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2008年3月

2008年3月31日 (月)

妻古稀の春

昨年は自分が古稀に達したが、今年は家内の番。1週間ほど前に無事平穏に70回目の誕生日を迎えた。と言っても、昨日までと何かが変ったわけではないが、世帯を持ってから45年も経ち、長男・二男が不惑の歳になったかと思うと、やはり感慨深いものがある。今年は、その日がちょうど日曜日だったこともあって、子供たちも全員(といっても3人だが)集まり、母の古稀を祝う食事を楽しんだ。

家内の好みに合いそうなメニューがあって、5~6人がゆったりできる個室を確保でき、十分な駐車スペースもある上に各自の自宅から近い――という条件をほぼ満足させているところを、幹事役の娘が早々と見つけて予約しておいてくれたが、都内に住み、幼児(すなわち自分たちの孫)同伴の彼女にとっては必ずしも近いとは言えず、ご苦労さまであった。

その場所とは、田園都市線の鷺沼駅にほど近い「とうふ屋うかい」。「うかいグループ」として、和・洋さまざまなスタイルのレストランをあちこちに出しているが、豆腐料理が売りであることは前々から知っていた。この鷺沼店をはじめ、地元あざみ野、そして清里へ向かう途中の八王子や高尾など、たまたま自分たちの行動範囲内にいくつも店があるので、一度立ち寄ってみようとは言っていたのだが、これまでなかなか機会がなかった。

その前日あたりまでは、果たしてこのまま春本番ということになるのだろうかと、チョッピリ心配していたのだが、どうやら季節は、年度末になってやっと帳尻を合わせたようで、今やどこもかしこも桜が満開。当日も、コートを着ていると汗ばむほどの暖かさで、案内された2階の一室からは中庭の6~7分咲きの桜が見え、春の気分が一層盛り上がった。

娘に言って、あらかじめ、こういう祝宴向けの料理を頼んでおいてもらったのだが、豆腐料理の名店だからメニューは豆腐尽くしかと思っていたらさにあらず。確かにを中心は豆腐だけれども懐石風コースといった感じで、なかなかバラエティに富み、予想以上に美味しくかつヴォリューム満点だった。

「胡麻とうふ」から始まって「季節の盛り合わせ」「白魚茶碗蒸し」「揚げ炭火焼」「お造り」と続き、メインに「豆水とうふ」「汲み上げとうふ」「鶏串焼き、ふきのとう味噌和え」が出て、締めが「穴子ちらし飯」と「味噌汁・香の物」、それに「白玉ぜんざい」のデザートが付く。豆腐好きの娘や自分たち夫婦はもちろんだが、まだまだ肉ッ気のある食事を好む二男も、大食漢の長男も、十分満足したようだった。
さすがに豆腐の専門店だけあって、特に、豆乳スープにもえも言われぬいい味が出ている「豆水とうふ」、旨味の深いモッツァレラ・チーズといった感じの「汲み上げとうふ」、そして熱々の油揚げに削り節を載せ醤油をたらしクレープ風に二つ折りにしてほおばる「揚げ炭火焼」などは絶品。

昨年の自分の古希食事会のときは、初めてということもあってかどこか形式張って、自分としては嬉しかったものの、家族間の会話がそれほど弾まなかったような気もするが、今回の家内のそれの場合は、料理と部屋の雰囲気もあって、和気あいあい。小さな孫もいたせいか、みんながリラックスし、それぞれの子供の小さかった頃の思い出話に花が咲いて、まことに楽しかった。

母親の目からは、いい歳になった子供も、いつまでも小さかったころのままに見えるのだろうし、子供の方も、母親の前では、幼いときの自分に帰るのだろう。やはりこういう家族一同が集う場では、母親が中心になると自然な求心力が生まれるものだと、ひとりで感じ入っていた。

