« 今年の広告賞選考会で感じたこと | トップページ | 休息の森 »

2011年6月20日 (月)

故郷

“兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 ...” 誰もが知っている小学唱歌「故郷」。自分には、この歌詞を目に、あるいはそのメロディーを耳にすると自然に脳裏に浮かんでくる、懐かしい心象風景がある。だがそのシーンは、どういうわけか、自分が高校を卒業して東京に出るまでのほとんどの歳月を過ごした生まれ故郷の町ではなくて、父の転勤で小学生時代の何年間か住んでいただけの、同じ福島県内にある高原の村だ。
自分の生地は、ここでも何度も書いているように、田舎とはいっても現在は市制が布かれている、昔から開けていた町場。遠くに山を望むことはでき、川も流れて、鮒釣りをする池もあるが、基本的には平野部の市街地で、野兎などを身近に見かけることのできる手つかずの自然が残っているような環境ではない。市名が示すように旧伊達藩と歴史的に所縁のある土地なので、その町を思い出す歌と言ったら、むしろ、広瀬川という仙台市と共通の川の名が出てくる「青葉城恋唄」ということになるかも知れない。

自分の心の中に、イメージ上の故郷として刻み込まれている村というのは、生まれた町から東南に離れること約30キロ、海抜500~600メートルの阿武隈高原の相馬寄りにある。人口はさほど多くないのだが面積がやたらと広くて、村の駐在さんだった父(故人)は、巡邏のときなどは、未明から深更までほとんどまる一日がかりだった。人影など滅多に見かけない山道を、突然飛びだしてくる狐や狸に驚かされながらたった一人で見廻るのはなかなかスリリングな経験だったらしく、後年よく茶飲み話に、面白おかしく語っていた。
東北線、常磐線のどちらからも簡単にはアクセスできないところで、いまでも福島市か南相馬市からのバス便しかないらしいが、当時は、バスは西に約15キロ離れた川俣という町までしか来ておらず、そこまで出るには、徒歩か、たまに往き来する農協のトラックの荷台に乗せてもらう(ただしこれは違法)くらいしか方法がなく、勤務の一環として定期的に本署に出掛けなければならない父にとっても、何ヵ月かに1回は祖父母のもとに里帰りしたくなる小学生の自分にとっても、それは変らなかった。

それも、往きは途中から下り坂になるからまだしもだったが、帰りの前半はずっと上り坂。小さな子供や体力のなくなった年寄りには辛い行程で、夏休みの終わりに生家から戻る自分に同行してくれた祖父が、峠道を登り切ったところにあった神社の木蔭に座り込み、苦しそうな表情をしていたのをいまも思い出す。炎天下の道をさらに歩き続けて、祖父は相馬の家に着くとそのまま1ヵ月ほど寝込み、伊達の家に帰ってからも二度と起き上がれず、その年の暮れに他界した。後に、末期の胃癌だったと聞いた。
さほどに、町場へ出るのは言うに及ばず、村内を巡るのもままならぬ、足の不便さだけはどうにもならない山間の村だったが、自然の美しさと豊かさ、人の心の優しさと温かさには、それを補って余りあるものがあった。春は山菜と山桜、夏は森の深緑と夜空の満天の星、秋は紅葉に木の実とキノコ、そして冬の極寒の日のダイヤモンドダストなど、四季の恵みと景観に溢れ、人々は大人も子供も皆、自分たち家族のような、引っ越してきたばかりの者にも、とても親切だった。

子供同士はたちまち仲良くなり、自然の中に溶け込んだ遊びを、教えられるとも教わるともなくいつの間にか覚えた。春は野鳥の囀りの中、陽当たりのいい山腹でワラビやゼンマイを摘み、夏は河原や渓谷でイワナ釣りやカニ捕りに興じ、秋にはときたま山道で野ウサギに出会ったりしながら、栗拾いやキノコ狩りに夢中になった。実際、夕飯前の1時間足らず裏山の雑木林に入っただけで、栗もキノコも小学生には持ちきれないほどの収穫があったし、アケビや木イチゴの味覚も、この村での山歩きを通じて知った。
冬は流石に野山を駆け回るというわけには行かなかったが、正月にコマを闘わせて遊ぶために、いわゆる“けんかゴマ”という、木胴・鉄縁のコマを手作りした。鉄輪と芯棒の部分は村の鍛冶屋の小父さんに廃鉄で打ってもらうのだが、胴の部分は自分で、10センチ径ほどの桜丸太を円錐状に削って作り出した。木胴の中心に焼け火箸で正確に穴を開けて鉄芯を通し、それをトンカチで叩いて鉄輪に嵌めこんでから一晩水に漬けておき、木部が膨張して動いたり外れたりしなくなるようにするのがコツだった。

