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2010年12月

2010年12月27日 (月)

思えばいと疾しこの一年

月並みな言い方だけれども、実に“光陰矢のごとし”で、2010年も残すところあと4日。手術・退院からも早や1ヵ月以上経った。近ごろは企業の年末・年始事情にトンと疎くなってしまったが、もう休暇に入っている会社もあるのだろうか?倅たちも含めて自分の知っている範囲の人たちは、どうやらギリギリまで仕事らしいが...。

自分のところはと言えば、昔と違い、年末だからと言ってそんなにバタバタすることはなくなった。昨年から、年賀状の文面・デザインを簡略・定形化し、はなはだ勝手ながら、最小限の方々を除いては頂戴する都度お出しする...という方式で失礼させていただくことにしているので、これは十分余裕を持って、20日近辺に投函済み。働き盛りのころは、晦日になって大慌てで版画を刷ったり、子供に宛名書きをさせたりしたこともあったが、いまとなってはそれも遠く懐かしい。

倅や娘たちにもそれぞれの生活がある古希越え夫婦二人では、今さらとりたててメリー・クリスマスでもなく、イブも、家内手作りのシンプルなリースを玄関ドアにかけ、出かけたついでに買ってきたクリスマス仕様のカットケーキを前に、ジンジャーエルで乾杯し、取り合わせが変なのは承知の上で、好きで食べたいものがいいと、本マグロ赤身の鉄火丼と鉄火巻にツナサラダの夕食。別にイエス様に逆らっているわけでも、ケチったわけでもなく、二人ともアルコールがダメだし、健康本位に考えてそうなった。

今年は押し迫らぬうちにと、12月に入ってすぐに職人さんに来てもらい、生垣・樹木の剪定や芝生の目土も済ませたので、庭の眺めもスッキリ。サザンカの生垣は繁り過ぎていた小枝を丁寧に梳いてもらったおかげで一気に沢山の花がつき、暑かった夏に辛抱強く水を遣っていたバラの老樹にも、寒中一輪の真っ紅な花が開いた。サテ、1階・2階のすべての窓のガラス拭きも2~3日前には終えたし、自分の仕事であと残っているのは、門扉の松飾りくらいか...。

毎年同じようなことを言っているが、今年も、過ぎてみればアッという間だった。3月までの厳寒の時期と7月から9月までの猛暑の時期は、早く過ぎてくれと思うほど長かった印象があるが、春から夏になるまでと秋が来てから現在に至るまでは、次から次へと予定が生じて、それに追い立てられるようにして日が経ち、気がついたらもうここまで来ていた。前回報告したように、やはり今年も残念ながら、病気に振り回されてしまった。

長年、定期検診を受けるたびにどこといって悪いところも見つからず、いわゆる生活習慣病にも縁がなくメタボ体型にもならずに済んでいたことから、もしや自分の肉体は実年齢よりも若いのでは...などと密かに自惚れたりもしていたが、世の中そんなに甘くはなく、今回かかった病気によって、残念ながら自分も立派なお年寄りであることが証明された。でも、入院・手術とその後の10日間ぐらいを除いては、体力・運動能力はまったく以前と変わりなく、病気を境に心身が老化したような意識は、自分としては全然ない。

だから2011年も、大晦日から元旦にかけてと3ガ日過ぎてからの、近所の御嶽神社と川崎大師へのダブル初詣には、例年通り行こうと思っている。先日の退院後初めての診察で、ドクターからも運動はドンドンした方がいいと言われたし、自分も出歩きたくてウズウズしているので...。今年の初詣では、お賽銭もタップリはずんで家内安全と無病息災を祈願してきたはずなのに、2年続けて病気になってしまったのはまだ信心が足りなかったのか...来年こそは、厄祓いということで、より気を入れて拝んで来よう。

自分のことはさておき、今年は家族にもずいぶん心配と負担をかけてしまった。はっきりとは言わないが、家内はいまも心配を完全に拭い去っていないのが、言葉の端々でわかる。自分本人はノー天気に、手術してもらったらもう大丈夫と思いこんでいるが、周囲とすれば、そう簡単には気持ちを切り替えられないのかも知れない。ムッシュも、可哀そうな目に遭わせてしまった。6月の検査入院と11月の手術・入院の折りにペットホテルに預かってもらって、どちらのときにも体調に異変を来したのだが、身に馴染んだ生活の環境とペースが変ったのがデリケートに影響したらしい。今はすっかり元気になったが。

