなくしてもらいたい。

地下鉄銀座線についてそんなことを考えながら、田園都市線に揺られて帰宅したが、何とその晩、偶然にも、その銀座線のことをかなりディープなところまで掘り下げたテレビ番組に遭遇した。NHKの「ブラタモリ」だが、その夜は“地下鉄誕生の秘密”というタイトルで、東京メトロ銀座線の知られざる舞台裏を紹介していた。「ブラタモリ」は、原則的に東京都内の現在の街並に見え隠れする歴史の痕跡を、タモリの一癖も二癖もある視点・目線で探し歩くユニークな“街歩き”番組だが、そのマニアックさがこたえられず(それに井上陽水作・唱のエンディング・テーマ「MAP」もいい)、以前からよく視ていた。
この回も興味津々だったが、特に面白かったのは、現在銀座線と呼ばれている路線は、実は“浅草―新橋”間を「東京地下鉄道」、“渋谷―新橋”間を「東京高速鉄道」という、2つの別々の会社が敷設したもので、初め新橋駅はそれぞれに1つずつあり、全線統合されたときに東京高速鉄道の方が廃駅にされ、そのホームがいまも残っていること、東京地下鉄道が神田川の下をくぐり抜ける工事期間だけ仮設置されたため幻の駅と呼ばれている“万世橋駅”のホームも現存し、秋葉原のラオックス本店前歩道の地下鉄換気口から下りて行けること...など。初期には、硬貨を入れると90度回転する“ターンゲート・スタイル”という、昔のニューヨーク(はコインでなくトークンだったが)のような自動改札が導入されていたことなども、“へー、日本でもそうだったのか”と、改めて感じ入った。

銀座線は、日本の地下鉄第1号として誕生し、ちょうど自分が生まれた時代に全線開通したようだが、自分が上京して来たころも、東京にはまだそれ以外の地下鉄路線は存在していなかった(厳密には丸ノ内線の一部だけが開通していたらしいけれども)。それだけに、渋谷・青山・赤坂・虎ノ門・新橋・銀座・日本橋・上野・浅草といった当時の東京都心のほとんどの繁華街・オフィス街を縫うように走り、浅草松屋、上野松坂屋、日本橋三越・高島屋、銀座松屋・三越・松坂屋、渋谷東急(東横店)などの百貨店とも地下で直結していたこの路線はまことに便利この上なく、あのころからズッと、通勤に仕事での移動にそしてプライベートにも、都内での交通手段として不可欠なものになっている。
サラリーマンになってからは、自宅と勤務先と取引先の位置関係から、銀座線がメインではなかった時代もあったが、渋谷・青山・新橋にオフィスがあり、赤坂・虎ノ門・銀座などに取引先があった期間もけっこう長かったので、早くて本数が多くて時間の正確なこの電車は、どれほど重宝したかわからない。いまでも銀座線は、毎年、広告電通賞の選考会(汐留に出るために新橋まで)や、業界団体の本部に顔を出すとき(三越前まで)など利用するし、日展や示現会展が東京都美術館で開催されていた時代(2006年まで)には、毎年、上野までこれで行っていた。

考えてみると、他の(特に新しい)地下鉄路線の駅には、まだ乗降しておらずしたがって近辺の様子もピンと来ないところが少なからずあるが、銀座線の駅は長い間にすべて乗り降りしており、そのたいていの駅のホームや地下道や地上出口付近の景色は頭に入っている。もっとも、上野より先の稲荷町や田原町などは最近とんと用事がなくて行っていないから、しばらく見ないうちに、すっかり様子が変わってしまっているかも知れないが...。そう言えば浅草にも、ここのところずいぶんご無沙汰だ。昔はよく、暮れや正月に仲見世をブラついては大黒家に寄って、江戸前の天丼を楽しんで来たものだったが...。
思い出に残っているところと言えば、やっぱり、先ずは上野の地下街か。いまは「メトロピア」だか「エチカ」とかいうカタカナ名前の小洒落たショッピングモールになっているらしいが、その昔は数十軒の大衆食堂が軒を連ね、上野駅で乗降する旅行者にささやかな満足感を提供していた。東北なまりがとび交い故郷の匂いがするこの街の食堂で帰省の夜行列車に乗る前に黙々と掻き込んだ、あのカツ丼の味が忘れられない。忘れられないと言えば、今年の初めまで数軒が細々と営業を続けていた神田駅の「地下鉄ストア」も。天井が低くて仄暗く、なにやらうら寂しさも漂っていた、あのレトロ感がたまらなかった。

