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2009年6月

2009年6月29日 (月)

カンヌ国際広告祭

先週末、まるで梅雨明けのように暑かった日のまだ明るい夕方、仕事先から帰宅して冷たいもので喉を潤しながら何気なくテレビに目をやると、「カンヌ国際広告祭」で日本からのエントリー作品がグランプリを受賞したというニュースが報道されていた。ちょうどその日の朝、出かける前にインターネットで海外のビジネス・ニュースの“見出し”と“掴み”の部分だけ拾い読みして、後で詳細を...と気にかけていた件だった。
カンヌといえば誰でも知っているのは、国際映画祭。だが広告祭となると、その内容や由来を知っていて毎年の結果にも関心を持っているのは、多分、業界関係者ぐらいのものだろう。だからこれまでも、そこでグランプリをとったからといっても、滅多にテレビのニュースとして取り上げられることはなかった。日本作品のグランプリ受賞も、これが初めてというわけではなく過去数回あるのだが、今回のようにテレビで話題になったのは、自分の記憶では15年以上前のN食品のカップ麺CM以来という気がする。

そもそもカンヌ国際広告祭とは、毎年いまごろ映画祭と同じ南仏のカンヌで開催される、世界中の広告作品の独創性を競う公開コンクール。誰でも(もちろん費用を払って申し込んで)参加できる業界フェアーの一環として、世界のトップ・クリエーターで構成される審査員による選考結果だけでなく、そこに至る過程が、オープン・ショー形式で見られるところがユニークで、世界の最先端の広告クリエーティブをまとめて目の当たりにできる勉強の場として、またセミナーやパーティーを通じて新しい出会いやビジネスチャンスを作り出す場としても機能することから、例年、万に近い関係者が参集すると言われている。
半世紀以上の歴史があり、最初は映画祭に付属していた劇場CMだけだったものが、いまではテレビCM、ラジオCM、印刷広告、屋外広告、インターネット広告、メディア、ダイレクトマーケティング、セールスプロモーション、統合キャンペーン、デザインなどにまで部門が拡がり、世界最大級の広告イベントになった。

本年日本がグランプリを受賞したのは、実は、メディア部門とプロモーション部門の2つなのだが、テレビのニュースに取り上げられたのはプロモーション部門の方。財政破綻した自治体、北海道夕張市の観光サービス会社「夕張リゾート」のために外資系広告エージェンシーB社が考え出した、観光客誘致のためにお土産のTシャツやキーホルダーなどの商品のシンボルとして使う『夕張夫妻』という“地元キャラクター”だ。
地元キャラというと、奈良市の「せんとくん」や彦根市の「ひこにゃん」などのいわゆる“ゆるキャラ系”が思い出されるが、この夕張夫妻は、地元名産の夕張メロンを擬人化した“かわいい系”のデザインながらも、市が抱える膨大な“負債”を“夫妻”にかけてネーミングし、夫妻に継ぎの当たった服を着せているなどした、哀愁を誘う自虐的なアイディアが、この世界的景気後退の中で外国人にも理解され、大受けしたようだ。日本でも過去、夕張市の財政破綻はさんざんニュースに取り上げられたから、今回もそれにつながるテレビの話題として報道されたのだろう。

もう一方のメディア部門の受賞作品は、それにくらべると大衆にアピールするトピックス性に欠けるということでテレビのニュースとしてまでは扱われなかったのかもしれないが、自分としてはむしろ、マーケティング戦略という観点から、こちらの方に大いに興味をそそられた。
その作品というか実施企画とは、一言でいえば、すでに人気ブランドになっているチョコレート菓子のパッケージを、ハガキと封書の中間のような郵送メディアと見立てて、受験生を応援するための手段としての利用をプロモートしたもの。もっと具体的に言うと、「ネスレ」社の「キットカット」のパッケージ上に宛先を書き入れるホワイトスペースを設け『キットメール』と名づけて、そのまま郵送できるようにし、メッセージを記入する「e‐センスカード」2枚と140円切手をセットにして(税込価格450円)、数量限定ではあるが全国20,000個所の郵便局を通じて販売したということだ。

“敵に勝つ”というシャレで、学生スポーツ・チームなどが大事な試合の前日にビフテキとトンカツを平らげるというゲンかつぎは昔からあったが、このキットカットも、発音が“きっと勝つ”に似ているところから、この数年来、受験生のお守りになるという信仰(?)が口コミで広まり、受験生自身が会場に持参したり、彼らを応援する教師・家族・友人などから贈ったりするようになっていたという下地があったらしく、そこに着目したネスレと担当エージェンシー(これも外資系のJ社)が、日本郵便にコラボ企画を持ち込んだ。
考えてみれば、商品とターゲットのマッチが証明されている限定的ではあるが確実な市場が存在し、商品自体にユーザー受けのするメッセージ性があって(つまりコミュニケーション・ビークルとして機能するということ)、そのビークル(この場合は商品)を送り届けるのに申し分のない無競合のチャネルを独占的に利用できるのだから、これを思いついた人は絶対イケると興奮したに違いない。自分は迂闊ながらこの企画を最近になって知ったのだが、その独創的に見えて実は極めてオーソドックスな戦略性に感心し、それを実現した広告主・エージェンシーそして日本郵便に、率直な敬意を表する気持ちになった。

