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2011年6月

2011年6月27日 (月)

休息の森

ハッキリした宣言もないまま、何だかいつの間にか梅雨に入っていたという感じだった。が、数日カンカン照りの猛暑日が続いたので、今年はこれで早めに明けるのかと思ったらそういうわけでもなく、また、冷んやりと湿気の多い天候に戻った。毎年のようにボヤいているが、この時季は自分のような低血圧人間にとっては、片頭痛がし身体がむくんで憂鬱だ。でも、そんな中、億劫ではあったがいろいろと用事もあったので、重い(?)御輿を上げて、約8週間ぶりに山荘へ行ってきた。
今年になってまだ2度目。当初の予定では6月の初めか遅くとも半ばまでにはという積りだったが、身内の法事があったり、その他の何やかやで、数日延ばしを繰り返し、ようやく出掛けようかと思ったら、今度は雨が続いて、結局、高速道休日特別割引――いわゆる“1000円高速”――の最終日になってしまった。

いろいろ用事といっても、そう大したことではない。一つは、毎年の恒例になっている家内のセントポーリアの避暑大移動。花鉢を入れた沢山の段ボールを車に積み込み、また下ろすのは、数は多いけれども重くはないので、面倒というわけでもないが、脆い花茎・葉茎を折ったりしないように結構神経を使う作業ではある。秋にはまたそれを山荘から横浜の家に持ち帰ることになるので、そのときもまた一仕事。
もう一つは、家内の寝室用のテレビを地デジ化するための、デジタルチューナーの接続。他の部屋のテレビはすでに地デジ専用機への切り替えが済んでいるのだが、そうしてしまうとこの地域では4つのチャンネルしか映らなくなるので、チューナーだけは早々と購入したものの、ギリギリまでアナログのままにしていた。しかし次に来るのは7月24日以降になるのは確実なので、いよいよ今回で切り替えということになった次第。帰る日の朝まで、今後は見られなくなるアナログチャネルのお馴染みの番組を見ていたいと家内が言っていたので、作業は出発直前にアタフタと行った。

それはともあれ、今回も中二日の短期滞在でどこにも出掛けなかったが、ひねもす降り注ぐヒグラシの音のシャワーを浴びながら、フィトンチッドを胸一杯に吸って、休息だけはとれたような気がする。往き帰りのドライブで疲れが残る齢になったので、これは正解だった。でも、そんなにシンドいのなら、わざわざ遠くまで出て来ずに横浜の自宅で落ち着いていれば良さそうなものを...と、自分でも思うのだが、やはり人はときどき、何でもいいから慣れ過ぎた日常から非日常の世界へ脱出したくなるらしく、自分たちの場合はたまたま山荘に来るのがその目的に合致しているということなのかも知れない。
山荘で思い知る非日常の最たるものは気温だ。横浜を発った日は、グズついた天候が続いて薄ら寒かった日々の後で、午後には24~25度まで上がり、夏仕様の軽装で出てきたが、山荘に着いてみたら、まだ日も暮れないのに早や12~13度までダウン。その後の2日も、テレビでは東京が連日30度超えとか言っているのがピンと来ない涼しさ...というか寒くさえ感ずるほどの低温で、厚手の長袖シャツにセーターを重ね着していた。

でも、森の様子は前回4月末とは一変、どの木も例年になく枝が伸び葉が厚く繁って、隣地の建物が見えないほどになり、日の当たらないエリアがまた拡がってしまった。夏は涼しくていいのだが、これでは、ツツジやシモツケ、ギボシやオダマキなど、中低木や山野草の花がつきにくくなるし、地面近くまで陽光が届かないと、春のタラの芽や秋のキノコの出来にも影響が及ぶ。3年前に高く太くなり過ぎた木を20本以上伐採して、ヤレヤレと思っていたが、どうやらまた、相当の本数を間引かなければならないようだ。
タラの芽と言えば、今年こそグッドタイミングで来て、たらふく(タラだけに!)賞味しようと思っていたのが、前述のような何やかやでその時機を逸し、やっと来てみたら、ほとんどが開き切って葉になっていた。スーパーなどに出回っているハウスものはさておき、自生ものは、標準的には(高地・寒冷地では)5月末から6月初めが好機とされており、さらにその年の気候などにも影響されるので、旬を捉えるのがなかなか難しい。いまから言うと鬼が笑うかも知れないが、来年こそはということで...。

