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2010年11月

2010年11月29日 (月)

病気になったら治すだけ

前回ここで予告していたように、ある病気で手術を受けて、先週半ばに予定通り退院した。開腹したわけではないので、別に体力がガタ落ちしたという意識はないが、腰椎へ半身麻酔注射をしたためらしく、頭を起こした姿勢でいると、枷を嵌められたようなかなりキツい頭・首・肩痛がし、吐き気を覚える。退院時にドクターから、この症状は1週間くらい続く可能性もあると聞いたときには、そりゃあいささか想定外だったと、憂鬱になった。
手術前は、自分としては電車・バスでの自力入・退院が十分可能だと思っていたほど元気で、図らずも家族全員が集まってくれたことが嬉しくてジョークを飛ばしながらの入院だったが、文字通り冗談じゃあなく、結果的に、入院はともかく退院は一人では明らかに無理だった。家内には結局4日間連続で病院に足を運んでもらい、忙しい仕事や家事を抱えた倅や娘たちにもすっかり世話をかけてしまった。

退院の当日はそうも行かないにしても、翌日からは普段とほとんど変わらぬ生活に戻れるものとばかり信じていたのだが、やはり入院・手術というものはそう甘くはなく、この分ではもうしばらく、寝たり起きたりの毎日を強いられ、各位に不義理をかこつことになるかも知れない。こうしているうちにも、後頭部・首筋・両肩の、吊るようで張るようなズキズキ痛に耐えられなくなり、思わず、ベッドに横たわらざるを得なくなる。
ところで、皆さんにご心配をかけ過ぎては...と思い、ごく一部の方にしか明かしていなかったが、実は自分の今回の病名は「前立腺ガン」。日本人の食生活の欧米化(肉・脂肪類摂取過多傾向)と共に近年急速に増加傾向にあり、中高年男性にとって今やそう珍しくもないと言われている病気で、彼のやんごとなき方も、マラソン・コメディアンや古希越えプロゴルファーも闘病中であるのは、つとに知られているところ。

自分の父親もそれで亡くなっているので、これまでも気にしていなかったわけではなく、ここ10年以上、他のガン検診と合わせて毎年定期的に血液検査(PSA-前立腺特異抗原-測定)を受けており、ずっと異常はなかったが、今春4月の検査ではそれが基準値を上回るという結果が出て精密検査を受けるように勧められ、近所の横浜総合病院で再血液検査と泌尿器科専門医による直腸診を受けることになった。
考えてみると確かに、用を足すのに時間がかかる、事後スッキリしない、などという症状は数年前からあり、3年前、家の建て替えで非常に多忙になった頃から、夜中に何度もトイレに起きるようになって、工事中で山荘に引きこもっていたときには寒い季節と重なったこともありそれが辛いと感ずるようになっていたが、それでもまだそういうことは齢のせいだろうと思っていて、ガンとは疑ってもみなかった。

しかし、やはりガンの疑い濃厚ということで、「針生検」(組織採取によるガン細胞有無の検査)のため6月初旬に1泊2日の検査入院をし、完全にガンであることが確認された。ために、続いて「MRI」(周辺臓器への浸潤を調べる画像検査)を同病院で、「骨シンチグラフィー」(全身の骨への転移を調べる画像検査)をその病院では設備がないため帝京大学溝の口病院で受け、7月の半ばに、転移・浸潤はない“限局ガン”であることが判明した。
よく、ガンを宣告されたときは大きなショックを受けるという話があるが、自分の場合、針生検の結果ガンだと言われても、どういうわけかショックは感じなかった。ピンと来なかったというのが正確な言い方かも知れない。痛いとか痒いとかいう自覚症状は何もないので、病気なら必要な処置をとり、治るものは治そうという気持ちにしかならなかった。だが、周辺・全身への浸潤や転移がない、いわゆる“早期ガン”の状態だと聞かされたときには、やはり、正直言ってホッとしたのは事実。

