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2008年9月

2008年9月29日 (月)

マイ・オールディーズ

週末の朝、家内が早い時間から出かけたので、独り(といってもムッシュは傍にいるが)テレビのニュースショーを見ながら、ゆっくりと時間をかけて朝食を楽しんでいたら、懐かしや、ポール・アンカがゲストとして登場した。芸能ニュースなどにはすっかり疎くなっていたので、トンと知らなかったが、話を聞けば翌日が初来日記念50周年記念コンサートとのことで、そのプロモーションのための出演とわかった。
1958年の初来日以来、日本には何度も来ているのだろうが、自分が最後に聴いたステージは、彼がNウイスキーのコマーシャルに出演していたころ、1970年代の後半で、確か新宿の厚生年金会館ホールだった(?)と思う。そのころすでに、デビュー時のアクはなくなっていて、フランク・シナトラのために彼が訳詩をつけた「マイウェイ」をシットリと歌い上げる、熟年歌手のいい味を出していたが、あれからさらに30年経ったいまも、あまり印象が変わっていないのには感心した。歳相応に髪のボリュームがなくなり、白くなってはいたが、体型もあのころのままだし、姿勢も年寄り臭くなっていなかった。自分の方が少し年上だが、“俺だってまだまだ若い気で頑張っているぜイ”と、心の中でひとり張り合ってしまった。

サービスで歌ったメドレー3曲のトップは、やっぱり、お約束の「ダイアナ」。古き良き時代の軽快なエイトビートの前奏が始まると思わず気持ちが浮き立ち、半世紀前の、金はなかったが若さと元気だけはあったあのころにタイムスリップ。
食事中だし、いささか軽薄とは自分でも思ったが、家内がいないのをいいことにウキウキと歌い出してしまった。♪ I’m so young and you’re so old...と。 あのとき誰かが傍で見ていたら、多分、自分は遠くを見る瞳をしていたに違いない。

この曲が日本でも大ブレークした1950年代の後半、自分は、せっせとアルバイトをして学費を稼がなければならない貧乏学生だった(正確には、授業料は出身の県が、下宿代は親が出してくれていたので、小遣い分を自分で賄わなければならなかった)が、田舎高校生時代ガチガチの体育会系でそれ以外の興味を封印させられていたことの反動か、大学生になってからというものは一気に軟弱化し、音楽を聴き、弾き、唄うことに惹かれて行って、折角稼いだ金をもっぱらそちらの方に注ぎ込んでいた。
ラジオで聞いて覚えたいと思った曲のレコードを片っ端から買うなどということはとてもできなかったので、せめてもと歌本(楽譜集)を買い求め、古道具屋で中古のギターを仕入れて、同好の友人たちと下宿の一室で、弾いてハモり合って楽しんでいた。

エルビス・プレスリー旋風がある程度おさまり、ポール・アンカの「ダイアナ」「君はわが運命」「クレージー・ラブ」などと共に、二ール・セダカの「恋の片道切符」「おお!キャロル」「カレンダー・ガール」、パット・ブーンの「砂に書いたラブレター」「アイル・ビー・ホーム」などが巷に溢れていたころで、友人たちと一緒にいるとき耳にし口にしたのは、決まってそういった明るくて甘酸っぱい、1950年代から60年代にかけてのヒット・アメリカンポップス――つまりいまで言う“オールディーズ”だった。
だが実は、そのころ自分が最ものめりこんでいたのはシャンソン。独りでいるときに聴き、唄い、ソング・ライティングの真似ごとまでしていたのは、オールディーズ的な曲ではなくてシャンソンだった。シャンソンのレコードを沢山コレクションしていた喫茶店に通い詰め、コーヒー1杯(当時は50円!)で何時間も粘り、イブ・モンタン、シャルル・トレネ、ジルベール・べコー、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコなどの唄を何度も何度もリクエストし、店の人に辟易されていた。いまでは誰も信じないだろうが、本当はネクラだったのだ、私は。

