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2009年11月

2009年11月24日 (火)

父の背中

“本中毒”という言葉があるかどうか定かではないが、いつも傍に、未読の本が少なくとも5冊以上はないと落ち着かない。といっても、書評などを参考に新刊を漁る質でもなく、読みたい分野は決まっているし、よくよくの場合を除いては、移動中やベッドの中でも読める文庫版にならないと買う気になれない。だから、書店に行っても欲しいと思うものがすぐに見つかるわけではなく、版の古いものを探し出そうとするときは、もっぱら「アマゾン」を利用する。
そんな、読書でも“気まま”を地で行く自分だが、いまは、いわゆる“警察小説”にハマっている。より正確に言うと、その方面のものを片っ端から読んでいるのではなく、今野敏という作家のものだけに集中している。たぶん多くの方はすでご存知のことと思うが、不勉強にして自分は、つい何ヵ月か前まで、彼が人気・実力共に兼ね備えた、いま旬の作家であることを知らなかった。

これまでも、警察ものと言えるかどうかわからないにしても、推理・サスペンス小説として西村京太郎の「十津川警部シリーズ」などは読むことがあり、ブルース・ウィリスやエディ・マーフィー、ジャッキー・チェンなどの刑事映画も、アクションドラマやコメディとしてかなり観てきた。
古いところでは、「七人の刑事」や「西部警察」などのテレビドラマも嫌いではなかったが、俳優や作家の世代交代が進んで出演者やストーリーにギャップを感ずるようになってからは、いつの間にか興味が薄れていた。小説も、大沢在昌や逢坂剛、横山秀夫などの作家や代表作品名は聞き知っていたけれども、そんなに興味が湧かず、“警察もの”がこれほどの人気ジャンルとして確立していることも認識していなかった。

今野敏を知ったのは、書店で平台に積まれていた「神々の遺品」と「海に消えた神々」という文庫本を偶然に目にしたのがきっかけだった。刑事上がりの私立探偵が主役の伝奇ミステリーだったが、このブログでも何度か告白しているように古代史マニアの自分は、“神々...”というタイトルに惹かれてしまった。
古代史にはかなりの年季を入れ、その分野の本はこれまでに、日本史から東洋史・世界史にわたり、ノンフィクションもフィクションも、ほとんどあらゆるものを読み尽くしてしまって、近年は、本来は異分野と思っていた高橋克彦、明石散人、半村良、篠田真由美などの超伝奇・オカルト小説にまで手を伸ばすようになり、その延長線上でこの2冊に辿りついたというわけだ。

最初の2作品に俄然魅了されて、それからというものはまず「蓬莱」「時空の巫女」「特殊防諜班シリーズ」など同系統の作品を探して読み進み、いまでは「東京湾臨海署シリーズ」とか「警視庁強行犯係シリーズ」など、何シリーズかある都市警察ものを手当たり次第、夢中になって読み耽っている。
自分が今野作品の、それも特に“警察小説”にこれほどまでにのめり込んでいる理由は、単に推理・アクションドラマとして面白いからというだけではない。彼の作品に登場する主人公は、タフで恰好のいいスーパースターでもなければ、強面で昔堅気というステロタイプなデカでもなく、職場の人間関係を気にし、家庭内の問題にも思い悩む等身大の人物像として描かれ、それが読む方にもいちいち思い当って、身近に共感できるのである。

深読みに過ぎるかも知れないが、自分は彼の作品の中に、警察小説としては異色ではないかとも思える“弱者への思い遣り”を感じる。強引な捜査や尋問、矢鱈な脅しや暴言を嫌い、一般市民はもとより容疑者にさえ高圧的に接することを好まない、心優しい主役・脇役の警察官が必ず登場するからだ。
そんな場面を読んでいるとき、脳裏のどこかで一瞬、遠い昔の記憶がフラッシュバックすることがある。けれどもそのシーンは、今野作品定番の大都会ではなく、戦後間もない東北の田舎町。登場するのは、先ごろ物故した不世出の名優森繁久弥が古い映画「警察日記」の中で演じた中年のお巡りさんを彷彿とさせる我が父親である。

