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2011年4月

2011年4月18日 (月)

春のひと日

国立新美術館 ようやく春らしい一日中暖かな陽気になってきた。数日前までは、朝夕はまだチョッと冷えを感じる日もあって、布団を跳ね除けてベッドから起き上がろうとするときには妙に身体全体に力が入り、起きてからも首肩を凝らしたままになって、出掛けるときの重ね着がそれに輪をかけ、何とも窮屈な思いをしていた。が、このごろはそんなこともなく身体がほぐれるようになり、ずいぶんと楽になった。
というわけで、先日、久し振りに都心まで出掛けてきた。行く先は六本木の国立新美術館、目的は「示現会展」鑑賞、ここ数年の自分にとっては、毎春桜の頃の恒例行事だ。この会の重鎮で日展の評議員でもある成田禎介画伯ご夫妻が家内の高校時代のクラスメートということで、氏のご一家とは何十年も前から我が家に遊びに来ていただいたり、こちらからもアトリエをお訪ねしたりという間柄。この横浜の家にも山荘にも、何点か氏の作品が飾ってあり、そんなご縁で永い間、春には示現会、秋には日展の招待状を頂戴し続けている。

2007年に六本木に国立新美術館が建つ以前は、示現会展も日展も上野の東京都美術館で開催されていたが、正直のところ、横浜の自宅からそこまでのアクセスは決して良かったわけではない上に、そのころの自分は仕事その他で何かと忙しくて心のゆとりもなかったため、なかなか、ゆっくり美術鑑賞という気持ちになり切れず、皆勤賞の家内に何回かに1回は同行することはあったものの、折角の機会を十分に生かせずじまいでいた。
それがこのところは逆転。家内がだんだん都心まで足を延ばすのが億劫と訴えるようになったのに対して、自分はいまでは心も時間もゆとり十分、上野だろうが六本木だろうが銀座だろうが都心へも出る気十分...という状態にいつのまにかなってしまい、ここ数年は、個展も含めて成田画伯が出展する美術展へ足を運ぶのは、ほぼ自分の役割ということになっている。

さて、まだ肌寒く感ずる早春の季節感を引きずっていた4月の初旬は、外出するとなって着て行くものに迷った。体感のままに冬仕様の延長にすべきか、思い切って春仕様に衣替えして気分を一新するか、なかなか決められなかったのだ。用心して厚着で出た後に気温が上がり暖かくなり過ぎて汗ビッショリになるのも嫌だし、さりとて、少々寒いのを我慢し薄着で出たら結局一日中そのままで風邪をひく破目になっても困ると、皮下脂肪の蓄えのない痩せっポッチの自分は、出掛ける寸前まで迷っていた。
で、その日はどうしたかと言えば、午前中は晴れていた割には風が強く気温もあまり高くなかったので、春仕様の服装にライニング付きのコートを羽織って出掛けることにした。これなら、寒ければそのまま、暑くなったらコートを脱げばいいと単純に思ったからだ。往きの電車の中ではそういったコンビネーションの人をかなり見かけたので、それで正解だったと思っていたが、美術館内に入ったら勝手が違った。当然コートなどは不要なようにエアコンされているので、脱いで片手で持ち歩かなければならなくなった。想定してはいたことだったが、28室ある展示場をずっとそれで歩いていたら思ったよりも重く嵩張り邪魔になって、せめてライニングを外してくればよかったと後悔。

成田画伯の作品 でもそんなことも忘れるほど、どの出展作品も魅力的だった。妙に奇を衒わず、技巧的になり過ぎず、自然で正統的で分かり易く、絵画というものの原点を感じさせてくれるものばかり。ゆっくりと見て回ったこともあって、芯から癒やされた。風景画が多いのでいつもそう感じていたのだが、今回は人物画からも同様の印象を受けた。モデルのタイプやポーズなどが類型化しておらず、他の美術展と一味違う清新さを味わわせてもらった。
成田画伯の今回の作品は、穏やかな内海に浮かぶ沢山の島々。例によって、氏独特の雄大な構図と精緻な筆遣いが圧倒的だった。その絵を拝見しながら若しや今日あたり見えていないものか...などと考えていたら、思いがけずご本人に出会えたのにはビックリ。何しろ、これまではすれ違いばかりで本人同士は20年以上顔を合わせていなかったので、最初はお互いの変わり様にとまどったが、すぐに昔に戻って、家族の近況や過日の大地震のことなど、あちこち話が弾んだ。大地震は実は、ここにも影響を及ぼしていて、この美術展も、停電・節電のため直前まで開催が危ぶまれていたのだそうだ。