どちらにより多くの月謝を払ったかといえば、それは疑いなくシャンソンだ。思い起こしてみると、オールディーズのレコードは一度も買ったことはなかったが、シャンソンは結構集めたし、ただ聴くためだけにも、ずいぶんコーヒー代を使った。
だけどいま自分が、どちらのジャンルを聴いてより懐かしく思うかと問われれば、躊躇なく“オールディーズ”と答えるだろう。その時代、特別に夢中になっていたわけではなく、「ダイアナ」なども一過性のヒット曲として楽しんでいただけで、シャンソンのようにジックリと聴き込んでいたわけでもなかったのに、どうしてかスラスラと唄え、いまではあのシンプルなリズムとコードまわしのメロディーが聞こえると、ただ単純に楽しかったそのころのさまざまなシーンがありありと甦り、手足がひとりでにリズムをとり出す。

月2~3回の仕事で長坂・高根―新宿間を往復するハイウェイバスの中では、ほとんどの時間、イヤフォンから流れてくるiPodの収録曲に、聴くともなく耳を傾けているが、疲れた神経をいちばん癒してくれるのはハワイアンやカントリーソングであり、体の中で眠っていた青春の記憶を目覚めさせ、元気を吹き込んでくれるのはオールディーズだ。
あれほどのめり込んでいたシャンソンは、なぜかいま聴くと、あのときの沁み入るようだった情感を思い出すことができない。モーツアルトやショパンにも慰められ、シュトラウスやレハールにも心が弾み華やぐのだが、まどろみながら聴き流すには芸術的完成度が高過ぎて申し訳ない気がし、あまり車中リスニングはしていない。

学生時代の友人たちとの顔合わせにはカラオケが付きものだが、そこで主として唄われるのはどうしても、自分たちの世代が働き盛りだった30~40年前の時代相を映し出しているナツメロ歌謡ということになる。しかし、もうそろそろお開きという時間に、それではもの足りなかった自分が「ダイアナ」や「砂に書いたラブレター」を唄い始めると、座の情緒的時空は一気に50年前まで飛び、いつの間にか全員が小さく口を動かしている。古稀を越えたジジイたちが青春に還っているのだ。
決して構えて聞いていたわけではなく、何気なく誰の耳にも入っていたオールディーズは、あの時代の明るく屈託のない気分を共有していた自分たちの体の中に、いつの間にか自然に、ささやかな連帯感の因子を植えつけてくれていたようだ。

久しぶりにポール・アンカを聴いたことから、途切れ途切れにそんなことを思い出していたその日の午前だったが、午後になって一通の郵便が届いた。11月上旬開催というクラス会の案内だった。
清里から早稲田まで、今年は出かけるのも一苦労だが、何とか繰り合わせて出席し、二次会で1曲だけ、オールディーズを歌って帰ってこようか...。

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2008年9月22日 (月)

私的・ちょっといい話(副題「一本のリード」)

一難去ってまた一難。幸い大過をもたらさず週末に東海上に去ったかと思っていた大雨と雷の一団は、すかさず次がやって来た。スッキリとした秋晴れはいつになるのだろう。
横浜で自宅の全面建替え工事を進行中なのは既報の通りだが、実はこちら山荘でも、7月下旬から始まったポーチの付け替え工事が同時進行している。が、節目節目で雨に祟られてきたためなかなか完成せず、横浜の方もそんなだと困ってしまうとヤキモキしている。

今月は、毎週のように仕事で東京に出た。先週末も新宿の顧問先に顔を出したが、ついでに私用も済まそうと、それに先立ってあざみ野に向い、かかりつけの歯医者さんに寄り、その足で自宅の工事現場もチェックしてきた。基礎のコンクリート打設が終わり、いわゆる“養生”中のようで、ほとんど全面がシートで覆われ、工事の人は誰もいなかった。
平日の午前中とあって、近隣にはロクに人影もなかったが、帰りがけに偶然、道向いのマンションに住むムッシュのお友達、ボストン・テリアの蘭丸君とそのママに出会って、2ヵ月ぶりの挨拶を交わした。

