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2010年5月

2010年5月31日 (月)

広告電通賞の季節

齢のせいですっかり出無精になったと言うつもりはないが、ときに億劫感を覚えることがあって、年々少しずつ、仕事で外出する機会が減っている。でもそんな中、4月中旬から5月一杯にかけては、例年の広告電通賞選考の季節で、「セールスプロモーション(以下SP)広告」と「ダイレクト広告」の2部門の選考委員になっている自分は、ほどほどに忙しくなり、お蔭で心身共に元気を取り戻す。
“風薫る五月”と言えば月並みだが、不思議とこの季節になると、それまでの不順な気候が落ち着き、コートなしで出かけても暑くもなければ寒くもなし、大都会の街中でも大気が快い。この時季、選考会場の電通ビルに入ると、広いロビーには、この会社の社員らしき人たち、訪ねて来た関係者らしき人たち、そして就職活動の真っ最中らしき若者たちなどが縦横に行き交っていて、一種独特のエネルギーが発散されているが、自分も久し振りにそんな空気に触れて刺激を受け、気持ちが“仕事モード”に切り替わった。

この選考会はSPもダイレクトも、かつては、それぞれ数十点に及ぶ応募作品の企画概要とプレゼンテーション・ボードを、当日選考会場に入って初めて目にすることになっていたので、それを各1~2日、それぞれ2~3時間という短い間にチェックして評価するというのは、傍目よりもはるかに集中力を要する、正直言って決して楽ではない仕事だったが、昨年から事前に応募の“企画概要”に目を通すことができるようになり、ジックリと考察することが可能になった。
歴史的にこの賞は、さまざまなメディアでの広告の優れたクリエーティブに対して与えられてきたものだそうだが、自分は、広告はアートやエンタテインメントでもあるかも知れないけれども同時に投下費用に見合う効果が上がっていなければ話にならない(特にSP・ダイレクトは)という考えを持ち、話題になったり魅力的だったりするだけでなく成果に寄与(それこそ人の心を動かしたということになる)してこそ優れたクリエーティブと思っているので、企画概要はきわめて重要な資料となり、いつも、そこに記されている全体戦略の組み立てとそれによる成果にかなりウエイトを置いて評価させてもらっている。

さて、SP広告とダイレクト広告は今年から、その部門内の区分がザックリと、前者は「インストア・プロモーション」と「プロモーショナル・キャンペーン」、そして後者は「通販」と「非通販」という2分類に変った。従来、SPは購買喚起型/話題喚起型/複合型と、プロモーション目的別に3分類され、ダイレクトはグラフィック/ダイレクト・ツール/テレビ・ラジオ/クロスメディアと、メディア・タイプ別に4分類されていたのだが、どうやらそういう分類では、企画・作品の実態に整合しなくなったということのようだ。
趣旨はわかるし、事務局の苦心のほども察するが、今回の区分し方はもしかしたら、思わぬ混乱を招いたかも知れない。SPでは、“インストア...”がずいぶん範囲を限定した印象を与えるのに対し、“プロモーショナル...”の方は逆に幅が拡がり過ぎてSPの既成概念とはいささか異なるのではないかと思われる作品が少なからず含まれる結果になり、ダイレクトの方も、“通販”という明確な概念に対し、“非通販”という括りはあまりに大雑把過ぎ応募者によって概念の解釈がマチマチになり、ダイレクトの既成概念とは異質の作品をかなり含むことになった。結果、応募点数も、これらの部門に大きく偏った。

このことはしかし、見方を変えると、とりあえず“広告”という呼称で一括りにされている今日のマーケティング・コミュニケーション全体の中には、「○○広告」「△△広告」といった概念で明快に区別できるものはどんどん少なくなり、達成しようとする“目的”も使用する“メディア”も限りなく多彩化・多重化して従来の概念ワクには収まりきれなくなったものが増殖してきて、それらがこの広告賞では、SP広告・ダイレクト広告という存外奥の深い2部門に吹き寄せられたという感がしなくもない。
SPもダイレクトも、それがある特定の目的・形態を意味していた時代から伝統的に効果が証明されている定石戦略・手法というものがあるから、今回も当然ほとんどの応募作品は、キャンペーンの性格や規模の大小にかかわらず意識的・無意識的にそれを踏まえていたが、ほぼ単一のメディア・戦略・手法でコストもあまりかけずに立派な成果を挙げていた職人芸のようなケースも多少はあったものの、年々増えてきたいわゆる「クロスメディア」が、事実上ほとんどを占めていた。

