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2010年12月13日 (月)

気に障る広告、気を惹かれる広告

仕事上いろいろな企業の広告を常時チェックしている必要があったころと違い、いまでは、自分の買いたい物、知りたい事、行きたい店などがあってインターネットなどで調べる場合以外には、自ら積極的に広告に接しようと思うことはまずなくなった。ウエブを開いて何かを見たり読んだりしようとする際にその画面に現れる広告も、新聞や雑誌上に掲載されている広告も、目のどこか片隅で認識することはあっても、そちらの方に関心が移るということもほとんどなく見過ごし、そのとき限りで忘れてしまう。
しかし、テレビ広告(CM)だけは、幸か不幸か、そうやって忘れ去ってしまうわけには行かないこともある。スイッチが入っていれば自ら特に意識しなくとも視聴できてしまうメディアだから、番組内容だけを視ているつもりでも、否応なしにCMも、自動的に目と耳に飛び込んできて、望んでもいないのに何らかの印象が残ってしまう。まあ、そういう作用がテレビ広告の効果というか狙い目とされているわけだから、このインターネット時代にも、テレビ広告が依然として大きな存在理由を持っているのだろう。

広告マンたちは、そういう効果を念頭に置いてアイディアを捻り、次々とあの手この手のCMを送り出してくるのだが、自分がそうする側にいたころは他人事としてさほど意識していなかったことが、専ら受けるだけの側になった近ごろは、どうも気にかかるようになってきた。裏事情もわかっているたかがテレビCMと、見過ごし聞き流していれば済むことなのだが、どうしても、あるいくつかのCMには不快感を覚えるようになり、また始末が悪いことにそれが、他のCMよりも強く印象に残ってしまうのだ。
自分は、テレビに関してはぜんぜんヘビー・ウォッチャーなどではなく、毎日、朝昼晩の食事どきなど決まった時間帯に決まった番組を、習慣的に“ながら視聴”しているに過ぎないから、決して全視聴者の代表のような気でものを言うつもりはないが、それでも、せっかく番組を楽しんでいるところに水を差されるように、何だか気に障るCMが現れると、イチイチ目と耳を塞ぐわけにも行かず嫌々ながら繰り返し視てしまい、悪い後味が残って、ツイ、どこかで何か文句も言いたくなってくる。

限られたCMしか視ていないし、年齢的にもテレビ視聴者層としてはマジョリティではないだろうから、自分の印象は最大公約数的意見にはならないかも知れないが、そんな自分にも、気に障るCMがすぐに思い浮かぶものだけでも3つ4つある。視点が視聴者側に置かれていなかったり、メッセージが企業・広告主側の独り善がりだったり、目立ちたい一心で奇を衒い過ぎていたりして、視ている方が“感覚的にスンナリと受け入れ難い”と感じさせられるものだ。それらの広告としての実効のほどは知らないし、広告主や制作者に対しても何の恨みもないが、気に障るものは気に障るので、とりあえずここに引用させてもらうことにする。どうか悪しからず。
先ずは、保険セールスレディが客に対して、どこかの国の女子アナのように眼を剝き声を張って“石川遼のような生命保険です!”と強く言い切るD一生命のCM。そういう路線で行こうと決める社内会議バージョンもあるが、どちらにしろ、自分が楽しみにしている朝のミニ番組の前にこれをやられると、その押しつけがましさにゲンナリしてしまう。いままで石川遼本人に対しては悪い印象は持っていなかったのだが、これでは何だか...。

それから、目を逸らせたくなるのは、何が面白いと思っているのか、人気俳優・女優を連れて来ては変身ヒーローのコスチュームを着せているD和ハウスのCM。役所広司や唐沢寿明がやっている分にはまだ、くだらないおふざけとして見過ごせたが、黒木メイサまでが引っ張り出されるに至っては、一体、誰に何のメリットがあるのか理解できない。
奇抜さ狙いで竹内結子やイチローをGSの屋根に座らせているEネオス石油のCMもその類いと思えるし、Tヨタ自動車のこども店長にセールストークさせるCMにも可愛らしさよりヤラセ的なあざとさを感じてしまうが、そう思う自分は偏屈なのだろうか?とりあえず注目を惹き好イメージに便乗しようとして、人気芸能人・スポーツマンや子供などを安易に起用しているのも、これらに共通しているところだが、こんな設定だと逆効果の恐れもあり、企業や商品・ブランドに何のプラスにもならないのみならず、出演者にとっても、イメージ・ダウンの懸念すら出てくるのではないか?

けれども自分は、だからそういう広告戦略はダメだと言っているわけではない。同じように有名俳優・女優や子供・動物などを起用していても、設定が非現実的であっても、抵抗なく受け入れることができ、むしろ気を惹かれさえするものもある。それにしても、そういうものと前述のようにそうでないものと、似たような発想に基づくものでありながら、どうして正反対の印象を受けてしまうのだろうか?...考えてみたらそれは、広告でメッセージを発信する際の視点・立ち位置がどこにあるかの問題だと気がついた。
スンナリと心の中に入り込んでくる広告は、立ち位置がテレビを視ている生活者側にあって、メッセージはその人々の心中を代弁するようなかたちで発信され、CMの中での有名人や子供・動物などは、企業・広告主ではなく視聴者・生活者の立場で振舞っている。だからそれを視聴している人々は、その内容を、自分の意向に関係なく押しつけられるものではなく、自分の内面にあったものと共振・共鳴する好ましいものとして受け入れることができるのだろう。

