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2010年5月19日 (水)

我が想い出ロード~神保町から一ツ橋へ

パレスサイドビル 以前にもここで報告したことのあるリーダーズダイジェスト社の同窓会に、先週末、3年ぶりで顔を出してきた。昨年は胃の手術を控え精密検査の繰り返しで身にも心にも余裕がなく、一昨年は家の建て替えとそのための引っ越しの準備でバタバタしていて、足を運べなかったが、今年は体調もまずまず回復、久し振りに出席する気になった。
いつもなら、半蔵門線を九段下で東西線に乗り換えて竹橋で下車、そこから直接、会場の「アラスカ」があるパレスサイド・ビルに入るのだが、この日はちょっと時間に余裕があったので、付近をブラブラ歩きしながら向かおうかと、もう一駅、神保町まで乗り、そこで地上に出た。この駅はご存知のように、地下鉄の営団半蔵門線と都営新宿線および三田線のホームが、微妙にズレた位置関係で交叉しているので、電車を降りた場所によっては、出口までけっこう昇ったり降ったり歩いたりしなければならないが、それをわかった積りでいた自分も、久し振りのこととて少々マゴついてしまった。

チョッと離れた春日や日比谷には、割合最近までも来る用事があって、乗り換えのために地下道を通ってはいたのだが、地上の神保町交差点に出たのは、いつ以来になるだろうかと考え込んでしまうほど。よく思い出せないが、ヒョッとするともう15年くらい前のことになるかも知れない。新書・古書の店に一軒一軒立ち寄りながら、東西に走る靖国通りを専大前あたりから駿河台下までブラついていたのはついこの間のことだったような気もするが、いつの間にか長い時間が経っていた。
交叉して南北に走る白山通りを皇居方面に向かったが、思い起こしてみるとこの近辺には、靖国通りの書店街よりももっと、久しく足を踏み入れていなかった。自分ではそんなに機会がなかったとは意識していなかったのだが、仕事の拠点と活動範囲が皇居の北側から南側に変り、暮らしの拠点を東京都内から神奈川県に移したころから、すっかりこの通りには縁遠くなり、そんなに隔絶した土地に引っ込んでいたわけでもないのに、通算して30年近くもご無沙汰していた。

板橋区の旧中山道沿いの下宿住まいだった学生時代と独身サラリーマン時代、そして文京区小石川の小さなアパートに新所帯を持ったころは、会社、すなわち竹平町にあったリーダーズダイジェストと自宅の間はもっぱら、初音町・水道橋・神保町などを通る都電18系統で往復、一ツ橋で乗降していたし、ランチタイムともなれば自社内の食堂だけでは飽き足らず、神保町方面まで足を延ばすことも少なからずあり、退社後は界隈の路地裏のジャン荘や喫茶店で仲間との時を過ごすこともしょっちゅうだった。
そんなだったから、神保町交差点をはさみ水道橋から平川門に至るこの通りは、いわば我が若かりし日の想い出ロード。目を瞑ればいまでもあの店この店の、トンカツにカレーライス、タンメンに餃子、蕎麦に親子丼、ピラフにハンバーグ、コーヒーにトースト...等々の味と香りが、そして雀牌をかき混ぜる音やレトロなアルゼンチンタンゴのメロディーが、次々と脳裏によみがえる。思えばこの一帯のそこここには、決して裕福ではなかったが未来を信じて懸命に働いていた自分たち若い世代に、束の間の満足を与え、ささやかな幸せの夢を見させてくれる何かがあった。

神保町交差点 ...と、そうまで言うのは、過ぎ去った時を美化したい昭和二ケタの感傷に過ぎないかも知れないが、地上に出て交差点の四方を眺め渡したとき、ある種のタイムスリップ感に襲われたのも事実。岩波ホールの石張り風の外壁は、あのころのままだったし、隣にはスーパーストアの老舗「富士屋」も健在、東南角の書店「広文館」も昔と何も変わっていなかったし、驚いたことに、西北角のディスカウント・ショップ「キムラヤ」も、以前と同じ低層の店舗のまま営業を続けていた。
皇居方面に向かって歩き始めると、しかし、目に入る風景から受ける印象は当時とはかなり異なるような気がしたが、それはどうやら、通りの左側つまり東側一帯の様変わりのせいらしかった。あのころどんな店や会社がそこに軒を連ねていたかもう記憶にないが、いまでは中・高層のオフィス・ビル、マンションが立ち並び、雑多だった街並がすっかり整然としてしまった。