なぜか自分の小学2年から5年までの4年間だけ、父は警察官だった。すでに30代の半ばを過ぎていたはずなのに、どうして家業を弟に譲ってまで、改めてそういう道を選んだのかは今もってわからない。当人は後に冗談めかして、戦争に行くのが嫌だったからとか言っていたが、本当にそうだったのかどうか...。もしかしたら、東京大空襲で着の身着のまま焼け出されてきた叔父一家を受け入れたことと関係があったのかも知れない。
警察官になったことが子供心にも奇異に思えた理由はもう一つある。およそ父は、そういう職業には向かない性格と思えた人だったからだ。良く言えば人情家、言い方を変えれば無類のお人好しで、戦前・戦中は怖い人の代名詞でもあった“巡査”のイメージには、どうしてもそぐわなかった。

事実、父にひどく叱られたり、体罰を受けたりとか、厳しい怖いと思ったことは幼・少年時代を通じて一度もない。ならば特別に優しく甘かったのかというと、そういうわけでもなく、ごく普通の親だった。
そんな父に関して記憶に残っていることが2つある。1つは、父が阿武隈高原の寒村の駐在さんだった時代、親に置き去りにされて手のつけられない野生児と化していた幼い姉弟を我が家に引き取って一緒に暮らしていたこと。2年ほどして別の町の派出所へ転勤することになって、二人は村の有力者宅の養子となったが、ほんとうの肉親のように思っていつも仲良く通学し遊んでいた自分は、なぜ別れなければならないのかと大泣きした。今にして思えば、戸籍のことなど複雑な問題があったのだろう。

もう1つは、父が警察官を退職する直前の、母とのひそひそ話。子供がすっかり眠りに就いたと思い、あまり気を遣っていなかったようで、襖1つ隔てただけの隣室でまだ寝つけないでいた自分には、すっかり聞えてしまった。
辞めた方がいいと勧告されたのか、自らの意思で辞めようと思ったのか、どちらかはよくわからなかったが、要は父の場合、戦後の苦しい生活事情の中で一般市民が止むに止まれぬ事情でツイ出来心を起こしてしまったようなとき、あえて検挙・送検しようとせず、説諭だけで許してしまうことが多く、市民からは有難がられていたものの、署内では警察官として失格と指摘されたらしかった。

警察は、検挙しないと点数にならず出世できないんだが、俺にはどうも...といった意味のことを、父はそのときコボしていたような気がし、もともとそういう性格なのだから仕方がないだろうと自分も納得していたが、じゃあどうして、選りによって警察官になったのかと、後年に至るまで疑問だった。
実は、警察官を辞めてからの父は、自分に、法律を学んで弁護士になれと口癖のように言っていたが、警察高官や検事・判事を目指せとは決して言わなかった。そこにヒントがあったようで、いま考えてみるともしかしたらそれは、市井の警察官になれば少しでも実現に寄与できるかも知れないと思っていた、人間を信じることによる犯罪の減少・防止という父なりの見果てぬ夢を、倅に託そうとしていたのかも知れない。

しかし不肖の倅は、一応法学部には入ったものの法律はロクに勉強せず、まったく畑違いの分野に進んでしまった。自分の人生だから自分で選ばせてもらったと言えばそれまでだが、父の夢を霧消させたことには相違なく、後々までずっと気になっていた。けれども父は、そのことについてはその後とうとう何も言わなかった。
父は、お堅い一地方警察官でありながらけっこう気が多く、当時でいうハイカラ人間で物書き願望もあり、戦後間もないころから米国系の国際月刊誌「リーダーズダイジェスト」を定期購読していた。自分が卒業後この出版社に入社したのは、特にそれを意識してのことではなかったのだが、父にとってはそれも一つのささやかな喜びのようであったと、後年、父と親しかった人々から聞いた。

