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2009年2月

2009年2月23日 (月)

テレビは世に連れ

あらかたの情報がインターネットで間に合うので、ひところとくらべてテレビというものをあまり視なくなった。視るとしても、場所はほとんどダイニングルームで、朝・昼・晩の食事どきに、その時間帯のニュースショーとドキュメンタリー、紀行・旅番組ぐらい。でも、こだわってそうしているわけではなく、流れにまかせているだけ。
ほんとうは、夕食後などリビングルームのソファーかアームチェアーにひっくり返って、ゆっくりかつジックリと視ていたいのだが、夜の8時以降は、部屋に続く専用コーナーでムッシュが眠りに就くので邪魔をしないようにしており、早朝・深夜などは、また自分しか視ない番組のときも、自室に戻る。

とは言っても最近は、特別なスポーツ・イベントなどを除いては、見逃したくないと思うほどの番組もそうはなくなり、連続テレビドラマなども、次週が待ち遠しい気持ちにさせられることがなくなって久しい。
前にも書いたように、このところパソコンのテレビ機能が具合悪いので、あるいはそれが、このことに輪をかけているかも知れない。再度メーカーS社のヘルプデスクとやりとりするか、単体のテレビ受信機を買うなりすれば良いのだが、そうまでしてテレビを視たいというほどでもないので、ズルズルとそのままになっている。

しかしそんなテレビも、なければないで物足りなくなるのだろうとは思う。何しろ、良くも悪くもこの半世紀近く付き合ってきた、自分といわば同時進行のメディアだったから。“テレビは世に連れ...”などと誰かが言ったような気がするが、その意味では報道番組だけでなくテレビドラマも、時代を映す鏡といえる。というよりも、そうでないとヒットせず、そのようにつくるのがテレビドラマ制作の王道なのだそうだ。
ただし時代の受け止め方は、老若男女誰でもいつでも同じというわけではなく、世代によってまた男性と女性とで異なり、時代の主流となる人々の性格もその時々で変化してきたから、ドラマも絶えずそれを意識し反映してつくられてきたのだろう。

かつて、自分が働き盛りだった1970~80年代には、そんなにヒマだったわけでもないのによく連続テレビドラマを視ていたのも、そのストーリーに自分の日常を重ねることができたからだったかも知れず、いまあまり視なくなったのは、最早自分たちの世代の出る幕はなく、ドラマに己を投影することができなくなったということなのかも知れない。
そんなことを、書きものの手をフと休めてPCをテレビに切り替えたとき偶然目に入ったドラマ(山田太一脚本の「ありふれた奇跡」と後でわかった)を視て考えた。

そのドラマは、昨年夏から年末にかけて八ヶ岳の南麓清里に住んでいた時期、其処と通ずるものがある北海道富良野の美しい自然や、終末期医療という自分たち世代にとっては無関心ではいられないテーマ、そして平原綾香の「ノクターン」というクールな主題曲に惹かれて、唯一真面目に視ていたテレビドラマ「風のガーデン」(倉本聰脚本)の後番組ということだったが、山田脚本なら見応えがあるかも知れないとは思いつつも、前番組の重い余韻が抜け切れず、なかなか見る気になれないでいた。
年頭にスタートし、いまはすでに話は中盤にさしかかり、しかもその日初めて、途中から覗いただけだから、ほとんど内容は掴めなかったが、登場人物の設定や時代風景の切り取り方などから山田ドラマらしさは感じ取れ、何がしか心に引っかかるものもあって、ヒョッとしたらこのあと視続けることになるかも知れないという予感もした。

思い起こしてみるとあの時代、毎週見ていた連続テレビドラマというのは、倉本聰でも向田邦子でもなく、圧倒的に山田太一だった。
1970年代の後半、自分は、わがビジネス人生の母校でもあったリーダーズダイジェスト社を卒業し、縁があって声をかけてくれたやはり米資のRCAというレコード会社に数年籍を置いていたが、ちょうどそのころ放映されていたのが「岸辺のアルバム」。大人になりかかっている子供たちを抱えた家庭の夫婦・親子間の微妙な気持ちのズレが家族崩壊の危機につながって行くというシリアスな内容で、竹脇無我演ずる主人公の職業や子供の年恰好などが妙に当時の自分と重なっていたのを意識させられたことを思い出す。主題曲に使われていたジャニス・イアンの「Will You Dance」も忘れられない。

それに続く「沿線地図」にも、いろいろ考えさせられた。その時期に自分が通勤のために利用していた東横線とその沿線住宅地を舞台に、何気ない出逢いから思いがけぬ方向へ展開する高校生の男の子と女の子のナイーブな心模様と、それに葛藤する親たちの気持ちを描いた、これもやはり時代を映した家族ドラマだった。
主役の青年を演じていた広岡瞬が会社の同僚の息子だったこともあったりして、現実とは無関係なことはわかっていても、勝手に、何か身近な問題として感じてしまっていた。

