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2009年2月 2日 (月)

家の履歴書

引越し後の未整理ダンボールがようやく数えられるほどに減り、まだまだ片付いてはいないながらも、やっと多少のゆとりを持って自分の新居を眺め渡せるようになったこのごろ。夕食の後に家内が、“この家の間取りも、新しくしたつもりだったけれど今までのいくつかの家とどこか似ているところがあるわね”とつぶやいた。ンーん、そう言えばそうだなと、懐かしさ半分、これまで何度かの家遍歴を振り返ってみようかという気になった。
“家の履歴書”とお題をつけさせてもらったが、これは知る人ぞ知る、医院の待合室などでたまに読む「週刊B」の同名コラムのパクり。同コラムは一言でいうと、さまざまなフィールドの知名人の、物心のついたころから現在に至るまでの住居史を、本人の独り語り風に取材・構成したものだが、“家”というものがいかにその人の“人生”と深く関わり合っているかが窺い知れて、なかなか面白い。自分(たち)の場合も確かにそれは言え、そのようなことをメモとして子供たちに遺しておくのもまた一興かと思ったわけだ。

独身時代は別として、世帯を持って以来半世紀近くの間に、5ヵ所に住み(プラス別宅1ヵ所)、3回家を買い、2.5回家を建て(うち1回は現在の住まいで、もう1回は別宅、そして0.5回は4ヵ所目で2度目に購入した家の増築)今日に至っているが、これは多い方なのだろうか?それとも普通か?まあどちらでもいいが、単に引っ越し好きだったり飽きっぽかったわけではなくて、周辺事情の変化にその都度対応しているうちに、結果的にこうなってしまった。
たまたま、働いていた会社や携わっていた仕事の性格が幸いして、長いビジネスマン生活の間に一度も、自分の転勤などのため住居を変える必要に迫られたことはなかったが、考えてみるといずれの転居や建築も、子供の成長とそれに伴う生活設計変更という、顕在ニーズと潜在願望が動機になっていたような気がする。

2007年10月22日の「昭和39年」でも書いたように、スタートは東京都文京区小石川の6畳一間に1間x3尺の板の間がついた内風呂もトイレもない賃貸アパートの一室。都心の便利なところだったが、長男が生まれすぐに手狭になり、1年半暮らしただけで出ることになった。引っ越し先は大田区の第2京浜国道と池上本門寺の近くで、家内の実家が経営していたアパートの風呂・トイレ・車庫付き2K。格安で貸してもらった。
6畳一間にくらべれば、暮らしのレベルはずいぶんマシになったが、国道を通る自動車や工場の騒音・大気汚染と近隣の人間関係の影響か、家内が体調を崩し、長男も、ロクに遊び場もない環境のためどことなくひ弱だった。ために、そこには2年あまり住んだものの、いつしか、東京を脱出して空気のいい郊外に誰に気兼ねも要らない自分たちだけの住宅を持てたらと夢を見るようになった。

もちろん当時は、一戸建の住宅などは夢のまた夢、いまの概念でいうマンションも一般化しておらず、目標は公団住宅だったが、収入が応募資格に満たなかったり、場所が勤務先から遠すぎたり、競争率が高くてなかなか当選できなかったりで、条件にマッチした物件はなかなか簡単には見つからなかった。
が、幸いにも、昭和42年に、念願の公団分譲住宅が買えることになった。結婚から4年、安サラリーからのなけなしの貯金と家内の実家からの借入金を頭金にし、あとは毎月分割で支払う(当時は銀行ではなくて住宅公団へ)ということで、人生で初めて、自分たちの家を手に入れた。

千葉県市川市に新築された集合住宅で、総武線本八幡駅から北へ2~3キロの町外れ。歩くにはチョッと距離があり、バス便も僅かしかなくて大人にとっては不便だったが、団地内には広い遊び場があり、幼稚園・小学校にもほど近く、子供にとっては、ほぼ理想的な環境だった。その時のわが家は5階建ての1階で3DK、翌年二男が誕生したが、男の子二人を同室にして、まずまず不自由なく暮らせた。
親の大半が同年齢層だったので子供も同学年という家庭が多く、自分も自治会の役員をやらされたりしてコミュニティ意識が生まれ、子供はもちろん親同士の付き合いも活発になって、ひ弱だった長男も見る見る元気になり、家内も健康をとりもどした。