当日の東京・横浜は、まだまだ秋とは言い難い気温だったが、小雨が降ったり止んだりで、帰りのハイウエイバスも甲府を過ぎるあたりまではそんな状況。この分なら何とか家に帰り着くまでそのまま保つかと思っていたら、小休止のため双葉SAに寄ったところで、本降りになってきた。
そんなわけで、家内とムッシュが待っていた長坂は今日も雨だった。と、くだらないオヤジ・ギャグが出るほど、なぜか、長崎...じゃあなかった長坂からバスに乗って東京に出た日は雨に祟られる。この日を含めて、実に8割という有難くない高確率だが、たまたま台風と熱帯低気圧のハイシーズンだからだろうか。

先月末は家内が、引越し以来はじめての健診のため、バスで東京・横浜に出かけた。最初は自分でドライブして行くと言っていたが、ストレスがかかった状態で診てもらうのでは何もならないからとバスで行くことを薦め、いつもとは逆に、自分が長坂まで送迎した。
その夕刻、出迎えのためムッシュを後部座席に乗せて山の家を出たときは、まったく降る気配がなく、高原大橋に差しかかるころも、薄暮の中にまだ八ヶ岳も南アルプスもシルエットを見せていて、シメシメ今日は大丈夫だと思っていたら、長坂インターの傍まで来たらあたりが一気に暗くなり、やっぱり降り出してきた。

家内と待ち合わせていたのがショッピングモールの入口だったので、車を駐めてからそこまでチョッと歩いたが、ムッシュは、濡れては可哀そうとブルゾンの中に入れて、首だけ出したダッコで連れて行った。
幸い家内とはすぐに会えたので、何はともあれ早く家に帰ろうと、手一杯の荷物を受け取って車まで運び、バックドアを開けトランクに積み込み、ムッシュを懐中から後部座席に抱き下ろしたが、できるだけ雨に濡れまいと片手で傘を差しながらだったこともあって、そのときは、ムッシュの体に装着したハーネス(胴輪)から外したリード(引綱)を、いつものようにキチンと彼のお散歩バッグにしまわなかった。

そして翌日、散歩の時間になってそれを取り出そうとしたが、車中のどこにも見当たらない。後部座席の足下やシートとドアの間はもちろん、前部の助手席も運転席もトランクも、隈なく探したが見つからない。無意識にしまいこんではいなかったかと、お散歩バッグの中も底まで確かめたし、もしかして勘違いだったかと、家の中も再点検した。
しかし、やっぱり見つからないので、どうやら、雨中でのムッシュ乗降の際に、駐めていた車の周りのどこかに、落としたと思わざるを得なくなった。かけがえのない思い出が詰まっていたというほどのものでは、まだなかったし、色は少し違うがとりあえず代りに使えるものもあったから、当座は困るわけではなかったが、ムッシュや家内の手前、何となく面目なく、いつまでも心の中にわだかまるものがあった。

それからしばらく、自分はそのショッピングモールまで行く機会がなく、そこに買い物に出かけた家内が、落し物として届出がなかったかどうかサービスデスクに尋ねたりもしたが、心当たりは得られず、日が経つに連れて、自分の中のわだかまりも薄れていった。
そうこうしているうちに10日あまりが過ぎ、また仕事で東京に出る日が来た。先々週の週末のことだが、その日の帰りは珍しく雨に遭わなかったので、迎えに来てくれた家内がついでの買い物をしている間、ムッシュを遊ばせながら、前回の駐車場所の近くまで行ってみた。“なくてもともと。でも、もしや...”という一縷の望みを胸にして。すると...

遠目だから最初はハッキリとはわからなかったが、パーキングスペースと建物の間を仕切るアルミパイプのフェンスの下の方に、何かが引っかかっている...というよりも、キチンと置いてあるではないか。
“エーッ!ヒョッとしたらあれは...”と、足早にそこに近づくと、何と、ありました!そこに!あのほとんど諦めかけていたリードが!しかも、濡れてもおらず、泥んこにも皺くちゃにもならず、きれいに折りたたまれ束ねられた状態で...。大げさかも知れないが、自分にはそれが、まさに奇跡のように思えた。