警察を辞め故郷の町に戻ってから、父は実にさまざまな仕事を手がけたが、どれも長続きはしなかったような気がする。器用貧乏の典型で、警察官に向かなかったばかりでなく、商売も下手だった。それでも何とか自分の下宿代だけは捻出し、高校と大学を出してくれたが、7~8年もの間どうやって遣り繰りを続けていたのか、いま考えても胸が痛む。
心ない人々から“生活力もないくせに倅を大学なんぞに遣りおって...”などと何度も嫌味を言われていたようだが、自分が帰省したときにポツリと一言“中退などは考えないでくれよ”と漏らして、あとは黙って夜なべ仕事に精を出していた。あのときの少し丸くなった父の背中と目を窪ませた母の横顔はいまも忘れられない。ずっと離れて暮らしていたため、いい歳になってからは、たまに顔を合わせることがあっても何となく照れがあって、あらためて“ありがとう”と言う機会を逸してしまった。

姉に婿養子を迎え、晩年は好きなこともできるようになって、若いころにも描いていた絵を本格的に再開したり、ローカル紙の文芸欄に寄稿してみたりしながら、やはり町の困っている人々の相談相手や世話役のようなことを引き受けていた父は、ほどほどに他人にも感謝され、自分の来し方にも満足して、3歳年下の母に遅れること3年、昭和天皇逝去の翌日に、82歳で大往生した。
父の通夜には驚くほど多くの人々が参集したが、座には笑い声が絶えず、みんな口々に“面白い人だった、善い人だった”と語り合っていた。自分は父が元気なうちに何とか一人前になり、経済的な心配をかけなかったことぐらいが取り柄で、取り立てて親孝行というほどのこともできなかったが、ある意味、父の生涯は幸せだったことがわかってホッとした。

家族の安心のため生活力だけはつけようと、その点では父を反面教師とし、自分の人生は自分の力で切り開いてきたつもりになっていて、父の背中から学んだこととて思い当らない気がしていたが、どうやら、多趣味でお人好しのDNAと世話好きの性分だけはしっかりと受け継いで、それが陰に陽にここまでの自分をも左右してきたようだ。

サテ、自分は子供たちに、背中で何かを伝えることができているのだろうか?
今野敏を家族小説として読みながら、ツイそんなことを考えてしまった。

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2009年11月 9日 (月)

清里・09年秋

3泊4日という束の間だったが、久し振りに清里の山荘に行ってきた。冷たい秋雨前線が通り過ぎた後だったので寒かったけれども、全日快晴で気持ちが良かった。
出発した日の晩から翌日の朝にかけてはこの秋一番の冷え込みになると聞いていたから覚悟はしていたが、横浜を出たときはまだ十数度あった気温が山に近づくにしたがってどんどん下がり、長坂インターを下りたときには7°、通称“黄色い橋”(八ヶ岳高原大橋)を渡るころには3°になり、山荘に着いたときには、まだ夕方の6時前だったにもかかわらずジャスト0°まで下がった。ウウ...予想していたとはいえ、やはり骨身にこたえた。

往路は、休日の反対方向だったのでまったく渋滞なし。ならば...ということで、いつもは立ち寄る談合坂SAをパスして一気に釈迦堂PAまで走った。甲府盆地を見下ろせる辺りまで行くと、その日は雲一つない晴天のお蔭で、普段はなかなか勢ぞろいでは姿を見せない富士・南アルプス・八ヶ岳・奥秩父連峰が一望のもとに。
前日まで雨だったので全山冠雪かと思っていたら、あにはからんや、白く化粧していたのは富士山と北岳のみで、甲斐駒も赤岳も金峰山もスッピンのままなのは意外だった。でも11月ともなると、さすがに季節は足早に進んでいるようで、山々の紅葉・黄葉はまだ残ってはいるもののすでに盛りを過ぎた様子。何となく輝きを失いつつあるように見えた。

山荘のモミジ我が山荘のモミジも、どうかな?と心配だったが、清里の森まで上がってからでも、管理センター付近やもっと上のお宅の庭々の樹に、けっこうまだ赤く色づいた葉が残っており、これなら多分...と、期待を持たせてくれた。
果たして、どうだったか? 到着して荷物下ろしもそこそこに、取るものもとりあえず裏庭に回ると...嬉しいことにバッチリだった。もはや辺りは少し薄暗くはなっていたが、シッカリと紅く色づいているのが確認できた。