そこで7年、地下鉄東西線が開通し家内も運転免許を取得して、食事に買い物に家族中で繁く東京を往き来するなどアクティブな生活をエンジョイしていたが、二男が小学校に入学した年、長女が生まれて、再び家の間取りを考える必要に迫られ、一間多い3LDKの集合住宅を、できれば都内にと、ずいぶんあちこち探し回った。
さんざん努力したが、都内のいい場所に3LDKを見つけることは叶わず、一方で、都心からの距離が遠くなることを厭わなければ、それとあまり違わない価格で庭付き一戸建ち4LDKの家が買えることがわかった。で、いま考えるとかなり大胆だったが、仕事が昇り坂だったのをいいことに銀行ローンを組み、昭和49年の夏、思い切って、三浦半島の鷹取山中腹を開発造成した電鉄系S不動産の分譲戸建住宅を購入してしまった。

低い山の尾根が目の前に見え、子供の足で頂上まで歩いても20~30分程度、ハイキングコースの中に家が建っているような、子育てには申し分のない環境で、市川時代にくらべると自分の通勤時間は倍近くになって決して楽ではなかったが、周辺の自然環境、家の間取りと設備、庭の広さなどを考えたら満足すべきなのだろうと自分に言い聞かせた。
しかし、新たな必要と欲求は何かと生まれてくるもの。男の子たちが大きくなり、それぞれが異なった時間の使い方をするようになると同室での生活に無理が生じ、自分も書斎が、家内は専用の家事室があったらいいなと思うようになって、その家に入居して3年にしかならないのに、早や増築ということになった。

そして、その後また悩みが勃発。行き止まりだったはずのこの住宅地の周回道路が国道16号線につながって、自分の家の前は車の交通量と騒音が増し、長男・二男がそれぞれ渋谷にある大学、長津田にある中高校に通学するようになると、ここも、家族の生活に最適の地とは言えなくなってきた。
そこでまた新しい場所を模索し始めるのだが、着目したのがT電鉄田園都市線沿線。二男の学校に、受験・入学・PTA・運動会・学園祭などで度々訪れているうちに、この辺りの緑豊かでいてよく整備された住環境に魅せられてしまった。決して、当時話題になり始めていたテレビドラマ“キンツマ”すなわち“金曜日の妻たちへ”を意識したわけではない。

ところで、家族5人が独立性を尊重し合いながら団欒もできる(つまり最小限5LDKの)家ともなると、なかなか見つかるものではなく、また見つかったとしても手が届かず、こんどは自分で建てるしかないと、たまプラーザからつくし野まで、各駅ごとに土地を物色したが、売りに出ている土地は、立地が良くなかったり、日照が問題だったり、変型地だったり、広過ぎまたは狭過ぎたりと、どこかに難があって、やはり、求めている条件に合う物件はなかなか見つからなかった。
そうしているうちに、沿線開発の総元締めT電鉄の不動産販売会社で知ったのが、現在住んでいる場所、あざみ野の戸建分譲住宅。せっかく建てる気でいたのに...とも思ったが、立地も、土地の形状・広さも、日照も、間取りも、すべて希望する条件を満たしている上に、モデルハウスだったのですぐにでも入居できるということで、契約してしまった。

自分の通勤にも長男・二男の通学にも電車で1時間以内、長女の小学校へは徒歩2~3分、付近のたまプラーザにはTデパートがオープンしたばかりで買い物も至便、子供たちはそれぞれ自室がもらえるということで、一も二もなかった。かくて、鷹取山の家には丁度10年で別れを告げ、いまに続くこの土地での生活が始まった。
以来23年、その間に子供は全員この家から学校・勤務先に通い、自分も幾つかの会社に通勤し退職、家内はたまプラーザ・二子玉川へのドライブ・ショッピングを楽しんできた。完全自由設計ではないので、細かいところに文句がなかったわけではないが、いろいろな点で、質的にも十分満足できた家ではあった。