自分が特にそんな風に感じ入っている広告も、そうでない広告と同じくらいある。たとえばトミー・リー・ジョーンズが日本の市井事情を調査するために宇宙から派遣されてきた調査員という設定のSトリー缶コーヒーのCM、白い北海道犬が一家のお父さんになっているSトバンクモバイルのCMなどで、それぞれ、主人公が宇宙人だったり人間語をしゃべるおやじキャラの犬だったりという、一つ間違えば際物になりかねない設定だが、どちらもユーザー目線で、なさそうで誰にもありそうな日々の小さな生活シーンをシチュエーションにしているので、それが視ているこちら側の心にも抵抗なく入ってくるのだ。
広告に子供を起用するにしても、妙に捻らず、人間の自然な心情に沿えば誰の胸にも素直に響くもので、これにもお気に入りがある。例えば、先に酷評したD一生命のCMの別バージョンで、教会のバージンロードを今日嫁ぐ娘と手を組んで歩む父親が幼かったその子と手を繋いで歩んだ日々を回想する“幸せの道”と題された一遍。背景に流れる「この道」も効果的で、思い出しただけでもジーンとしてくる。テレビCMではないが、娘の成長過程をウエブ上で疑似体験させてくれるSニーのビデオカメラのプロモーション・サイトなども同じコンセプトで、子を持つ親は切ない気持ちにさせられる。

さて、自分も普段、マーケティング戦略がどうの、クリエーティブ作法がこうのと、あれこれ理屈をこねている立場だから、広告の評価をここで対比させているような感覚的な“好き・嫌い”だけで決めてしまっていいとは思っていない。が、広告の役割がかつて言われていたように単に認知率を高めたり販売を促進したりするだけではなく、今日言われているように顧客との良好な関係形成とそれによる真のブランディングを達成するための足掛かりをつくるところまでを視野に入れるべきとするならば、その“感じ・印象”が良い(好感度が高い)か悪い(好感度が低い)かということは、大きな意味を持ってくる。
では、“感じが良い”(好感度が高い)広告とはどういうものなのか?...自分なりに考えてみたが、それは“自然な共感を呼ぶ”広告ということではないかという気がする。この“共感”という心理的要素が、誰もが忙しくて時間が貴重な世の中でも、広告、とりわけテレビCMのようなものに人々の関心を惹きつけるために、大きな役割を果たしているように思えてならないのだ。広告の成否は“共感を得られるかどうか”から始まると言ったら言い過ぎになるだろうか?

かつては、ブランド・商品に注目を惹き関心を呼ぼうと、企業が自分側の立場だけから声高に呼びかけたり多弁に説明したりする広告が多かったし、いまも少なくないが、この時代、そういうアプローチは煩がられるだけで、反感さえ招きかねない。広告に目を止め耳をそばだて、その内容をもっと知りたくなるようなモチベーションを、より自然に発生させようとするならば、画像で、あるいは言葉で、あるいは音で、まずは視聴者の“感性”に訴え“共感”を呼び起こして、心を開いてもらう必要がある。
最初に俎上に挙げた4つの広告が気に障るのは、この要素が欠落し、ために神経が逆撫でされるような気持ちにさせられるからであり、それに対比して例示した後の4つに好感を覚え、沁み沁みとさせられたりさえするのは、そこに“共感”を誘う何かが存在しているからに他ならない。手前味噌になるけれども、自分もこのことを、自著「体系ダイレクトマーケティング」の第3部第2章「クリエーティブの作法」のところで、“キーワードはシンパシー(共感)”という見出しで書いている。

話は飛躍するようだが(実際は飛躍しないのだけれど)、10年ほど前、ネット・ビジネスのパイオニアの一人セス・ゴウディンが「Permission Marketing」という著作を上梓し日本語版も出版されて話題を呼んだことがあった。いまではこの「パーミション・マーケティング」は、顧客・見込客の同意を得た上でやりとりを始めるマーケティング・コミュニケーション戦略ということで、データベースに基づくオプトイン(Opt-in)メールとほとんど同義語に用いられているが、原著をよく読んでみると、Permissionという言葉は“許可”というよりは“同意”という、より広い意味で使われ、パーミション・マーケティングとは“初めて接触する人にも心を開かせるようなマーケティングのやり方”として位置づけられているように解釈できる。
とすれば、Permissionのニュアンスは、“許可を得る”という手続的なことだけではなくて、“共感を得る”というもっと広く心理的なことまでをも含むものとして受け止められ、パーミション・マーケティングは、データベースに基づくワントゥワン・プロモーションだけではなくて広くメディア広告までをも視野に入れた考え方ということになる。そう考えることによって、ゴウディンの理論は、より普遍性を持ち、真価を発揮することになるのではないだろうか。

これからのマーケティングは、メディア広告だけでは完結しないし、メールやウエブだけでも十分とは言えず、両者の連携・複合こそが不可欠なのは今日のマーケターなら誰もがわかっているはずのことだが、それらを通じて心理の深層から潜在見込客を動かし顧客化に繋げてゆくためには、広告づくり、ウエブサイトづくり、メールづくりの中で一貫して、“共感の形成”というキーワードを意識し続ける必要があると思う。

...と、何となくテレビを視たりウエブサーフィンをしていただけのはずなのに、調子に乗ってツイここまで話を拡げ、久し振りに能書きを垂れてしまった。独断と偏見による言いたい放題、何とぞご容赦のほどを...。

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コメント

「共感」がないと何も話を聞いてもらえないですよね。お客さまを説得するには「小さなYESを積み重ねろ」とよく言われましたが、そのためには相手をよく知る必要があるから、その手間を省こうとすると「取りあえず目立てばいい」になるのかもしれませんね。
いろいろ考えさせられました!

投稿: Betty | 2010年12月13日 (月) 11時18分

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