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2011年2月21日 (月)

昔の冬は...

前年末から今月初旬までほぼ2ヵ月近く記録的な晴天続きで、近所の御嶽神社の白梅も7分咲きまで行き、もしかしたらこのまま春に?...などと甘い期待をしていたが、その後一転寒波襲来。霜柱が立ち、氷が張り、霙や霰が降って、雪も積もり、コリャアまだダメだと思っていたら、このところはチョッピリ暖かくなってきた。今度こそはもう冬も終りか...と希望的に観測しているのだが、日中はともかく早朝のムッシュとの散歩は、未だなかなかに寒気厳しく、正直のところ骨身に応える。
けれども、その道すがら出逢う登校途中の沢山の中学生たちの姿を見ると、こちらも思わず“元気だネ!”と声をかけたくなり、自分もきょう一日シャキッと過ごそうという気持ちになる。何しろ男子・女子ともほとんどの生徒が、体育着と言うのか、ジャージーと言うのだろうか、その上下だけでコートも羽織らず、ついこの間まではパンツも七分丈だった(さすがに先だっての雪の日は長パンツでウインドブレーカーを着用していたが)。校則なのかファッションかわからないが、それにしても育ち盛りの子たちは元気がいい。

北風も苦にせず、毎朝大声で喋り合い絡まり合いながら我が家の横の坂道を校舎に向かう、そんな彼らの背中を目で追っていると、自分もいつしかそれに、遠い昔の冬の朝の自分自身の姿を重ねていることに気付く。いまからもう60年以上前になるが、あのころは自分もあんなだったかも知れない...と。10年ひと昔というから60年といえば大昔のこと。ところは福島県北端の梁川という田舎町で、冬場は、雪の深さはさほどにならなかったが、コンスタントに降ってはいたし、気温も氷点下になることがしょっちゅうだった。
中学校の校舎は小高い丘の上に建っていたので、やはり通学路の大半は坂道。雪が降りしきり、路面がカチカチに凍結し、寒風が吹き荒んでいた日もずいぶんあったはずだが、永い月日が経つうちに忘れてしまったのか、朝の登校が辛かった記憶はまったくない。恥かしながら小学生時代はけっこう病弱(?)だった(らしい)し、いまはすっかり冷え症の寒がり爺さんになってしまったが、そのころは風邪などひいて寝込んだ覚えがない。

教室には、先生の机近くに薪ストーブがあって、側に寄れば確かに暖かかったが、室内全体が温まるほどではなく、寒ければ専ら自分で身体を動かすしかなかったので、いつも教室後部の空きスペースで相撲(いまならプロレスごっこというところ)に興じたり、吹き曝しの廊下を無闇矢鱈に走り回ったりしていた。校庭にかなり雪が積もった日の体育の授業は雪合戦で、手袋などはしていなかったけれども、不思議と、一度としていまのように霜焼けに悩まされたことはなかった。
家で暖をとるものといえば、メインはやや大きめの掘り炬燵。木製長方形の角火鉢と大小何個かの陶製丸火鉢もあったが、それらは湯沸かしや餅焼きと年寄りの手あぶり用で、家族の食事も来客のもてなしも子供の勉強も、みんな炬燵の上で済ませ、夜寝るときはその炬燵を中心にして四方に布団を敷き延べ、足元から温気が来るようにしていた。陽が照らない昼の間に乾き切らなかった洗濯物なども、よく、一晩中その中に吊るされていた。

学区制があったため、高校のときは生家から20キロほど離れた福島市での下宿暮らしだったが、ここでの冬の暖房は下宿人各個毎の行火。と言っても、いまの若い人も知っている木製ケースの電熱式ではなく、約8寸(24~25センチ)立方の頭円櫓状の土製(瓦質)ケースの中に、同じ材質の枡形の火鉢が入ったもの。ひと冬に一人一俵の炭を購入し、毎日自分の炭俵から必要なだけの炭を専用の鋸(弓型の背枠に細い歯を渡したもの)で切り取り、大家さんからもらう豆炭(炭粉を饅頭大に練り固めたもの)の種火で熾していた。
起きているときは、机の下に置いてどてらなどを被せ膝あたりまでを覆い、寝るときはそれを布団の中に入れて、足が温まるようにしていた(蹴飛ばしたりするおそれのないように相当重量があった)が、電熱式ならともかく炭火式行火は、いまどきの40・50代の人にもたぶん想像がつかないだろう。懐炉のように小型ではないから、モバイルとまでは言えないが、コードレスで可動性はあったから、いまなら差し詰め、“ポータブル置炬燵”とでも言うところかも知れない。