ところで、知っている人はとっくの昔に知っていたかもしれないが、自分としてはやっと最近になってわかったことがある。それは、銀座線のホーム長の謎。渋谷もそうだけれども、赤坂見附・銀座などのホームで電車を待っているとき、どうも銀座線のホームは他の地下鉄のホームよりもかなり短いのではないかと感じていた。幅も狭く天井も低いし、どうしてかなと思っていたら、これは、建設費を抑えるため架線ではなくて線路脇のレールから集電することにしてトンネル断面を小さくし、その結果車両自体も小さく短くなり、6両編成の全長も100m弱になって、短いホームでも足りることになったということだ。
でも、それなら“なぜ6両編成なのか?”という突っ込みが当然入り、その答えは“運行開始当時はそれで収容能力は十分と思われていたから...”と、いささかアヤフヤになって、それよりも、わずか15km足らずの路線距離の中に19駅という、他路線とくらべて極端に高い駅密度こそが、短い車両・短いホームの根本原因に他ならないという説の方がもっともらしく思えてくる。が、この鶏と卵のどちらが先か、本当のところはよくわからない。また、後で知ったことだが丸ノ内線も銀座線と同じ集電方式(第三軌条)で6両編成だというけれど、丸ノ内線のホームがあまり短く感じられないのはなぜなのだろう?約25km内に25駅という、銀座線よりも余裕のある駅密度がそう感じさせるのだろうか?

あまり興味のない方には、どうでもいいことだったかも知れないが、キッカケがあったら一度語ってみたいと思っていた地下鉄咄。こうやって書いてみて、自分も嫌いな方ではないと気がついた。子供のころから鉄道地図は好きだったけれども“鉄ちゃん”の意識はまったくなかったが、もしかして、“駅鉄”とか“路線鉄”とかいう言い方があるとしたら、自分はその端くれなのかも知れない。

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2011年12月 5日 (月)

人生いろいろ

家の花々 生垣のサザンカや鉢植えのクリスマス・カクタスが一杯に花をつけて、本年もとうとう、12月に入った。このところ、ポツリ、ポツリと、喪中欠礼の葉書が送られてくるようになり、そろそろ年賀状の宛先整理を始めなければと気を急かされて、年の瀬が迫って来たことを実感する。古希を越えてからは毎年のように感じていることだが、今年も、ここまでアッと言う間だった。未曽有の大災害のあった前半もそうだったが、自分的には、検診・入院・手術・療養で明け暮れた後半を、特にそう感じる。
この時期になると、ツイ、そうやって1年を振り返るのが癖になってしまっているが、同時に、この齢になると毎年、その1年ずつを積み重ねて来た長い歳月をも振り返り、いまさらどうしようもないのに、自分のこれまでの生き方を、あれこれ反省してみたり納得してみたりして、フと、心が未だ満たされぬような、でも、ある程度は満たされているような、微妙な感懐を抱くことがある。今年の後半のような、いろいろな分野の注目される立場の人々の生き様が、事件や訃報のかたちで世間の耳目にさらされた年は、特にそうだ。

学校の勉強は良くできたけれどもカジノに溺れて、自分が会長の立場にあった企業の子会社グループから途方もない巨額の金を借り出した、大手製紙会社の創業3代目。人気プロ野球球団を持つ巨大マスコミの最高権力者の球団人事への介入を、企業コンプライアンス違反と告発して退任を迫り、逆に解任されたその球団のGM。自分が魅かれて飛び込んだ伝統演芸界のしきたりに不満を唱えそこを飛び出し、破天荒な言動で物議をかもしながらも実力で自らの一派を成して生涯を全うした落語界の異端児。...などに関して聞えて来るさまざまな話には、いまの境涯に辿り着くまで必ずしも平坦な道ばかりは歩んで来なかった自分も、多々感じさせられるところがあった。
例の製紙会社の事件は、中小企業ならいざ知らず、いやしくも上場企業でそういうことが起こり得るのかというのが、この報道に接したときに先ず頭に浮かんだことだったが、創業家の一族が経営の実権を握っている会社と知って、ありそうな話だと腑に落ちた。そういう会社で働いたことも、そういう取引先と付き合ったこともない自分には想像もつかないが、そういうことが長い間明るみに出ないで済んでいたこの企業グループの経営幹部たちは、一体、どこを向いて、何を目的として生きてきたのかと思う。

親会社の巨大マスコミから出向させられて子会社の人気プロ野球球団のゼネラル・マネジャーになった人物が、自分の専管事項だという球団人事の決定を親会社のワンマン会長が引っくり返したからと言って理不尽と抗議し退陣を迫った事件も、一見小気味良いような気がしないでもないけれども、その背景に実はあるのかも知れない真の目的と、直接対決ではなくて第三者に訴えるという方法を選んだ意図がよくわからない。なので、自分もそうだが世の宮仕えサラリーマン諸氏にも、共感できなくもない部分と覚めてしまう部分が出てくるのではないだろうか。
そこへ行くと、かの異端児落語家の生き様は、好き嫌いは別にしてわかり易い。少なくとも自分の仕事のフィールドでは、体制におもねず組織に頼らず、自分流を貫き通したところは見上げたもので、ときに顰蹙を買い、問題を引き起こすこともあったが、思うまま、気ままにものを言い行動しながらも、仕事の上での業績はチャンと残したのは立派。好きな道に入って、一生それを追求して、それが自分の満足にもつながるという生き方は、したいと思っても普通なかなかできるものではないが、それをかなり強引にやってのけたこの男、ある意味では羨ましい。