そうとわかり、次は治療法の選択となったわけだが、前立腺ガンにはいくつもの治療法があって、限局ガンの場合にはいっそう、その選択肢が多くなるという話だった。ただ、いまは専門化が進んでいるためか、ドクターが個人的に特定の治療法を指示・推薦することをしないようになっているらしく、自分の意思で選択決定するように言われ、その参考資料として、ドクター自身も座右に置いていたNHK出版「きょうの健康―前立腺肥大症・前立腺がん」という本を薦められた。
で、それを熟読し、自らもインターネットで検索して数多くの解説記事・体験談などに目を通した結果、前立腺ガンの治療法としては、大別して「全摘除手術」「放射線療法」「内分泌療法」の三つ(それに「待機療法」を加えて四つとする場合も)があって、どの治療法を選ぶかは、ガンの進行度や悪性度、さらに年齢などによっても異なることを知り、自分の場合は幸運にも、その何れも選択可能であることがわかった。

検討熟慮の末、自分が選んだのは「小線源療法」と呼ばれる、放射線療法の中の“組織内照射療法”。簡単に言うと、小さなカプセル状の線源を前立腺の中に埋め込み、内側から放射線を照射してガン細胞を死滅させる方法だ。日本では2003年に厚生省から認可されたばかりで、まだ治療機関もあまり多くはなく、前立腺ガン手術と言えば依然として全摘除が一般的だけれども、アメリカでは今は、この治療を受ける人の方が多くなっているという。
待機療法はあくまでも経過観察の一環であり、内分泌療法が進行度・悪性度の高いガンに対する抑制効果を期待する、どちらかと言えば消極的治療法であるのに対し、全摘除手術と放射線療法は根治を目的とする積極的治療法で、中でも小線源療法は、同じ放射線療法でも“外照射療法”(週5回x7週間継続通院)とくらべて拘束期間が極端に短く(3泊4日入院)また後遺症を起こす可能性も極めて低くて、完治率は全摘除手術(2~3週間入院)とくらべても遜色なく、かつ全身的な侵襲(身体の負担)も小さく、治療後のQOL(生活の質)を良好に保つことのできる可能性が最も高いとされているのが理由だった。

と言っても実際には、文献資料だけを鵜呑みにして簡単スムーズに決定したわけではなく、家族やこの病気を体験した友人などにも相談して、さんざん考えた末にそうした。そして病院選びにもさまざまな紆余曲折を経て、信頼するに足る小線源治療の実績を持っていることを大前提としつつ、事前の検査や事後の定期検診のための通院が比較的楽にできるという点も重視し、東京都目黒区の「国立病院機構東京医療センター」に決めた。
この病院を最初に訪れたのは8月の初め、疑いが発生した春からすでに3ヵ月あまり経ち、いつの間にか本格的な夏になっていたが、入院・手術はそこからさらに110日先の、晩秋11月下旬ということになった。毎日2人ずつの治療に順番待ちしている患者が、この病院だけでもそれほどいるということで、この治療法の希望者の多さに改めて驚かされた。

手術自体は、入院の翌日午後に行われたが、下半身麻酔なので意識は明確なまま何の痛みもなく、2時間ほどで終わった。その1ヵ月半前の準備的検診の際に線源の埋め込み位置や本数の算定のため前立腺に超音波を当てて作成した精密な3次元画像と留置計画に基づいて、複数のスタッフにより患部に“シード”と呼ばれる密封小線源を“アプリケーター”という専用の装置で挿入して行く作業で、“aの5”とか“eの3”...とかいう、埋め込み位置を示すらしい指示の声が聞えるだけで音波的衝撃も感じられず、静かなものだった。
1本のシードは4.5ミリx0.8ミリのチタン製カプセルで、それをガンの大きさによって50本~100本埋め込むのだそうだが、自分の場合は74本と聞かされ、結構な本数が腹中に入ったのを知った。でも、事後特に何も違和感はない。

さて、“時間は最良の医師”ともいうように、頭痛もあとわずかの我慢だろうし、吐き気も日一日と治まってきている気がする。次の訪院は12月の中旬だが、そのころには自分もすっかり、もとの調子をとり戻しているに違いない。後は2~3ヵ月おきの定期検診になるらしいが、月を追ってPSA値が下がって行くのが楽しみだ。
今回はここで、あえて自分の病気治療経験を晒したが、決してブログのネタ切れのためではない。男性だけの問題ながら、自分と同じか近い年代の方々の健康管理上の参考になればと思ってのこと。少しでも役に立ったら幸いだ。

とりあえず手術・退院直後の状況報告だけになってしまったが、次回からはまた、あれこれ気ままなテーマでお目にかかりたいと思っている。

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2010年11月15日 (月)