実は、出かける前に見出しと掴みの部分だけを拾い読みして気になっていたというのは、デジタル版の「Advertising Age」と「USA TODAY」(いずれも6月23日号)の記事で、前者は“キットカット、食べられるハガキでカンヌ広告祭メディア・グランプリ受賞”、後者は“カンヌ広告祭で受賞するためには、創造性だけでなく結果が問われるようになった”というヘッドラインだったが、後者USA TODAYのそれに、特に強いインパクトを受けた。自分のマーケティング関連のコンテンツをいつも読んでくださっている方にとっては、もう耳タコだと思うが、このことこそは、“そうあるべき”として自分も毎年の広告賞選考の季節になると、繰り返し言ってきたことだったからだ。
両者ともこの企画が、コミュニケーションと販売の目的を合体させて商品自体をビークル化し、大量ではないが確実な需要と流通チャネルを開拓し、換算すれば1100万ドルに相当する無料パブリシティ効果をあげたことを賞賛しており、AD Ageは伝統ある広告専門誌らしく、Kit Katとは日本語では“きっと勝つ”すなわち“surely win”に聞えるので、キットメールは入学試験合格という目的に合わせて“食べられるお守り”としてポジショニングされた――といったクリエーティビティの部分を評価していた。

これに対してUSA Todayの方は、それもさることながら、この企画によって広告主ネスレは使用目的にピンポイントした商品実売効果も上げ、日本郵便もメディア手数料ともいうべき郵便切手の売上(そしておそらく全国20,000の郵便局の展示チャネル利用料も)を達成し、そしてエージェンシーは全体の企画費と運営手数料を得るという、明確に数字に現れる結果を出したという点を評価し、記事の冒頭で、“世界最大の広告創造性のコンクールで、初めて、達成したビジネス成果によって評価された作品がグランプリを受賞した。今後の広告はアイディアだけでなく、それによってどういう成果が上がったかということの証明が重視されるようになるだろう。”とコメントしていた。
自分としても、USA Todayの視点はきわめて重要だと思っている。カンヌ広告祭でも本年からは、すべての部門にわたるというところまではまだ行かないけれども、特にこのポイントが重い意味を持つメディア部門とダイレクトおよびプロモーション部門では、審査基準が改新・厳密化され、広告は消費者の何らかの行動・反応――たとえば商品の購入、サービスの利用、組織への入会や登録、キャンペーンへの参加、口コミ、ウエブ上でのクリックスルーなど――を発生させ、促進する必要があるという考え方が明確にされた。

当然のことではあるが、単にどんなメディアを使ってどのような見せ方をしたかということだけでなく、それが背後のどういう戦略によって、どれだけの成果・問題解決の実現につながったかということを注目するようになったわけで、単にアイディアが面白いだけでその点が伴わず、きちんと理論的な主張がなされていない企画・作品は、今回はどんどん振り落とされて行ったということだった。
メディア部門の審査委員長でニューヨークの「メディアブランド」社のCEOでもあるニック・ブライアンも、“結果を出せないメディア企画はグランプリの対象となるような革新的アイディアとは言えない”としている。“広告の最終目的は最適ROI(対投資効果)の達成であり創造性はそれをサポートするもの”という当たり前の評価基準が、こういう場でもやっと認識されるようになってきたのだろうか。サテ、日本ではどうだろう...?

このキットメールは、セットではなく単体としても(210円で)全国のスーパー、コンビニエンスストアで販売され、バリエーションとして、期間限定オリジナルフレーム切手(80円切手10枚1シールタイプの商品、送料・税込2,700円)も発売されたそうだし、ユーザーは受験シーズンが過ぎてもキットカットを、親しい人の幸せを祈るときのお守りとして贈り続けているという。
前出のニック・ブライアンは、この企画を、“これまでに存在しなかった新しいビジネスモデル、メディアの革新”と激賞しているが、ビジネスモデルとまで言うのはオーバーであるにしても、チャネルとビークルを置き替えて他商品にも応用できる効果的な“戦略モデル”であることは確かだし、さらに、上記のバリエーションのような“コア・コンセプトに基づいた多角的展開”も十分考えられる。その意味でこの企画は、カンヌ広告祭でグランプリを受けたのも当然だった。

久し振りに、よく考えた仕事を見せてもらった。また、カンヌ国際広告祭とその審査員も見直した。

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2009年6月22日 (月)

1本の国際電話から通信システムの40年を振り返った

数日前の夜半、自室に置いてある固定電話の子機の“トゥルルルル...”という音で眠りを破られた。ケータイは寝たままでも手を伸ばせば届くところにあるが、固定電話は仕事机の上なので起き上がってそこまで行かなければならない。一体こんな時間に、誰が何のために...良くない知らせでなければいいがと、少し胸騒ぎを覚えながら受話器を取り上げ耳に当てたら、“Is this Mr. Nakazawa?...”という若い外国人男性の声が聞えてきた。
我が家で寝ていたところに突然の英語なので状況が飲み込めず、一瞬とまどったが、何とかすぐに反射神経がよみがえり相手を質したら、自分が会員として所属しているDMA(全米ダイレクトマーケティング協会)の経理担当者とのこと(個人名も聞いたが朝になったら忘れてしまった)。10日ほど前に返事を出した年会費の支払いのことだった。請求書の返信用紙に、クレジットカードで支払う旨記入してカードナンバーを知らせたのだが、有効期限を書き忘れていたようだった。