ドウダンツツジ・ヤマボウシ・ナナカマド そんなわけで、タラはもう遅いだろうと来る前から半ば諦めていたが、季節の花々にはいささか期待していた。特にレンゲツツジは、地域のイベントとしてもこの時季に設定されているくらいなので楽しみにしていたのだが、これも大外れ。ドウダンツツジとヤマツツジだけが開花していた。わが山荘のドウダンツツジはベニササラと言われる種類だが、今年はいつも以上に沢山の花がつき、色彩もひときわ深い紅色になっていた。
中木に咲く花は地上からではなかなかわからないが、2階自室の窓から見渡したらヤマボウシとナナカマドの花盛り。ヤマボウシは、横浜の家の近辺ではもう完全に散ってしまったが、牧場通り辺りではまだ満開のままだったし、我が山荘では白くなる一歩手前のペールグリーンの状態。ナナカマドは、小さな花がアジサイ状に密生した大きな白い塊になってあちこちについているという、これまでに見たことのない印象的な眺めだった。どちらもこのまま行けば、秋には美しく紅葉し、赤い実がたわわに生って目を楽しませてくれるに違いなく、いまから待ち遠しい気がする。

八ヶ岳 今回は梅雨のさ中とあって、森に来ている人もほとんどいないだろうと思っていたらそうでもなく、ムッシュとの朝夕の散歩のときに何組ものワンコ連れ家族に出会った。みんな晴れ間を待つようにして外へ出て来たので、たまたまタイミングが合ったのだろうが、ベストシーズンではないときに森に来ると滅多に他所の人やワンコに会う機会がなく所在なげにしていなければならないことの多いムッシュは大喜び。一緒にいる自分も、何だか幸せな気分になった。
さて、前日までは降ったり曇ったりで終始肌寒かったのに、帰宅する日になって一転、早朝から快晴で気温はうなぎ昇り、八ヶ岳も何日ぶりかで豪快な夏姿を現した。帰途、昼過ぎに甲府辺りに差しかかったときにはすでに34~35度、夕方横浜の自宅に着いてからも、30度を下回ることはなかった。我が家は自動換気なので、夏季に数日留守をしていてもそんなに熱気が籠ることはないのだが、それでも、山から車中ズーッと適温に馴れきってしまった身体はなかなか室温に順応できず、その晩は寝苦しかった。

エアコンを点ければ、問題は簡単に解決するのだろうが、あえてそうしないのが自分たち世代の厄介なところ。“欲シガリマセン勝ツマデハ”のスローガンを刷り込まれ、“我慢は美徳”と教え込まれてきたので、ここではときどき気を許して愚痴ったりしているけれども、実は、変に我慢強い。節電のためエアコンの設定温度を高めにして扇風機を併用するなどということも、むしろ贅沢なくらいに思え、このところの熱帯夜にも、窓とドアを開けっ放しにして、団扇を使いながら、エアコンを点けずに凌いできた。
昔は...というより自分が所帯を持ったころでも、まだエアコンなどというものは庶民の家庭には無縁だったのに何とか夏をやり過ごしていたのだから、“何のこれしきの暑さ”と、自室では日中も自然風だけで頑張ってきたが、齢は争えないということか、午後の2~3時になると全身が気怠くなり頭がボーっとしてくるようになった。吐き気がしたり体温が異常上昇したわけではないから熱中症的症状ではなかったと思うのだが、かえって家族に迷惑をかけるようなことになってはと考え直し、我慢もほどほどにすることにした。

...と、山から戻って以来、自分なりの節電協力のつもりで、あまり賢明とは言えないかも知れない密かな葛藤を続けてきたが、幸いこの1~2日は、グッと気温が下がって助かっている。と言っても、この涼しさがいつまで続くかは保証の限りではないし、あと2週間もすれば梅雨が明けて本格的な暑さの毎日になるのだろうから、それなりに過ごすための妥当なスタイルを考える必要があると思っている。
若かったころは、そんな季節の変わり目などには無頓着で、降ろうが照ろうが、暑かろうが寒かろうが、オフロード車のようにただバリバリ突っ走ってきただけだったが、本人が意識しないうち、パワーは年月と共に容赦なく衰えてきて、いまでは定期点検とときたまのオーバーホールが欠かせなくなっている。今年も8月に、前立腺の9ヵ月検診と胃の6ヵ月再検診があるが、問題なくパスすることを、正直、自分でも祈っている。