すっかり見終わったのが午後1時少し前、館外へ出るとまだ風はやや強かったが、空は青く晴れ上がり気温も上昇して、ジャケットでいても汗ばむほど。軽くランチでもしようかと美術館の正面からブラブラ歩いて東京ミッドタウンに向かったが、この通りには、かつて広告会社の時代、仕事の打ち上げに部下たちを引き連れてよく夜中まで歌い騒いでいた店があったっけ...などと、忘れていたどうでもいいことを思い出した。
ミッドタウンで独りでするランチの店はいつも同じ。若いころと違ってあまりボリュームは要らなくなったし、マナーがどうのこうのと恰好をつけるのが嫌いな方なので、今回も、カジュアルに食べられるセルフサービスのベーグルカフェへ。今日はどれにしようかと一応考えたが結局いつも同じになってしまって、プレーンベーグルにスモークサーモンとレタスを挿んだヤツと豆のスープというメニュー。この店は味は可もなく不可もないが、気楽さが取り柄だ。ただ、喉が渇いていたのでジンジャーエールを頼んだのだが、生姜味ビリビリのブリティッシュブレンドが出てきて、全部飲み切れなかった。

話は飛んで桜のことになるが、4月中旬も過ぎたいまではもう、花より葉の方が目立つようになってきたけれども、今年は例年より1週間ほど開花が遅れたこともあり、このときはまだ5分咲き。いつもなら、地下鉄乃木坂から美術館横の通路に出ると、青山墓地からの桜吹雪が肩に降りかかるのだが、今回はまだそこまで咲き切っていなかった。往き帰りの電車の車窓から見えた鷺沼からたまプラーザへかけての道沿いの桜並木も、その日はせいぜい3~5分咲きというところ。
上野や井の頭など東京都が管理する公園での花見自粛の呼び掛けが何かと物議をかもしているらしいが、個人的には、日中花の下でお弁当を拡げて団欒するぐらいはまったく問題ないと思う。ただ夜間は、節電のためライトアップを止めるのはこの際致し方あるまい。自分が元来酒飲みではないから言うわけではないけれども、夜桜見物と称し夜更けまで野外でドンチャン騒ぎの酒宴をしなければ気が済まないという輩がブツブツ言っているようだが、そんなに飲んで浮かれたければ、それなりの場所で消費した方が、よほど日本経済の活性化に貢献することになるだろうに...と思うのだがどうだろう。

...と、自分が下戸なものだからツイ飲兵衛には厳しい物言いになってしまったが、春という季節には、そして桜という花には、どこか人の心を浮き立たせずにはおかない妖しい魔力が秘められているのかも知れない。こんなことを言っている自分も、毎年彼岸過ぎともなると、近所の公園や学校や神社の桜の開花を、いつの間にか心待ちにしているのだから...。“たかが桜、されど桜”だ。
この日は、美術館の会場内だけでなくミッドタウンの内外もずいぶん歩き回って、気持ちよく疲れ、良い汗をかいた。帰宅してケータイの歩数計を見たら、目標の7000歩を軽くオーバーして1万歩あまり。被災地の方々が未だ不自由な暮らしを強いられ余震の不安に怯えている中、申し訳ない気持ちがしたが、自分にとっては格好の気分転換になった春の一日だった。

桜前線はいま、みちのくのどの辺りまで達しているだろうか...。

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2011年4月 4日 (月)

消費のすゝめ――日本復興のために、あえて...

