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2008年8月18日 (月)

森の暮らし

♪山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ
 娘心はヨー 山の天気よ
(作詞:神保信雄 作曲:不詳 「山男の歌」)

いまどきはシニアの山登り愛好家ぐらいしか歌わないと思うが、自分たちがまだ若かった昭和30年代、「歌声喫茶」なる場所での愛唱歌の一つだったこの歌のこの部分が、近ごろやたらと脳裡に浮かんでならない。
と言っても、“娘さん”の部分ではなくて、“山の天気”の部分がそうさせるのだ。清里の山荘に来て、今日でちょうど1ヵ月になるが、これまでの比較的短期の滞在のときにはわからなかった山の天気の“変りやすさ”をイヤというほど味わって、“なるほど、ホントにそうだ”と、何気なく見過ごしていたこの歌詞のリアリティを認識したわけである。

毎朝、目が覚めて窓のカーテンを開けると、木々の梢のはるか上に目に沁みるような青空が広がり、頬をなでるヒンヤリと乾いた大気が今日一日の快晴を予感させるのだが、実はその状態は24時間とは続かない。
夏季などには決まったように、早いときは午後2~3時ごろ、普通でも夕方に、遅ければ夜更けになってから、おおむね雷鳴を伴った大粒の雨が屋根や窓を叩きつける。それでいて翌朝は、そんなことはほとんど忘れたかのような快晴に戻るから、まさか今日は降るまいとツイたかを括ってしまい、それでまた性懲りもなく降られては大慌てする。

まったく、山男ならずとも振り回され、戸惑ってしまうのだが、考えてみればここは標高1400メートル超、チョッとした山の5合目ぐらいにあたるわけで、そんなことは当然なのかも知れない。
事実、標高700メートルくらいのところにある中央道長坂インター傍のショッピングセンターで買い物をして帰ってきたとき、森の近くまでは何ともなかったのに森に入ったところから大雨が降っていたこともあれば、その逆に下がひどい雷雨で、開けっ放しだった窓を心配しながら帰ってきたら、森の中は何ともなかったということもあった。

ここ八ヶ岳をはじめ、富士山、南アルプス、秩父連山などの山々に囲まれた山梨県は、地域全体がそういう気象条件なのかも知れず、今月の初めなどは、大月の変電所に落雷があって県全体のほとんどの世帯が1時間あまり停電になってしまった。一般家庭ではたまたま夕食を済ませた時間帯だったから、影響はまだしもだったが、幹線道路などでは信号がやられて、交通が一時大混乱に陥ったようだった。
雷が鳴っているとき、数秒から数十秒にわたって電気が消えるのは、もはやこのあたりでは珍しいことでもなんでもなく、自分たちもすっかり慣れっこになって、山の夏の風物詩として受け止める心境に達した。ゴロゴロいう雷鳴が苦手なはずのムッシュも、最初は飛び上がって走り回っていたが、このごろはあまり動じなくなった。

ここ清里の森にも、ときどき雷が落ちる。森の落雷事情をよく知らなかったころに我が家でも、近くの木の天辺に落ちた雷が地下を伝わって建物の中の電気設備に侵入し、電話とボイラーの頭脳部が破壊されたことがあった。ちょうどお盆の時期だったこともあってメーカーや電器屋さんに修理を頼むこともままならず大弱りしたことを覚えている。以来それに懲り、夏から秋にかけてしばらく山荘を空けるときは、ほとんどすべてのブレーカーを下ろして帰るようにし、また山荘でコンピューターを使用中に近くで雷が鳴り始めたら、直ちに作業を中断して、コンセントからコードを抜くことにしている。
ちなみにこの土地の人々は、そんな被害を、“雷に入られた”と表現する。感心だけしている場合ではないが、なかなか言い得て妙ではないか。 “娘さん”はそんなことはあるまいが、この辺の“山の天気”は、気まぐれな上、ときに人を困らせる。

そんなことはあっても、それも森の暮らしの一コマと、このごろは笑って過ごせるようになってきた。何しろ平地は連日の猛暑というのに、それより7~8度は気温が低い涼しさが有難い。“便利さ”をとるか、“のんびり”をとるかと、建て替え中の仮住まいの選択に一時は迷ったが、今ではこちらにして本当に良かったと思っている。引越し騒ぎでだいぶ縮まったかも知れない寿命を、少しずつ取り戻せているような気もする。
確かに、医療機関などの便は、都会にいるときのようなわけには行かないが、その分ここには、それを補ってくれる自然の癒しの環境があることがわかった。そういった理由によるものか、原油高騰の折から近場で楽しもうとする人々が増えてきたからか、例年に比べて今年は、森に長期滞在しているお宅が目立って多い。お蔭で、いままで話を交わす機会がなかったご近所さんとも親しくなり、ムッシュにも沢山のお友達ができた。

とは言え、森の暮らしは基本的に単調だ。外出したくなるような刺激がしょっちゅうあるわけでなし、訪ねてくる人もまばらだから、毎朝ポストに入っている新聞、ほぼ毎日の昼ごろ配達される郵便、時折届く宅配の小包、そして管理センターや近辺の関係業者が投げ込んで行くチラシにさえ、なんだか親しみと温もりを感じてしまう。
あらゆる生活インフラが整った都市部の暮らしの中では、ごく当たり前のこととして特に意識もしていなかった自分たちと社会とのコミュニケーションというものを、ここで暮らすようになって改めて考えさせられた。

時間がゆっくりと流れるようで、聞こえてくるのは小鳥のさえずりばかりという日が多い。だから、神経がリラックスし過ぎてしまい、机に向かっていても、いつの間にかウトウトしてしまうこともしばしばあって、これではマズいと思い始めている。ボーッとしているのがクセになり、脳みそがフヤケて社会復帰できなくなったらたいへんだ。
幸い(?)今週末と来週末は、仕事のために2週連続で東京へ行く。ついでに新居の建築作業進行状況の確認もある。早朝出発することになるので、2重の意味で目を覚まし、チャンとすることをしてこなければ...。

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コメント

私も夏は清里に居を持つものです。
下界の暑さをそ知らぬふりに過ごせる場所。
空を山を背景に、虫の鳥の声を聞きながらの夏は、それ以外の日々のわずらわしさや興奮をおさめてくれるようでもあります。
山の森のどこかで・・すれ違うことも・・。

投稿: まみ | 2008年8月18日 (月) 11時53分

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