そんなわけで今年は、思っていたことの半分も...どころか、ほとんど実現できなかった。3年間途絶えていた海外旅行は、胃の手術が済んで1年経った今年は久し振りに行けるかと思っていたところ、またもやお預けとなり、清里の山荘すら6回ほどしか行けなかった。仕事の方はもっと停滞してしまって、本を書くとか改訂するとか広言していたにもかかわらず、少し余裕ができたときに何とか資料や参考文献を読み漁るだけで、一向に執筆に着手する気分には至らず、ひとりジタバタ...。本ブログでわずか7篇のマーケティング・エッセーを綴ったことぐらいが関の山だった。

齢を重ねれば重ねるほど、残念ながら気力・体力とも下降するだろうから、早いところ、つまり来年こそは、前著の新訂、学生・入門者向けの新著書きおろし、既執筆バラ原稿の集成、米専門書の翻訳など、いくつかある腹案のうちのどれか一つでもモノにしたいと思う。かつてのように書きたいことで頭を一杯にし、エネルギーを圧縮しておいて一気呵成にというわけには、もうとても行かないだろうから、あまり得意ではないスタイルだが、焦らず毎日少しずつ、コツコツとやるしかない。

若いころは無限のように思われた時間が、いまとなれば有限でしかも決して残り多くはないことを、いやでも悟らざるを得なくなり、一年一年がたちまち過ぎて行くように感じられて、それだけにその歳月を大事に過ごして行かなければと、近ごろとみに思う。あれもこれもと、しておきたいことはまだ山ほどあるが、欲を出して手を広げ過ぎ何兎をも追い、一兎をも得ないという結果にならないように心しよう。

2009年、2010年と、この2年間は体調の問題で足踏みしていただけに気が逸るが、あえて多くを望まず、少なくともこの1年は無理が嵩じないように自戒してかからなければならないと思う。ただ、それを言い訳にしてダラダラと無為に日を送ることにならないようにしなければならないのが、自己管理の難しいところだが...。

マア、せめて年末と松の内くらいは身体も頭も完全に休めて、読書や音楽・映画鑑賞三昧などで過ごそうかと思っているのだが、貧乏性だから果たしてそれに徹し切れるかどうか自信がない。...テナことをいまから言っているようじゃぁどうしようもないけれど。

何だかんだ言いながら今年もあれこれ気ままに書き連ねてきたが、いつの間にかまた1年が経って、この備忘ログも満5年になった。6年目も、1月10日(この日でまた1つ歳をとる)から始め、これまで同様2週間に1回のペースで書き続けて行きたいと思っている。

皆様、本年もお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。来年も相変りませずよろしくお願いいたします。

どうぞ、良いお年を!

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2010年12月13日 (月)

気に障る広告、気を惹かれる広告

仕事上いろいろな企業の広告を常時チェックしている必要があったころと違い、いまでは、自分の買いたい物、知りたい事、行きたい店などがあってインターネットなどで調べる場合以外には、自ら積極的に広告に接しようと思うことはまずなくなった。ウエブを開いて何かを見たり読んだりしようとする際にその画面に現れる広告も、新聞や雑誌上に掲載されている広告も、目のどこか片隅で認識することはあっても、そちらの方に関心が移るということもほとんどなく見過ごし、そのとき限りで忘れてしまう。
しかし、テレビ広告(CM)だけは、幸か不幸か、そうやって忘れ去ってしまうわけには行かないこともある。スイッチが入っていれば自ら特に意識しなくとも視聴できてしまうメディアだから、番組内容だけを視ているつもりでも、否応なしにCMも、自動的に目と耳に飛び込んできて、望んでもいないのに何らかの印象が残ってしまう。まあ、そういう作用がテレビ広告の効果というか狙い目とされているわけだから、このインターネット時代にも、テレビ広告が依然として大きな存在理由を持っているのだろう。

広告マンたちは、そういう効果を念頭に置いてアイディアを捻り、次々とあの手この手のCMを送り出してくるのだが、自分がそうする側にいたころは他人事としてさほど意識していなかったことが、専ら受けるだけの側になった近ごろは、どうも気にかかるようになってきた。裏事情もわかっているたかがテレビCMと、見過ごし聞き流していれば済むことなのだが、どうしても、あるいくつかのCMには不快感を覚えるようになり、また始末が悪いことにそれが、他のCMよりも強く印象に残ってしまうのだ。
自分は、テレビに関してはぜんぜんヘビー・ウォッチャーなどではなく、毎日、朝昼晩の食事どきなど決まった時間帯に決まった番組を、習慣的に“ながら視聴”しているに過ぎないから、決して全視聴者の代表のような気でものを言うつもりはないが、それでも、せっかく番組を楽しんでいるところに水を差されるように、何だか気に障るCMが現れると、イチイチ目と耳を塞ぐわけにも行かず嫌々ながら繰り返し視てしまい、悪い後味が残って、ツイ、どこかで何か文句も言いたくなってくる。