清里・早稲田...それぞれの秋

先月末に季節遅れの台風が行き過ぎてからは、一転、秋らしい好天に恵まれたこともあり、今月初め、久し振りに清里へ行った。今年は11月から12月にかけて何やかやと予定が集中しているので、例年より1ヵ月早いけれども山荘をクローズするのが主目的だったが、短時日ながらそれなりに、往く山の秋の情緒も楽しんできた。
着いた翌朝、どこかで“コンコン...コンコン...”と壁をノックするような音が聞えた。ので、反射的に思わず“ハイッ!”と返事をして立ち上がり、夢うつつのままドアを開けてみたら誰もいない...が、音は続いている。少し意識がはっきりしてきたところで四方に耳を澄まし確かめると、どうやら屋外らしいとわかりカーテンを開けてみた。すると何と、窓の横の頬杖(壁から斜め上に伸びて軒桁を支えている腕木)を、それに逆さまに止まった状態のクマゲラ(大キツツキ)が頻りに突いていた。

日の出 その翌日は、荘厳な日の出ショウ。未明に早々と目が覚めてしまい、まだ黒々とした木々の間を通して東の空を眺めていたら、初めは薄墨色だったのがだんだん青みがかり、淡い茜色に明るんできたかと思うと、やがて炎のようなオレンジ色からまばゆいばかりの白銀色に変わり、それに連れて手前の森が、逆光を浴びて黄金色に染め出され、その光の中に紅葉・黄葉が浮き出し始めた。
時間にしてわずか三十分前後、アッという間だったが、やはり自分も遺伝子に太陽信仰が刷り込まれている日本人、訳もなく感動した。葉がすっかり散り落ちて透明感のある冬期の日の出には、これまでも何度かお目にかかったことがあったが、カラフルな紅葉期のそれは、20年以上ここにいて今回が初めて。季節と天候と目覚めのタイミングの三拍子がなかなか揃わなくて体験できずにいたが、この朝はラッキーだった。

今年最後ということで、昨年以来ずっとご無沙汰していた「萌木の村」の「ハットウォルデン」へも顔を出し、ランチをしてきた。ホテルの支配人だったKさんは村の中での責任がより重くなって専任ではなくなったらしく、1年余り来なかった間にレストラン・スタッフの顔ぶれも新しくなり、シェフも代替わりして、料理の傾向も値段も変わった。
25年以上も通い続けていると、こういう観光地では、時流と客層の変化に合わせてホテルもいろいろ試行錯誤しなければならないのはよくわかるので、今回の変わり様についてはあえて何も言わないが、できればこれからは、この店ならではのものを頑固に守り続けて欲しいと思うのは、客の我が侭だろうか。でも、シーズンオフで来客が少なかったお蔭で、旧知・新顔のみんなから、代わる代わる村の近況やOB・OGたちの消息などを聞かせてもらいながら食事をすることができて、馴染みの店ならではの寛いだ時間を過ごせた。

山荘は、各部屋の掃除は前日までに済ませ、最終日は朝食後すぐから、荷物(と言っても大したものはないが)の積み込みを始め、それが終わるといよいよ“水抜き”作業。毎年のことで手順はすべて呑み込んでいるはずなのに、最近は自分も家内もとみに記憶に自信がなくなってきたため、あらかじめ作ってきたメモを見つついちいち確認、その上さらに、分担した部分を相互チェックするので、これまでの倍の時間がかかった。
それでもなお、昨年はチョッと見落としをして管理センターの手を煩わせてしまった洗濯機の蛇口部分の始末に確信が持てなくなり、聞くだけのつもりでまた電話をしたところ、いつもお世話になっているAさんがわざわざ飛んできてくれた。感謝と恐縮の行ったり来たりだが、同時に、この土地でそういう人間関係ができたことを嬉しくも思った。

八ヶ岳冠雪 帰り道、森の広場から、薄っすらと冠雪したばかりの八ヶ岳(の主峰赤岳)が、抜けるように青い空をバックにクッキリと見えた。明らかに冬はそこまで近づいているはずなのに、我が庭の紅葉はまだ半分ほど、キノコも例年マメに顔を出すシモフリシメジ(今回も味噌汁にして美味しくいただいた)以外はまったく姿がなく、秋の進行がどうもおかしい感じ。
今年は年間を通して5度しか来ることができず、夏の盛りからここまでもアッという間だったが、ともあれ、八ヶ岳・清里の森とはこれで来年までお別れ。こんど来るのはたぶん桜のころになるだろうが、それまでにはいつもの季節感を取り戻していて欲しい。