大金を入れたまま落とした財布が無事戻ってきたわけでもないのだが、そのときは何とも言えず嬉しくて、いい歳をして人目もはばからず、思わず“あったー!”と叫んでしまった。そのときの表情は多分、グチャグチャに崩れた泣き笑いだったと思う。
どこのどなたがそこまで気遣ってくださったか想像もつかないが、多分、ご自分も愛犬を飼っておられる方が、リードを失くした飼い主の気持ちを察してくださったのだろう。そのお気持ちには、本当に心温まる思いがし、もし同じような状況に出会ったら自分も必ずそうしようと、固く心に誓った。

モールのサービスデスクに家内がそのことを報告しに行ったら、“良かったですネー”と我がことのように喜んでくれたそうな。
また一つ、このあたりに住む人々の何気ない優しさに触れて、八ヶ岳山麓の暮らしが一層好きになった。

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2008年9月16日 (火)

風立ちぬ

9月ももう半ば。早いもので、横浜の家からここ清里の森に移ってきて、もう2ヵ月になろうとしている。

朝目が覚めて部屋の窓を開けると、冷たい空気がサーッと室内に流れ込み、見上げると抜けるように青い空をバックに、木々の梢がサヤサヤと揺れている。時計を見ると7時半にはまだチョッと間があるが、1階でムッシュが“ワッ!...” “ワッ!...”と、2階の様子を窺いながら啼いている。
家内が隣室から、“ムーちゃん、もう起きたの...”と言いながら、先に階段を下りて行き、自分は洗顔と歯磨きを済ましてから行くが、そのころはもうムッシュはケージの外に出してもらっていて、キッチンにいる家内の足もとから自分をめがけ、一目散に走ってくる。そんなムッシュに、“お早う...よく寝たね”といつも同じ言葉をかけるのが、特別な予定のない日の朝の慣わしだ。

その後すぐ、ムッシュに“行こうか?”と声をかけて散歩(兼用足し)に連れ出すが、11月で8歳になるのに元気一杯。子犬のようによく走るので、こちらもつい、それに釣られて走ってしまう。100%は付き合いきれないが、できるだけ一緒に走るようにしていると、いい有酸素運動になる。
先週末は2週間ぶりで東京に出かけたが、もう涼しくなったかと思っていたらまだ30度前後はあって、残暑という感じだった。当日は早朝6時に森の家を出たが、気温は何と12度。その日は最高でも20度前後だったようだ。実際、このところ清里の森からは夏が完全に去ったようで、自分のように皮下脂肪の蓄えがなくなってしまった者にとっては、朝夕はウールのセーターを着て丁度良いくらいになっている。

それだけに、日中の散歩は実に快適で、頬をなぶりながら森の中を抜けてゆく風の気配に、柄にもなく、昔読んだ堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出した。
別にああいった小説に傾倒していたわけではなく、文学全集中の一作品として通り一遍に読んだだけで、ハングリーで毎日を精一杯生きていた自分とは縁のない世界と、そのときには実感もなければ、イメージも湧かなかった。が、いまこうして、あの作品の舞台と同じような環境の中で晩夏を過ごしていると、断片的に記憶に残っている作中の地名や情景や季節感が、リアリティを持って蘇ってくるような気がした。

「八ヶ岳山麓」「南アルプス」「落葉松林」「白樺の木蔭」「下生えの羊歯」「郭公」「茜色を帯びた入道雲...」「九月になるとすこし荒れ模様の雨が何度となく降ったり止んだり...」等々、どれも、作品が書かれた70余年前(1936年)もいまも変っていない。あのサナトリウム(富士見高原療養所)も、「長野県厚生連富士見高原病院」として現存している。
もっとも、厳密に言うと、富士見高原が標高1000メートルなのに対して清里の森は1400メートルだし、八ヶ岳を軸にしての方位も、清里高原は富士見高原より90度東に振れているから、季節の変わり目はひと足早く、こちらに訪れているのかも知れない。

根が至って単純なので、チョッとしたことからすぐに、そんなベタな連想をするが、気持ちよく散歩しているときには、ムッシュとの対話(と言っても他人が聞けば独り言)の合い間に歌も出る。そんなに大声を出すわけではなく、口ずさんでいる程度だが、森の中なので誰も聴いていないのを良いことに、結構まじめに歌う。