次回の山荘行は、どうやら来月の末あたりになりそうだが、できれば少し長めに滞在して、心身共に休めてきたい。

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2011年6月20日 (月)

故郷

“兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 ...” 誰もが知っている小学唱歌「故郷」。自分には、この歌詞を目に、あるいはそのメロディーを耳にすると自然に脳裏に浮かんでくる、懐かしい心象風景がある。だがそのシーンは、どういうわけか、自分が高校を卒業して東京に出るまでのほとんどの歳月を過ごした生まれ故郷の町ではなくて、父の転勤で小学生時代の何年間か住んでいただけの、同じ福島県内にある高原の村だ。
自分の生地は、ここでも何度も書いているように、田舎とはいっても現在は市制が布かれている、昔から開けていた町場。遠くに山を望むことはでき、川も流れて、鮒釣りをする池もあるが、基本的には平野部の市街地で、野兎などを身近に見かけることのできる手つかずの自然が残っているような環境ではない。市名が示すように旧伊達藩と歴史的に所縁のある土地なので、その町を思い出す歌と言ったら、むしろ、広瀬川という仙台市と共通の川の名が出てくる「青葉城恋唄」ということになるかも知れない。

自分の心の中に、イメージ上の故郷として刻み込まれている村というのは、生まれた町から東南に離れること約30キロ、海抜500~600メートルの阿武隈高原の相馬寄りにある。人口はさほど多くないのだが面積がやたらと広くて、村の駐在さんだった父(故人)は、巡邏のときなどは、未明から深更までほとんどまる一日がかりだった。人影など滅多に見かけない山道を、突然飛びだしてくる狐や狸に驚かされながらたった一人で見廻るのはなかなかスリリングな経験だったらしく、後年よく茶飲み話に、面白おかしく語っていた。
東北線、常磐線のどちらからも簡単にはアクセスできないところで、いまでも福島市か南相馬市からのバス便しかないらしいが、当時は、バスは西に約15キロ離れた川俣という町までしか来ておらず、そこまで出るには、徒歩か、たまに往き来する農協のトラックの荷台に乗せてもらう(ただしこれは違法)くらいしか方法がなく、勤務の一環として定期的に本署に出掛けなければならない父にとっても、何ヵ月かに1回は祖父母のもとに里帰りしたくなる小学生の自分にとっても、それは変らなかった。

それも、往きは途中から下り坂になるからまだしもだったが、帰りの前半はずっと上り坂。小さな子供や体力のなくなった年寄りには辛い行程で、夏休みの終わりに生家から戻る自分に同行してくれた祖父が、峠道を登り切ったところにあった神社の木蔭に座り込み、苦しそうな表情をしていたのをいまも思い出す。炎天下の道をさらに歩き続けて、祖父は相馬の家に着くとそのまま1ヵ月ほど寝込み、伊達の家に帰ってからも二度と起き上がれず、その年の暮れに他界した。後に、末期の胃癌だったと聞いた。
さほどに、町場へ出るのは言うに及ばず、村内を巡るのもままならぬ、足の不便さだけはどうにもならない山間の村だったが、自然の美しさと豊かさ、人の心の優しさと温かさには、それを補って余りあるものがあった。春は山菜と山桜、夏は森の深緑と夜空の満天の星、秋は紅葉に木の実とキノコ、そして冬の極寒の日のダイヤモンドダストなど、四季の恵みと景観に溢れ、人々は大人も子供も皆、自分たち家族のような、引っ越してきたばかりの者にも、とても親切だった。

子供同士はたちまち仲良くなり、自然の中に溶け込んだ遊びを、教えられるとも教わるともなくいつの間にか覚えた。春は野鳥の囀りの中、陽当たりのいい山腹でワラビやゼンマイを摘み、夏は河原や渓谷でイワナ釣りやカニ捕りに興じ、秋にはときたま山道で野ウサギに出会ったりしながら、栗拾いやキノコ狩りに夢中になった。実際、夕飯前の1時間足らず裏山の雑木林に入っただけで、栗もキノコも小学生には持ちきれないほどの収穫があったし、アケビや木イチゴの味覚も、この村での山歩きを通じて知った。
冬は流石に野山を駆け回るというわけには行かなかったが、正月にコマを闘わせて遊ぶために、いわゆる“けんかゴマ”という、木胴・鉄縁のコマを手作りした。鉄輪と芯棒の部分は村の鍛冶屋の小父さんに廃鉄で打ってもらうのだが、胴の部分は自分で、10センチ径ほどの桜丸太を円錐状に削って作り出した。木胴の中心に焼け火箸で正確に穴を開けて鉄芯を通し、それをトンカチで叩いて鉄輪に嵌めこんでから一晩水に漬けておき、木部が膨張して動いたり外れたりしなくなるようにするのがコツだった。