クロスメディアは、今日の広告が設定すべき目的の“多岐化”と達成すべき成果レベルの“高度化”に伴う必然的なメディア複合戦略で、言うまでもなく、単なるメディアの量的な多重作戦ではなくて、質的な連携利用作戦だが、複数のメディアを利用するという意味では、単一メディアだけの場合よりも広告投資額が嵩むことは事実として否定できない。しかし、それを単なる物量作戦と見ていては判断を誤ることになるだろう。
もちろん、いたずらにさまざまなメディアに大量の広告投資をし、力づくだけで結果を出そうとするのは感心しないが、費用を節約したところで結果が出なければ何もならない。要は、投資をしてもそれに十分見合う効果が上がれば良いわけで、その投資効率(ROI)の改善を常に目指して、メディアの組み合わせと活用手法を追求して行くのが、真のクロスメディアではないのだろうか?ダイレクト広告とSP広告には、それを検証する手法がある。

クロスメディアと言っても戦略は一様ではないが、中心になるのは、これからはやはりインターネットだと思う。この賞には5年前から「インターネット広告」という部門が設けられているが、インターネットを単に、旧来のマスメディアなどと並べて“広く告げる”ためのメディアの一つとして見ているだけでは、近視眼的思考に陥って大きな将来展望を欠くことになる。
インターネットは今や、本来の広告という概念には収まり切れないマーケティング・コミュニケーションにおける“情報の出入口”として、“受発信の基盤・中心軸”として、さらには“効果の増幅・波及装置”として不可欠なものになりつつあり、それがこの賞のSPやダイレクトという部門において、単に「広告」だけでなく「キャンペーン・サイト」「SNS」「動画」などとして、またそれに「モバイル・ディバイス」も組み込まれたかたちで、盛んに実験されている様子が見える。その動きは今年になって、昨年より格段に高まった。

先日のブログにも書いたが、広告費統計では年々インターネットが伸びマスメディアが落ち込んでいるので、広告におけるマスとネットは利害が相反するように見えるが、そんなことはない。インターネットは、マスメディアの存在なしではその価値と持ち味を十分に発揮できないし、マスメディアもそれだけでは、時代が要求するマーケティング目的を達成できない。両者は“互恵・相互補完”の関係にあり、いかにしてそれを効果的に引き出すかが、今後の“広い意味での広告ビジネス”の発展の鍵になる。そしてそれによって、いまはクロスメディアと呼び、SP・ダイレクト広告と呼んで区別しているものが、混然として“新しい何か”に進化することになるのだろう。
かつて、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などのマスメディアによる広告を“Above the Line”と呼び、SPやダイレクトメールなどそれ以外のマーケティング・コミュニケーションを“Below the Line”と呼んで、文字通りその間に一線を引いていた時代があったが、現在はもはや実態として、そんな線引きは意味がなくなり、aboveとbelowを合わせた“thru the line”という呼称も使われるようになった。自分は、クロスメディアという概念に合わせた“across the line”などという呼び方もあるのではないかと思っているが...。 ともあれ、この広告賞も視点を新たにして、そういう時代の流れに対応して行かなければなるまい。

日本を含めて世界の景気は、ようやく今年初あたりから少しずつ回復基調にあるようで、広告業界もそれに伴いここ数ヵ月、漸次改善の兆しが見え始めているとか...。 今回の応募作品は2009年度、つまり09年4月1日から10年3月31日までのものだったから、景気後退の影響を受けてか、全体的にチャレンジングというよりは手堅く成果に結びつけようというものが多かった印象を受けたが、そんな中でも、懸命にアイディアを凝らして、時代環境に副った意欲的な試みが少なからず見られたのは心強い限りだった。
“鶏と卵”の関係かも知れないが、広告の活気と、世の中の元気は連動する。来年度の賞選考の機会には、ぜひ、表現・成果ともに元気が出るような作品に出会いたいものだ。

心地よい知的刺激を受けて、ふやけていた脳内が活性化したような気がした一月半だった。

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2010年5月19日 (水)