自分たち一家が田園都市線沿線に居を移した1980年代前半、こんどはその辺りのシーンがふんだんに出てくる「ふぞろいの林檎たち」(中井貴一、時任三郎、国広富之、柳沢慎吾、手塚理美、高橋ひとみ、石原真理子、中島唱子らが出演)が始まった。社会に出ようとするときの学歴差別が問題になり始めていたころの、必ずしもエリートとは言えない若者たちの懸命な生き様が伝わってきた、世代を超えて共感できたストーリーだったが、彼らが劇中でいつもたむろしていたのが、自分の最寄り駅から四つ先のA駅近くに現存し(当時は戸建の路面店だったがいまはビルの中)自分たちも何度か足を運んだことのある「グリーンハウス」というイタリアン・レストランだった。
このドラマで印象に残っているのは、中年のわが胸にもほろ苦く呼び覚まされた若さということの切なさもさりながら、主題曲が「いとしのエリー」だったこと。CDを買うまでもなく、毎回ドラマを視ているうちにしっかり耳に焼きついてしまった。余談ながらこれは、自分の好きなカラオケ曲ベスト10に入る。いくら褒めても足りない名曲だと思う。

そのころの山田ドラマを一手に引き受けていた感のあったTBSは、緑山スタジオが沿線にあったからか、やたらとこの辺りでロケーションし、見覚えのある風景を画面に登場させていた。
平凡なサラリーマンの主人公(小林薫)が、ある日の通勤途上での偶然の出逢いから、夢とも現実ともつかぬ非日常の世界へとのめり込んで行くという筋の、それまでの山田作品とは作風を異にした90年代前半の「丘の上の向日葵」もそうで、山田脚本ではなかったが、例の“金妻”すなわち「金曜日の妻たちへ」のシリーズは、その最たるものだった。

......と、何気ないキッカケから、テレビドラマと自分の日常がシンクロしていたころの想い出を縷々語ってしまったが、そうでなくなったからと言って、まだまだ、好んで想い出だけに浸って生きて行くつもりはない。せっかくデジタル多チャンネルになることでもあるし、狭い世界に閉じ籠もらないためにも、大いにテレビは視続けたいと思っている。
しかし、いまのように、良質のドラマやドキュメンタリーがきわめて少なく、底の浅いお笑いや芸能ネタやドタバタ・バラエティが次々と量産されては消えてゆく状況はいただけない。自分もお笑いは大好きだが、手抜きでお茶を濁されては承服しかねる。そんなことを続けているとそのうちみんなに飽きられて、気がついたときには広告メディアとしての価値もガタ落ちということにもなりかねないのに...。

退役ビジネスマンの徒然なるままの繰言が、いつの間にか業界へのマジな叱言になってしまった。

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2009年2月16日 (月)

“引越し狂騒曲”後日談――あの会社はなぜ倒れたか

今回の家建替えに関わる引越しについては、昨年8月4日の“引越し狂騒曲”に書いて以来あまり多くを語って来なかったが、実はあのときの雑な仕事をした引越し会社(M引越しセンター)は、9月に倒産、10月に破産をし、そのためわが家では散々迷惑を蒙った。イヤ、今もってそれを引きずっていると言った方が正確かも知れない。
問題は大小いろいろとあったが、先ずは、その会社がこの世に存在しなくなったため、トランクルーム(これは別会社のS倉庫)に運び込んでいた家財を新居まで運び戻す別の引越し会社を改めて自分で手配しなければならなくなったこと。Mの管財人という大阪の弁護士が正式にそのことを通知してきたのはもう12月に入ってからのことだったので、それからの3週間というものは、すでに決まっている帰宅予定を控えてバタバタだった。

理屈の上では自分がしなければならないとは理解できたが、作業すべき現地から遠く離れて打合わせや交渉をするのは至難の業だったし、この会社を紹介・推薦したのが今回の家のビルダーだったこともあり、一切をビルダーにアレンジしてもらうことにして、何とかこの件は目途をつけた。
しかし、もう一つ、小さいようではあるけれども大きな問題があった。それはあの日、旧居がすっかり空になっていよいよ山荘へ出発しようとしていたとき、Mの営業担当者がS倉庫への搬入完了の報告を電話でしてきて、“私が倉庫の必要スペースの予測を誤りまして、どうしてもダンボールが3個ばかり収容しきれず、その分を個人的にお預かりしておきます”と言っていた件。