まさに「故郷」の歌詞そのままの日々だったが、心の底深く仕舞い込んでいた癒やしと安らぎに満ちたその記憶が、皮肉にも、それとは正反対のあの悲劇的な大震災と原発の事故で、65年経ったいま、再び呼び覚まされた。 ...と言えばもうおわかりかと思うが、その村の名は“飯館”(自分が住んでいたころはまだ隣の飯曾村との合併前で大館村だった)、とんだことで世界的な知名度を高める結果になってしまった“フクシマ”と共に、図らずも日本全国にその名を知られることになった。
ご存知のように、原発からは30~40キロ離れているにもかかわらず、事故発生の10日後に水道水から規制値の3倍を超える放射性ヨウ素が検出され、さらにその2日後には土壌からも高濃度のセシウムが検出され、事故の1ヵ月後には村民の意思とは関係なく“計画的避難区域”に指定されて、先月一杯で全村避難することを余儀なくされたあの村だ。

テレビのニュースなどにその名が頻繁に登場するようになってからは、生地の伊達市の様子と共にこの飯館村についても、現状とこれからどうなるのかがやはり気になって、毎日のようにネット上のニュースや関連コンテンツをチェックしていたが、今月に入ってからのある日、“ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯館村の姿がある”と紹介された出版物が刊行されているという記事が目に飛び込んできた。
その書名をキーワードとして検索してみると、あるわあるわ、無数の記事にヒットした。取材・編集・出版を担当した地元の出版社の広報や被災地域・罹災者支援団体の推薦文的なものだけでなく、個人ブログの読後感やコミュニティサイトの共感コメント、そしてアマゾンなどのショッピングサイトのカスタマーレビューなど、いくら読んでもきりがないほどで、しかもそのどれもから、温かく静かな感動が伝わってきた。たまらず自分も、その場でオンライン注文したことは言うまでもない。

までいの力 その本は『までいの力(ちから)』というタイトル。“までい”とは、古語の“真手”(両手、左右揃った手)から来ている福島県北部の方言で、丁寧・入念な、心を込めて・大切に、手間ひま惜しまず・じっくりと...といった意味を持つ。効率最優先の現代社会ではともすれば忘れられ軽んじられてきた、いわば“スローライフ”の価値観に通じるものだ。
飯館はこれを村の合言葉として、町村合併大盛行の時期にもあえてその波に乗らず、自然と共に生きる自主自立の村づくりを選択。村民自身の発案で、「子育てクーポンの発行」「村民債でスクールバス購入」「村内自給率100%の学校給食」「村営の本屋」「パパの育休制度」「若妻のヨーロッパ派遣」「子供たちの沖縄研修旅行」...など、さまざまな意欲的施策を実現、「伝統的な祭りの復活・保存」や「新しい郷土イベントの創成」、「村民相互の助け合い・労り合い」と「村へのお客さまに対する村人総出のおもてなし」...など、長い年月をかけて、それこそ“までい”に、古くて新しい独自の村文化を育んできた。

『までいの力』には、そんな自然体で一生懸命な村の歩みが、日本の原風景を偲ばせる数々の写真と共に収められており、自分は宅配便を開くのももどかしく、はるか昔のセピア色の思い出を重ねながら夢中でページを繰った。そして、きっとこの本は、この村に縁のない方にも、忘れていた大切な何かを思い出させてくれるのではないかと確信した。
実はこの本の編集は、村民との話し合いや取材に十分な時間をかけて、ずっと以前から進められていたそうで、今年の春には出版される手筈になっていたのが、直前にあの大震災が発生、印刷機やインクなどが被害を受けて、一たん刊行が見送られた。けれども、いまだからこそ意味があると気をとり直して、なんとか4月11日の発刊に漕ぎつけたら、こんどは、その日に飯館村が全村避難区域に指定されるという、運命のいたずらに翻弄された。なお、このささやかな本の収益は、全額、村の復興費用に充てられるという。

