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2011年3月21日 (月)

東日本大震災――自分にもできることを少しでも...

まず初めに、この度の大災害に関し、被災地ならびに被災者の皆さんに対して心からのお見舞いを申し上げ、同時に、一日も早い事態の改善と復旧をお祈りし、微力ながら個人としてもできる限りの応援をさせていただきたいという思いを表明したいと思います。

3月11日午後2時46分、自分は2階の書斎で調べ物をしていたが、座っていた椅子がグラつくような感じがしたかと思うと部屋全体がユサユサと揺れ出し、家屋自体がキシキシという音をたて始めた。かなり大きな地震だとは思ったが、元来あまり神経が繊細な方ではないので、すぐには騒ぎたてずに様子を見ていたら、揺れは一向に治まる気配がなく、階下ではケージの中で昼寝中だったムッシュがけたたましく啼き出し、家内が“下りてきて!”と声をあげていた。
事ここに至っては、流石にこれは只事ではないと思い、急ぎ1階へ下りたら、2階では照明が天井ベタ付けのためわからなかったけれども、リビングのシャンデリアとダイニングのペンダントライトがまるでブランコのように揺れ、什器や備品を置いたり収納したりしていた台や棚が、ガタガタと音をたてていた。咄嗟に、万が一の場合の脱出口を確保せねばという思いが頭をかすめ、玄関と勝手口のドアを開放状態にしたが、揺れはますます大きくなるばかり、いつまでも続いているので、遂に2人と1匹で屋外へ出たら、向う三軒両隣のご近所の方々も、みんな路上に飛び出していた。

でも、屋外も安定していたわけではなく、道路はまるで海面のようにうねり、足元の定まらない上体を支えるために摑まった門柱やフェンスまでもがグラグラ揺れている有様で、空を見上げると太い電線が大きな振り幅で揺れ動いており、その場に居合わせた誰もが一様に、不安を隠せない表情になっていた。ムッシュは抱っこして連れ出したが、可哀そうによほど驚いたのか、すっかり耳を伏せて、小さな体を小刻みに震わせていた。
相当長時間続いていたと思えた揺れがやや治まったように感じられたので、屋内に戻り、脱出時にスイッチオフしたテレビや湯沸かしポット、そしてオール電化システムの各コントロール・パネルを再度オンにしようとしたら、何と、すべてアウト。もちろん固定電話もダメ。案の定、停電だ。これだけの揺れは一体どこが震源地でどれだけの震度だったのか...余震や津波の恐れは...停電はいつ復旧するのか...など、直ちに知りたいことは山ほどあったが、こうなると情報源としてはラジオだけが頼り。早速、普段はほとんど使うことのなかった懐中電灯および置時計と一体になった卓上兼携帯型のものと、ステレオだがイヤフォンでしか聴けないポケット型のものを引っ張り出して、電池を入れ替えた。

すると、三陸海岸沖にM8.8(後に9.0に訂正)という過去最大級の大地震発生との報道で、続いて大津波発生のおそれとの警報も発令されて、これは大変なことになったようだと思ったが、そのときはまだ、まさか、現在判明しているほどの大惨事になるとは、夢にも想像していなかった。ともあれ、これで治まるとは到底思えなかったので、最悪の場合に備えておく必要もあると覚悟を決め、刻々と明らかになる状況をラジオで聴きながら、時折り襲う余震による不安に苛まれつつも、デイバッグや大型ショルダーバッグ、ボストンバッグなどに、貴重品・身の周り品・非常持ち出し品およびムッシュ用品などをまとめた。
1時間過ぎても、2時間過ぎても、停電は一向に解消する気配がなく、ケータイで東京電力に見通しを聞こうとしてもまったくつながらない。そうこうしているうちにとうとう陽が暮れてしまい、薄暗がりの中で家内がカセット・コンロを使って何とか用意してくれた夕食を、卓上に置いた2台の懐中電灯の照明を頼りに、ソソクサと済ませた。この停電は何と、夜更けの11時ごろまで、8時間余りも続いた。あれだけ揺れた地震(震度5弱)も生涯初めてだったが、これだけ長時間の停電も、記憶する限りこれまでに経験したことはなかった。ケータイがつながらないため倅たちや娘ともずっと連絡がとれず、何とか様子がわかったのは日付も変わろうかというころだった。