そう言われても暗記しているわけではないので、不機嫌な(多分)声で“Just Moment...”と言って待たせ、机の引き出しの中のウォレットからカードを取り出して灯りにかざし、見えにくい数字を読み上げて事は済んだが、折角いい気持ちだったのにと、チョッピリ不快感が残った。しかし、よく考えてみたらDMAのオフィスはニューヨークにあり、その時間は丁度ランチタイムの後ぐらい。自国中心の平均的アメリカ人には、日本との時差などに考えが及ばなかったのだろうと解釈して忘れることにした。
それよりも、毎年この請求書を郵便で受け取る度に思うのだが、業務オンライン化の最先端を走っているような業界団体のはずのDMAで、いまどき年会費の支払いに関してネット上でのカード決済をオプションできるようになっていないのが信じられない。図書・文献や各種コンファレンスなどは、申し込みから支払いまでオンライン、オフラインのどちらでもオプションできるように早くからなっているのに、会費だけが相変わらず、請求書が郵送されてきて、同封の返信用封筒で小切手を送ることになっているのだ。何か特別な理由があるのかも知れないが、毎年いちいちカード番号と有効期限を知らせてやらなければならないのは、ほんとうに面倒だ。

もっとも、DMAからのコミュニケーションは、毎日届くニューズレターをはじめ、会員への一般的な通知・連絡・要請は完全にオンライン化されており、協会の人とはいつでも誰とでもEメールを送受信できるようになっているのだから、年1回の会費請求書(それから確か協会役員の信任投票用紙も)だけがわざわざ郵便封書で送られて来るのは、システムの不備というわけではないのだろう。もしかしたら不正防止の理由で、あえてそうしているのかも知れない。
とは言っても、毎回、同じ手間をとらなくてもいいように、一度カードのデータを登録したらそれを記憶して(更新は当然必要だが)以後はオンラインで決済できるようにしてくれないものかとは思う。その都度電話しようか、メールを出そうかとも思ってみるのだが、実現可能かどうかもわからないのにそれも面倒な気がして、未だに実行してはいない。

思い起こせばこのDMAも、1970年代、自分が初めて入会したころの国際コミュニケーション手段は、ほとんどが郵便、そしてときどき電話だった。そのころは国際電話料金がきわめて高額だったので、よほど緊急の場合を除いては、7~10日で着くエアメール(航空便)を利用するのが普通だったが、特に急を要しない通信物や小包などについては、1ヵ月近くかかるが最も料金の安いシーメール(船便)が使われることも少なくなかった。DMAだけでなく、どこの会社もそうだった。
電話を使わなければならないほどではないが航空便のやりとりではまだるっこい用件に関しては、テレックスなどというものも使っていた。電話回線にタイプライターを接続したようなもので、キーボード(アルファベットだけ)をたたいてメッセージを綴るとそれが相手先に送信されてロールペーパーにプリントされ、読んだ相手が同じようにして返信してくるという仕組みだが、利用料金は文字量に比例するので単語をフル・スペルで表さず、Pls(Please)、Mtg(Meeting)、Grp(Group)等々、独特の略語を多用していた。

いまは家電分野にまで裾野を拡げているファックスだが、事務機器としてたいていのオフィスに装備されるようになったのはいつごろからだったろうか?最初からEメールが使えているいまどきの若いビジネスマンに話せば“ヘー...そんなものですかネ”ということにしかならないだろうが、郵送するレターに匹敵するメッセージ・コンテンツを、テレックスと同じように一夜の間に海を隔ててやりとりできるファックスの出現は、当時としてはまことに画期的なものだった。
が、パーソナル化されるところまでは行っていなかったから、休日などに送信の必要が生じたときは、最寄りの文房具屋さんへ走ったり、そのためだけにわざわざオフィスに出かけたこともある。かつての主役エアメールは、いつの間にかファックスにその座を奪われ、日常のビジネス・コミュニケーションの場ではすっかり影が薄くなっていた。

いまでこそ、こんな自分でさえも、パソコンという道具なしでは、またEメールという通信手段がなければ、仕事にならないが、“インターネット”という言葉をチラホラと耳にするようになったのは15年ほど前、1990年代の初めごろ。恥ずかしながら、パソコンに関係があるらしいということ以外には何もわからなかった。そのころは、パソコン自体も覚えたてで、ワープロ機能しか使えなかった(いまも大して進歩していないが)。
80年代の米国では、オフィスで一人一台のパソコンは当たり前になっていたが、日本では90年代に入っても、特に小規模な企業などではなかなかそういうわけにもゆかず、自分は長男の“お下がり”のマック・パワーブックを自分の事務所に持ち込んで使っていた。と言っても、難しいことは国産N社のデスクトップ型を駆使していた秘書任せ。“最近はパソコンでスライドが作れるらしい”とか、“パソコンからパソコンへなら通信ができる”という話しを耳にしてはいたが、自分では何をどうすればいいのかサッパリわからず、仕事上のデータや原稿の送付は、相変わらず、プリントアウトしてファックスで送るという方法によっていた。

パソコンのことがもう少しはわかり、ときどき若い人に助けてもらいながらも何とか時代の情報環境について行けるようになったのは、90年代も後半に入った還暦も間近のころ。教育産業の大手B社に縁があって、その子会社の社内にオフィスを置かせてもらい、そこの情報システムを利用できるようになったお蔭で、社内外とのコミュニケーションには専らEメールを、そしてプレゼンテーションにはパワーポイントを使えるようになり、自分で言うのもなんだが、ワープロ能力もけっこうアップした。
やっとそういう土台ができたところにその後も周囲の人々の薦めや協力があって、いまも情報の獲得と発信のため、インターネット・チャネルを自分なりに目いっぱい使い、こうしてブログの世界にまで首を突っ込んでいる。自画自賛するわけではないけれど、齢の割には上出来ではないかと思っているのだが、まださすがに、mixiやTwitterというところまでは入って行けていない...。