大隈講堂 いよいよシーズン到来ということで、横浜の自宅に戻ってすぐ、お定まりのインフルエンザ予防接種。そして数日後は、早稲田のリーガロイヤルホテルで本年度のクラス会。例年この時期は曇り空で薄寒く、キャンパスには枯れ葉が舞っていた気がするが、今年は連日の小春日和で、この日も日中はポカポカ陽気。大隈講堂横の大銀杏もまだ黄葉には程遠く、晩秋の風情は全然だった。
ところで、東西線早稲田駅で地上に出たとたん、普段にない人の波。それが、大学正門方向にゾロゾロと流れて行く。何ごとかと訝っていたら、どうやら文化祭らしいとわかった。大隈講堂前には鉄骨でステージ様のものが組み立てられ、その上で、大太鼓の大音声に合わせて若者たちが乱舞(としか見えなかった)しており、正門前の広場は見物客で一杯だった。後で聞いたら、「チアリーディング」なる“スポーツ”だとか...。フーン???

馬場下方面からは、その広場がホテルへの順路に当たっていたので、人を掻き分け掻き分け通り抜けるのに一苦労。さらにホテルの中も、いつもにない混雑だった。結婚披露宴とおぼしきグループ、さまざまなジェネレーションのクラス会らしき連中、それに外国からの観光客などでゴッタ返しており、この月は考えてみればそういう月だったということを、改めて実感した。
我がグループが集ったのは、今回は宴会場の方ではなく、個室風にアレンジされたカフェの一隅。だんだん集まる人数も減り、飲み食いもスケールが小さくなってきたので、それで良かろうということになった。にもかかわらず、もと飲兵衛の性か、今回も幹事はツイ“飲み放題”という点にこだわってしまったようだが、その実、自分を含めて半数はノン・アルコール派。アルコール派も軽くビールかワインで、ロクに杯を重ねていなかった。

食事は、オイリー、クリーミーな料理が多いいわゆる宴会メニューではなく、バラエティに富んだパーティー料理にはなっているが和のテーストも取込んだ、シニア向きのフルコース。どの皿もまずまずの味わいで、この種の食事としては質的にかなり満足できたけれども、小食がすっかり身についてしまった自分には、ボリュームが多過ぎた。
“飲み放題、食べ放題”的なサービスが必ずしも有難いわけではない、自分を含めた何人かのために幹事が気を遣って、2次会として“歌い放題”の場を設けてくれようとしたが、この日は生憎、ホテル付属のカラオケ・スタジオが全室満杯。だからと言って、どこか街中の店に入ってまでもというほどの気にはなれず、結局、誰もが大人しく明るいうちに家に向かった。今や我々の世代には、それが無難ということなのかも知れない。

もとは50人ほどのクラスで、一頃はその半数近くが顔を見せていたが、今年集まったのは17人。鬼籍に入った者も判っているだけで6人を数えるのは、多いのか少ないのか...。今回訃報を聞くことのなかったのは幸いだったが、ここ数年、開会に先立って、いまは亡き友に黙祷を捧げ、元気で来年も会おうとお互いを励まし合うのが慣わしになっている。
近況報告も、趣味や旅行談ばかりでなく、健康問題が多くなった。みんなマメに定期検診を受け、自己管理しているようで、昔は深刻だった病気を早期発見、適切に処置・手術し、いまはすっかり回復しているという話が、いくつも淡々と交わされた。が、そんな中で元気が出たのは、それぞれ103歳と99歳の母堂がご健在という2人の友の話。“検診のデータがすべて親の方が優っているんだよ”と、彼らは嬉しそうに自虐していた。

あれから、また1週間。来週末には自分も、チョッとした手術のため、3泊4日の旅...ではなかった、入院をする。ありふれた症候だから、ご心配いただくには及ばないが、同世代の方々の参考に供するため、後日、顛末を報告させていただくかも知れない。
と言っても現在の体調は、それ以外どこも何ともないので、入院の前に、今年も「日展」を鑑賞しに六本木まで出かけ、ついでにお上りさんよろしく、ヒルズやミッドタウンのクリスマス・イルミネーションでも見物して来ようかと思っている。