避難の期限に先立ち、村では5月25日に、“離村式”とでもいうべき村民集会が開かれ、いつになるかはわからないが必ず再会しようと誓い合い、最後に全員で「故郷」を絶唱したとか...“志を果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷”...と。

その日が一日も早くなることを、蔭ながら祈りたい。

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2011年6月 5日 (日)

今年の広告賞選考会で感じたこと

先週末で、いまの自分にはけっこうハードだった1週間が終わり、正直、一息ついているところ。毎年5月の最終週には、月曜から金曜までにわたり定例の広告電通賞の各部門最終選考会と総会が行われ、自分の出番はそのうち3日だけなのだが、事前に資料を読み込んだり、選考会当日は限られた時間の中で神経を集中して応募企画・作品の審査をするので、その最中はそうも思わないけれども、後になってジワーッと疲労感が出てくるのだ。
と言ってもこの仕事は、直接現場に関わることがほとんどなくなった自分にとって、広告のいまをまとめて垣間見る絶好の機会。審査対象の企画・作品に触れることはもちろん、久し振りに顔を合わす業界の人たちや大学の先生たちとの会話に快い知的刺激を覚えるし、他愛もないことだが、出掛けるに際して普段のユルいウェアからタイ&ジャケットにビシッと身を固めると、背筋がシャンとして元気が湧き出てくるような気がする。

週末に帝国ホテルで行われた総会の広い会場には、自分が直接担当したSP(セールスプロモーション)およびダイレクトの2部門を含む新聞・雑誌・ポスター・ラジオ・テレビ・インターネットなど全部門の、100点近くの入賞企画・作品のプレゼンテーションボードが、壁面一杯に展示されていて、開会までの暫時の待ち時間にそれらを一わたり見させてもらったが、選考を通じて今回も変わらず感じさせられたことがあったという思いの半面、こうやって見ても、いま一つ知りたいことがわからないという思いも残った。
総会での、審議会および主催者代表の挨拶は、当然、去る3月11日の大震災とその後の電力事情悪化によるこの業界への多大な影響に触れていたが、この賞の応募締切りが同月の末日だったため、ほとんどすべての企画・作品の出品はそれ以前になされていたようで、その内容自体には影響が及んでいないように見受けられた。昨年の景気は、2年続いた低迷からようやく脱して、ゆるやかな回復基調に乗っていたところだったとかで、応募のあった企画・作品にもその状況は反映されていることが見てとれた。

前置きが長くなったが、“今年の広告賞選考会で感じたこと”は大小いくつかある。まずは応募点数の問題。全部門区分を通じての総点数の増減はともかく、自分が関わっている「SP広告」部門と「ダイレクト広告」部門の中のサブ区分(SPは「インストアプロモーション」と「プロモーショナルキャンペーン」、ダイレクトの方は「通販プログラム」と「非通販プログラム」)ごとに見ると、両部門とも、えらくバランスが欠けていた感じがした。
具体的に言うと、SPではその原型ともいうべきインストアプロモーションが少なくて、さまざまな要素が複合したプロモーショナルキャンペーンが圧倒的に多く、ダイレクトでは逆に、原型である通販プログラムの方が多くて、伝統的な店舗販売モデルにその原理とシステムを導入・適用した非通販プログラムが極端に少なかった。ダイレクト広告部門はそのせいもあってか、全体の応募点数も昨年よりかなり減っていた。

SP部門でなぜそういう傾向になったのかを考えると、それは、SP(広告全般にそうだが)が追求しなければならない目的と達成しなければならない成果の幅が、かつてよりも格段に拡がり、またハードルも高くなっているからに他ならないという結論に行き着きそうだ。SPはもはや、期間や場所を限って効果を刺激・促進しようとする戦術ではなくて、長期・広汎囲にわたって成果を積み上げ支えるための“戦略”として考えなければならないところに来ているのではないだろうか。
実際、SP部門に応募があった企画・作品の中で、文字通り“販売促進”という従来的な結果だけを求めそのことだけを評価しようとしているものは、全体の約半数で、残りの半数はむしろ、関心度・認知度・好感度アップといったことを目的とし、成果も、PR・パブリシティ効果を上げたことを以って良しとしている。このことから、今日のSPは、伝統的なSPが追求してきた目的・成果を“核”としながらも、その役割の幅を、伝統的に“純広告”と言われてきたものの領域にまで拡げ、“マクロな意味での広告”とでも謂うべき存在に進化したと言ってもいいかも知れない。