この話を持ち出した当初は、“わざわざそんなことしなくても...”などと、気乗り薄で億劫がっていた家内だったが、この日は近ごろになく寛いで楽しんでいたようで、こちらもホッとした。みんなからのプレゼントとお祝いの花束も、家内は心から嬉しそうに受け取っていた。

また、こちらからも子供たちに、何かお土産を持たせてやりたいと思っていたので、実は前日に、娘の親友の実家、成城学園前の「成城アルプス」へ足を運んで、人気ケーキの“モカロール”を仕入れておいたら、喜んで持ち帰ってくれた。連中もみんな、昔からケーキ好きだったから、きっとその晩にペロリだったかもしれない。そんなことを、子供たちが帰ってから家内と話し合い、ともあれここまで、子供たちも自分たちも大過なく日を送ってこられたことに感謝した。

後で気がついたのだが、その日は暦でいう“大安”。春の空気のように、何だかホンワカと暖かい気分の一日だった。

今回も身内ネタで失礼しました!

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2008年3月24日 (月)

自律神経失調症にご用心

やっと傍まで来てくれたかと思えば、また後戻り。暖かく接してくれていたと思っていたら、急に冷たくなる。あなたは私の、身も心も翻弄しようとするのか...。

と言っても、残念ながら今さら女性の話ではない。今年の冬から春へかけての気候のこと。ツイこの間までは、こんなに寒い冬も珍しいとボヤいていたが、いつの間にか気温が上がり、庭の豊後梅は散り出し、白木蓮と沈丁花が一斉に開花するポカポカ陽気に。日中の外出はコートのライニングを取り外さないと汗ばむほどになったが、これでは済むまいと思っていたら案の定、その後何日かはまた2月の寒さに逆戻り。
“嵐も吹けば雨も降り、春への道よなぜ嶮し...”と、紆余曲折を経た後、やっとまた“ここに幸あり”と感じられる季節になったような気がするが、果たしてこのまま行ってくれるのだろうか?4月に入ってまた寒波などというのは、もうごめん蒙りたい。

“イヤ、季節の変わり目とはそんなものさ”と言われれば、それまでだが、こう極端に気候が不安定だと、ただでさえアッチが痛いのコッチが痒いのと言っているオジ(イ)さんは、すっかり体調がおかしくなってしまうのだ。
例年通り、最も冷えた時期に霜焼けが始まり、痛くてヒーヒーがやっと治まりかけたと思ったら、すかさず春一番が花粉症を連れてきて、涙がポロポロ。でも今年は、どうもそれだけではない感じがして、めったに行かない眼科を訪れた。片一方の目がゴロゴロ、もう片一方が沁みるようにスースーするのだ。四六時中コンピューターに向かっていて普段から目の疲れは感じていたので市販の目薬を点していたが、それでは効かなくなっていた。

そんなわけのわからぬ自分の訴えに、“ゴロゴロとスースーですか、難しいですなあ”と医師は当惑顔。で、診断は「ドライアイ」だった。3種類の点眼薬を処方してもらったので真面目に点しているが、ひと月たった今もまだ治りきっていない。もっとも、“目をなるべく休ませるように”との注意を守っていないのだから仕方がないが。だって、目を休ませていたら仕事にならないのだもの。
霜焼けの方は皮膚科に診てもらって、もう2ヵ月間、1日3回ビタミンEを服用し、毎日すべての指に軟膏を塗っているが、暖かくなるに連れて少しずつ状態が良くなってきている気はする。まあこれは、時期が来れば治ることがわかっているから、それまでの我慢だ。