清里の山荘を閉め、予防接種も済ませ、クラス会に出席し、日展を見て、プラス身体のオーバーホールをして、2010年の我が秋は一段落となる。

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2010年11月 1日 (月)

今また、羽田から世界へ

先月下旬から羽田空港が、新国際線ターミナルのオープンということで賑わっている。...と、見てきたようなことを言っているけれども、まだ自分は実際に足を運んだわけではなく、テレビやインターネットを通じて知り得た限りの情報であれこれ想像しているだけ。なのだが、海外旅行好きとしては何となく無関心ではいられなくて、以来いろいろと、これからへの思いを馳せたり、過去の思い出を辿ったりしている。
もう、世界を駆け巡るフリークェント・フライヤーでなくなって久しいから、今回特別にどこかから声が掛かったりなどはしていないが、それでも、メンバーになっているJMB(JALマイレージバンク)からは、10月21日のグランドオープンに先がけて、「かつて羽田から世界へ飛び立ったことのある方はご注目ください! ワンワールド・アライアンスの羽田発国際航空券を抽選でプレゼント!」という見出しの号外メルマガが届いた。

「ワンワールド」とは、国際線をよく利用する人ならご存知の、日本航空・アメリカン航空・英国航空などが属する世界の航空会社同盟の一つ。そのネットワークによってカバーされる路線に使えるチケットがもらえるとなればなかなかの魅力で、チョッと気を惹かれた。応募資格は“1978年5月20日の成田空港オープン以前に羽田空港からサンフランシスコ、ニューヨーク、ホノルル、パリ、ロンドン、シンガポール、バンコク、ホンコン、台北、北京、上海、ソウル線に搭乗した方(利用航空会社は問わず)”とある。
Old_passport_2 自分が初めて海外渡航したのはもう40年も前、奇しくも、その時点での最新国際線ターミナルが供用開始された直後で、以来、上記の路線は北京・上海を除いてすべて、頻繁に利用してきたし、他にローマ、アムステルダムなどにも飛んでおり、羽田には、成田が利用できるようになる直前までお世話になっていた。古いパスポートを見返すと、’78年5月10日に出国し、ホンコン・台北、・ソウルを回って18日に帰国した記録もある。

だから、このプレゼントの応募資格に関しては、自分はまさにドンピシャリだったのだが、もう一つ条件があった。抽選が行われるのは10月30日の18:00~19:00で、そのとき応募者は、抽選会場になる羽田新国際線ターミナルビル5階TOKYO POP TOWN中央広場まで足を運び、就航記念イベントに直接参加しなければならないということで、これは残念ながらムリ。前々から30日には予定が入っていて、変えられなかった。
そりゃあ、国際線の航空券をタダでもらえたら嬉しくないことはないから、イベントがこのタイミングなのは残念だったが、よく読んでみると、利用できるのはJALの羽田~サンフランシスコ線、キャセイの羽田~香港線、英国航空の羽田~ロンドン線、アメリカン航空の羽田~ニューヨーク線のいずれかだけ、座席はエコノミーとあって、それなら別にいいやと、すぐ諦めがついた。それ以外の路線もOKとか、座席はビジネスクラスという話だったら、もっと何とかしようと考えたかも知れなかったが...。

それにしても、実際の利用客だけではなく、見物客もずいぶんと多いようで、オープン初日など、集まった人々の半分は野次馬だったという説もあるらしい。もちろんその中には、ただ遊びに来ていたわけではない、航空機好き・空港好きの人もいたのだろうが...。ときに、どうでもいいことだが、鉄道好きの人を“鉄チャン”と呼ぶように、こういう人たちのことは“航チャン”とか“空チャン”と呼ぶのだろうか?
新ターミナルは、施設にもあれこれ工夫を凝らしているようだ。カジノがあるオランダのスキポール空港や映画館やプールなどまであるシンガポールのチャンギ空港に負けない集客力を狙おうとしているのか、羽田も、5階にはアニメキャラクターショップが設けられ、4階の飲食店街は江戸の街並みを再現した趣向になっているそうだ。が、“日本ならでは”を強調していることはわかるにしても、どこぞのテーマパークではないのだから、空港に“江戸街並”は如何なものかという感が、個人的にはなくもない。