が、そんな家族全員のホームグラウンドも、子供たちが全員巣立ってしまった数年前からは、主のいない3つの空き部屋には灯りが点くことがなくなり、家全体も文字通り灯の消えたような寂しさになった。“耐用年数はまだ10年や20年あるかも知れないけれど、ムッシュと夫婦2人だけでこの家は不要だね”と、何らかのかたちでの老後の住まいというものについて話し合うようになったのも、そのころからだった。
すぐにでも移り住めるように都内の高層マンションかコンパクトな戸建分譲にでもするか、それとも最後にもう一度自分たちの理想とする家を建てるか、それも、この土地にするか新しい土地を探すかなどと、この2~3年、実はあれこれ何度も何度も考え、いろいろなパターンを想定してはあちこちに足を運んでいた。もちろんその間に子供たちの意向も聞いた。その結果、可能な最善のかたちとして辿り着いたのがこんどの家というわけである。

1階廊下から直接出られる屋内車庫にしたので、その分全体の床面積は増えたが、それ以外の部分の面積はほとんど前の家と同じ。意図してそうしたわけではないのだが...。夫婦二人だけの家なので寝室の数は減らし、客用を含めて3室(うち1室は自分の書斎兼用)だけ。その代わり各自のWIC、納戸、屋内収納庫、大小各種物入れなどを完備させ、家内の家事室も設け、LもDもKも連続性を持たせながら独立性も保ち、それぞれユッタリとした広さにした。ムッシュ専用のコーナーもつくった。
結果として確かに、基本的な間取りと生活動線の配置は、家内や子供たちが言うように、旧居にも、その前の鷹取山の家にも、そして清里の山荘とも似ていて、入居して何の違和感もなかった。似たような地形、日照の方向などから必然的にそうなったのだろうか?それとも、長い間に染み付いた感覚が、設計相談の段階で潜在的に作用したのだろうか?

清里の山荘は、旧居を購入した4年後に建てたからもう20年になる。長年、夏になると子供をどこに連れて行ったらいいか頭を悩ませ、宿を確保するのに苦労していたが、那須・箱根・軽井沢・富士五湖と渡り歩いた後、八ヶ岳に辿り着いて、ここに毎年来たい!と思った結果だった。
親しくなったホテルの支配人から土地分譲の情報をもらい、ペンションのオーナーから地元の専門工務店を紹介されて、希望をタップリと盛り込んで設計してもらった家なので、いまも大いに気に入っている。シンプルな間取りだが骨太で、床面積もいままでのどの家よりも広い。

下手をすると寿命を縮めますよと、かかりつけの医者にも危惧されながら何とか実現したこんどの家。残り少なくなった人生をできるだけ楽に、安全に暮らせるようにと、外も内もほぼ全面的にバリアフリーにし、断熱性・耐震性の高い構造にして、オール電化・自動化を取り入れ、セキュリティ装置も取り付けた。
...のはいいけれども、まだコントロール・システムを十分飲み込めきれず、しょっちゅう取扱説明書と首っ引きし、メーカーや警備保障会社に電話している有様。でもそれも、一種の頭の体操になって、老いてゆく2人と1匹の暮らしには役に立つかも知れない。

人生は家だけではないことは分っているつもりだが、もしかしたら自分たちは、家に関して必要以上のことをし過ぎてきたのだろうか?...と、いまになってフと思わないこともない。実際、他人からそう言われたこともあるし、どうしてそこまでできたかと思っている人もいるかも知れない。
でも、特別な答えはない。趣味や娯楽よりは家族の拠り所をつくるのがまず第一と思って、自分はビジネスマンとして懸命に働き、家内がしっかりと遣り繰りをしてここまで来た。もちろん初期には、親戚や会社や銀行から融資を受けたこともあったが、ある時期からはすべて自力。株で大儲けしたわけでも、親の遺産が転がり込んできたわけでもなく、ひたすら堅実に生活してきた結果だ。ただ言えるのは、“情報”と“行動力”と、それでいて“慎重さ”が大事だということ。子供たちには伝わっているだろうか?

彼らも自分の育ってきたところが懐かしいと見え、息子たちは市川や鷹取山の家のその後を何度か見に行ったことがあるらしいし、娘も解体直前の旧居を何カットもカメラに収めて行った。
いま自分も、2~3年前に撮影したと思われるグーグルのストリート・ビューで、ときどき旧居に出会っている。

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