何年越しかの腱鞘炎は、もう完治しないものとあきらめているのだが、実は今年の春先は、これらの症状に加えて全体的な体調異変を発症した。時間的には十分睡眠をとっているにもかかわらず起床時に疲労感が抜けないのと、いわゆる胃腸症状があることだ。低血圧のため元来寝起きが良いたちではないのだが、それにしても疲労感の度が過ぎるし、胃と腸の症状は、昨年胃部内視鏡検査をした際の症状に似ているのが気になって、半月ほど前、久しぶりにホームドクターの診察を受けた。この1年あまり、インフルエンザの予防注射ぐらいでしかお世話になっていなかったのだが。
症状を話し、触診とX線検査を受けた結果は、「自律神経失調症」とのこと。ストレスが主な原因で、身体の自己調整能力がなくなっているため、あれこれ弱いところに症状が出るのだそうだ。そう言えば同じようなことを、一昨年の秋にも言われたっけ。あのときは、今回の胃腸症状の代わりに微熱だったが。

胃腸はX線の所見では問題なく、その症状も疲労感も精神的なストレスから来るものだから“気分転換が何よりの薬、一応健胃整腸剤と精神安定剤を出しておきましょう”ということだった。“ストレスの原因で何か思い当たることはありませんか?たとえば原稿の締め切りなど、常に約束の期限に追われているとか?”と、今回も聞かれたが、思い当たるも何も、それが日常だからどうしようもない。
で、“そういう仕事をしている人間はどうしたら良いんでしょう。犬の散歩には毎日出ているんですが?”とドクターに尋ねると、“犬の散歩は、身体を動かすという意味ではいいのですが、その間にツイ、構想を練ったりフレーズを考えたりするので、完全な気分転換にはなりません。一番いいのは映画を観ることです”という答えだった。ウーン...言われてみると、確かにそうかも知れない。でもわざわざ映画館に出かけるのも時間がもったいないから(こういう考え方がいけないのだろう)、テレビでの再放送の面白そうなヤツを探し出して観ることにした。

わが家はケーブルテレビに加入しているので、その気になれば、いつでもいくらでも家で映画を観ることはできるのだが、大型画面の受像機を置いてあるリビングルームは夜間8時を過ぎたらムッシュがよく眠れるように消灯して音を立てないようにしているので、自室のパソコンで楽しむことにした。
でも、根がそんなにテレビ番組のことばかり気にしている方ではないので、すっかり開始時間を忘れていて、目をつけていた番組をスイッチオンしたのは、開始からもうだいぶたってから。それでも、そのとき放映していたエディ・マーフィー主演のコメディ・アクション「アイ・スパイ」はなかなか面白かったし、観ている間は他のことを忘れていた。ウン、確かに映画は良さそうだ。これから、真面目に映画番組をチェックすることにしよう。

というわけで、このところ毎日、5種類合計16錠のタブレットを服用、3種類の目薬を3~4回ずつ点し、2種類の軟膏を2~3回ずつ指に塗りながら、相変わらずインターネットでの情報チェックや物書きの仕事をしているが、その合間にクスリを忘れないようにするためにこれまた神経を使うので、神経症の上塗りになりそうだ。こんなに薬漬けになったことは、生まれて始めてだが、歳をとるとどうしてもいろいろな不調が出て、誰でもこういうことになってくるのだろうか?
仕事をやめて趣味に生きれば良いというわけでもないようだし、だいいち自分はいまの仕事が趣味のようなものなので、これをやめろと言われたら余計に具合が悪くなると思う。何だかんだ不定愁訴を訴えているくせに、そろそろまた新著か既著の新訂版を書こうかなどとも考えているのだから始末が悪い。まことに因果な性分というほかない。

ならば、“ここで四の五の言わずに黙ってやっていればいいのだ”というのが大方のご意見だろうが、その通り。もうグタグタ言いません(多分、当分は)。
でも自立神経症などという症状は、歳にかかわらず、ストレスの多いこの現代社会では誰でも発症しそう。拙文を読んで下さっている皆さんも、どこか調子がおかしいと思ったら迷わず医者のもとへ走り、気分転換にも積極的に励まれるようお勧めしたい。

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2008年3月17日 (月)