我が想い出ロード~神保町から一ツ橋へ

パレスサイドビル 以前にもここで報告したことのあるリーダーズダイジェスト社の同窓会に、先週末、3年ぶりで顔を出してきた。昨年は胃の手術を控え精密検査の繰り返しで身にも心にも余裕がなく、一昨年は家の建て替えとそのための引っ越しの準備でバタバタしていて、足を運べなかったが、今年は体調もまずまず回復、久し振りに出席する気になった。
いつもなら、半蔵門線を九段下で東西線に乗り換えて竹橋で下車、そこから直接、会場の「アラスカ」があるパレスサイド・ビルに入るのだが、この日はちょっと時間に余裕があったので、付近をブラブラ歩きしながら向かおうかと、もう一駅、神保町まで乗り、そこで地上に出た。この駅はご存知のように、地下鉄の営団半蔵門線と都営新宿線および三田線のホームが、微妙にズレた位置関係で交叉しているので、電車を降りた場所によっては、出口までけっこう昇ったり降ったり歩いたりしなければならないが、それをわかった積りでいた自分も、久し振りのこととて少々マゴついてしまった。

チョッと離れた春日や日比谷には、割合最近までも来る用事があって、乗り換えのために地下道を通ってはいたのだが、地上の神保町交差点に出たのは、いつ以来になるだろうかと考え込んでしまうほど。よく思い出せないが、ヒョッとするともう15年くらい前のことになるかも知れない。新書・古書の店に一軒一軒立ち寄りながら、東西に走る靖国通りを専大前あたりから駿河台下までブラついていたのはついこの間のことだったような気もするが、いつの間にか長い時間が経っていた。
交叉して南北に走る白山通りを皇居方面に向かったが、思い起こしてみるとこの近辺には、靖国通りの書店街よりももっと、久しく足を踏み入れていなかった。自分ではそんなに機会がなかったとは意識していなかったのだが、仕事の拠点と活動範囲が皇居の北側から南側に変り、暮らしの拠点を東京都内から神奈川県に移したころから、すっかりこの通りには縁遠くなり、そんなに隔絶した土地に引っ込んでいたわけでもないのに、通算して30年近くもご無沙汰していた。

板橋区の旧中山道沿いの下宿住まいだった学生時代と独身サラリーマン時代、そして文京区小石川の小さなアパートに新所帯を持ったころは、会社、すなわち竹平町にあったリーダーズダイジェストと自宅の間はもっぱら、初音町・水道橋・神保町などを通る都電18系統で往復、一ツ橋で乗降していたし、ランチタイムともなれば自社内の食堂だけでは飽き足らず、神保町方面まで足を延ばすことも少なからずあり、退社後は界隈の路地裏のジャン荘や喫茶店で仲間との時を過ごすこともしょっちゅうだった。
そんなだったから、神保町交差点をはさみ水道橋から平川門に至るこの通りは、いわば我が若かりし日の想い出ロード。目を瞑ればいまでもあの店この店の、トンカツにカレーライス、タンメンに餃子、蕎麦に親子丼、ピラフにハンバーグ、コーヒーにトースト...等々の味と香りが、そして雀牌をかき混ぜる音やレトロなアルゼンチンタンゴのメロディーが、次々と脳裏によみがえる。思えばこの一帯のそこここには、決して裕福ではなかったが未来を信じて懸命に働いていた自分たち若い世代に、束の間の満足を与え、ささやかな幸せの夢を見させてくれる何かがあった。

神保町交差点 ...と、そうまで言うのは、過ぎ去った時を美化したい昭和二ケタの感傷に過ぎないかも知れないが、地上に出て交差点の四方を眺め渡したとき、ある種のタイムスリップ感に襲われたのも事実。岩波ホールの石張り風の外壁は、あのころのままだったし、隣にはスーパーストアの老舗「富士屋」も健在、東南角の書店「広文館」も昔と何も変わっていなかったし、驚いたことに、西北角のディスカウント・ショップ「キムラヤ」も、以前と同じ低層の店舗のまま営業を続けていた。
皇居方面に向かって歩き始めると、しかし、目に入る風景から受ける印象は当時とはかなり異なるような気がしたが、それはどうやら、通りの左側つまり東側一帯の様変わりのせいらしかった。あのころどんな店や会社がそこに軒を連ねていたかもう記憶にないが、いまでは中・高層のオフィス・ビル、マンションが立ち並び、雑多だった街並がすっかり整然としてしまった。