歌も楽し 山小路 香れる 朽ち葉踏みて 
行きゆけば 梢の 小鳥 歌う
夏の光 葉漏れる陽は 我らが 歌も楽し    
(ドイツ民謡/高橋信夫作詞「歌も楽し」)

野バラ咲いてる 山路を 二人で 歩いてた
夏の太陽 輝いて 二つの影 うつしてた
今はない君の 面影 求めひとり 僕は行く
(市川染五郎=現松本幸四郎作詞/作曲「野バラ咲く路」)

30分から小1時間の散歩中に2~4曲くらい歌うのを常としているが、いまの季節に必ず口をついて出るのがこの2曲。どちらも、周りの情景と気分にピッタリなのだ。
一緒に歩いているムッシュは、“また始まった”と思っているのだろうが、そのうち条件反射で、散歩の度に“歌って”とせがむようになったりして...ンなことはないか。

つい数日前の朝は、庭の木立の枝から枝へ、子リスが飛び回って遊んでいた。真冬と真夏は姿を見せないはずなので、彼らも秋の訪れを感じて出てきたのだろう。
以前、足繁く山荘通いをしていたころは、皿に入れた餌を出しておいてやると、よく目の前のベランダまで食べに来ていたものだったが、こちらがたまにしか来なくり、餌を出しておいてやるのが途切れ途切れになってからは、めったに姿を見ることができなくなっていた。今回は彼らが冬眠するまでズッと居るわけだから、また、餌を出しておいてやることにしよう。

このところ、夜半の月明かりが煌々とまぶしいほどなのに気が付いたが、考えてみたら、十五夜の満月のようだ。
土地のスーパーのチラシにも、“十五夜大特集――月見団子(餡入り/餡なし)・茨城産生栗・岐阜産松本早生柿・千葉産土里芋とりそろえました”などとあった。

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2008年9月 8日 (月)

気ままウエブサイト考

仕事柄、毎日かなりの時間をウェブ・ウォッチング(というよりも情報チェックと調べものといった方がいいかもしれない)に費やす。URLへの直接アクセス、購読しているビジネス・ニューズレターからのリンク、自らキーワードで検索と、さまざまなかたちがあるが、いずれにしても、自分のような仕事をしているものには、図書館通いの代わりになる欠かすことのできない作業だ。
のみならず、昨年から今年にかけては、個人的にも、情報収集やショッピングやさまざまな手続きのために、大いにウエブサイトを利用した。そしていまも、利用し続けている。

ここで何度も報告しているように、現在、自宅建替えというプロジェクトを進行中だが、それに決定する前に、いっそ出来上がっている家に住み替えようかなどとも考えたことがあって、随分多くの、マンションや建売住宅の分譲サイトを見ていたことがあった。
建替えると心を決めてからも、さんざん、ハウスメーカーやビルダーや、その他の住宅関連のサイトを見て研究したし、時にはコンサルティング会社のサイトやコミュニティ・サイトも見て、目当ての企業の評判や実績をチェックした。

完成までの仮住まいを探すためにも、賃貸物件紹介サイトで調べたし(結果的には近所に適切な物件が見つからずいまこうして山荘にいるわけだが)、引っ越す段になっては、引越し会社やトランクルームなどの候補を、ウエブ情報を参考にして選び出した。
どの段階も、他のチャネルからの情報も集めたし、最終的な決定はもちろん、直接面談で行ったわけだが、そこまでのプロセスを振り返ってみると、情報チャネルとしてのウエブサイトの役割は、きわめて大きいものがあった気がする。

だが、個人的ウエブ利用はそこで終ったわけではない。その後の段階になって、ますます重要度を高めている。というよりも、不可欠なものになっていると言った方が正しい。
ビルダーとの契約を取り交わすと、並行して、契約金・解体費・各種手続料金・着工初回金などの支払が発生するのだが、その段階では自分たちはもう山荘に移ってきており、近辺に振込先に指定されたMU銀行とMS銀行が存在しないため(何しろMUの最寄り支店は八王子、MSでも甲府という状況!)、必然的にインターネット・バンキングを利用することになった。