3月14日@初めてのニュー六本木

この日は、いまでは下さる人も数少なくなった義理チョコのお返しを忘れてはならない日。また、今まで知らなかったが、円周率の3.14....に因んで、“πの日”とか“数学の日”とも言うそうだ。でも自分は当日、六本木アカデミーヒルズ(六本木ヒルズ森タワー49階)の「ダイレクトマーケティング フォーラム2008」で講演をすることになっていたので、正午ごろ家を出て、田園都市線・半蔵門線を青山1丁目で乗り換え、大江戸線で現地へ。
今にも降りだしそうだったし花粉も飛んでいるらしかったので、なるべく地下を通って行きたいと思い、事前にある程度調べて見当をつけていたのだが、電車から降りて人の波に囲まれたまま何となく改札口を出たら、いつの間にか地上へ押し出されていた。

ここ六本木は、近年では地下鉄の乗換えをするか、車で六本木通りや首都高速3号線を通過するぐらいで、路面を自分の足で歩き回ることなどほとんどなかったので、“ミッドタウン”はおろか“ヒルズ”の方も、恥ずかしながら、実はこの日が初めて。目的の場所に辿り着くまでには、迷うというほどではなかったにしてもどうも要領を得ず、エレベーターを探しながら、だいぶ迂回してしまった。ここのオフィス棟に入居しているいくつかの会社には後輩たちもいるのだが、自分が出不精になって訪ねてきてもらうことが多くなったため、街の様子が一変した六本木に自分が出るとなると、すっかり今浦嶋の有様。
1960年代から70年代にかけてはステーキハウスやピアノバーに外国人同僚と、80年代から90年代の初めごろまではエスニックレストランやカラオケクラブに会社の部下たちと連れ立って、ロクに飲めもしないのに何かと言っては繰り出し、挙句の果てに帰りのタクシーがなかなか捕まらず深夜帰宅となり、よく家内にお灸を据えられたものだったが、それも今は伝説...。そんな時代の六本木を知っている人も少なくなった。

「ダイレクトマーケティング フォーラム2008」は、日本郵便の郵便事業会社が実質主催し、完全民営化前の昨年度までは「ポスタルフォーラム」と称していたが、本年度はその色をあえて表面に出さず、呼称通り“マーケティング・セミナー”的性格のイベントに変った。3日間にわたり30あまりの講演を網羅していたが、出展企業が10社にも満たず、セッションやワークショップ的な場がなかったのは、チョッと淋しい気がしないでもなかった。
でも、すべての講演の受講予約申込が、開会日の2週間前に満席になり、当日の受講者のタイプも明らかに変ってきた感じがするなど、“フォーラム”と銘打ったアカデミックな意味では、成功だったのかも知れない。自分はこの日の午後だけ顔を出して、その1コマで話をしただけだから、イベント全体についてどうこう言う立場にはないし、主催者側の考えと事情もあってこういう性格づけをしたのだろうから、それ以上のコメントをするのは差し控えるが、できたら、ゆくゆくは産学協同で、米欧のこの種のイベント(たとえばDMAの年次大会)のようなスタイルになったら理想的だと思う。ところで自分は「進化するダイレクトメディア」と題する話をしたが、いずれ、このページから資料にリンクできるようにしたいと思っている。

講演前には講師控え室で、広告電通賞の選考委員同士でもあるPOP広告協会のS氏と世間話をし、講演直後には同じカンファレンスルームで、次の講師をする電通OBの盟友F氏と遠くから手を挙げ合って目で挨拶を交し、そのあとはコラボレーションルームで、自分などとは違い会社を自営して頑張っている、同年代のO氏、やや後輩のN君、若手のH君らと業界話しをするなど、こういう場所に顔を出すと必ず誰か旧来の知己がいて気分が寛ぐものだが、今回は新しい出逢いもあった。
ダイレクトマーケティングの名著「Successful Direct Marketing Methods」をボブ・ストーン(昨年2月没)と共著(第7版から)したロン・ジェイコブス。彼も今回講師として来日していることは知っていたが、彼にアテンドしていた日本郵便Y氏の紹介で顔を合わせた。聞けばY氏は、社命により彼の会社で1年間勉強していたそうな。ジェイコブスと自分は、世代には少しズレがあるが、同業ではあるし、故・ストーンをはじめ共通の知人も結構いる気安さもあって、思いのほか話が盛り上がった。