救世軍・集英社・小学館 通りの右側すなわち西側のビル群は、「救世軍」「集英社」「小学館」「共立講堂」と、主は昔のままだが、それぞれ化粧直ししたと見えて、すっかりきれいになっていた。歩道も、洒落たカラー・タイルのペーブメントになり、そこを行き交う人々も、かつてのような、徹夜明けで無精ひげを生やし目を血走らせた出版社社員風のオヤジよりも、キビキビとしてオシャレな商社勤めのキャリアOLといった感じの若い女性の方が多くなっているように思えた。
一ツ橋まで来ると、チョッと手前の左側には「学士会館」、少し先の右側には「如水会館」があるのも昔のまま。どちらも大震災後の大正名建築だったが、如水会館が30年近く前にいまの中層ビルに完全建て替えされたのは自分も知っていた。学士会館の方も、その後大幅にリニューアルされようだが、基本骨格や外壁の質感などがあえて昔のままに残されていたのは懐かしかった。どちらの食堂も、会員でもないのによく出入りさせてもらった。

日本橋川とその上に架かる首都高速の向う側が、目的地のパレスサイド・ビル。かつて10年間通勤して勝手知った館内のこと、東通用口から入って西側のエレベーターホールまで地下1階のレストラン・アーケードを通り抜けたが、開館以来40年以上も経つというのに、鮨の「いろは」、中華の「赤坂飯店」、トンカツの「たけはし」、北海道料理の「ユック」、うなぎの「大作」、蕎麦の「長寿庵」、パブの「サントリアン」、ビヤレストランの「ニュートーキョー」など、通路の両側の半数近くの店が変らず商売を続けていたのは驚きだった。
その日の会場だったフレンチ・レストランの「アラスカ」もその一つだが、栄枯盛衰の激しいいまの世の中、一つのビルの中でこれだけの店が長続きしているのはなかなか珍しい。秘訣は何なのだろう?“味”や“サービス”ももちろんだろうが、多分根本は、単なる集散人口の多少だけではなくて、新聞社(毎日)という巨大組織がずっと変らずここに根を張っているという地の利にあるのではないだろうか...。

さて同窓会の方は、2回パスしていた間に、出席者の数も徐々に減り、顔ぶれも変っていた。戦後間もなく設立され30年前に閉鎖された会社の卒業生の集まりだから、名簿上では上は大正生まれから下はポスト団塊世代まで、年齢層は多岐に亘っているが、昭和一桁以前の人々の参加がめっきり少なくなってしまった。
この1年間だけでも物故者は数人、そのうち2人は自分にも連絡があり葬儀に参列したが、ほかの何人かについては逝ったことを知らないでいて、ここで初めてその事実を聞き暗然とした。この会が始まった20年前には、周りはみんな先輩ばかりで、自分などはまだまだ“若手”のつもりでいたが、いつの間にか顔を見せる先輩方は数えるほどになってしまい、年の順で言うと上から数える方が早くなってしまった。

それでも、かつての後輩女性社員たちからは、手術後小食になってしまい体重がもとに戻らないのをダイエットとカン違いされて感心され、オックスフォードのボタンダウン・シャツにレジメンタル・タイそしてネービー・ブルーのブレザー・ジャケットという若づくりのいでたちに“とてもお齢にはみえません!”などとお世辞を言われて、“イヤイヤとても”と身のほど弁えた受け答えをしつつも、内心満更でもなかった。
しかし、実際にまったく老いた感じの見えない90歳越えと80歳越えの先輩からは、“70歳を越えたくらいはまだまだ青春時代!”とハッパをかけられ、このごろともすれば“加齢現象”と片付けて諦めかけていたアレやコレやに、もう一度チャレンジしてみようかという気持ちが湧いてきて、次回は上辺だけでなく中身も若返ってこの場に戻ってこようと、独り密かに心に誓った。

帰りは、東西線も半蔵門線・田園都市線も帰宅ラッシュで、竹橋からあざみ野までまったく座れなかったが、意外に疲れも感じず、これならまだまだイケるかも...と、体力に自信もついた。

ちょっとオダテられるとすぐその気になって...我ながら単純なものだ。

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2010年5月 6日 (木)