すぐに夜の帳が下りてきたので、シモフリシメジ探しは翌朝までおあずけ。気温はますます下がるばかりで、暖炉を焚き床暖房を高温にしても室内はなかなか暖まらなかった。永い間留守にしていたから無理もないのだが。
二階の寝室には、電気ストーブくらいしか暖房器具を置いていないので、晩秋になると布団乾燥機を使って寝具を温めるのを常としている。そうしておいて、風呂で温まった身体が冷えないうちに潜り込まないと、なかなか寝付けないからだ。窓ガラスはすべて二重なのだが雨戸がなく、あとはカーテンで遮蔽しているだけなので、こんな晩には毛布と掛け布団を肩口まで引き上げていないと、寒気が容赦なく忍び寄ってくる。

それでも、いつしか夢の世界へと誘われ...目が覚めたときには天窓のロールスクリーンの隙間から真っ青な空が見えて、東に面した窓のカーテンを開けると、まばゆいばかりの朝日が差し込んできた。下の部屋ではムッシュが“ヮッワッ!”(目が覚めたヨーッ!)と啼いているので早速朝の散歩に連れ出すと、外気は確かにかなり冷たかった(あとで管理センターに聞いたらその朝はマイナス5°まで下がったそうだ)が、幸い風もなかったので、体感的にはそれほど厳しいとは思わなかった。
戻って、できたら朝食の味噌汁の実にと、いつもシモフリシメジが生えるコブシの樹の周辺を丹念にチェックしたが、そうは上手く行くわけがない。残念ながら影もかたちもなし。チョッと遅かったようだ。あるいはもしかしたら、今年は全体にキノコが不作だったらしいから、9月初めのハナイグチもそうだったように出ず終いだったのかも知れない。

モミジの絨毯 庭のモミジは、明るくなったところで改めてよく見ると、もう六分通り散り落ちて地上に紅い絨毯を敷き詰めていたが、残り四分でも、降り注ぐ陽光に照り映えて十分に紅く、庭から家の方に向かって見上げても、2階の窓から見下ろしても、期待を裏切らないだけの見ごたえはあった。
ご近所を見ても、右隣りも左隣りもお向かいも、紅く散り残っているのはモミジばかりで、シーズンならきれいに黄葉しているはずの他の広葉樹はどれも、すでにすっかり葉が落ちて、やはりもう冬がそこまで迫っていることを実感させられた。

3日目の散歩のときに、一軒置いたお隣のIさん宅の前を通ったら、ご主人が前庭に出て何か仕事をしておられた。昨年秋から1年ぶりの出会いだったので足を止めて話し込んでいたら、屋内から奥さんも、愛犬のジョニー君(ヨーキーとミニチュアシュナウザーのミックス)を連れて出て来られ、ムッシュも大喜びだった。
近所にはそれまでどなたも見えていなかったので、我が家一同は寂しい思いをしていたが、これで何かホッと人心地がついたような気がした。

でも、人っ気もまばらなオフシーズンの清里というのも悪くはない。夏の盛りと違って、どこかへ食事に出かけても、満席だったり待たされたりすることもないので、ゆったりとした気持ちで、その店本来の良さを楽しむことができるからだ。
小食癖がすっかり身についてしまい、ハットウォルデンのランチコースでは重過ぎるような気がして、今回は藤乃家へ蕎麦を食べに。11月ともなるとさすがに、見えているのはジモティと思しき方々ばかりで、駐車場も店内もガラ空きだった。冷え込んだ身体を中から温めようと汁蕎麦を頼んだが、濃からず薄からずの程よい味加減で、野暮だし決して身体には良くないと知りつつも、思わずかなりの汁をゴックンしてしまった。この店は、盛り蕎麦が本命だが、掛け蕎麦もかなりイケる。