それよりも、もっと身近なところでいま自分が遅れていると思うのはケータイ。限りなくパソコンに近づいているワンセグ・タイプどころか、それ以前のタイプすら十分に使いこなしていない。というよりも、ほとんど電話機能しか使っていないと言った方が正しい。持っているのが何年も前の超クラシックなモデルだから言うわけではないが、ケータイにテレビなんかついてなくていいし、音楽はiPodできけばいいと思っている。カメラはあって悪くないし、メールも使ってみたいと思うが、なかなか、そうしたくなるシチュエーションもなければ、指も動かない。
ただ、仕事がらみで考えると、次の注目分野はモバイル・マーケティングだろうから、少なくとも、まだまだ使いこなしているとは言えないパソコン程度には使えるようにならなければ、今後わかったようなことは言えなくなるだろうという自覚はある。ので、何とかマスターしようとは思っているが、小さな文字が見えにくくなった視力、うまくキーボードを押せなくなった指先など、この齢になると身体的ハンデが大きい。

DMAからの電話がきっかけで、思わず過去を懐かしむように、自分がこの40年の間に通ってきたビジネス・コミュニケーションの道を振り返ってしまった。郵便と電話から、テレックス、ファックスを経てインターネット、モバイルまで、ちょうど自分の仕事人生と重なるかたちで通信技術システムは劇的に進化し、自分もその影響と恩恵をまともに蒙りながらここまで生きて来た。
誰に強制されているわけでもないのだから、せめて老後ぐらいはそれに左右されず気楽に過ごそうと思えばできるのに、何の因果か未だにそこから抜け切れず、苦労承知で進化について行こうとする物好きな自分がここに居る。

そうやって一生懸命に目を凝らし、指先を動かし続けることが、せめてボケ防止に役立ってくれるといいのだが...。

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2009年6月15日 (月)

森の中の匠たち

そう言えば、清里へ1ヵ月以上行っていない。こちらはもう梅雨入りだが、もともと雨の少ない向うは、いまがベスト・シーズンのはずなのに。でも、先月一杯からここまで、カレンダーが真っ黒になるほどすることがいろいろあって、思い出す余裕もなかった。
そんな中、先週の日曜の朝、「遠くへ行きたい」(ご存知だろうが日テレのロングラン旅番組)で、「八ヶ岳山麓 森の中の匠たち」という回を観た。清里のある高根をはじめ大泉・長坂・小淵沢・白州など八ヶ岳南麓の旧町村が合併して生まれた北杜市に住む、創作楽器、ガラス工芸、オリジナル絵本、自給自足の農林畜産複合型農業などさまざまな分野のこだわりの仕事人(それを番組では“匠”と呼んでいた)たちの話だったが、画面に登場した意外にスマートで社交的な匠たちを見ながら自分は、それとは対照的にアバウトで偏屈で、こちらが気疲れしてしまうローカルな匠たちのことを思い出していた。

番組の匠たちは、一見のんびりと田舎暮らしを楽しんでいるように見えるけれども、おそらくは都会出身者で、自分の好きなことをビジネスにしたいというマインドがあって、そのために望んでこの場所に仕事をしに来た人たちにちがいない。だからこそ都会から押し掛ける観光客の心理やニーズがわかり、テレビの取材などにもソツなく対応でき、仕事を成功させているのだと思う。
良い悪いの問題ではないが、現実の地元の匠の大多数は、なかなかお付き合いに骨が折れ、何か仕事を頼んでもそうスムーズには事は運ばない。都会の常識や人間関係には馴染めず、また馴染もうともせず、この土地だからこそやって行けている人たちで、生活感覚や仕事の観念などが、まるで都会の人間とは違うからだ。我が家でもこれまでの山荘暮らしを通じて、彼らとの感覚・観念の違いによる欲求不満をいやというほど味わわされた。

そもそも、山荘を設計・建築した棟梁が、そんな匠の典型だ。若手(当時)ながら清里のペンション建築では第一人者ということで、たまたまそのペンションの一つに泊ったときオーナーに紹介されて意気投合し、気に入った建物をほぼ約束の予算・期限通りに完成してもらって大いに満足していたが、数年も経たないうちに、いろいろ問題が出て来た。
まずは床暖房。毎年秋口や春先など、しばらく使わなかった後は必ずストライキを起こし、その都度電話で連絡しては設備業者の親父さんに来てもらわなければならなかったので、休日や夜更けに到着したようなときは難儀した。連絡は棟梁を通すことになっていたため、本人がどこかへ遊びに行っていて捕まらなかったり、捕まえても酔っぱらっていたりしたときは、1~2晩、暖炉だけで寒さを我慢しなければならなかったことも再々。挙句の果てにはその設備業者が倒産・夜逃げして修理ができなくなり、新しいボイラーを買わされた。

10年を越したらベランダの床板が腐ってきて、自分が足で踏み抜いてしまった。幸い軽傷だったから良かったが、さらに危険が予想されたので取りあえず部分応急修理を頼んだものの、その2~3年後には完全付け替えをすることになった。が、そう決まってからなかなか取りかかってくれず、夏前に頼んだのに年を越してしまった。
家本体を建てているときにはわからず、後で人伝に知ったのだが、単純にヤイノヤイノ言うと臍を曲げたり、煩がってますます逃げ腰になったりする人物なので、なだめたりすかしたりしながらやっと完工させたのが1年後。でも、その後がまた一苦労で、旧ベランダの解体で出た大型の廃材をなかなか運び去ってくれず、新しいベランダの下がサッパリ、スッキリするまで、さらに2年待たなければならなかった。最初予定通りに山荘が建ったのは、どうやら奇跡に近いことだったらしい。