そのときの状況からすれば良いも悪いもなかったので、“じゃあ、よろしく頼む”と言うほかどうしようもなかったが、これが現在も後を引いている。管財人から通知があってM社の破産を知ったとき、真っ先にこのことが気になって、八方手を尽くしてその営業担当者個人の携帯電話らしき番号を探し当て(預かり伝票上のメモから)コールしてみたが連絡がつかず(電話に出ない)、管財人が消息を尋ね当てて連絡をとった後も、本人が直接自分と話をすることはできないという。
ので、管財人経由で個人的預かり荷物のことを確かめたら、驚いたことには、“あのとき言ったのはそういう予測だということで、実際は全部倉庫に収納できたから自分は何も預かっていない”という、手の平を返したような返事が返ってきた。そう言われてしまうと、自分も直接その場に立ち会ったわけではないし、どの家財がその最後の3個のダンボールに該当しているのかも知る由もなく、電話で、しかも中間者を介して、“言った、言わない”を繰り返しても水掛け論になってしまうので、運び出し預けたはずの家財(それも完璧に記憶・記録しているわけではない)が最終的にすべて戻ったか、戻らないものがあるかがわかった時点で判断するほかないかと、とりあえずは思わざるをえなかった。

トランクルームに保管されていた家財が別の引越し業者によって運び戻されてから、もう1ヵ月半以上経ち、山のようだったダンボールはすべて開梱され、中味のほとんどは置くべきスペース、収納すべき場所に移された。これで結果的に、すべてのダンボールには何が入っていたかが明らかになり、搬出前にあったはずのものでどうしても見つからないものがあることも判明した。見つからない理由は、①8月に旧居から搬出しなかった、②搬出したが何らかの理由で倉庫に収納しなかった、③今回倉庫から出庫しなかった、④倉庫から出庫したが何らかの理由で新居に搬入できなかった――などのどれかになる。
①    は自分たちによって、③は倉庫会社によって、④はMに代って運び戻しを引き受けた
引越し会社によって、あり得なかったことが証明されているので、どうもこれは②が限りなく怪しく、それはMの営業担当者があのとき電話で言っていたこととも符合する。にもかかわらずMの営業担当者がそうでなかったと言っているのは、最早関係なくなった前の会社の客などは面倒になって、シラを切っているとしか思えない。けれども、それに反論するだけの材料もこちら側にないので、何とももどかしい。

行方不明になっているアイテムというのは、引越しの直前まで愛用していた温泉卵製造器、カセット・コンロ、包丁用砥石、赤飯・白飯などのご飯パック、海苔缶、袋詰コーヒー、一部の客用食器類、相当枚数のタオルなど、旧居でキッチン戸棚やユーティリティー、パントリーなど日用生活用品収納のための一定の場所に置いてあった品々で、自分たちが段ボール詰めをしたわけではないが、ちょうどその3箱分くらいに当たる。
どれも、新居に戻ってすぐにでも見つからないと不便なものではあったが、何物にも代え難い貴重品というものでもないだけに、きわめて腹立たしくはあるものの、もう存在していない会社を相手どって事を構え、あくまでも是非を追求しようという気にまではなりにくく、かといってこのまま泣き寝入りするのも気持ちが治まらず、ハテ、どうしたものかと考えた。

そこで思いついたのが、大・中・小の企業経営が立ち行かなくなって次々と倒産に追い込まれているこの時代、客としての自分の不満足体験を通じて、その原因をつくったM社のビジネスのやり方を振り返り備忘ログしておくことは、引越し会社に限らず諸々の会社にとっての、企業経営・マーケティング上の“反面教訓”になるのではないかということ。
会社を衰退に導きたくない、事業の基盤を確固たるものにしておきたいならば、このM社のようなやり方をしていてはダメだということを、大きなお世話だろうが言っておきたくなったわけである。もちろん、裏を返せばこのことは、客が危ない会社を見分けるためのポイントにもなる。

ところで唐突だが、「企業にとって株主と顧客と従業員のどれがいちばん大切か」という議論があることをご存知の方は多いと思うが、あなたはどういう意見をお持ちだろうか?いろいろな考え方があるだろうけれども、自分はこのような質問は、一見鋭いポイントを突いているようでいて、はなはだトリッキーだと思っている。どれを最重要としても何とでもロジックはつけられ、実はそれぞれのどれもが他の前提でありかつ結果であるという相関関係にあって、どれが一番とか択一して差をつけることなどできないからだ。
つまり、“どれも大切”というのが平凡な正解なのだが、要は、この中のどの一つを忘れてもならないということで、忘れる部分とその割合が大きくなるほどその会社は、危険に向かって突っ走って行くことになる。

株主というのは資本家で、中小企業などの場合には経営者と言い換えてもよく、彼らを大切にするというのは儲けさせること、つまりせっせと売上・利益を伸ばすことで、そのやり方が正しいかどうか、上手いか下手かは別として、これを忘れる会社はないはず。というよりも、それだけが大切と、他の2つ、すなわち顧客・従業員にまで思いが至っていない会社が圧倒的に多いのが、残念ながら実態だ。
そういう会社は、顧客・従業員の中にも会社に対する愛情や忠誠心が形成されていないから、経営は下支えのない砂上に楼閣を築いているようなもので、何かの理由で収支のバランスが狂うとたちまち悪循環に陥ってしまう。前置きが長くなったが、M社の場合がまさにその典型と言える。