まさに「故郷」の歌詞そのままの日々だったが、心の底深く仕舞い込んでいた癒やしと安らぎに満ちたその記憶が、皮肉にも、それとは正反対のあの悲劇的な大震災と原発の事故で、65年経ったいま、再び呼び覚まされた。 ...と言えばもうおわかりかと思うが、その村の名は“飯館”(自分が住んでいたころはまだ隣の飯曾村との合併前で大館村だった)、とんだことで世界的な知名度を高める結果になってしまった“フクシマ”と共に、図らずも日本全国にその名を知られることになった。
ご存知のように、原発からは30~40キロ離れているにもかかわらず、事故発生の10日後に水道水から規制値の3倍を超える放射性ヨウ素が検出され、さらにその2日後には土壌からも高濃度のセシウムが検出され、事故の1ヵ月後には村民の意思とは関係なく“計画的避難区域”に指定されて、先月一杯で全村避難することを余儀なくされたあの村だ。

テレビのニュースなどにその名が頻繁に登場するようになってからは、生地の伊達市の様子と共にこの飯館村についても、現状とこれからどうなるのかがやはり気になって、毎日のようにネット上のニュースや関連コンテンツをチェックしていたが、今月に入ってからのある日、“ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯館村の姿がある”と紹介された出版物が刊行されているという記事が目に飛び込んできた。
その書名をキーワードとして検索してみると、あるわあるわ、無数の記事にヒットした。取材・編集・出版を担当した地元の出版社の広報や被災地域・罹災者支援団体の推薦文的なものだけでなく、個人ブログの読後感やコミュニティサイトの共感コメント、そしてアマゾンなどのショッピングサイトのカスタマーレビューなど、いくら読んでもきりがないほどで、しかもそのどれもから、温かく静かな感動が伝わってきた。たまらず自分も、その場でオンライン注文したことは言うまでもない。

までいの力 その本は『までいの力(ちから)』というタイトル。“までい”とは、古語の“真手”(両手、左右揃った手)から来ている福島県北部の方言で、丁寧・入念な、心を込めて・大切に、手間ひま惜しまず・じっくりと...といった意味を持つ。効率最優先の現代社会ではともすれば忘れられ軽んじられてきた、いわば“スローライフ”の価値観に通じるものだ。
飯館はこれを村の合言葉として、町村合併大盛行の時期にもあえてその波に乗らず、自然と共に生きる自主自立の村づくりを選択。村民自身の発案で、「子育てクーポンの発行」「村民債でスクールバス購入」「村内自給率100%の学校給食」「村営の本屋」「パパの育休制度」「若妻のヨーロッパ派遣」「子供たちの沖縄研修旅行」...など、さまざまな意欲的施策を実現、「伝統的な祭りの復活・保存」や「新しい郷土イベントの創成」、「村民相互の助け合い・労り合い」と「村へのお客さまに対する村人総出のおもてなし」...など、長い年月をかけて、それこそ“までい”に、古くて新しい独自の村文化を育んできた。

『までいの力』には、そんな自然体で一生懸命な村の歩みが、日本の原風景を偲ばせる数々の写真と共に収められており、自分は宅配便を開くのももどかしく、はるか昔のセピア色の思い出を重ねながら夢中でページを繰った。そして、きっとこの本は、この村に縁のない方にも、忘れていた大切な何かを思い出させてくれるのではないかと確信した。
実はこの本の編集は、村民との話し合いや取材に十分な時間をかけて、ずっと以前から進められていたそうで、今年の春には出版される手筈になっていたのが、直前にあの大震災が発生、印刷機やインクなどが被害を受けて、一たん刊行が見送られた。けれども、いまだからこそ意味があると気をとり直して、なんとか4月11日の発刊に漕ぎつけたら、こんどは、その日に飯館村が全村避難区域に指定されるという、運命のいたずらに翻弄された。なお、このささやかな本の収益は、全額、村の復興費用に充てられるという。

避難の期限に先立ち、村では5月25日に、“離村式”とでもいうべき村民集会が開かれ、いつになるかはわからないが必ず再会しようと誓い合い、最後に全員で「故郷」を絶唱したとか...“志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷”...と。

その日が一日も早くなることを、蔭ながら祈りたい。

|

« 今年の広告賞選考会で感じたこと | トップページ | 休息の森 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 故郷:

« 今年の広告賞選考会で感じたこと | トップページ | 休息の森 »