棟梁との疲れる付き合いはこれで終わったわけではなく、もっとダメを押すような話があるのだが、それはひとまず後回しにし、自説の傍証として、我が山荘の家具づくりの匠、インテリア工芸品づくりの匠の話もしておきたい。
もともとは都会で会社勤めをしていたが、そういう環境に耐えられなくなっていわゆる“脱サラ”をし、このあたりに住みつき、けっこう良い仕事はするのだけれども、やや周りに甘ったれているところがあり、何か少しキツいことを言うとすぐにイジケて近づいて来なくなるという、やはり付き合い方の難しい人たちだ。

家具の匠は、家本体の建築作業スタッフも兼ねていた(当時)こともあって棟梁から紹介され、造りつけのシューズクローゼットを始め、リビングルーム用の引出し付きウッドソファー、ティーテーブルとサイドテーブル(2基)、ダイニングルーム用の大型食卓とベンチ、ワインボード兼用のカップボード、3つのベッドルームそれぞれ用のデスクとチェストなど、実にさまざまの木工家具を造ってもらった。
そのころは多分まだまだ経験不足だったろうから、出来栄えにバラつきがあったのはご愛嬌のうちと思って何も言わなかったが、最も手の込んだ作品だったワインボード兼カップボードを造ってもらったとき、約束の期限が大幅に遅れた上に平気な顔で予算よりかなり上回った額を請求してきたので、その通りに支払いはしたけれどもチョッピリ苦情も言ったら、その後パッタリと顔を見せなくなり、年賀状も来なくなった。どうしているかと案じていたら、一昨年の清泉寮カウンティフェアに店を出していたが、バツが悪そうにして黙って頭を下げただけだった。

インテリア工芸品の匠もやはり脱サラで、ふもとの萌木の村のレストランスタッフやカメラマンをやりながらコツコツと金属工芸品を造っているという話を、そこに食事に行ったとき本人から聞き、ポーチのシーリングランプ用のオリジナル・シェードや、大小の燭台、花置き、ラックやブックエンドなど、さまざまなものを造ってもらった。
なかなかの出来栄えで気に入ったので、何種類かのテーブルウエアをまとめて依頼したら、忙しくなって優先的に時間がとれなくなったのか、他に何か理由があったのかわからないが、どんどん約束が遅れているうちに、音信不通になってしまった。こちらから強く催促したわけでもなかったが、不義理に感じて連絡し辛くなってしまったらしい。そのレストランには今もときどき行っているが、いつ行っても彼の姿は見かけないし、こちらも何だか消息を聞きにくくて、それっきりになっている。

さて、棟梁の話しに戻るが、実は昨年の後半は、横浜で本宅の建て替え工事が進行している一方、清里の山荘でもポーチの付け替え工事が行われていた。好きでタイミングを合わせたわけではなく、やむを得ず、そうなってしまった。というのは、上部がバルコニーになっていたポーチの天井が腐り落ちて、玄関の出入が危険な状態になってしまったのだ。昨年4月オープンに行ったときに、そうなっていた無残な姿を発見した。
もう10年以上前から、建物本体の外壁は何ともないのに、ポーチの壁や天井だけにクラックが走るようになってきたので、もしかして内側に問題が生じているのではないかと思い、よく調べて対策を講じて欲しいと棟梁に言い続けてきたのだが、外側からのその部分だけの補修でお茶を濁されてきて、挙句の果て、こういう結果になってしまったのだ。

直ちに棟梁に連絡し、7月後半からは長期居住するようになるのでそれまでに何とかしておいてくれるように依頼し、その後も山荘に行った都度電話催促していたが、最初の連絡から3ヵ月後に横浜から移り住んだ日まで、例によって何も進んでおらず、ポーチ天井部分の腐食・崩落度はより進行し、危険レベルは最高近くまで上がっていた。
ために、万が一のことを考えて、不自由だけれども裏のベランダ側ドアから出入りすることにし、同時に棟梁にその状況を話して、怪我でもしたらどうしてくれる...と強くプッシュ。すると、さすがに今度は、慌ててスッ飛んできた。彼と一緒に上から下からのチェックをしたが、原因はバルコニーの雨水排水装置の不良とその手摺・床部分の亀裂からの浸水により長年の間に水がたまって、内部がグズグズに腐ってしまったものとわかった。

こりゃあヤバいと予想していたのか、棟梁は高い梯子と大きなヤットコ・掛矢をあらかじめ用意してきており、モノも言わず解体に掛かり始め、その日1日で、旧・バルコニー兼ポーチをすっかり取り外してしまった。
作業の四六時中は密着していなかったので細かいところはわからないが、どうも相当問題があったらしく、それを見られるのが具合悪くて、焦って大急ぎで取り壊しをしたようだった。本来なら2~3人でする作業を1人でやったため、前庭に駐めておいた我が家の車に解体した柱の一部を落として傷をつけてしまったり(端っこだったからまだいいが)というハプニングまで引き起こして...。

そんなこんなで、おおよそのディザインを打ち合わせただけで、ともかく早く、そして費用は最小限(もともとの工事と管理上の手落ちに対する責任を取って欲しいというハラがこちらにもあったから)ということで、やっと工事は始まったが、当時彼が引き受けていた近くの新築工事とかけもちで、その合い間を縫っての仕事だったらしく、一気に進めれば2~3週間で済んだはずの作業のすべてが終了したのは11月に入ってから、残っていた建築材料や道具類が片付いたのは雪が積もるころだった。
それから今年の3月まで、何の連絡もなかったので、ことがことだっただけに今回は費用の請求をし兼ねているのか、あるいは請求金額を決め兼ねているのかと思っていたら、ある日突然、何の配慮もないバッチリ満額の請求書が届いた。