当然、エアコンなどは使えないわけだから暖房はできないし、電気毛布も役に立たず、バスにお湯を張ることもできないので、普段のような方法で身体を温める術はなく、室内着の上にベストやダウンジャケットなどを重ね着して寒さを凌いだ。交通網もメチャメチャになったようで、娘は東京目黒で在宅だったから良かったものの、祐天寺にいた次男はバイク仲間に助けてもらい、二人乗りで寒風に晒されながら、長男は仕事先の八丁堀から五反田まで歩き、その後池上線―大井町線―田園都市線と乗り継いで、それぞれ、鷺沼・宮崎台の自宅に、深夜近くになって帰り着いたと言っていた。
あれからもう10日経つが、依然としてかなりの震度の余震が絶え間なく起こり、いつも身体が揺れ動いて目眩がするような錯覚に陥れられる。電気も、毎日のように“計画停電”ということで、公共交通機関をはじめ日用必需品の販売店そして医療施設にまで、その影響が及んでおり、計画停電が見合わせになる区域もある中で当地はこれまで、日に2回も停電する日が2日もあって、かつてないような寝食・生活面での不自由さを味わわされている。この数日は、再び大地震発生という際には夜中でも速やかに飛び出せるよう、ほとんど身支度を整えたままでベッドに入っているので、毎晩熟睡できず睡眠不足気味だ。

だが、不平は言うまい。被災地の人々の悲しみと辛さを思えば、そんなことぐらいで愚痴をこぼしていたら罰が当たる。まだまだ寒い中、衣食住すべての面で耐乏を強いられている現地の多数の被災者の方々と、そこで懸命に復旧・支援活動を続けている自衛隊や消防隊を初めとする専門の救助スタッフならびにボランティアの方々のご苦労を思うと、そこへ行って直接何かすることはできなくとも、ここで自分たちができることには何でも協力して、たとえ間接的にでも役に立ちたいという気持ちになる。節約の結果が回り回って災害支援に貢献するならば、この程度の停電や物資不足を我慢するのは何でもないことだ。
最初はあまりよくわからなかったが、今回の災害は、日が経てば経つほど、途方もない犠牲者の数、範囲の広さ、深刻な内容であることが判明してきた。主に岩手・宮城・福島3県にわたった地震および津波による直接被害の甚大さには言葉もないほどの衝撃を受けているのはもちろんだが、もう一つ、福島第一原子力発電所の爆発・火災にも、専門的なことがよくわからないだけに、底知れぬ不安を禁じ得ない。原発所在の地元と近隣市町村、周辺地域、広くは県全体、さらには隣接県まで含めて、その当惑は如何ばかりかと思う。

ときどきここでも書いているように、自分の出身地は福島県、生家の所在地は宮城県と接する県の最北部にある伊達市・梁川町というところで、津波被害を蒙ったいわゆる“浜通り”よりも相当内陸に入った“中通り”という地帯に属するが、それでも今回の震度は6弱あって、一部の屋根や壁が崩落、石塀や古い建物が倒壊し、あちこちの道路に地割れ・隆起・陥没が発生して、交通網も寸断され、地震発生後1週間近くも、電気・ガス・水道などのライフラインが機能停止に陥っていたそうだ。インターネットもやっと一緒に復旧したと、PCメールで様子を知らせてくれた梁川町在住の従弟が言っていた。
この2~3日は、福島県内の放射能汚染地域の拡大が報道され始めているが、原発から約70キロ離れた福島市と約40キロの飯館村というところで、やや高濃度の放射能による大気汚染が確認され、原発から約50キロの川俣町というところでは、畜産品(牛乳)から放射性物質が検出されたという。従弟によれば、梁川町に設けられた避難所には、地元の被災者だけでなく、浜通りやこういった地域からの通過避難民が、300名近くもガソリン切れのため滞留しているとのことで、原発の所在地からの直線距離では福島市と変わらないこの町にも、ジワリジワリと、さまざまなかたちでの放射能汚染の影響が忍び寄っているようだ。

まさか、こんなことで懐かしい名前を耳にすることになるとは思ってもいなかったが、実は飯館も川俣も、父の転勤で自分が小学生時代の何年間かを過ごした、第2・第3の故郷ともいうべきところ。そして、想像を絶する津波で沿岸部の集落が壊滅的被害を蒙った相馬市も、交通手段など何もなかった終戦直後に、トラックの荷台に乗せてもらってそこからはるばると出かけ、海水浴や潮干狩りを楽しんだ思い出の地。
それが、あのような無残な姿に変わり果て、また放射能の危険に晒されているかと思うと、住民の方々の心中は察するに余りあって、郷愁よりも辛さが先に立つ。

自分は陰ながら協力し応分の支援をするだけで、ほとんど何もできないに等しいが、故郷を含む被災全地域の、当面の速やかな状況改善と一日も早い復旧を、切に祈りたい。

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