藤乃家の行き帰りに、もう遅いだろうとは思いつつも念のために紅葉スポットをチェック。行きは森から少し上って、山岳道路の川俣東沢渓谷に架かる通称“赤い橋”(東沢大橋)を通ったが、残念ながらここはもう終わっていた。しかし、その道から大泉駅・五町田方面に下る坂の両側はちょうど見ごろで、帰りに通った黄色い橋から眺めた川俣川渓谷も、赤い橋より少し標高が低いだけなのに、まだまだいい色だった。
地元野菜を買おうかと、その足で管理センターに寄ったら、いつも何かと親身になってもらっているAさんがいたので、しばらく冬支度について雑談。今年の清里はどうやら例年より寒気の到来が早まっているらしく、この分では我が山荘も、いつもより少し早めにクローズする必要がありそうだ。

横浜に帰る前夜は、持ってきた文庫本もすべて読み終えてしまったので、眠りに就くまでのしばらくの間、目を閉じたままこの数日を振り返った。短期間だったが一日一日の時間がゆったりと流れて、何だかずいぶんノンビリできたナと。
多分、あえて普段の仕事を何も持ち込まなかったのが良かったのだろうが、実はパソコンがそばになくて軽いフラストレーションを起こしていたのもまた事実。まだまだ精神修養が足りない。

次回で今年は最後にするつもりだが、クローズの際は間際まで何かと作業があってバタバタし、ムッシュにも目が行き届かなくなりそうなので、可哀そうだけれども彼は、1日~2日、近所のクリニックに預かってもらおうと思っている。

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2009年11月 2日 (月)

深け行く秋

このひと月余りは、一年中で一番いい季節だったはずなのに、特にどこへ出かけるでもないまま、何とはなしに過ぎてしまった。春から夏へかけてもそうだったが、これからも月日は、こんな風にわけもなく経ってゆくのだろうか。
今年の10月は全般的に気温が高かったような気がしているが、後半は目に見えて冷え込んできたような気もする。晴天の日が多かった印象もあるけれども、下旬には冷たい雨が降り続いたし、実際はどちらがどうだったか確信が持てない。

ブルーベリー それでも、季節は毎年ほぼ同じようなペースで移り行くもので、庭のブルーベリーと豊後梅の葉は、いつの間にか紅や黄に色づいている。
例年ならば、花水木が一足先に紅く染まっていたはずなのだが、残念ながら今年は、きれいに色づく前に先の台風で、あらかたの葉とその小さな赤い実を落としてしまった。いまはその茶色くなった落ち葉とともに、黄色い大きな花梨の実も地面に転がっており、生垣の山茶花が薄ピンクの小さな花を一つだけつけて、11月の到来を知らせている。


花梨

山茶花

山茶花といえば我が家の庭には、生垣とは別に独立の中木を1本、いちばん日当りの良い真南の角に植えてあるが、これは娘の誕生月記念樹で、樹齢30ウン年、前に住んでいた横須賀の家から移植してきたものだ。
彼女が幼かったころは、この時季になるとほぼ毎年のように、いっぱいに白い花をつけたこの木の前で記念の写真を撮ったものだったが、いまの家に移って来てからは、本人がだんだん大人に近づいてきたためか、いつからかそういうことをしなくなった。


ムッシュ 娘と1日ちがいでムッシュも誕生日。我が家に来て4年半、もう9歳になるが、まだまだ元気いっぱい、庭を駆け回っている。
先月は体調を崩して心配したが、もう大丈夫そう。ただ念のため、先生の言いつけを守って、体重測定がてらときどきクリニックに寄っている。

家内と自分は最近、健康のためもあるがエコロジーに協力する意味で、近所へ出かけるときにはできるだけバスを利用するようにしている。そのために二人とも、横浜市発行の敬老(!)特別乗車証を購入した。
東京都のように無料ではなく、所得額によって応分の負担をしなければならないが、それでも、市バス・市営地下鉄はもちろん、我が家の近辺をネットワークしている私鉄バスの全路線に通用するから、なかなか重宝する。だいいち気楽でいい。