まさか責任の一端は感じているだろうと信じて、工事内容にもアレコレ注文はつけず、納期もいつになるかわからないのを我慢して任せていたら、前もって何の話しもなくイキナリこれだったから、当然、ソレはないだろうということになった。
さんざんもめた末、結局は、もちろん満額ではないけれども請求額のかなりの部分を支払うことで手を打ったが、床暖房のときも、ベランダのときも、似たような仕事ぶりと支払いのし方だったことを思い出し、また家具の匠とインテリア工芸品の匠の場合も考え併せて、信頼しているからと格好をつけてビジネスライクな発注のし方をしなかった自分も悪かったかも知れないと、密かに反省した。

本来気のいい、腕も良い地元の匠連中なのだが、お互いに満足する関係を続けるには、疲れるけれどもこちらが神経を使わなければならいのだろうと、いまは思っている。

テレビは所詮、きれいごとやエンタテインメントになる部分だけしか取り上げない。

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2009年6月 8日 (月)

人生70年...やはり何ごともなくとは行かぬもの

実はこの3ヵ月、仕事もこなしつつ近くの横浜総合病院で検診を重ねていたが、結論から先に言うと夏ごろに胃の手術を受けることになった。特に異常を感じたからということではなく、恒例にしていたガン検診がきっかけで、そういう結論に達した。
ドクターの診断・説明を聞く限りでは、そんなに深刻な状態ではないけれども早めに処置しておいた方がいいということだったので、早速そうしてもらうことにしたのだが、まあ、人間ここまで生きてくれば、やはり何ごともなくとは行かぬものだというのが率直な感想で、特に驚いてもいないし、楽観している。

昨年は家の建て替えで明け暮れたため、前半はビルダーとの交渉や引っ越し準備に忙殺され、工事が始まった夏からは横浜を離れて山の中で暮らしながら月に2~3度東京に通勤し、年末ギリギリに戻ってきたので、毎年欠かさなかった横浜市の総合健診を、気にしながらもとうとう受けそびれてしまった。
それで今年は、年が明けて落ち着いたところで早速申し込んだのだが、例年受診していた横浜総合病院では基本健診がすでに締め切られていて、ガン検診(胃・大腸・前立腺)だけを受けることに。それも、予約がとれたのはやっと3月になってから。基本健診は結局、江田記念病院という別の総合病院で受けた。

アルコール類が生来ダメ、タバコも20年以上前にオサラバし、現在の食事の中心は肉・脂肪よりは野菜・海藻、どちらかというと低血圧で痩せ気味の自分は、毎年この検診では、折角の機会だからとアチコチ不定愁訴を申し立てても、データを見て“まったく問題ありませんね”と言われるのがオチで、今年もその通りだった。
ただ、そう判定した江田記念病院のドクターも、かつての基本健診は昨年から“特定健診”という名称に改変されて検査項目が大幅に減り、目的がメタボリック・シンドロームの早期発見のためだけに絞られたため、それによって知り得ることは極めて限られてしまったので、気になることがあったら別途精密検査を受けた方がいいと言っていた。

もともとそのつもりではあったから、前述のような三種類のガン検診を受けたわけだが、最初の段階の検診で、今年は思っていたよりも面倒(と言ってはいけないのだろうが)な結果が出てしまった。前立腺はOKだったが、大腸に潜血が見られ、胃に径20ミリほどの平らな隆起(胃部扁平隆起)ができているということだった。
胃部扁平隆起は、実は一昨年の検診でも指摘され(2007年8月6日参照)たが、そのときの内視鏡検査と病理組織検査の結果では、直ちに特別な処置をする必要はないが以後毎年精密検査を受けること、という診断で、症状的には慢性胃炎、普通の食事・生活を続けていて何ら問題ないと言われた。

そういうことがあったので、隆起は育っていなかったけれども、今回も当然のこととして、また胃カメラを呑んだ。鎮静剤(睡眠薬)を注射してもらったので、痛くも苦しくもなかったのは前回同様。ただ、前回は検査後1時間半でスッキリと目が覚めたが、今回はなかなか眠気が抜けず、しばらくの間レロレロだった。
日時を改めて、大腸も内視鏡検査。これは20余年ぶりだったが、昔とやり方が変わっていて、ある意味楽になったようにも思えたけれども、別の意味ではたいへんでもあった。朝絶食はいいが、下剤を溶かした2リットルの水を2時間で飲み干し、併行してトイレに通って(失礼!)、検査前にお腹を空っぽにしておかなければならないのだ。だが、胃の場合と同じく鎮静剤を注射してもらえたので、検査自体は眠っている間に終わっていた。

また、若いころに膵炎の気ありと診断され、以来それらしき症状がずっと気になっていたので、この際そちらの方も調べてもらえないかとお願いしたら、しておくに越したことはないということで、超音波検査とCT検査も受けることになった。
超音波はこれまでの人間ドックでも何回か経験し、その度に結果はシロと出ていたので、今回もどれほどのところまでわかるのか半信半疑だったが、CTは初めてだったので、何かいままでわからなかったこともわかるのではないかと、内心大いに期待(?)していた。お腹にゼリー状のものを塗られたり(超音波検査)、造影剤の点滴を受けたり(CT検査)ということはあったが、これらの検査はどちらも、何の苦痛もなかった。