まだ夕暮れには間があったが、ビルの出口まで来たら外は雨。今度こそは何とか地下を通って駅まで行きたいと思いビルの総合案内嬢に聞いたら、やはりそういう人は他にもいるらしく、すぐにわかりやすくコースを教えてくれたので、その通りに行くと日比谷線の改札口に出ることができた。そこでチョッと立ち止まって考えたのが、冒頭のお返しをどこで買ってゆくかということ。品は、ありきたりではつまらないと思い、ニューヨークのソーホーに本店がある「ディーン&デルーカ」のオリジナル・チョコ詰め合わせに決めていた。昨年の夏お土産に買ってきて大好評だったからだ。
来るときには、帰りはバスで渋谷に出てTデパートの“のれん街”で買おうと思っていたのだが、日比谷線だと恵比寿で乗り換えになるので何だか面倒な気がした。そこで閃いた!東京ミッドタウンにはディーン&デルーカが絶対あるはずだと。で、駅の事務員に、地下から直接行けないか尋ねてみた。答えは“160円の切符を買って一たん入場し日比谷線のホームを反対側の端まで歩いて大江戸線の改札口を出ればミッドタウンへの地下道に直結する”とのこと。そんな物好きなことをしてバレたら、きっと家内にお小言を頂戴すると思ったが、内緒にしておこうと心に決めてそのコースをとった。

ところが、大江戸線の自動改札をその切符で出ようとしたら、今度はバタンと遮断され、また事務室へ.。その切符を差し出して、アッチからコッチに通り抜けたかったのだと正直に事情を話したら、大都会のメカニズムについて行けず困り果てているお年寄りと思ったのか、自動改札を通れる切符に替えてくれた上に160円を返してくれた。

そんなことがあったが、そこからミッドタウンまではわかりやすかった。地下1階をザッと一回りしただけだったが、“こらあ、なかなかエエやないか”と感じ、ショップの案内板を見ると、あのとき閃いた通り、ディーン&デルーカがありました。それも2店も。だが、残念ながら買いたいと思っていた品は置いていなかったので、さんざん考えた末に、やはりオリジナルの、チョコレートでコートしたレーズンのギフト小箱を買った。
初めて来て、それも1階と地階ぐらいを見ただけで感想を述べるのはおこがましい限りだが、何となくヒルズはロサンゼルス(旧市街でなくセンチュリー・プラザあたり)っぽく、ミッドタウンは(ディーン&デルーカがあったからというわけではないが)ニューヨークっぽかったと言ったら、見当違いだろうか?

家に帰って、恐る恐る“こんなものですが...”と買ってきたものを差し出したら、前もって何も約束していなかったのが幸いしたのか、“アラ、有難う”とスンナリ受け取ってもらえて一安心。でも、160円バックの件が“ちょっといい話”のような気がして黙っていられなくなり、ツイ自分から喋ってしまったら、“ナーニやってんの”と、叱られず笑ってもらえた。

何だかんだ新しい体験もして、見聞も広めた、割といい感じの3月14日だった。

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2008年3月10日 (月)

マーケティングと金儲け

日本の企業は会計年度が4~3月のところが多いので、毎年度末の3月になると、経済ジャーナリズムの紙(誌)面が、良くも悪くもその年話題になった企業の業績や事件や後日談で賑わうようになる。今月初めのA新聞の経済欄にも、「ネットバブル」と題して、昨年度のライブドアや村上ファンドなど、企業のマネーゲームへの暴走事件の背景とその顛末が関係者の証言によって綴られていたが、それを読んでいろいろ考え込んでしまった。
今年度は、有名・老舗食品企業の偽装問題が立て続けに起こったが、それらも皆、根っ子のところで何か共通するものがあると感じていたところだったからかも知れない。