限られたCMしか視ていないし、年齢的にもテレビ視聴者層としてはマジョリティではないだろうから、自分の印象は最大公約数的意見にはならないかも知れないが、そんな自分にも、気に障るCMがすぐに思い浮かぶものだけでも3つ4つある。視点が視聴者側に置かれていなかったり、メッセージが企業・広告主側の独り善がりだったり、目立ちたい一心で奇を衒い過ぎていたりして、視ている方が“感覚的にスンナリと受け入れ難い”と感じさせられるものだ。それらの広告としての実効のほどは知らないし、広告主や制作者に対しても何の恨みもないが、気に障るものは気に障るので、とりあえずここに引用させてもらうことにする。どうか悪しからず。
先ずは、保険セールスレディが客に対して、どこかの国の女子アナのように眼を剝き声を張って“石川遼のような生命保険です!”と強く言い切るD一生命のCM。そういう路線で行こうと決める社内会議バージョンもあるが、どちらにしろ、自分が楽しみにしている朝のミニ番組の前にこれをやられると、その押しつけがましさにゲンナリしてしまう。いままで石川遼本人に対しては悪い印象は持っていなかったのだが、これでは何だか...。

それから、目を逸らせたくなるのは、何が面白いと思っているのか、人気俳優・女優を連れて来ては変身ヒーローのコスチュームを着せているD和ハウスのCM。役所広司や唐沢寿明がやっている分にはまだ、くだらないおふざけとして見過ごせたが、黒木メイサまでが引っ張り出されるに至っては、一体、誰に何のメリットがあるのか理解できない。
奇抜さ狙いで竹内結子やイチローをGSの屋根に座らせているEネオス石油のCMもその類いと思えるし、Tヨタ自動車のこども店長にセールストークさせるCMにも可愛らしさよりヤラセ的なあざとさを感じてしまうが、そう思う自分は偏屈なのだろうか?とりあえず注目を惹き好イメージに便乗しようとして、人気芸能人・スポーツマンや子供などを安易に起用しているのも、これらに共通しているところだが、こんな設定だと逆効果の恐れもあり、企業や商品・ブランドに何のプラスにもならないのみならず、出演者にとっても、イメージ・ダウンの懸念すら出てくるのではないか?

けれども自分は、だからそういう広告戦略はダメだと言っているわけではない。同じように有名俳優・女優や子供・動物などを起用していても、設定が非現実的であっても、抵抗なく受け入れることができ、むしろ気を惹かれさえするものもある。それにしても、そういうものと前述のようにそうでないものと、似たような発想に基づくものでありながら、どうして正反対の印象を受けてしまうのだろうか?...考えてみたらそれは、広告でメッセージを発信する際の視点・立ち位置がどこにあるかの問題だと気がついた。
スンナリと心の中に入り込んでくる広告は、立ち位置がテレビを視ている生活者側にあって、メッセージはその人々の心中を代弁するようなかたちで発信され、CMの中での有名人や子供・動物などは、企業・広告主ではなく視聴者・生活者の立場で振舞っている。だからそれを視聴している人々は、その内容を、自分の意向に関係なく押しつけられるものではなく、自分の内面にあったものと共振・共鳴する好ましいものとして受け入れることができるのだろう。

自分が特にそんな風に感じ入っている広告も、そうでない広告と同じくらいある。たとえばトミー・リー・ジョーンズが日本の市井事情を調査するために宇宙から派遣されてきた調査員という設定のSトリー缶コーヒーのCM、白い北海道犬が一家のお父さんになっているSトバンクモバイルのCMなどで、それぞれ、主人公が宇宙人だったり人間語をしゃべるおやじキャラの犬だったりという、一つ間違えば際物になりかねない設定だが、どちらもユーザー目線で、なさそうで誰にもありそうな日々の小さな生活シーンをシチュエーションにしているので、それが視ているこちら側の心にも抵抗なく入ってくるのだ。
広告に子供を起用するにしても、妙に捻らず、人間の自然な心情に沿えば誰の胸にも素直に響くもので、これにもお気に入りがある。例えば、先に酷評したD一生命のCMの別バージョンで、教会のバージンロードを今日嫁ぐ娘と手を組んで歩む父親が幼かったその子と手を繋いで歩んだ日々を回想する“幸せの道”と題された一遍。背景に流れる「この道」も効果的で、思い出しただけでもジーンとしてくる。テレビCMではないが、娘の成長過程をウエブ上で疑似体験させてくれるSニーのビデオカメラのプロモーション・サイトなども同じコンセプトで、子を持つ親は切ない気持ちにさせられる。