悲しくとも辛くとも、時だけは容赦なく過ぎて行く。あれから早や3週間あまりが経ち、ようやく余震の規模と回数は少しずつ下火になってきたような気がするものの、原発事故収束の見通しは依然として不透明なまま。自分の身の周りでは、スーパーなどでの品不足は何故か相変らずだが、ガソリンスタンドの行列は見なくなり、計画停電もこのところ中止続きで、幾分生活が落ち着いてきた。しかし、被災地ではまだまだ行方不明者の捜索と避難民の苦しい生活が続いていることを思うと、申し訳ないような気持ちになる。
だが、そんな中でも、地元の小・中学校の卒業式がとり行われたり、高校野球春の選抜大会に被災地校が出場して精一杯の健闘を見せたり、仮設住宅建設の槌音が聞えてきたりと、徐々にではあるが、事態改善と復興に向けての歩みが始まったように見受けられる。

まことに感激に堪えないことに、日本中・世界中の有名・無名の人々とさまざまな組織からの義捐金や物資提供、そして100を超す国々からの人的・物的・技術的支援を受けて、いまや、当面の被災者救済のためのサポート体制は極めて充実したものになりつつあるように思える。が、この未曽有の大災害からの真の復興は、残念ながらそれだけでは実現できない。日本国民はこれから、さし当たってのことだけではなく何十年ものスパンにわたって、そして被災地のことだけではなく日本国全体のことを考えて、この問題に取り組んで行かなければならなくなるだろう。
今回失ったものはあまりにも大きかった。大地震・津波による各地の直接被害だけでなく、原発事故沈静・安全化のための途轍もない出費、またその事故による電力不足のための産業の停滞、そういう状況下での自粛ムードによる消費の落ち込みなど...これらを取り戻すのは容易なことではないだろう。被災者の救済、被災地や被災施設の復旧・再生には、長期にわたる莫大な出費が必要になる(政府試算では国の年間税収の半分にも当たる25兆円)と言われているが、これは、いかに世界中の人々や国々の友情や善意が厚くとも、それで補いきれるものではなく、罹災を免れた人々が、電力をできるだけ復興のための産業推進に回そうと計画停電に協力しても、それだけでは到底追いつかない。

では、どうしたら良いのだろうか?どんな分野で誰が何をなすべきなのか?政治は?企業は?消費者は?そしてメディアやマーケターは?...復興のためのグラウンドプランとロードマップは当然、国家が作成に着手しているはずだし、一般・経済ジャーナルおよび識者も続々と、さまざまな角度からその方向性を提言しつつある。自分もそれについての多少の意見は持っていなくもないが、そこまでの広い範囲にわたってこの問題を論ずることは自分の分には余るので、もとマーケターという己の身の程をわきまえた範囲内で、偏向かつ独断的ではあるが、復興への道筋を考えてみることにした。
さて、身も蓋もない言い方かも知れないけれども、先立つものは実質的にやはりお金ということになるのだろう。すなわち、強固な国家財源が存在しなければ、被災地の復興のみならず今後の国全体の維持・安定化もおぼつかなくなるのは自明の理だ。だからそれを確保するためには、国としての歳入を増やす必要が出てくるわけで、すでに政府内では、時限的増税や暫定的新税の創設、特別国債の発行などの案が提議・検討され始めているようだ。それらは止むを得ないことなのかも知れないが、マーケターの性としては、安易にそういう方向に走らずに、少しでもその分を、正攻法で減らせないものかと思いたくなる。

マーケターなら、既存の税制の下で、借金などはなるべくせずに、“知恵”を出すことによって大いに経済を振興し税収をアップしてそれに当てるべきと考える。幸い――と言っては語弊があるかもしれないが――今回の災害を免れた消費者がこの日本の国にはまだ沢山いるはずだから、そういう人々に、この際ぜひ、被災地への善意に加えて消費意欲も燃やしてもらい、企業はそれに応える商品やサービスを開発し市場に最大限にアピールして全力で販売を推進すれば、消費税収が増えるだけでなく企業の業績が上がって法人税収も増え、雇用と従業員に対する待遇も向上して個人の所得も増し、それによってまた所得税収も増える――という好循環がもたらされることになるのではないかと思うわけなのだ。
物事はそう簡単ではないのは百も承知だが、あえてそんなことを言い出したのには訳がある。震災後の企業は(特に大企業ほど)、その多大な奉仕・貢献には素直に敬意を表したいと思うものの、ビジネス活動に関しては、必要以上に消極的になり過ぎているのではないかと思うからだ。その傾向は、テレビや新聞などのマスメディア上の広告掲載状況からよく見てとれる。無論、ああいう大災害の発生時とその直後は、メディアのコンテンツが報道中心になるのは当然のことで、テレビのCMタイムが一斉にACジャパン(旧名・公共広告機構)のものに差し替えられ、新聞のラ・テ面と社会面が記事一色になったのは止むを得ないことであったが、その傾向が3週間以上を経過したいまでも後を引いているのは、企業本来の目的からしてそれでいいのかと、いささか気になってしまう。