一月遅れの山の春

今年のゴールデンウィークは終始良いお天気で、皆さま方はそれぞれにお楽しみだったと思うが、自分はいつもと特に変わらない毎日だった。この時期でないと休みがとれない立場にはもうないわけだし、どうせどこへ行っても混み合っていると思ったので、今回はのんびりと自宅で過ごすことにしたのだ。
代わりにというわけでもなかったが、その1週間前に今年初めて清里へ行って、山荘開きを済ませてきたので、ちょっと遅ればせながらご報告。本当は、そのまた1週間前(つまり4月の中旬過ぎ)に行く積りでいたのが、春には珍しい記録的な積雪を伴う悪天候と重なってしまい予定を延期したら、うまい具合に、今回のゴールデンウィークと同じような連日の晴天に恵まれた。

その日、横浜を出るときは、暑からず寒からず、程よい例年の4月の気温だったので、セーターの上には何も羽織らなくてちょうど良かったが、清里地方の天気・気温予報ではまだまだ連日、最高で5~6°、最低で-4°前後ということだったので、厚手のコートも用意した。でも、標高500メートルくらいの中央道談合坂SAあたりですでに、セーターだけでは肌寒い感じになっていたから、この季節に山へ向かうのは難しい。
平地では、遅咲きの八重桜などを除いては、サクラはもうほとんど見かけなくなっていたけれども、中央道沿線の山々は、木々の若芽の薄茶色と、開き始めの若葉の薄緑が、至るところに白くボカしたようになったヤマザクラの淡いピンクと混然一体になって、さながらパステル・トーンの風景画を見るような趣だった。都会ではもはや終りかかっている春も、山里では、そのときが真っ盛りと見えた。

いつもよりやや早く、午後1時半ごろ横浜を発ったので、5時ごろには山荘に到着。まだ陽が高かったし、それほど冷気も厳しくなかったので、落ち着いて開荘の作業ができた。毎年のことながら、もしや?と心配しつつ水廻りの要所々々を点検したが、ボイラーも床暖房も問題なく作動し、バスルーム・トイレ・洗面室・キッチンなどにも異常はなかった。
ただ1ヵ所、洗濯機の水道カランとホースの接続部分のどこかの水抜きが不十分だったと見えて、コックを回すと水が湧み出してきたが、部品調達も急にはままならないこの山の中で、下手に素人がいじくりまわして取り返しがつかなくなってはと思い、管理センターに点検を依頼した。ちょうど管理費の支払いやゲートカードの更新といった用事があったので、直接足を運び、親しくさせてもらっているAさんにお願いしたら、昨年もその部分のパッキング交換でお世話になったSさんが、10分も経つか経たないうちに飛んできて、すぐに修復してくれた。感謝、々々。

長い間留守にしていたので、室内も寝具なども冷え切っていたが、暖炉・床暖房はもちろん電気ストーブや布団乾燥機も総動員して暖めると、夜の帳が下りるころにはやっと人心地がつき、ムッシュも、冬季はいつも使っているペット用アンカを点けてもらって眠りに就いた。ただ、山荘のバスルームには床暖房のほかには暖房装置を付けていないので、さすがにこの時季は、身体が十分温まるまではバスタブから出られなかった。
...にしても、今年の春先の気象はちょっとおかしい。ここ八ヶ岳山麓では、4月中旬に20センチもの雪が積もったかと思うと、ところどころ大木が倒れるほどの嵐が吹き荒れたり...。我が山荘の庭でも、推定樹齢40~50年、径30センチ近くもある栂(ツガ)が1本根こそぎになってしまい、辛うじて傍のモミの木に支えられて斜めになっていた。径15センチくらいまでなら何とか自分のチェーンソーで処理できないこともなかったのだが、20センチ以上となるととても歯が立たないので、これも管理センターにお願いしたが、帰宅の翌日にはもう、処理済みの知らせがあった。仕事が早くて有難い。

ムッシュ 翌日は、カーテンの隙間から射し込む明るい朝の光に、早くから目が覚めた。ムッシュも1階で“もう起きてるよー”と啼き叫んでいるので、こちらもエイッとばかり起き上がり、普段より1時間以上早い散歩に出かけた。日陰にはまだところどころ雪が残っていたが、空気は冷たかったものの風はなく、真っ青な空から降り注ぐ陽光を一杯に浴びて、寒さよりもむしろ爽快さを感じた。ムッシュも久し振りに山に来て懐かしいのか、やたらと落ち葉の積もった地面をクンクン嗅ぎまわり、自分も、フィトンチッドを胸一杯に吸い込んだ。
シーズン前で、定住者以外にはほとんど人も車も通らないせいか、冬前や春先には別荘地内に平気でシカやウサギが出没するが、今回も、管理センターへ行った帰りに、目の前を悠々と横切って行く大きなニホンジカに出会った。ポニーほどの大きさは優にあったから、あれは大人だったと思うが、昨年秋にはムッシュとの散歩中に、ごく近所で、ピョンピョン跳びはねていた小ジカを見かけた。