世の信用調査会社などは、M社倒産の原因を、経営者一族間の私的不祥事による金融面での信用低下によるとしているが、それは一つのきっかけではあっても根本的な原因ではなかったのではないかと自分は感じた。問題なのは、M社には“一方通行”の広告宣伝と営業と生産(引越し作業)はあっても、“双方向性”を持った本当の意味でのマーケティング活動が行われていなかったのではないかということだ。
具体的に言うとM社は、広告宣伝には結構力を入れ、実体を伴わないある種のイメージづくりには成功していたようだが、それを裏付ける顧客満足の形成、その満足を生み出すための従業員教育、そしてそれらすべての根本となる積極的市場・顧客情報獲得とそれに基づく絶え間ないシステム改善ができていなかったようだ。

思い起こすと自分たちも昨夏のあのとき、物理的・心理的余裕のないまま十分な作業工程の比較検討もせず、ほとんど価格だけでMに決めてしまったが、その一連の作業の質は“引越し狂騒曲”にも書いた通り、杜撰の一語に尽きた。作業員が記したダンボールの表書を開梱のときに見ても、用語・記号などが人によってバラバラ(しかも表現が稚拙)で統一性・一貫性がなく、どこにあった何が入っているのやらサッパリわからず、必要なものを探し出すのにエラく苦労した。
自分たちはこれまで、業者に依頼するような大きな引越しは3度ほどしていて、利用した会社はその都度違い、どれにも必ずしも満足していたわけではなかったが、今回ほど混乱を極めたことはなかったように記憶している。どの場合も、少なくとも事前の打ち合わせはあったし、当日の作業もまずまず統御されたやり方で行われ、事後の対応もなされた。それから判断すると、直近でも四半世紀近く前のことだから明文化されていたかどうかはわからないが、どの会社にも、それなりの作業要領と顧客対応の体制、そしてそれを実現するための社員教育のようなものはあったと思える。

ところがMには、事前営業・当日作業・事後対応を通じて、何のマニュアルも、チェック・システムも、教育プログラムもなかったようだ。営業担当者は単に値引きを武器に注文をとるだけで客の希望や事情を知ろうともせず、当日の作業員はただただ仕事を早く終わらせようとするだけで引越しの目的にもその場の客の気持ちにも無頓着、そして事後は...それっきりナシの礫で、客が問い合わせても平気で嘘をつく。現に、10月の破産前に9月の倒産が報じられたとき心配になって問い合わせたら、“あれは大阪のMセンターのことで、東京はまったく関係ありません。”と言っていた。
こういうことになって、いまさら遅いとは思ったが、念のためインターネットで“引っ越し業者評判サイト”を見ると、イヤハヤ出るわ出るわMの悪評が...。いわく「約束を守らない」「作業はメチャクチャ」「問題が起きても営業はノラリクラリ」「もう二度と頼まない」「あんな会社は倒産して当たり前」等々。もっと早くこれを読んでいればと思ったが、投稿日付をよく見たら、すべて自分たちが依頼して以後のものだった。残念!

無理に結論を急ごうとしているわけではないけれども、これらの根源はすべて、“顧客を大切にしない”、“顧客の言うことに耳を傾けない”というM社の体質に集約されるのではないだろうか?だから、波及的に仕事が拡大するということがなく、逆にどんどん萎んで行って、ああいう結果になったのだと思う。
おそらく、“テレビCMでそれらしいイメージを振りまき続ければ引き合いは入ってくるから形振り構わず値引きしてでも注文を取り込め”、“引越しにリピートは期待できないから釣った魚にエサをやる必要はない”、“作業は人件費の安いアルバイトでともかく手早く沢山こなせ”...と、こんな方針でやってきて、スパイラルに嵌まって行ったのだろう。

一度受注した客を大事にしないという、とんでもない勘違いをしていたわけだが、たとえ引越しビジネスの客には、それ自体の反復・継続性は乏しいにしても、良くも悪くも波及効果のハブとなる大きな可能性があることに気が付かなかったのだろうか?現在のようなソーシャル・ネットワーキングの時代には特にそうだと思うのだが。また、客を大切にし、客の言に耳を傾けていれば、それがベースになって社員の士気も上がり、新しいビジネスの芽も大きく育ったかもしれないとも思わなかったのだろうか?
同族会社のMは、昔ながらの経営の意識・哲学から抜け出せないまま事業を運営してきて、自ら最悪の結果を招いた。誰の考えだったのか知らないが、広告宣伝によるイメージづくりよりも顧客を満足させることに、そしてそのための社員育成とシステム構築にもっと投資していたら、違った展開があったかも知れない。

M社ほどではなくとも、似たような経営スタイルの会社は案外多いのでは?余計な心配かも知れないが、改めて意識してみてはどうだろう?...顧客本位に考えず、社員を大切にしていない会社は、いつ危険に晒され、倒れることになるかわからないということを。

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2009年2月 9日 (月)

春はもう? まだ?