こちらで暮らし始めてからも、ウエブ情報がないと何をするにもかなり手間がかかることがわかった。市が発行している行政のガイドブックやNTTのタウンページ、それに森の管理センターで用意してくれている関連業者電話リストなどはあるのだが、病院・医院などの診療科目の詳細、美容・理容室の評判などはそれだけではわからず、教えてくれるような人もなかなか見つからないので、いきおい、ウエブ情報頼りということになる。
ハイウエイバスで東京に通勤するようになって、ウエブ上で局地天気予報をチェックし、時刻表を見て、乗車予約をするのが日常のことになったし、大型書店や百貨店や専門名店が近くには存在しない、こういう場所に住むようになって、オンライン・ショッピングの便利さを改めて実感した。

そんなわけで、仕事上でも個人生活上も、フルにウエブ漬けになった生活を送っている今日このごろなのだが、それだけに、接しているウエブの作りや使い勝手に関しても、いろいろなことが気になるようになってきた。
やたら盛り沢山でカラフルだが何がポイントか伝わって来ないサイト、ユーザーの視点ではなくその会社の立場からものを言っているサイト、親切のつもりだろうがかえってクドクドしくなってしまっているサイトなどが目につくが、ユーザーは千差万別だから万人を満足させることのできるサイトなどというものは存在しないだろうし、仕方のないことなのかも知れない。

技術的なことはよく知らないくせに甚だ僭越だが、構造的なことでいうと、まずはやはり、トップページが肝心な気がする。ポータルサイト、検索エンジン、アフィリエート・サイトなど、どのチャネルから入ってきた場合でも、この部分は、ユーザーが欲しい情報に最短距離でアクセスできるように設計されている必要があるのではないだろうか。
その意味で、百貨店や銀行や航空会社など、商品・サービス項目が沢山ある日本企業の場合によく見かけるように最大公約数的な一覧性を追求するよりも、米国などの同業種企業の場合のように、タイトル・タグのつけ方やリンクボタンの配置などを単純明確化し、ロジカルに絞り込んで行くことによって確実により深い詳細な情報に導入してもらった方が、自分などにはわかりやすくて有難い。

不動産関連の企業などに多いが、何をいまだに勘違いしているのか、トップページがムービー仕立てになっていて、いわゆるムード映像を長々と見せつけるサイトもある。
それによって自社のセンスやウエブディザイン技術のほどを披瀝しようとしているのか、はたまたブランド・イメージ表現のつもりか知らないが、イライラさせられて、自分はあまり好きでなく、すぐにスキップボタンをクリックしてしまう。

また、ネットバンキングなどの同じサービスを提供している競合関係にある銀行が、自社のサービスに、それぞれ他社とは何か違ったものであるかのような固有のネーミングをつけていたり、ウエブ上の同じトランザクションを違った呼び方をしているのも困る。
自分たちは頭を捻って差異化したつもりでいるかも知れないが、ユーザーの方は、それぞれが違うサービスかと思ったりして、間違えてはいけないとつい電話をかけてしまうではないか(もしかしたら自分だけ?)。ネーミングや用語はあまり考え過ぎず、一般的な呼び方で共通にしてもらった方がいい。

似たようなことで、必ずしもサイト自体だけの問題ではないが、トラブルが発生したときに現れるヘルプ・インストラクションの文面というのもわかりにくく、これで日本語かと思うことがあって、家電や電子機器の取扱説明書を読んだときと同じ脳の倦怠感を感ずる。あれはどういう言語感覚の人が書いているのだろうか?頼むから、自分のような文系・IT音痴高齢者にもわかるような文章を書いて欲しいものだ。
アナログ人間がそんなとき頼りにするのは、顧客サービスの電話。問合せのためのフリーダイヤル番号がすぐに見つかるようにサイトをつくっている企業は、それだけでも好感を持ってしまう。企業の顧客関係構築とブランディングのために当たり前のことのはずなのだが、メールでしか問合せを受け付けない企業もあれば、電話番号は見つかるがフリーダイヤルでない企業もある。

高齢者といえば切実なのは文字のサイズ。老眼鏡を使用すれば本文は読めるページが大多数ではあるが、それでも、小ぎれいなレイアウトに見せようとしてか、いささか読み辛いほど小さな文字を多用しているサイトもときどきある。さほどの小文字ではなくとも、拡大鏡機能を組込んでくれている親切なサイトもあるが、あれこれ手を煩わさなくとも自前の老眼鏡だけで普通に読めるように気を配って欲しいと思う。
ア、それから、文字サイズが必ずしも小さ過ぎなくとも、法則性もなしにやたらバラついているサイトも読みにくい。それで書体がマチマチ、カラーが極彩色だったらお手上げだ!