この非常時に消費意欲を刺激して商業目的を追求することなど、日本人としての倫理感覚が許さない...と思うのは、自分自身にもよく理解できるのだが、国家経済の牽引役である大企業がそういう本来の活動をいつまでも抑制していては、国中が沈滞ムードに落ち込み、景気はなかなか回復しにくいと思う。極端な消費の減退は国の収入にマイナス影響を及ぼして復興予算の確保すら困難にし、根本的な国力の衰退を招きかねない。ためらいを感じるかも知れないが、消費者も被災地以外の人々は、こういうときだからこそ普段通りに生活し、精一杯働き、しっかりとお金を使って、経済を活性化させる必要があるのではないだろうか。それが結果的には、被災者への支援にもつながると思って...。
これは、単なる理想論や“風が吹けば桶屋が儲かる”式の屁理屈ではない。実際にそういう目的を満足させるに相応しいマーケティング手法があることは、経験豊かなマーケターなら知っているし、それを今回の大震災に関して企業のとるべきマーケティング戦略として提言している識者・実務家も、すでに何人か存在する。それは、「Cause-related Marketing」――大義(Cause)関連付けマーケティング――と呼ばれる、特定の商品やサービスの購入が社会貢献に結びつくことを訴求して販売促進を図るマーケティングの手法で、単なるチャリティ活動とは違い、企業のブランドイメージ・アップと収益拡大を最終目的とするものだが、実例を紹介すれば、アゝあれかと思い当る向きも少なくないはずだ。

パートナーとなる社会貢献団体との関わり合い方によっていくつかのかたちがあるが、最もポピュラーで広く採用され、成功事例も多いのが、「Purchase-triggered donations」(購買起因型寄付)と言われるもので、消費者の1回の購入や利用毎に支払い額の一部(一定金額またはパーセンテージ)がパートナー団体を通じて貢献目的のために寄付される仕組み。米国「アメリカンエキスプレス」の“自由の女神修復募金キャンペーン”がその元祖とされ、日本でも「ボルヴィック」の“マリ共和国井戸造り支援キャンペーン”などの例がよく知られ、今回の大震災に際しても「アマゾン」や「グルーポン」などが、この手法によるキャンペーンを展開している。
これは確かに、企業の持つ商品やサービスの特性と貢献目的がピッタリと合致した場合には、企業は社会的責任を果たしたと評価されつつなお収益の大幅アップとブランドイメージの向上まで望み得る、良いことづくめのマーケティング戦略だ。けれどもそれは、あくまでも期間的・商品的に限界が存在するプロモーション的な活動であり、今回のような途方もない規模と長丁場にわたる国家経済の振興に寄与するための企業のマーケティング活動は、それだけで十分というわけには行かない。そのためには、これまで普通にやってきたことを、これまで以上に質を高め、より量をアップして行わなければならない。

それには、特別な大義や手の混んだ戦術などはむしろ必要ではなく、シンプルに消費者が欲しくなるようなものを考え出し、買いたくなるように訴求するという、マーケターとクリエーターの“真の、基本的な力量”が要求されてくる。
また消費者もこの際はそれに対応して、倹約・貯蓄しているだけでなく、ノーマルな消費生活に復帰する必要がある。ローンまでして背伸びした浪費をするのは論外だが、自分の許容範囲内で好きなことに目一杯お金を使うのは、自分の人生を楽しくするだけでなく国の経済力強化に結びつき、その恩恵がまた自分に還元されてくると考えれば良いのだ。

お金は使えば生きてくる。かつて“消費は美徳なり”と言った人がいたが、その言のもとになったケインズの「有効需要の原理」は、いま改めて見直されても良いのかも知れない。

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