数年前から徒歩1分のところに新しいバス停ができて、あざみ野までは5分余り、たまプラーザにも10分余りで行けるので、東京での仕事や買い物の帰り途は、たまプラーザで電車を降りることも多くなった。
いつもだったらあざみ野まで乗ってくるところ、先月下旬のある日は、“たまプラーザ駅に大ショッピングモール(たまプラーザテラスというらしい)新オープン”という地域ニュースに踊らされて、ツイ物見高く途中下車してしまった。

駅全体が、軽鉄骨構造の高ーい大天井でスッポリと覆われ、内部中央が円く地階から吹き抜けになった様は、あたかも最新式の空港か欧米のターミナル駅を思わせるつくりで、駅のホームからエスカレーターで上って改札フロアーに出たときは、思わず“へえー”と、辺りを見回してしまった。
主にご婦人方だが、もう何年も前から来ているワヨという感じで、地下1階を含む4層のフロアーはどこも大賑わい。自分関連としては、以前は道を渡ったTデパート内にあった有隣堂書店が超大型化してモール内に移動してきたので、より便利になった。

過日は弱音を吐いてしまったが、このところ元気が戻って、仕事などで外出しても疲れなくなった。ただ、あまり沢山食べられないのは相変わらずで、以前のように気ままに外食のランチメニューを選べなくなってしまったのが残念。
かつては、サテ今日はどこで何をたべようかというささやかな楽しみがあったが、いまはどうしても、うどんとかサンドイッチとか、ごく軽いメニューに限らざるを得ないのが、つまらないといえばつまらない。

でも、お蔭さまで風邪ひとつひかないのは有難い。毎年インフルエンザの予防注射を欠かさないのが効いているのだろうか?先日も今年度の接種を受けてきたが、新型については、いつになるのか、どんな優先順位になるのか、皆目見当がつかない。
罹患者急増の様子が毎日ニュースで報じられているが、自分の家族・親戚や友人・知人の中にはそういう話を聞かない。出張の多い長男と、孫が幼稚園に通っている娘一家が先日発熱したらしいが、単なる風邪で大事に至らなかったし、幸いにも次男にはその気配もないようだ。と言っても油断はできない。皆さんもどうかお気をつけくださるように。

思えば昨年のいまごろは、まだ八ヶ岳の山荘暮らしだったので、インフルエンザ予防接種は大泉村の診療所で受けた。例年の手指の冷えも始まったころで、畳敷きの待合室にはもう炬燵が入っていたっけ。
清里の森のホームページを見たら、今年も10月下旬からメッキリ気温が下がって、日中でも10度を割り、明け方は零度まで下ることもあるようだ。紅葉はどうやら、ピークを少し過ぎたところらしい。

山荘には、寒くなり過ぎないうちに行きたいと思っていたが、前回からもうずいぶん日が経ってしまった。この後すぐに行く積りでいるが、これだけ寒くなったらキノコはもう無理だろうナア...楽しみにしていたのだが。でも、運が良ければシモフリシメジくらいは、落ち葉をかぶって隠れているかも知れない。
昨年と変わらなければ、紅葉はまだ残っている可能性がある。美し森や東沢渓谷など、近くのいくつかのスポットもさることながら、我が山荘の庭にも、モミジやドウダンツツジやツタウルシがあるから、何がしかの秋色にはギリギリで間に合うものと思っている。

1年を振り返るのは、いまの時点ではまだ早過ぎるが、今年は家内の怪我から始まって自分の手術と、夫婦ともこれまでに例のないほど病院通いの多い年だった。
初詣で神様にも無病息災を祈願したのだが、やはり昨年1年間の家の建て替えに関わるあれやこれやが、もう無理の利かなくなった心身に少なからぬ影響を及ぼしたのだろう。

が、いまでは何とか落ち着いて、こうしていられることを考えると、その程度で済んだのはむしろ厄落としができたと考えて喜ぶべきことのようにも思えてくる。
もう何ごとも昔日と同じというわけには行かないことを改めて自覚して、来年からはあまり頑張らずに過ごすことを心がけねば...。

一気に秋が深けゆく気配のせいか、年が変わるまでこれから2ヵ月もあるというのに、何だか今年1年をまとめる気分になってしまった。

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