自分だけではなくほとんどの生徒がそうだったが、中・高校時代は誰もが、暖房具どころか冬季の衣服・履物にも事欠いていた。記憶が途切れ途切れで明確ではないが、どうしてもその中に、コートを着たり、長靴を履いたりした自分の姿は浮かんで来ない。修学旅行や校内でのスナップには運動靴での姿は写っているが、どうやらその他のほとんどの時間は、四季を通じて高下駄と学生服だけで過ごしていたらしい。単に経済的余裕がなかったからだが、元気がそれを補って余りあったので平気だった。
が、高校卒業間近になったころの写真には、何ともサマにならないコート姿の自分が写っている。突然寒がりになったわけではなく、東京に出るのに恰好がつかないとか何とか親に無理を言って、“米軍払い下げ”の仕立て直し品をどこからか手に入れてもらったのだ。アーミーカラーの当時で言うスプリングコートで、掛矧ぎの痕などもあったが、流石にしっかりしたウールサージ地で暖かさは抜群、中古だろうが何だろうが初めての本格的なコートに、自分としてはいたく満足だったのを覚えている。

ところが上京してみると、東京は福島より格段に暖かくて、同じ年ごろの若者たちはほとんどオーバーコートなど着ておらず、軽快な薄手のコートを翻らせて街を闊歩しており、分厚いコートを着込んで、冬の陽射しに汗ばむ思いをしていた自分が、急に野暮ったく思えてきた。当時は日活アクション映画全盛の時代で、時のスーパースター石原裕次郎が愛用していたというダスターコートが大流行だったのだが、いまさらまた、それが欲しいと勝手なことも親には言えず、どうやって費用を工面したのかすっかり忘れてしまったが、翌年になってようやく、安物の一着を購入した。
そんな、昼間は確かに暖かい日が多かった東京も、真冬の夜間はかなり冷え込んだ。何年間かに、雪こそ数えるほどの回数しか降らなかったが、銭湯帰りには5分と経たないうちに濡れたタオルがカチカチに凍ることも度々だったから、そのころの東京はもしかしたら、実際に福島並みに気温が下がっていた時期だったのかも知れない。でも、カラ元気だったのかホントに元気だったか、いまとなっては自分でも定かではないが、当時は東京で冬を過ごしていて、寒さで苦労したことはなかったように思う。

やはり、賄い付きの下宿で、四畳半に友人と相部屋だったが、冬はそれなりに冷え込んだはずなのに、何で暖をとっていたのかどうしても思い出せない。火の気を持ち込むことは禁じられていたから、火鉢や炭火式行火のようなものは当然使っていなかったし、電熱器のようなものも持っていなかった。おそらく、夜は決まった時間に出される食事を味噌汁の熱いうちに頂くようにして、あとは銭湯で温まった勢いで、そのまま布団にくるまって寝てしまったのかも知れない。そう言えば冬の夜は、期末試験の勉強も、本を読んだりラジオを聞いたりするのも、みんな、布団の中で寝そべったままだった。
やっと自前の暖房具というものを持つようになったのは、就職も決まって、入社の数ヵ月前からその会社へアルバイトに通うことになり、下宿の近所の、小さな台所がついた三畳間の単身アパートに越したときのこと。特に寒さに我慢ができなくなったわけでもなかったけれども、その年の冬には、バイトの給料を足しにして当時発売されたばかりだった小型の電気炬燵を買ったら、町内や会社の若い連中がよく寄り集まるようになり、自分自身にも何だか帰巣本能のようなものが芽生えて、せっせと帰宅するようになった。

霜焼け知らずの素手での雪合戦から、電気炬燵のある一人暮らしになったここまで10年。そしてそれからいままでさらに50年の歳月が流れ、家族が増えて住まいも拡がり、室内暖房装置も、石油ストーブ、電気ストーブ、ガス・セントラルヒーティング、エアコン、暖炉、床暖房と、進化・多彩化してきたが、それと引き換えに自分の身心は、徐々に耐寒力と昔日の元気を失くして行ったような気がする。
でも、それもまた人生の摂理なのだろうと、このごろはただただ昔が懐かしく、遠い記憶の彼方にぼやけたセピア色の冬の日の回想に耽るのみ。

あのころの故郷の冬は寒くなかったはずはないが、いま行ったらどんなだろうか?そう言えばもう長い間訪れていないが、昔とは何もかも変ってしまっているだろう。思い出は毀さないように、そっとそのままにしておくのがいいのかも知れない...。

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