一連の検査は、要約してしまえばこれだけのことなのだが、実際には、一つが終わって結果を見た上で次の検査の予約をするということになるので、最初のX線検査からすべての検査の結果が揃って総合所見が出るまでに、3ヵ月近くかかってしまった。
で、ドクターの診断だが、大腸には小さなポリープが見つかったけれども良性なので問題なく、逆流性食道炎の症状が見られるがこれも心配は不要、膵臓は超音波でもCTでも異常なし、問題なのは胃だけ...とのこと。一昨年からあった扁平隆起は要するに“腺腫”で、現在ガンではないけれども、放置しておくとガン化する可能性が極めて高いので、いまのうちに除去しておくことを強く薦めるという話しだった。

チョッとエネルギー不足になったかナと感ずるほか体調はどこも何ともないのだが、なぜか昨年1年で激痩せし、体重が成人後自己最軽のレベルになり、ウエストもメンズの最細サイズになってしまって、もしや胃以外に何かあるのでは...と気になっていたところだったので、この結果を聞いてむしろ安心した。
そして、手術といっても今の段階なら開腹せず内視鏡で、身体の負担も入院期間も最小限で済むということなので、ぜひ早急にお願いしたいと思ったが、ドクターによれば横浜総合病院には内視鏡手術の専門チームがないため、別のより適切な病院を紹介してくれるということになった。

その病院というのは、我が家のある青葉区に隣接する都筑区の「昭和大学横浜市北部病院」。それまではよく知らなかったが、紹介されてから調べてみたら、消化器系の内視鏡手術ではトップレベルの病院と知ってよりいっそう安心し、横浜総合病院のドクターの紹介状を携え6月の初日に初訪院した。
改めてこの病院での精密検査を受けることになり、それが7月の9日に決まったが、手術日はその結果を確認してから決定ということになるので、早くて7月末、遅ければ8月に入ってからになるようだ。余談だが、入院となれば最低1週間くらいはかかるだろうから、アマゾンで文庫本をまとめ買いしておこう、iPodに新しい曲を沢山ダウンロードしておかなくては、などと昔の常識で思っていたら、いまは2~3日で済むと聞いて拍子抜けしてしまった。

ともあれ、緊急・特別なケアを要するような症状ではないから、検査当日とその前後、および入院期間とその前後以外は普通の生活をしていて構わないとわかって、正直のところホッとしている。当初、手術・入院にはもっと時間がかかり、プライベートはともかく仕事関係のスケジュールを大幅に調整しなければならないかと危惧していたが、1~2件スライドするだけであまり迷惑をかけずに済みそうで安堵した。
サテ、そうとわかれば、いたずらに修道僧のような生活を続けている必要もなく、検査中は一応自重していたエンタテインメントも解禁せずばなるまい。急に大人しくなってどうしたかと思っていたかも知れない友人・知人たちにも、近況を知らせなければ...。このブログも、よほどのことがない限り、当面はペースを変えないつもりでいる。

7月9日の精密検査の結果が出たら、また、その先の見通しを報告する所存。

追記:
ニュースですでにご存知の方もおられるかと思うが、たまたま自分が昭和大横浜市北部病院を訪ねたその日の夜に、同病院の看護師さん3人が、病院のすぐそばの交差点歩道上で信号待ちをしていて車両事故の巻き添えになり、尊い命を失われた。病院と職員の方にとても良い印象を受けて帰宅してからわずか数時間後のことだったので、他人ごととは思えないショックを受けた。謹んでご冥福をお祈りしたい。

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2009年6月 1日 (月)

広告はいま...電通賞選考会を終えて

約1ヵ月半にわたって行われてきた2009年度「広告電通賞」の選考会――自分は「ダイレクト広告」と「SP(セールスプロモーション)広告」だけの担当だったけれども――が、先月末でひと先ず終わった。受賞作品・企画も決定し、7月の初めに贈賞式が行われる。
この役目を引き受けてもう何年になるだろう?いつが初めてだったか正確には記憶していないが、かれこれ十数年になるはず。その間、選考委員の顔ぶれもずいぶん変わり、見渡したところではどうも、自分よりも年かさの方を見つけるのが難しくなってしまったような気がする。事務局スタッフも入れ替わって何代目かになるが、こんな自分でも覚えてくださっている受付嬢もいて、ここ何年かは顔を見ただけで、自分の名前の入っているバッジを渡してもらえるようになった。

知り合いの業界人や大学の先生たちに久し振りに会えるのも、こういう場の楽しみの一つ。何段階にもわたって行う選考の合間に、今年の応募作品の傾向などについて意見を交換するのはもちろんだが、お互いの近況や共通の知人の消息、ブログやペット談義にも話が弾む。このごろあまり学会とか業界団体の会合や活動に顔を出さなくなってしまった自分にとっては、世の中の空気を呼吸するいい機会だ。
世の中といえば、昨2008年は景気後退の影響をモロに受けて、日本の総広告費が5年ぶりに前年割れ(マイナス4.7%だそうだ)し、本年もその傾向は続くと言われている。広告は景気動向を映す鏡のようなものだから、扱い高がそうなるのは止むを得ないが、それが広告の内容や形態にどう関わってきているかにも、今年は興味があった。そのようにこの選考会からは、“広告のいま”を通じて、沢山のいろいろな企業の動向をまとめて知ることができるので、自分のような仕事をしているものにとってはたいへん有難い。

さて、選考を終えて感じたことを今年も備忘ログしておこう。後日、自分としても何かと参考になるから...。
2006年、2007年、2008年と、ここ3回で指摘してきたことと基本的に共通する部分もあるが、本年、特に強く感じたのは、応募のあった「SP広告」も「ダイレクト広告」も、実態として、達成すべき“目的”も使用している“メディア”も複合化し、限りなく、「総合プロモーション・キャンペーン」的な性格のものに近づいてきたこと。