...と、言いたい放題のオンパレードで、書いてしまってからちょっと気にしているが、この数年で日本のウエブディザインも長足の進化を遂げていることは率直に認める。だからこそ、自分のような者でも十分、情報化時代の恩恵を受けていられるわけで、それに対する感謝の気持ちを忘れたことはない。

“いい時代になった...”と実感しつつ、今日もウエブ・ザッピング。

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2008年9月 1日 (月)

中央道行ったり来たり

横浜の家を建替えるため清里の山荘に一時引っ越しているので、顧問の仕事を引き受けている東京都内の会社には、中央道ハイウェイバスで通っている。通っているといっても、月に2~3度だが。
その日は、家を出てから帰ってくるまで、移動に要する時間だけでも延べ8時間はかかるから、どうしても普段とくらべて朝は早くそして夜は遅くなり、生活のリズムがその日で崩れるようなきらいがあったが、これまで3回ほど往復して、ようやく、それなりに少しずつ調整できるようになってきた。

初めは、車中のまとまった時間がもったいなくて、往きに一心不乱に物書きをして、揚げ句、帰りには疲れ果てて眠りこけるということを繰り返したが、3度目からは、iPodで癒し系の音楽を聴きながら目を瞑ってウツラウツラしているのが一番いいと気がついた。
そして、それまでは脇目もふらず予定通りに行動することに躍起になっていたが、最近では、新宿のバスターミナル近辺や地下道などを、見慣れているのに何だか懐かしいような気持ちで見直すような心の余裕も出てきた。

先日は、取引銀行の一つMS銀行に用事があったので、バスターミナルから一番近い支店に立ち寄り、そのまま地下を通って駅の改札口へ向かおうとしたら、何となく見覚えのある、ビルの地階入口の前を通りかかった。表示を見るとF重工と書いてある。数年前まで何年間か西新宿に事務所があったので、そこの地下食堂街にも1~2度ランチをしに来たことがあり、それで印象に残っていたかと、その瞬間はあまり深く考えなかった。
しかし、どうももっと大昔にもそこへ来たことがあったような気もして、頭のどこかに引っかかったままでいたら、地下鉄の座席に座ってからそれを思い出した。

実は、社会人になって数年、会社の給料が安かったことと、自分の修行のためという理由で、広告やダイレクトメールのコピー書き、エッセーまがいのPR記事書きなどの夜なべをしていた時期があったが、そんな内職の一つとして同社の仕事を受け、このビルを訪ねて来たことがあったのだ。
正確には覚えていないが、1960年代の終わりごろだったと思う。付き合いのあった広告会社の営業マンを通しての依頼で、F社の広報誌に掲載する、当時の新モデルS1000の試乗レポートを書くという仕事だった。新宿のこのF社駐車場から出発して、開通したばかりの中央高速道路(当時の呼び方)を往復するという趣向で、中古のミニカーT社のPを後生大事に乗っていた自分にとっては、実益になるだけでなく、最新性能のより大きな車に乗れるという興味をも満足させてくれる、願ってもない仕事だった。

ただ、仕事ともなればいろいろ注文も制限もついていたので、好き勝手な走りはできず、実際にはそんなにドライブを楽しんだ記憶はない。
当時の中央道は、調布から相模湖までしか開通しておらず、中央分離帯なし、片側1車線の対面通行で、それでも高速道路と名付けられているものだから、みんなビュンビュン飛ばして危険極まりなく、結構神経を使った記憶がある。それから、開通したばかりで照明がまだ十分でなかった小仏トンネルを通るとき、どの車も右側のウィンカーを点滅させながら走っていた(対向車に車幅を知らせるためにそうするのが流行だったらしい)ことも印象に残っている。