春の八ヶ岳 その日は折角の好天だったので、まだ冠雪したままの八ヶ岳や南アルプスの絶景を愛でながら、いつもの「藤乃家」へ蕎麦ランチに。昨年の最後は温かい汁蕎麦だったので今回は久し振りに天ザルを頼んだが、良く冷えていい歯ごたえで、相変らずの美味しさに満足した。思い起こせば昔は、美味いものは腹一杯食べたいという思いがあって、よく大盛りを頼んだものだったが、今ではとてもそんなに食べられず、並で十二分になってしまった。美味いからこそほどほどにということもあるから、それでいいのだろう。
清里の森から八ヶ岳高原道路を下りてくると、高原大橋交差点を過ぎたあたりから石堂・若林交差点あたりまでの大泉の坂道の両側は、桜が満開だった。並木でも公園でもなく、民家の庭先の桜ばかりだが、程よく伸び拡がった枝一杯に花を咲かせ、平地では1ヵ月前に終わってしまったお花見を、思いがけず再度楽しむことができた。特に名のある樹ではないけれども見事に枝垂れた桜もあったので、カメラに収めてきた。

大泉の枝垂れ桜

長沢の鯉幟 日ごろの心掛けが良い(?)せいか、帰りの日も絶好のドライブ日和。だが、ウィークデーのため高速道料金は1000円にならないので、少しでも節約しようと通勤時間帯割引を利用することにした。そのためには、走行距離を100キロ以内に抑え、中央道を5時過ぎに降りる必要があったので、昼食を済ませ、ムッシュに少し昼寝をさせてから出発。急がぬ旅とあって、牧場通り・国道141号線経由でのんびりと、長沢の谷あいに渡したロープにはためく何百匹もの鯉のぼりを見に道の駅に立ち寄ったりしながら、久し振りに韮崎の市街地を通って甲府昭和ICから中央道に上がった。
実は今回の帰り途、須玉の「おいしい学校」のイタリアン・レストラン「ぼのボーノ」に1年ぶりに寄ってランチをして行きたかったのだが、当日あまりにも気温が上り過ぎて、暑い車内でムッシュを待たせるのは可哀そうと断念した。あそこは、直接室内から続いてはいないが、チョッと廻ればウッドテラスにも出られるのだから、ペット同伴でも食べられるようにしてくれるといいのに...。残念だったが、次の機会を待つことにした。

八王子ICを下りてからは、帰宅時のラッシュと重なったためかなりの混雑で、予定よりも相当遅れて自宅に到着した。それでも、清里にくらべれば横浜は十分暖かく、宵闇が迫ってきてからも余裕で、荷物下ろしの作業ができた。ムッシュも、夕飯の後に早速近所を駆け回って、車中でじっと大人しくしていたストレスを発散させていた。
翌日からは、またかとウンザリさせられる寒さと雨がぶり返し、それまでの三日間の晴天と暖かさがまるで嘘のようだったが、ゴールデンウィークに入ってからやっと、本来の四・五月(それ以上?)のお天気になったのは幸いだった。とりあえず自分たちは、良いタイミングで清里に行けたと思っていたが、この一週間もまた晴天続きで、レジャーに出かけた方も迎えた地元も、まことにご同慶の至りではあった。

標高1400メートルの我が山荘あたりの本格的な春は、実は、1000メートル前後の地帯よりさらに一月遅れる6月の初め。これまでたいがいの年は、ゴールデンウィークに行って次が6月中旬になり、いつも、せっかく庭に自生するタラの芽や山ウドの食べごろを逃していた。月末近くまでは広告電通賞の選考会があるので行けないが、次回の山荘行はたぶんその直後になるだろうから、今年は久し振りに野生の味覚を堪能できるかも知れない。
例年と特に変わったことがあったわけでも、したわけでもなく、わずかの間の滞在だったが、気候に恵まれた中で無事に山荘をオープンできて、まずは良しとせねばなるまい。

今年もまた、訪れる毎に、四季折々の山の便りをお届けする積もり。

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