本来的にいえばSP広告とは、“限定された期間において購買地点に消費者を誘導し、直接的に購買を動機づけることを目的とする、非反復的な広告”とされ、そのためには、「新聞折込」「ポスティング」「看板」「店頭ツール」や、「イベント」「サンプル配布」「景品・懸賞」など、SP独自のメディアや手法が中心的に使われるのが定石だった。
しかし、この部門への昨今の応募企画には、“関心喚起・話題づくり”、“認知・ブランドイメージ形成”という本来「マス広告」の目的だったものまでをも含むものが目立つようになり、そのためのメディアも、テレビ・ラジオや新聞・雑誌などのマスメディア、およびインターネットのようなインタラクティブ・メディアが、当然のごとく主体的に使用されるようになってきた。

ダイレクト広告についても同様のことが言える。いまは“広告接触者から何らかのかたちでのレスポンス・行動を発生させ、関係構築のためにその個人情報を顕在化させることを目的とする”と概念規定されていることからもわかるように、かつての単純な“通信販売のための広告”や“ダイレクトメールというかたちの広告”に止まらない、“双方向性”と“情報化”というその原理とシステムが取り入れられた“多目的・多メディア化したコミュニケーション”に必然的に進化しているのだ。
そして、個人情報顕在化のためには幅広い市場との接触が可能なマスメディアや情報をデジタル化して取り込むことのできるインターネットに拠ることが必須だし、広告接触者との関係構築こそがブランドイメージ形成に不可欠であることからすれば、ダイレクト広告もまた大局的には、SP広告と同じような方向に向かっているように見える。

ここに至ると、広告は“ブランド認知と好感度を形成”し、SPが“購買地点で動機づけのプッシュ”をし、ダイレクトが“継続的な直接コンタクト”を行うという、マーケティング・コミュニケーションにおける従来の役割分担の考え方が、どうも実態に副わない旧論のように思えてくる。
いま、この時代のマーケティング・コミュニケーションにおいて現実に必要とされているのは、そのようなまだるっこい“足し算”的なやり方ではなく、メディアを複合・連関させて、総合的な目的を一気に達成できるようにする“掛け算”的なやり方で、それは従来のどんな種類の広告という概念ワクにも収まり切れるものではないが、たまたま今回の応募企画では現実が理屈を越え、SP広告やダイレクト広告という姿を借りて出現したということなのだろう。

このことは、SP広告やダイレクト広告の中に、現在の市場の変化と情報技術の進化に対応する“追求目的”や“コミュニケーションのシステム”が内蔵されていることによる、ある意味での必然なのだが、だからといって自分はここで、SPやダイレクトこそが今後の主流になるとまで極言するつもりはない。
ただ、言いたいのは、マーケティング・コミュニケーションにおいて「広告」「セールスプロモーション」「ダイレクトマーケティン」というものを従来のように区別して考えることは、もはやあまり意味がなくなってしまっているのではないかということ。それぞれは、繋がったかたちで全体プロセスの中の一部を構成しているわけではなく、重層して複合的に全体をかたちづくっていると考えられるからだ。

その全体をそれでは何と呼んだらいいかは難しい問題で、もちろんダイレクトマーケティングともSPとも言えないけれども、広告という言葉で一括りにしてしまうのも、いささか大雑把に過ぎる。が、この言葉がやはり一番近く、“進化型広告”とか“多目的広告”とか“複合型広告”とでも言ったら多少ニュアンスを表したことになるかも知れない。
その意味ではこの広告電通賞も、賞そのものの呼び名はそのままでいいとして、そろそろ応募作品・企画の部門区分の見直しをしても悪くはない時期に差し掛かっているような気がする。自分だけの個人的な受け止め方かも知れないが、現在のような、新聞・雑誌・ラジオ・テレビ・ポスター・インターネットという“メディア”を基準にした部門とSP・ダイレクト(公共もそうだが)という“目的”を基準にした部門が同一基盤上に並んでいることに、“不整合性”を感じてしまうからだ。

では、“整合性”のある部門区分とはどういうことかと言えば、2つの考え方がある。一つは、広告というものはそれを発信する“メディアのタイプ”によって異なってくると考え、上記のような6つのメディアとそれにプラスしたそれらの複合としての「クロスメディア」によって区分する考え方で、もう一つは、広告はそれによって“達成すべき目的”によって異なったものになると考える、「告知・広報」「ブランドイメージ・認知形成」「関心・反応開発」「購買勧誘・動機づけ」「受注・販売・契約・登録」「個人情報獲得」「関係構築」そしてそれらの複合としての「マルチ・パーパス(多重目的)」といった区分のし方だ。
細かいことにこだわっているように思われるかも知れないが、このように部門区分基準を整合させることによって、応募する方は、すべき部門がより明確になり、選考させてもらう方は、比較評価のポイントがより明確になって、結果、“広告のいま”がより一層クッキリと浮き彫りされてくるのではないかと考える。

今回は、広告の“かたち”と“目的”のあり方が、従来の基準では単純に括れなくなったということを上手く言えなくて、面白くもない自論を長々と展開してしまったが、要は、市場が変わり、技術システムが進化し、マーケティング・コミュニケーションが達成すべき目的・課題も複雑・多岐化する中で、広告というものが実態としてかつてとは異なる性格のものになってきたわけだから、そろそろこの伝統ある広告賞も、いろいろな角度から見直し、規定し直す時期に来ているのではないだろうか――と言いたかったわけだ。

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