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2009年2月23日 (月)

テレビは世に連れ

あらかたの情報がインターネットで間に合うので、ひところとくらべてテレビというものをあまり視なくなった。視るとしても、場所はほとんどダイニングルームで、朝・昼・晩の食事どきに、その時間帯のニュースショーとドキュメンタリー、紀行・旅番組ぐらい。でも、こだわってそうしているわけではなく、流れにまかせているだけ。
ほんとうは、夕食後などリビングルームのソファーかアームチェアーにひっくり返って、ゆっくりかつジックリと視ていたいのだが、夜の8時以降は、部屋に続く専用コーナーでムッシュが眠りに就くので邪魔をしないようにしており、早朝・深夜などは、また自分しか視ない番組のときも、自室に戻る。

とは言っても最近は、特別なスポーツ・イベントなどを除いては、見逃したくないと思うほどの番組もそうはなくなり、連続テレビドラマなども、次週が待ち遠しい気持ちにさせられることがなくなって久しい。
前にも書いたように、このところパソコンのテレビ機能が具合悪いので、あるいはそれが、このことに輪をかけているかも知れない。再度メーカーS社のヘルプデスクとやりとりするか、単体のテレビ受信機を買うなりすれば良いのだが、そうまでしてテレビを視たいというほどでもないので、ズルズルとそのままになっている。

しかしそんなテレビも、なければないで物足りなくなるのだろうとは思う。何しろ、良くも悪くもこの半世紀近く付き合ってきた、自分といわば同時進行のメディアだったから。“テレビは世に連れ...”などと誰かが言ったような気がするが、その意味では報道番組だけでなくテレビドラマも、時代を映す鏡といえる。というよりも、そうでないとヒットせず、そのようにつくるのがテレビドラマ制作の王道なのだそうだ。
ただし時代の受け止め方は、老若男女誰でもいつでも同じというわけではなく、世代によってまた男性と女性とで異なり、時代の主流となる人々の性格もその時々で変化してきたから、ドラマも絶えずそれを意識し反映してつくられてきたのだろう。

かつて、自分が働き盛りだった1970~80年代には、そんなにヒマだったわけでもないのによく連続テレビドラマを視ていたのも、そのストーリーに自分の日常を重ねることができたからだったかも知れず、いまあまり視なくなったのは、最早自分たちの世代の出る幕はなく、ドラマに己を投影することができなくなったということなのかも知れない。
そんなことを、書きものの手をフと休めてPCをテレビに切り替えたとき偶然目に入ったドラマ(山田太一脚本の「ありふれた奇跡」と後でわかった)を視て考えた。

そのドラマは、昨年夏から年末にかけて八ヶ岳の南麓清里に住んでいた時期、其処と通ずるものがある北海道富良野の美しい自然や、終末期医療という自分たち世代にとっては無関心ではいられないテーマ、そして平原綾香の「ノクターン」というクールな主題曲に惹かれて、唯一真面目に視ていたテレビドラマ「風のガーデン」(倉本聰脚本)の後番組ということだったが、山田脚本なら見応えがあるかも知れないとは思いつつも、前番組の重い余韻が抜け切れず、なかなか見る気になれないでいた。
年頭にスタートし、いまはすでに話は中盤にさしかかり、しかもその日初めて、途中から覗いただけだから、ほとんど内容は掴めなかったが、登場人物の設定や時代風景の切り取り方などから山田ドラマらしさは感じ取れ、何がしか心に引っかかるものもあって、ヒョッとしたらこのあと視続けることになるかも知れないという予感もした。

思い起こしてみるとあの時代、毎週見ていた連続テレビドラマというのは、倉本聰でも向田邦子でもなく、圧倒的に山田太一だった。
1970年代の後半、自分は、わがビジネス人生の母校でもあったリーダーズダイジェスト社を卒業し、縁があって声をかけてくれたやはり米資のRCAというレコード会社に数年籍を置いていたが、ちょうどそのころ放映されていたのが「岸辺のアルバム」。大人になりかかっている子供たちを抱えた家庭の夫婦・親子間の微妙な気持ちのズレが家族崩壊の危機につながって行くというシリアスな内容で、竹脇無我演ずる主人公の職業や子供の年恰好などが妙に当時の自分と重なっていたのを意識させられたことを思い出す。主題曲に使われていたジャニス・イアンの「Will You Dance」も忘れられない。

それに続く「沿線地図」にも、いろいろ考えさせられた。その時期に自分が通勤のために利用していた東横線とその沿線住宅地を舞台に、何気ない出逢いから思いがけぬ方向へ展開する高校生の男の子と女の子のナイーブな心模様と、それに葛藤する親たちの気持ちを描いた、これもやはり時代を映した家族ドラマだった。
主役の青年を演じていた広岡瞬が会社の同僚の息子だったこともあったりして、現実とは無関係なことはわかっていても、勝手に、何か身近な問題として感じてしまっていた。

自分たち一家が田園都市線沿線に居を移した1980年代前半、こんどはその辺りのシーンがふんだんに出てくる「ふぞろいの林檎たち」(中井貴一、時任三郎、国広富之、柳沢慎吾、手塚理美、高橋ひとみ、石原真理子、中島唱子らが出演)が始まった。社会に出ようとするときの学歴差別が問題になり始めていたころの、必ずしもエリートとは言えない若者たちの懸命な生き様が伝わってきた、世代を超えて共感できたストーリーだったが、彼らが劇中でいつもたむろしていたのが、自分の最寄り駅から四つ先のA駅近くに現存し(当時は戸建の路面店だったがいまはビルの中)自分たちも何度か足を運んだことのある「グリーンハウス」というイタリアン・レストランだった。
このドラマで印象に残っているのは、中年のわが胸にもほろ苦く呼び覚まされた若さということの切なさもさりながら、主題曲が「いとしのエリー」だったこと。CDを買うまでもなく、毎回ドラマを視ているうちにしっかり耳に焼きついてしまった。余談ながらこれは、自分の好きなカラオケ曲ベスト10に入る。いくら褒めても足りない名曲だと思う。

そのころの山田ドラマを一手に引き受けていた感のあったTBSは、緑山スタジオが沿線にあったからか、やたらとこの辺りでロケーションし、見覚えのある風景を画面に登場させていた。
平凡なサラリーマンの主人公(小林薫)が、ある日の通勤途上での偶然の出逢いから、夢とも現実ともつかぬ非日常の世界へとのめり込んで行くという筋の、それまでの山田作品とは作風を異にした90年代前半の「丘の上の向日葵」もそうで、山田脚本ではなかったが、例の“金妻”すなわち「金曜日の妻たちへ」のシリーズは、その最たるものだった。

......と、何気ないキッカケから、テレビドラマと自分の日常がシンクロしていたころの想い出を縷々語ってしまったが、そうでなくなったからと言って、まだまだ、好んで想い出だけに浸って生きて行くつもりはない。せっかくデジタル多チャンネルになることでもあるし、狭い世界に閉じ籠もらないためにも、大いにテレビは視続けたいと思っている。
しかし、いまのように、良質のドラマやドキュメンタリーがきわめて少なく、底の浅いお笑いや芸能ネタやドタバタ・バラエティが次々と量産されては消えてゆく状況はいただけない。自分もお笑いは大好きだが、手抜きでお茶を濁されては承服しかねる。そんなことを続けているとそのうちみんなに飽きられて、気がついたときには広告メディアとしての価値もガタ落ちということにもなりかねないのに...。

退役ビジネスマンの徒然なるままの繰言が、いつの間にか業界へのマジな叱言になってしまった。

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