この20年間、清里の山荘行きで200回は往復したと思う中央道も、思い起こせば第1回目は40年前のこのとき。すっかり眠っていたそのときの記憶の断片が、通りかかった現場の既視感と交差して、頭の中に小さな引っ掛かりを生んだようだ。
また、いま自分が乗っている車もF社のLで、前車は同じくF。4WDのMT車好きということから結果的にそうなっただけなのだが、乗り続けて通算10年近くになり、そんなことも潜在意識に刷り込まれていたかも知れない。

考えてみると、中央道にはよくよく縁があり、その2~3年後の1970年代の初めにも、ロングドライブする機会があった。今度は中央道だけでなく、韮崎から国道141号に入り、清里を通って佐久に抜けるルート。韮崎から清里までは、これまた中央道同様、いやそれ以上頻繁に往き来しているコースだ。
そのときの目的は、電子素材・部品および記録テープ・ディスクなどのグローバル企業として現在押しも押されもせぬ存在のT社(2006年7月28日「君子の交わり」参照)の、山梨県甲府工場と長野県千曲川工場の視察で、当時リーダーズダイジェストから発売していたカセットテープ商品の生産を同社の両工場に委託しており、自分がその発注責任者だったからだ。

そのころの自分の車は、T社のPからI社のBを経て乗り換えたばかりのH社の1300クーペで、排気量の割に95馬力という当時としては異色の高出力で最高時速180キロ(出したことはないが)、デカくて重いハンドルと遊びがなくクラッチミートが難しいスポーツカー並みの運転し心地が売りのFF車。
運転技術にも自信が出てきてどこか遠くへドライブしてみたくて仕方がなかった時期だったので、電車の便が悪かったこともあり、あえて車で出張することにしたのだった。

このとき中央道は、確か大月までは伸びていたと思うが、やはり分離帯なし対面通行の片側1車線で、その先は国道20号に下りなければならなかった。でもこの時期になると国道20号は、新笹子トンネルが開通し、ところどころ(甲府・韮崎などの市外)に片側1車線中央分離帯なしのバイパスもできていたが、行きがけに立ち寄ったT社の甲府工場がそこから遠く外れていたこともあり、韮崎までは折角のバイパスも利用せず、城下町特有のクランク型の曲がり角の多い旧道ばかりを走った。
国道141号になると、いま清里などに来る人には信じられないだろうが、“これが国道?”と首を傾げるようなところも随所にあった。韮崎の旧市街地は辛うじて舗装されていたが、家もまばらの旧市外になると、濛々たる砂ぼこりの立つ砂利道で、たまに思い出したように、アスファルトの簡易舗装工事をしていたところがあったくらいだった。

現在の須玉インターチェンジ入口くらいまでは平坦だからまだいいが、その先の小手指の急坂あたりからは、単なる砂利道というよりは悪路・難路と言った方が当っていた。これが清里・野辺山の峠を越すまで20キロ近く続いて、標高差約1000メートルを一気に上るのだからたいへん。いまの車なら何の問題もないが、当時の一般的な車(特に貨物車)にとって、このルートは決して楽ではなかったようだ。
でも、牧歌的というか、自然のままというか、弘法坂を上りきって展望の開けた高原地帯に差しかかると、道の両側が牧場のため、放牧された牛が平気で道を横切っていた。また、野辺山を過ぎ下り坂になって、海ノ口の千曲川源流に並行するあたりになると、道路と河原が一体化していて、これじゃあ雨でチョッとでも水かさが増えたらすぐに通行止めだろうナという印象を抱いたことを思い出す。

いまでは片側3車線から4車線になり、よほどの事故でもなければ渋滞も起こらなくなった下り中央道を、ハイウェイバスに揺られつつ韮崎・須玉と通過して長坂高根も間近になったころ、夕暮れの八ヶ岳のシルエットを遠望しながら、そして、迎えに来てくれた家内の運転する車で、どこもかしこも完璧に舗装整備された八ヶ岳南麓の昔の林道・農道を縫って、夕闇に包まれてきた家路を辿りながら、ボンヤリとそんなことを思い浮かべていた。

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