さて、自分も普段、マーケティング戦略がどうの、クリエーティブ作法がこうのと、あれこれ理屈をこねている立場だから、広告の評価をここで対比させているような感覚的な“好き・嫌い”だけで決めてしまっていいとは思っていない。が、広告の役割がかつて言われていたように単に認知率を高めたり販売を促進したりするだけではなく、今日言われているように顧客との良好な関係形成とそれによる真のブランディングを達成するための足掛かりをつくるところまでを視野に入れるべきとするならば、その“感じ・印象”が良い(好感度が高い)か悪い(好感度が低い)かということは、大きな意味を持ってくる。
では、“感じが良い”(好感度が高い)広告とはどういうものなのか?...自分なりに考えてみたが、それは“自然な共感を呼ぶ”広告ということではないかという気がする。この“共感”という心理的要素が、誰もが忙しくて時間が貴重な世の中でも、広告、とりわけテレビCMのようなものに人々の関心を惹きつけるために、大きな役割を果たしているように思えてならないのだ。広告の成否は“共感を得られるかどうか”から始まると言ったら言い過ぎになるだろうか?

かつては、ブランド・商品に注目を惹き関心を呼ぼうと、企業が自分側の立場だけから声高に呼びかけたり多弁に説明したりする広告が多かったし、いまも少なくないが、この時代、そういうアプローチは煩がられるだけで、反感さえ招きかねない。広告に目を止め耳をそばだて、その内容をもっと知りたくなるようなモチベーションを、より自然に発生させようとするならば、画像で、あるいは言葉で、あるいは音で、まずは視聴者の“感性”に訴え“共感”を呼び起こして、心を開いてもらう必要がある。
最初に俎上に挙げた4つの広告が気に障るのは、この要素が欠落し、ために神経が逆撫でされるような気持ちにさせられるからであり、それに対比して例示した後の4つに好感を覚え、沁み沁みとさせられたりさえするのは、そこに“共感”を誘う何かが存在しているからに他ならない。手前味噌になるけれども、自分もこのことを、自著「体系ダイレクトマーケティング」の第3部第2章「クリエーティブの作法」のところで、“キーワードはシンパシー(共感)”という見出しで書いている。

話は飛躍するようだが(実際は飛躍しないのだけれど)、10年ほど前、ネット・ビジネスのパイオニアの一人セス・ゴウディンが「Permission Marketing」という著作を上梓し日本語版も出版されて話題を呼んだことがあった。いまではこの「パーミション・マーケティング」は、顧客・見込客の同意を得た上でやりとりを始めるマーケティング・コミュニケーション戦略ということで、データベースに基づくオプトイン(Opt-in)メールとほとんど同義語に用いられているが、原著をよく読んでみると、Permissionという言葉は“許可”というよりは“同意”という、より広い意味で使われ、パーミション・マーケティングとは“初めて接触する人にも心を開かせるようなマーケティングのやり方”として位置づけられているように解釈できる。
とすれば、Permissionのニュアンスは、“許可を得る”という手続的なことだけではなくて、“共感を得る”というもっと広く心理的なことまでをも含むものとして受け止められ、パーミション・マーケティングは、データベースに基づくワントゥワン・プロモーションだけではなくて広くメディア広告までをも視野に入れた考え方ということになる。そう考えることによって、ゴウディンの理論は、より普遍性を持ち、真価を発揮することになるのではないだろうか。

これからのマーケティングは、メディア広告だけでは完結しないし、メールやウエブだけでも十分とは言えず、両者の連携・複合こそが不可欠なのは今日のマーケターなら誰もがわかっているはずのことだが、それらを通じて心理の深層から潜在見込客を動かし顧客化に繋げてゆくためには、広告づくり、ウエブサイトづくり、メールづくりの中で一貫して、“共感の形成”というキーワードを意識し続ける必要があると思う。

...と、何となくテレビを視たりウエブサーフィンをしていただけのはずなのに、調子に乗ってツイここまで話を拡げ、久し振りに能書きを垂れてしまった。独断と偏見による言いたい放題、何とぞご容赦のほどを...。

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