先週火曜日は節分。初詣と同じく“厄除け”という意味では欠かすとやっぱり気になるので、福豆を買ってきて一応型通り、“福は内、鬼は外”とやった。
恵方巻きも、かつてはお彼岸のおはぎ同様、すべて家内が手作りしていたものだったが、いまは二人だけになってしまったし、沢山食べるわけでもないからと、これも買ってきたもので間に合わせた。豆は、撒くそばからムッシュが追いかけて、カリカリと美味しそうにいくらでも食べるので、お腹でもこわしてはと、ほどほどに止めた。

Ume その翌日は立春で、暦の上では春が始まったことに。確かに2月に入ってから、ほんのチョッピリ暖かくなったような気がしていたが、その日はまた冬の寒さに逆戻り。...と思っていたら、このところまた少し暖かさが回復。これが三寒四温ということなのだろう。
でも、期待を込めつつ自然をよく観察すると、春の兆しが見えてこないわけでもない。家の脇の緩い坂を50メートルばかり下ったところにある御嶽神社境内の白梅は、ほぼ満開で、歩道の上まではみ出した枝の下を通ると、仄かにいい香りがする。そして、そのお隣のHさん宅の庭には、もう早咲きの紅梅が。


Sazanka わが家にも梅は1本あるが、豊後梅なので3月中旬にならないと開花しない。家は新しくなったけれども、まだ造園屋さんを頼んでいないため、庭の大半は掘り返した後埋め戻したままの状態で、東・南側の生垣と立木だけがもとの姿を保っており、紅い山茶花がところどころに咲き残っている。毎年春先に何ともいえぬ芳香を漂わせていた西側の沈丁花は、いまはもう幻となった。
2月上旬では無理もないが、春の気配を感じると真っ先に白い蕾をつけ始める木蓮も、まだ固く角ぐんでいるだけで、椿や花梨や花水木や躑躅の花が開くのはズーっと先。自室の南窓から机の上に差し込んでくる薄日の温もりに、もうすぐ春...と言いたくなるが、それは願望で、本当の春はまだまだ遠い。

とは言いながら、こうして落ち着いて、そんな思いを巡らしていられる余裕のある今年の2月は有難い。昨年のいまごろは、実はキツかった。
顧問を引き受けていた会社がそのときはもう1社あって、そのために拘束される日が月に3日、原稿書きが毎週の上、講演依頼なども集中して、人と会うために出かけることも多かった。そしてその一方で間断なく進めていたのが、家の建替えプロジェクト。2年越しの話が大詰めに近づいていて、連日のようにビルダーとメールや電話で遣り取りし、また会って話をしていた。

そんな中で、毎晩寝汗をかく、朝起きると身体が痛い、いつも胃が重い...といった症状が出てきて、内科のホームドクターで検診してもらったら、自律神経失調症と診断された。根が単純で、同時に複雑なことをいくつもこなすような芸当が不得手な自分は、意識しないままに疲労とストレスを溜め込んでしまっていたらしかった。
当座ドクターの処方した薬を服用し、以来ずっと指示された食事・生活習慣を守っていたら、いつしかその症状はなくなり現在に至っているのだが、そのときから半年あまりの間に、決して多くはなかった体重がさらに減って、成人して以来最少というところまで落ち込んでしまった。一昨年の総合健診で胃部の精密検査を受け結果的に問題はなかったが、以後食べるものに気をつけていたため必要以上に痩せ過ぎ、そこに家の建替えで心身の疲れが重なって、なおさら痩せてしまったようだ。

でも、食欲はあるし、疲れやすいわけでも、顔の色艶が悪くなっているわけでも、内臓に異常を感じるわけでもないから、深刻には考えていないが、念のため、今月下旬に基本検診を、来月中旬にはガン検診を受けることにしている。
1年前は、ウエストが3センチ縮まって、持っていたスーツやパンツがすべて着用可能になったと喜び、ブランドショップの兄ちゃんにスリム体型とおだてられて細身のパンツを一度に2本も購入したりしていたが、いまは、そのときよりさらにベルトの穴一つ分、細くなってしまい、パンツのウエストを詰めるべきか、自分の腹囲を増やすべきか悩んでいる。まあ、そんなことは、どちらでもいいのだろうが...。