広告あるいはSPがそういう総合的なものなると、その目的達成のためのチャネルとしてのメディアも、複合的なかたちで利用されるのが必然的になるから、SP広告のほとんどすべて、ダイレクト広告の大半が、いわゆる“クロスメディア”になるのも当然のことと言え、そうなると、広告の評価をメディアごとにしているだけでは全体が見えなくなるのではないかという懸念を、自分などは抱いてしまう。この広告電通賞についても、既存の各メディアと並んで、クロスメディア(自分は“マルチメディア”と言う方が適切と思う)という部門があってもいいのではないかと夢想したりしているのだが、どんなものだろう。
ただ、クロスメディアと言っても、“伝統的な意味での広告”について盛んに唱えられてきたメディアミックスやメディアインテグレーションと同様に考えていては、認識不足の誹りを免れないだろう。それは、単に複数のメディアを重層的に使うだけのことではなくて、それぞれのメディアの持ち場・役割が適切に設定され有機的に組み合わされて、それらが追求目的に向かって緻密に相関しながら集約されるかたちになっていなければならず、事実、成功したSP・ダイレクト広告の企画は、そのように設計されていた。

ここで、インターネットのことを、少々突っ込んで話しておきたい。「インターネット広告」のために投下される費用は年々急速に増え続け、いまやテレビ広告のそれに次ぐ位置にランクされているのは各位がご承知の通りだが、このメディアが、伝統的な意味での“広告”という概念の延長線上で、単にそのような目的追求のためだけのものとして理解され利用されているのは、今日のマーケティング戦略プランニングの上であまりにも役不足ということになる。
改めて言うまでもないが、インターネットはコミュニケーションメディアであるだけでなくトランザクションチャネルでもあり、インプレッション機能だけでなく、トラフィックとインタラクションの機能をもフルに活かして、マーケティングの開始・先導のみならず、推進・拡大・維持・完結と、その全プロセスにわたって活用されなければならず、その意味で、クロスメディア構築における“情報の出入り口”として、“受発信の基盤・中心軸”として、さらには“効果の増幅・波及装置”として、不可欠な役割を担う。

今回のSP広告部門への応募企画・作品からは、そのことが、理屈はともあれ実態として見てとることができたように思う。告知メディアの1つとしてインターネット広告を挙げていたものは全体の半分ちょっとに過ぎなかったが、その記載がなかったものにも、告知サイト、コンテンツサイト、コンテストサイト、コミュニティサイト、ネットワーキングサイトなど、すべてに、何らかのかたちでインターネットが活用されていた。トゥイッター・動画・ブログなどのいわゆるソーシャルメディアの利用も、昨年とくらべて格段に積極的になり、その使い方も戦略・戦術的に進化して、大いに効果が上がっていた。
ダイレクト広告部門におけるインターネットの役割については、このメディアの諸機能とダイレクト広告の相性から言って、さらに明快かつ当を得た活用企画の応募があるだろうと期待していたのだが、その通販プログラムの区分には、単なる販売チャネルミックスとして以上の利用例は見られなかったし、非通販プログラムということでの応募企画に至っては、1件を除いて、インターネットの活用以前にダイレクト広告として規定されている概念の理解を疑うようなものばかりで、非常に落胆させられた。

“いま一つわからない”と言ったのはそのあたりのことで、今日のマーケティングは、市場ターゲティング・顧客関係強化・ROI重視...など、ダイレクトマーケティングの本質に限りなく迫りつつあり、そのためインターネットが縦横に重用されているはずなのに、なぜそれが表面化して来ないのだろうかという疑問が浮かぶのだ。
大多数の企業は、そういう世界的潮流を理解・認識しようとしていないのか?それとも、認識はしていても方法論的にまだ勉強不足状態なのか、あるいは、実際にはそのような動きがあっても、それが各メディア別の広告として拡散されて、1つの大きな流れとして確認されないだけなのか?...その辺を見極めたくて、総会会場に掲げられたインターネット広告入賞企画・作品のボードを観察したのだが、とうとうわからなかった。

できたら、自分のような特定部門だけの選考委員には見えない、全部門の応募企画・作品を相関させた視点からの解説を、誰かにしてもらえると有難いのだが...。

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