救世軍・集英社・小学館 通りの右側すなわち西側のビル群は、「救世軍」「集英社」「小学館」「共立講堂」と、主は昔のままだが、それぞれ化粧直ししたと見えて、すっかりきれいになっていた。歩道も、洒落たカラー・タイルのペーブメントになり、そこを行き交う人々も、かつてのような、徹夜明けで無精ひげを生やし目を血走らせた出版社社員風のオヤジよりも、キビキビとしてオシャレな商社勤めのキャリアOLといった感じの若い女性の方が多くなっているように思えた。
一ツ橋まで来ると、チョッと手前の左側には「学士会館」、少し先の右側には「如水会館」があるのも昔のまま。どちらも大震災後の大正名建築だったが、如水会館が30年近く前にいまの中層ビルに完全建て替えされたのは自分も知っていた。学士会館の方も、その後大幅にリニューアルされようだが、基本骨格や外壁の質感などがあえて昔のままに残されていたのは懐かしかった。どちらの食堂も、会員でもないのによく出入りさせてもらった。

日本橋川とその上に架かる首都高速の向う側が、目的地のパレスサイド・ビル。かつて10年間通勤して勝手知った館内のこと、東通用口から入って西側のエレベーターホールまで地下1階のレストラン・アーケードを通り抜けたが、開館以来40年以上も経つというのに、鮨の「いろは」、中華の「赤坂飯店」、トンカツの「たけはし」、北海道料理の「ユック」、うなぎの「大作」、蕎麦の「長寿庵」、パブの「サントリアン」、ビヤレストランの「ニュートーキョー」など、通路の両側の半数近くの店が変らず商売を続けていたのは驚きだった。
その日の会場だったフレンチ・レストランの「アラスカ」もその一つだが、栄枯盛衰の激しいいまの世の中、一つのビルの中でこれだけの店が長続きしているのはなかなか珍しい。秘訣は何なのだろう?“味”や“サービス”ももちろんだろうが、多分根本は、単なる集散人口の多少だけではなくて、新聞社(毎日)という巨大組織がずっと変らずここに根を張っているという地の利にあるのではないだろうか...。

さて同窓会の方は、2回パスしていた間に、出席者の数も徐々に減り、顔ぶれも変っていた。戦後間もなく設立され30年前に閉鎖された会社の卒業生の集まりだから、名簿上では上は大正生まれから下はポスト団塊世代まで、年齢層は多岐に亘っているが、昭和一桁以前の人々の参加がめっきり少なくなってしまった。
この1年間だけでも物故者は数人、そのうち2人は自分にも連絡があり葬儀に参列したが、ほかの何人かについては逝ったことを知らないでいて、ここで初めてその事実を聞き暗然とした。この会が始まった20年前には、周りはみんな先輩ばかりで、自分などはまだまだ“若手”のつもりでいたが、いつの間にか顔を見せる先輩方は数えるほどになってしまい、年の順で言うと上から数える方が早くなってしまった。

それでも、かつての後輩女性社員たちからは、手術後小食になってしまい体重がもとに戻らないのをダイエットとカン違いされて感心され、オックスフォードのボタンダウン・シャツにレジメンタル・タイそしてネービー・ブルーのブレザー・ジャケットという若づくりのいでたちに“とてもお齢にはみえません!”などとお世辞を言われて、“イヤイヤとても”と身のほど弁えた受け答えをしつつも、内心満更でもなかった。
しかし、実際にまったく老いた感じの見えない90歳越えと80歳越えの先輩からは、“70歳を越えたくらいはまだまだ青春時代!”とハッパをかけられ、このごろともすれば“加齢現象”と片付けて諦めかけていたアレやコレやに、もう一度チャレンジしてみようかという気持ちが湧いてきて、次回は上辺だけでなく中身も若返ってこの場に戻ってこようと、独り密かに心に誓った。

帰りは、東西線も半蔵門線・田園都市線も帰宅ラッシュで、竹橋からあざみ野までまったく座れなかったが、意外に疲れも感じず、これならまだまだイケるかも...と、体力に自信もついた。

ちょっとオダテられるとすぐその気になって...我ながら単純なものだ。

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