ところで、花粉はもう飛び始めているのだろうか?ときどきクシャミが出るようになってきた。風邪気味なわけでなし、早やシーズン到来としか考えられない。今年もこれからどんどん増えて行くのだったら憂鬱だ。昨年はちょうど自律神経失調症とタイミングが重なって、けっこう参った。
大体において花粉症は、エネルギッシュな、普段元気な人がかかるという俗説があるが、そうすると自分も、元気でエネルギッシュということになるのだろうか?自分としては、もうすっかり脂ッ気が脱けて、枯淡の境地に差しかかっていると思っているのだが。

ムッシュは相変わらず元気で屈託がない。3年余を過ごした旧居と5ヵ月あまりの山荘の暮らしに馴染みきって、新居に戻ってしばらくの間は戸惑いを見せるかと思っていたが、まったくそんな様子はなく、こんどの家の中に特別に設えてもらった専用コーナーで、まるでずっと以前からそうだったかのように寛いでいる。
散歩に出ると、ここは清里の森の中と違って、毎日の朝夕に必ずと言っていいくらい、仲良しのワンちゃんと、顔馴染みの小父ちゃん・小母ちゃん・お姉さんなどの誰かに会える。すると、しばらく留守にしていたので、“オー、ムッシュ君、久し振りだネー”とか“ムーちゃん元気だった?”などと、みなさんに声をかけてもらえるので、ムッシュは大喜び。新しいお仲間も増えた。近所に建設中だった戸建分譲住宅がほぼ全棟完成し、20世帯くらいが新入居したようなので、きっとそのお宅のワンちゃんとご家族だと思う。

暑いの寒いの、痛いの痒いのと、何だかんだ言いながら、外を歩いても以前ほどは冷え込みを感じなくなり、シモヤケも少しずつ快方に向かっている。春一番はまだだが、目と鼻がムズムズし始めてきたから、もしかすると春の先発隊は、そこまで来ているのかも知れない。

家のことが一段落したから、暖かくなったら久し振りにジム通いでもしてみるか...。かつてと逆に、こんどは肉を付けるために。

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2009年2月 2日 (月)

家の履歴書

引越し後の未整理ダンボールがようやく数えられるほどに減り、まだまだ片付いてはいないながらも、やっと多少のゆとりを持って自分の新居を眺め渡せるようになったこのごろ。夕食の後に家内が、“この家の間取りも、新しくしたつもりだったけれど今までのいくつかの家とどこか似ているところがあるわね”とつぶやいた。ンーん、そう言えばそうだなと、懐かしさ半分、これまで何度かの家遍歴を振り返ってみようかという気になった。
“家の履歴書”とお題をつけさせてもらったが、これは知る人ぞ知る、医院の待合室などでたまに読む「週刊B」の同名コラムのパクり。同コラムは一言でいうと、さまざまなフィールドの知名人の、物心のついたころから現在に至るまでの住居史を、本人の独り語り風に取材・構成したものだが、“家”というものがいかにその人の“人生”と深く関わり合っているかが窺い知れて、なかなか面白い。自分(たち)の場合も確かにそれは言え、そのようなことをメモとして子供たちに遺しておくのもまた一興かと思ったわけだ。

独身時代は別として、世帯を持って以来半世紀近くの間に、5ヵ所に住み(プラス別宅1ヵ所)、3回家を買い、2.5回家を建て(うち1回は現在の住まいで、もう1回は別宅、そして0.5回は4ヵ所目で2度目に購入した家の増築)今日に至っているが、これは多い方なのだろうか?それとも普通か?まあどちらでもいいが、単に引っ越し好きだったり飽きっぽかったわけではなくて、周辺事情の変化にその都度対応しているうちに、結果的にこうなってしまった。
たまたま、働いていた会社や携わっていた仕事の性格が幸いして、長いビジネスマン生活の間に一度も、自分の転勤などのため住居を変える必要に迫られたことはなかったが、考えてみるといずれの転居や建築も、子供の成長とそれに伴う生活設計変更という、顕在ニーズと潜在願望が動機になっていたような気がする。

2007年10月22日の「昭和39年」でも書いたように、スタートは東京都文京区小石川の6畳一間に1間x3尺の板の間がついた内風呂もトイレもない賃貸アパートの一室。都心の便利なところだったが、長男が生まれすぐに手狭になり、1年半暮らしただけで出ることになった。引っ越し先は大田区の第2京浜国道と池上本門寺の近くで、家内の実家が経営していたアパートの風呂・トイレ・車庫付き2K。格安で貸してもらった。
6畳一間にくらべれば、暮らしのレベルはずいぶんマシになったが、国道を通る自動車や工場の騒音・大気汚染と近隣の人間関係の影響か、家内が体調を崩し、長男も、ロクに遊び場もない環境のためどことなくひ弱だった。ために、そこには2年あまり住んだものの、いつしか、東京を脱出して空気のいい郊外に誰に気兼ねも要らない自分たちだけの住宅を持てたらと夢を見るようになった。