成田にはなかった新奇なものができたという点では、少なくとも空港会社としての収益性には寄与することになるのかも知れないが、国際空港の本筋はやはり、ラウンジやアクセスなど旅客の利用における利便性だろう。これは、実際に中を歩き回ったり、出入国したりしてみないとわかって来ないが、電車の駅とチェックインカウンター間の移動がよりスムーズかつスピーディーにできるようになったというのは、大きなメリットだ。
自分のような横浜在住者にとっても、また羽田から世界各地へ飛べるようになったことは、たいへん有難い。現在、近所の駅のたまプラーザからは、成田と羽田の両方へ直行バスが出ているが、成田までが125分かかるところ、羽田へは55分と半分以下の時間で行けるので、海外へ出かけるのに何かと楽になる。

だが、実は、振り返ってみると羽田へのアクセスに関しては、それほど苦労した記憶がない。昔、国際線でここから出発していたときも、成田がオープンして国内線専門に利用するようになってからも、羽田発はほとんどが社用・公用で、都心のオフィスから車で直接向かっていたから、そういう印象なのかも知れない。
ただ、プライベートでは失敗談もある。20年以上前、いま住んでいる場所に引っ越してきたばかりで、たまプラーザ発の直行バスがまだ存在しなかったころのこと。電車だと何度も乗り換えなければならないのでマイカーで向かったら、国道246号・環状8号線が朝の大渋滞で、予約していた札幌行き第1便に乗り遅れてしまった。3時間ほど遅れて次の便に乗ったが、その日はゴルフコンペを兼ねたクラス会だったので、コンペの方をすっぽかす結果となってしまい、幹事から“考えが甘い!”と大目玉を喰った。

さて、羽田には、5年前に公用で沖縄へ、プライベートで北海道へ飛んで以来ご無沙汰しているが、そのころでも昔とくらべて格段にグレードアップしたと感じたから、こんどは、さらにどれほど素晴らしくなったかと期待してしまう。近いうちに、恥ずかしながら見物だけでもぜひ行ってみたいというのが、正直のところだ。かつては世界中の主要空港を我が物顔に闊歩していた(つもりの)元インターナショナル・ビジネスマンも、今浦島よろしく、マゴマゴしてしまうかも知れない。
空港にとって、飲食や買い物は基本的なニーズだろうから、レストラン街やショッピング・エリアの充実は当然と思うが、こちとらは今や、旅は何より“楽に、寛いで”という心境なので、豪華さとサービスを競っているという各航空会社のラウンジにも、どんな利用の仕方ができるようになったのかと、大いに興味がある。ただ、実際に搭乗することにならないと、そこには入れないだろうが...。

長い間、北米をはじめヨーロッパや東アジアなど、世界の各国・各地の主要空港で、それぞれの国・都市を代表するエアラインのラウンジを幾度となく使わせてもらってきたが、どこも、基本的にユニバーサルであろうとしながらも、ポイントとなるサービスにその土地柄・お国柄が何となく現れていて興味深かったという印象がある。新しくなった羽田国際線ターミナルの、JALやANAのそれは、果たしてどうなっているのだろうか...。
40年前に、初めての海外出張で1ヵ月半の世界一周旅行(07年6月18日参照)に羽田から発ったときは、エアラインはかつてのリーディング・キャリアーPANAM(パンアメリカン航空)で、チケットはファーストクラス(同社の広告掲載料とのバーター)だったが、案内されたラウンジは、その時代、どうも一社専用ではなかったような気がするし、さして豪華でもなく、サービスもドリンク程度の簡素なものだったように記憶する。

それでも、一家の主が長い旅に出るとあって、家族一同はもちろん義父母までもが見送りに来てくれ、大応接間然としたそのラウンジでは、まだ小さかった子供たちも走り回って遊ぶわけにも行かず、本人をはじめ全員が妙にシャッチョコ張って、言葉少なに紅茶やジュースなどを何杯もお代りして時間をつぶしていた。
日本人の海外渡航が自由化されてから数年しか経っておらず、1ドルが360円で外貨持ち出し額にも制限があり(たしか1000ドルまで?)、パッケージツアーも始まってはいたものの、まだボチボチという時代だった。

あれから長い月日が経ち、また羽田にスポットがあたることになった。時期も行き先も、まだ何も決めてはないが、こんど世界のどこかに出かけるときには、まずはここからにしようと思う。そのころはきっと、路線ももっと増えているだろうから...。

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