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2008年9月 1日 (月)

中央道行ったり来たり

横浜の家を建替えるため清里の山荘に一時引っ越しているので、顧問の仕事を引き受けている東京都内の会社には、中央道ハイウェイバスで通っている。通っているといっても、月に2~3度だが。
その日は、家を出てから帰ってくるまで、移動に要する時間だけでも延べ8時間はかかるから、どうしても普段とくらべて朝は早くそして夜は遅くなり、生活のリズムがその日で崩れるようなきらいがあったが、これまで3回ほど往復して、ようやく、それなりに少しずつ調整できるようになってきた。

初めは、車中のまとまった時間がもったいなくて、往きに一心不乱に物書きをして、揚げ句、帰りには疲れ果てて眠りこけるということを繰り返したが、3度目からは、iPodで癒し系の音楽を聴きながら目を瞑ってウツラウツラしているのが一番いいと気がついた。
そして、それまでは脇目もふらず予定通りに行動することに躍起になっていたが、最近では、新宿のバスターミナル近辺や地下道などを、見慣れているのに何だか懐かしいような気持ちで見直すような心の余裕も出てきた。

先日は、取引銀行の一つMS銀行に用事があったので、バスターミナルから一番近い支店に立ち寄り、そのまま地下を通って駅の改札口へ向かおうとしたら、何となく見覚えのある、ビルの地階入口の前を通りかかった。表示を見るとF重工と書いてある。数年前まで何年間か西新宿に事務所があったので、そこの地下食堂街にも1~2度ランチをしに来たことがあり、それで印象に残っていたかと、その瞬間はあまり深く考えなかった。
しかし、どうももっと大昔にもそこへ来たことがあったような気もして、頭のどこかに引っかかったままでいたら、地下鉄の座席に座ってからそれを思い出した。

実は、社会人になって数年、会社の給料が安かったことと、自分の修行のためという理由で、広告やダイレクトメールのコピー書き、エッセーまがいのPR記事書きなどの夜なべをしていた時期があったが、そんな内職の一つとして同社の仕事を受け、このビルを訪ねて来たことがあったのだ。
正確には覚えていないが、1960年代の終わりごろだったと思う。付き合いのあった広告会社の営業マンを通しての依頼で、F社の広報誌に掲載する、当時の新モデルS1000の試乗レポートを書くという仕事だった。新宿のこのF社駐車場から出発して、開通したばかりの中央高速道路(当時の呼び方)を往復するという趣向で、中古のミニカーT社のPを後生大事に乗っていた自分にとっては、実益になるだけでなく、最新性能のより大きな車に乗れるという興味をも満足させてくれる、願ってもない仕事だった。

ただ、仕事ともなればいろいろ注文も制限もついていたので、好き勝手な走りはできず、実際にはそんなにドライブを楽しんだ記憶はない。
当時の中央道は、調布から相模湖までしか開通しておらず、中央分離帯なし、片側1車線の対面通行で、それでも高速道路と名付けられているものだから、みんなビュンビュン飛ばして危険極まりなく、結構神経を使った記憶がある。それから、開通したばかりで照明がまだ十分でなかった小仏トンネルを通るとき、どの車も右側のウィンカーを点滅させながら走っていた(対向車に車幅を知らせるためにそうするのが流行だったらしい)ことも印象に残っている。

この20年間、清里の山荘行きで200回は往復したと思う中央道も、思い起こせば第1回目は40年前のこのとき。すっかり眠っていたそのときの記憶の断片が、通りかかった現場の既視感と交差して、頭の中に小さな引っ掛かりを生んだようだ。
また、いま自分が乗っている車もF社のLで、前車は同じくF。4WDのMT車好きということから結果的にそうなっただけなのだが、乗り続けて通算10年近くになり、そんなことも潜在意識に刷り込まれていたかも知れない。

考えてみると、中央道にはよくよく縁があり、その2~3年後の1970年代の初めにも、ロングドライブする機会があった。今度は中央道だけでなく、韮崎から国道141号に入り、清里を通って佐久に抜けるルート。韮崎から清里までは、これまた中央道同様、いやそれ以上頻繁に往き来しているコースだ。
そのときの目的は、電子素材・部品および記録テープ・ディスクなどのグローバル企業として現在押しも押されもせぬ存在のT社(2006年7月28日「君子の交わり」参照)の、山梨県甲府工場と長野県千曲川工場の視察で、当時リーダーズダイジェストから発売していたカセットテープ商品の生産を同社の両工場に委託しており、自分がその発注責任者だったからだ。

そのころの自分の車は、T社のPからI社のBを経て乗り換えたばかりのH社の1300クーペで、排気量の割に95馬力という当時としては異色の高出力で最高時速180キロ(出したことはないが)、デカくて重いハンドルと遊びがなくクラッチミートが難しいスポーツカー並みの運転し心地が売りのFF車。
運転技術にも自信が出てきてどこか遠くへドライブしてみたくて仕方がなかった時期だったので、電車の便が悪かったこともあり、あえて車で出張することにしたのだった。

このとき中央道は、確か大月までは伸びていたと思うが、やはり分離帯なし対面通行の片側1車線で、その先は国道20号に下りなければならなかった。でもこの時期になると国道20号は、新笹子トンネルが開通し、ところどころ(甲府・韮崎などの市外)に片側1車線中央分離帯なしのバイパスもできていたが、行きがけに立ち寄ったT社の甲府工場がそこから遠く外れていたこともあり、韮崎までは折角のバイパスも利用せず、城下町特有のクランク型の曲がり角の多い旧道ばかりを走った。
国道141号になると、いま清里などに来る人には信じられないだろうが、“これが国道?”と首を傾げるようなところも随所にあった。韮崎の旧市街地は辛うじて舗装されていたが、家もまばらの旧市外になると、濛々たる砂ぼこりの立つ砂利道で、たまに思い出したように、アスファルトの簡易舗装工事をしていたところがあったくらいだった。

現在の須玉インターチェンジ入口くらいまでは平坦だからまだいいが、その先の小手指の急坂あたりからは、単なる砂利道というよりは悪路・難路と言った方が当っていた。これが清里・野辺山の峠を越すまで20キロ近く続いて、標高差約1000メートルを一気に上るのだからたいへん。いまの車なら何の問題もないが、当時の一般的な車(特に貨物車)にとって、このルートは決して楽ではなかったようだ。
でも、牧歌的というか、自然のままというか、弘法坂を上りきって展望の開けた高原地帯に差しかかると、道の両側が牧場のため、放牧された牛が平気で道を横切っていた。また、野辺山を過ぎ下り坂になって、海ノ口の千曲川源流に並行するあたりになると、道路と河原が一体化していて、これじゃあ雨でチョッとでも水かさが増えたらすぐに通行止めだろうナという印象を抱いたことを思い出す。

いまでは片側3車線から4車線になり、よほどの事故でもなければ渋滞も起こらなくなった下り中央道を、ハイウェイバスに揺られつつ韮崎・須玉と通過して長坂高根も間近になったころ、夕暮れの八ヶ岳のシルエットを遠望しながら、そして、迎えに来てくれた家内の運転する車で、どこもかしこも完璧に舗装整備された八ヶ岳南麓の昔の林道・農道を縫って、夕闇に包まれてきた家路を辿りながら、ボンヤリとそんなことを思い浮かべていた。

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