もちろん当時は、一戸建の住宅などは夢のまた夢、いまの概念でいうマンションも一般化しておらず、目標は公団住宅だったが、収入が応募資格に満たなかったり、場所が勤務先から遠すぎたり、競争率が高くてなかなか当選できなかったりで、条件にマッチした物件はなかなか簡単には見つからなかった。
が、幸いにも、昭和42年に、念願の公団分譲住宅が買えることになった。結婚から4年、安サラリーからのなけなしの貯金と家内の実家からの借入金を頭金にし、あとは毎月分割で支払う(当時は銀行ではなくて住宅公団へ)ということで、人生で初めて、自分たちの家を手に入れた。

千葉県市川市に新築された集合住宅で、総武線本八幡駅から北へ2~3キロの町外れ。歩くにはチョッと距離があり、バス便も僅かしかなくて大人にとっては不便だったが、団地内には広い遊び場があり、幼稚園・小学校にもほど近く、子供にとっては、ほぼ理想的な環境だった。その時のわが家は5階建ての1階で3DK、翌年二男が誕生したが、男の子二人を同室にして、まずまず不自由なく暮らせた。
親の大半が同年齢層だったので子供も同学年という家庭が多く、自分も自治会の役員をやらされたりしてコミュニティ意識が生まれ、子供はもちろん親同士の付き合いも活発になって、ひ弱だった長男も見る見る元気になり、家内も健康をとりもどした。

そこで7年、地下鉄東西線が開通し家内も運転免許を取得して、食事に買い物に家族中で繁く東京を往き来するなどアクティブな生活をエンジョイしていたが、二男が小学校に入学した年、長女が生まれて、再び家の間取りを考える必要に迫られ、一間多い3LDKの集合住宅を、できれば都内にと、ずいぶんあちこち探し回った。
さんざん努力したが、都内のいい場所に3LDKを見つけることは叶わず、一方で、都心からの距離が遠くなることを厭わなければ、それとあまり違わない価格で庭付き一戸建ち4LDKの家が買えることがわかった。で、いま考えるとかなり大胆だったが、仕事が昇り坂だったのをいいことに銀行ローンを組み、昭和49年の夏、思い切って、三浦半島の鷹取山中腹を開発造成した電鉄系S不動産の分譲戸建住宅を購入してしまった。

低い山の尾根が目の前に見え、子供の足で頂上まで歩いても20~30分程度、ハイキングコースの中に家が建っているような、子育てには申し分のない環境で、市川時代にくらべると自分の通勤時間は倍近くになって決して楽ではなかったが、周辺の自然環境、家の間取りと設備、庭の広さなどを考えたら満足すべきなのだろうと自分に言い聞かせた。
しかし、新たな必要と欲求は何かと生まれてくるもの。男の子たちが大きくなり、それぞれが異なった時間の使い方をするようになると同室での生活に無理が生じ、自分も書斎が、家内は専用の家事室があったらいいなと思うようになって、その家に入居して3年にしかならないのに、早や増築ということになった。

そして、その後また悩みが勃発。行き止まりだったはずのこの住宅地の周回道路が国道16号線につながって、自分の家の前は車の交通量と騒音が増し、長男・二男がそれぞれ渋谷にある大学、長津田にある中高校に通学するようになると、ここも、家族の生活に最適の地とは言えなくなってきた。
そこでまた新しい場所を模索し始めるのだが、着目したのがT電鉄田園都市線沿線。二男の学校に、受験・入学・PTA・運動会・学園祭などで度々訪れているうちに、この辺りの緑豊かでいてよく整備された住環境に魅せられてしまった。決して、当時話題になり始めていたテレビドラマ“キンツマ”すなわち“金曜日の妻たちへ”を意識したわけではない。

ところで、家族5人が独立性を尊重し合いながら団欒もできる(つまり最小限5LDKの)家ともなると、なかなか見つかるものではなく、また見つかったとしても手が届かず、こんどは自分で建てるしかないと、たまプラーザからつくし野まで、各駅ごとに土地を物色したが、売りに出ている土地は、立地が良くなかったり、日照が問題だったり、変型地だったり、広過ぎまたは狭過ぎたりと、どこかに難があって、やはり、求めている条件に合う物件はなかなか見つからなかった。
そうしているうちに、沿線開発の総元締めT電鉄の不動産販売会社で知ったのが、現在住んでいる場所、あざみ野の戸建分譲住宅。せっかく建てる気でいたのに...とも思ったが、立地も、土地の形状・広さも、日照も、間取りも、すべて希望する条件を満たしている上に、モデルハウスだったのですぐにでも入居できるということで、契約してしまった。