顧みて、自分の生き方はどうだったろうか?自分は、個人事業者としてやっていけるほどの特別な才能も甲斐性もなかったので、結局、当たり前に会社勤めをするというかたちで、学校を出て以来の半世紀近くを過ごしてきたが、その間、必ずしも自ら望んでのことではなかったけれども、数回、働き場所を変えた。より納得行く(仕事的にも経済的にも)働き方が可能になるためにそうしたことがほとんどだったが、不本意ながらそうせざるを得なかったことも、間々あった。別に、飽きっぽかったわけでも腰が落ち着かなかったわけでもなく、自分の前に展開された機会に積極的に関って行った結果、そうなった。
会社は度々変わったが、仕事のフィールドは変えなかったので、自分としてはこの半世紀に、あまり不連続性・不整合性を感じてはいない。が、そのために、しなくていい苦労もしたし、家族をはじめ周囲の親しい人々には心配もかけたようで、いまとなってそれに気付き、遅まきながら済まなかったと思い、もし自分も多くの友人たちのように、1つの会社で自分の仕事人生を全うすることができていたら、どんなに幸せな一生だったかと思わないでもない。でも、人それぞれ、価値観もいろいろだから、自分個人としては、いまにつながっているこれまでの自分の生き方を、悔やまないことにしている。

考えてみると、自分がそういう道を辿ることになったのには、どうも、世に出て最初に勤めた会社の企業風土を通じて培われた価値観・思考スタイルが大きく影響しているようだ。終戦直後に日本に上陸した米資の出版社だったが、社長から新入社員まで、肩書きでなく個人名で呼び合い自由に意見を主張し合うようなリベラルな社風、年齢や経歴や男女の別や人間関係などに関わりなく仕事の上で実力のある者が登用され評価される明快な能力主義は、生来気ままで世渡り下手な自分のような者にも極めて馴染み易く、それが、後年にいたるまで、自分の求める生き方の基準になった。
まだ一人前ではなかった入社したてのころは別として、タフな経験を積み自信もつき、社内における自分の存在価値を認めてもらえるようになってきてからは、会社と自分とは、雇用・被雇用というよりも、責任と成果をめぐっての契約関係にあると理解するようになり、会社に対しては、自主的な貢献意欲は持っていても、ウエットな依存心や忠誠心というものは、だんだん希薄になって行った。そして、仕事上で意見の不一致が出てくるようになったり、会社と自分の間のギブアンドテイクのバランスが崩れてきたときには、お互いに訣別を意識することも仕方がないのかも知れないと割り切るようになった。

そうやって、キャリアアップを目指し、前向きに転進を重ねて行ったわけだが、成功だったときばかりではなく、失敗も一度ならずあった。いつも迷いのないポジティブな気持ちでいられたわけではなく、実は、悩み苦しんだことも少なくなかった。籍を置いた会社がすべて100%の外資企業ばかりだったわけではなく、合弁会社や純国内資本の会社だったこともあって、カルチャーの食い違いや衝突もあり、スペシャリストや部門責任者としての立場から経営者としての立場に変わったことでの、持ち味発揮の難しさも痛感した。
だが、身についてしまった思考スタイルや価値観は、おいそれと変えられるものではなく、どこへ行っても自分は、“長いものには巻かれよ”といった身の処し方はできず、“権力闘争”などということにも興味は持てなかった。そしていつしか、自分が目指すべきは、組織のしがらみに囚われずに、仕事上の契約を成功裡に遂行することによって、会社に寄与すると同時に自己の能力も高めて行くことと思えてきて、ゴールは、ひとつの会社の中で階段を登りつめることではなく、どこへ行っても通用する能力を有する人間になることではないか、という信念を持つようになっていた。

働いてきた組織がいわゆる大企業ではなかったから、自分には、話題の会社のような事件について穿ったコメントはできないが、長く外資会社にいた者の視点から言わせてもらうならば、これは良くも悪くも情緒的な、日本の企業ならではの展開ではないかという気がする。欧米の企業だったら、こんな経過を辿らずにもっと早々と、シンプルでドライな結論が出されているのではないだろうか?
たぶん多くの人が、我が身・我が社の場合に置き換えてこの事件に興味を寄せていると思うので、自分も、仮に当事者の一人だったとしたらどういう行動を取ったろうかなどと考えを廻らしてみたが、簡単に結論は出なかった。そもそも、自分のような気まま者は、こういう企業には初めから受け入れられなかっただろうし、受け入れられていたとしても、我慢できなくなって、途中で飛び出していたかも知れない。

最近の話題に触発されて、思わず自分の来し方を振り返り、いまさらながらそれに理屈づけをしてしまったが、本音を言えば、我が子らの世代はこの父親のように突っ張らず、もっと柔軟で堅実な生き方をして、無事に平穏に、いま父親がいる地点よりも遠くまで辿り着いて欲しい...そんなことを、年の暮れのこのごろ、頻りに思う。

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