自分の通勤にも長男・二男の通学にも電車で1時間以内、長女の小学校へは徒歩2~3分、付近のたまプラーザにはTデパートがオープンしたばかりで買い物も至便、子供たちはそれぞれ自室がもらえるということで、一も二もなかった。かくて、鷹取山の家には丁度10年で別れを告げ、いまに続くこの土地での生活が始まった。
以来23年、その間に子供は全員この家から学校・勤務先に通い、自分も幾つかの会社に通勤し退職、家内はたまプラーザ・二子玉川へのドライブ・ショッピングを楽しんできた。完全自由設計ではないので、細かいところに文句がなかったわけではないが、いろいろな点で、質的にも十分満足できた家ではあった。

が、そんな家族全員のホームグラウンドも、子供たちが全員巣立ってしまった数年前からは、主のいない3つの空き部屋には灯りが点くことがなくなり、家全体も文字通り灯の消えたような寂しさになった。“耐用年数はまだ10年や20年あるかも知れないけれど、ムッシュと夫婦2人だけでこの家は不要だね”と、何らかのかたちでの老後の住まいというものについて話し合うようになったのも、そのころからだった。
すぐにでも移り住めるように都内の高層マンションかコンパクトな戸建分譲にでもするか、それとも最後にもう一度自分たちの理想とする家を建てるか、それも、この土地にするか新しい土地を探すかなどと、この2~3年、実はあれこれ何度も何度も考え、いろいろなパターンを想定してはあちこちに足を運んでいた。もちろんその間に子供たちの意向も聞いた。その結果、可能な最善のかたちとして辿り着いたのがこんどの家というわけである。

1階廊下から直接出られる屋内車庫にしたので、その分全体の床面積は増えたが、それ以外の部分の面積はほとんど前の家と同じ。意図してそうしたわけではないのだが...。夫婦二人だけの家なので寝室の数は減らし、客用を含めて3室(うち1室は自分の書斎兼用)だけ。その代わり各自のWIC、納戸、屋内収納庫、大小各種物入れなどを完備させ、家内の家事室も設け、LもDもKも連続性を持たせながら独立性も保ち、それぞれユッタリとした広さにした。ムッシュ専用のコーナーもつくった。
結果として確かに、基本的な間取りと生活動線の配置は、家内や子供たちが言うように、旧居にも、その前の鷹取山の家にも、そして清里の山荘とも似ていて、入居して何の違和感もなかった。似たような地形、日照の方向などから必然的にそうなったのだろうか?それとも、長い間に染み付いた感覚が、設計相談の段階で潜在的に作用したのだろうか?

清里の山荘は、旧居を購入した4年後に建てたからもう20年になる。長年、夏になると子供をどこに連れて行ったらいいか頭を悩ませ、宿を確保するのに苦労していたが、那須・箱根・軽井沢・富士五湖と渡り歩いた後、八ヶ岳に辿り着いて、ここに毎年来たい!と思った結果だった。
親しくなったホテルの支配人から土地分譲の情報をもらい、ペンションのオーナーから地元の専門工務店を紹介されて、希望をタップリと盛り込んで設計してもらった家なので、いまも大いに気に入っている。シンプルな間取りだが骨太で、床面積もいままでのどの家よりも広い。

下手をすると寿命を縮めますよと、かかりつけの医者にも危惧されながら何とか実現したこんどの家。残り少なくなった人生をできるだけ楽に、安全に暮らせるようにと、外も内もほぼ全面的にバリアフリーにし、断熱性・耐震性の高い構造にして、オール電化・自動化を取り入れ、セキュリティ装置も取り付けた。
...のはいいけれども、まだコントロール・システムを十分飲み込めきれず、しょっちゅう取扱説明書と首っ引きし、メーカーや警備保障会社に電話している有様。でもそれも、一種の頭の体操になって、老いてゆく2人と1匹の暮らしには役に立つかも知れない。

人生は家だけではないことは分っているつもりだが、もしかしたら自分たちは、家に関して必要以上のことをし過ぎてきたのだろうか?...と、いまになってフと思わないこともない。実際、他人からそう言われたこともあるし、どうしてそこまでできたかと思っている人もいるかも知れない。
でも、特別な答えはない。趣味や娯楽よりは家族の拠り所をつくるのがまず第一と思って、自分はビジネスマンとして懸命に働き、家内がしっかりと遣り繰りをしてここまで来た。もちろん初期には、親戚や会社や銀行から融資を受けたこともあったが、ある時期からはすべて自力。株で大儲けしたわけでも、親の遺産が転がり込んできたわけでもなく、ひたすら堅実に生活してきた結果だ。ただ言えるのは、“情報”と“行動力”と、それでいて“慎重さ”が大事だということ。子供たちには伝わっているだろうか?

彼らも自分の育ってきたところが懐かしいと見え、息子たちは市川や鷹取山の家のその後を何度か見に行ったことがあるらしいし、娘も解体直前の旧居を何カットもカメラに収めて行った。
いま自分も、2~3年前に撮影したと思われるグーグルのストリート・ビューで、ときどき旧居に出会っている。

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