なぜこんなに不祥事が多かったのだろう。それも、ノリとゲーム感覚で突っ走っているような成り上がり的企業と、それとは対照的なはずの老舗企業に...。自分なりにその理由を考えてみた。簡単な結論に過ぎるかも知れないが、そういう企業は、自分(自社)のことしか考えられない、金儲けのことしか頭にない(という言い方がキツければ“売上げ至上主義”と言い換えてもいい)という、一種のファナティシズム状態になっていて、おそらく、“誰のお蔭”でお金が回ってくるのかに思いが至らなかったのに違いない。
そういう会社には、多分、営業とか販売とか財務という部門はあっても、マーケティングという部門はなかったのではないだろうか?もしあったとしても名前だけで、実際にはセールスだったり、宣伝や広報に過ぎなかったりして、顧客の立場からではなく、自分の方からしかものを考えられなかったのだろう。そして何と言っても、金儲けのためにはビジネスのモラルも忘れ、マーケティングの正攻法も無視し、手段を選ばなくなってしまっていたのが、最大の問題だったと思う。

この話題から繋げるのはいささか強引かも知れないが、近頃とみに“お客様本位”などと叫ばれている割には、かたちはともかく本質が依然としてそうなっていない企業が、日本にはまだまだ多い。そしてそういう企業は、たまたま商品や技術力に特色があるため得てして成功を収めているので、自分(社)のやり方に自信を持ち過ぎ、自分(社)がこうと思ったことこそが金科玉条で、それを推し進めることがビジネスの王道だと思っている。知らず知らずのうちに内面に驕りが生じて、顧客のことを“見ざる”“聞かざる”になっているのだ。
こういう企業は、一応、市場調査とかフォーカスグループ・インタビューとかは実施し、それに基づいた大量広告宣伝を行って、そういうことをマーケティングだと言っているが、顧客あってこそのビジネスと、顧客の声に耳を傾け、顧客の気持ちに対応しようと、いつも心を砕いてきた自分たちダイレクトマーケターにとっては、そういうやり方・考え方が不遜に見えて仕方がない。そして、早く本来のマーケティングの心を取り戻さないと、いつか顧客に見捨てられ、取り返しのつかないことになると、余計な心配をしたくなる。

いわゆる「マーケティングの4P」理論の最初のP(製品)だって、経営者や開発者の頭の中に天啓のように閃いたものを造ればいいわけではなくて、市場のニーズを見つけてそれに応えること――すなわち“あったらいいな”と思うものを実現すること――のはず。マーケティングは、製品からではなくて、市場・顧客から始まるということだろうに。
そもそもマーケティングの「マーケット」とは、「市場」であり「顧客」のことだし、「マーケティング」とは、だから、“市場に売り込むこと”ではなくて、“顧客に買ってもらえるようにすること”ではないのか?

自分は、長年のダイレクトマーケティング人生を通じて、実感としてそれを体得してきた気がする。市場というものは、決して、一方的な広告パワーで“支配”したりしようとせず、インタラクティブなチャネルを通じて“知り”そして“対応”し、“共感”を得るようにしないと、その中で生き続けてゆくことはできないと知ったのだ。
市場(顧客)の本音を知るにはどうするのか?どうすれば市場(顧客)にメッセージが伝わるのか?市場(顧客)に受け入れられるものを生み出すための原則は?といった疑問に対して、“何事も自分たちの独り善がりで決断せずに市場(顧客)に諮る”、“何事についても自己満足ではなくて顧客満足を優先する、しかも常にその改善を目指す”ということが答えになるのを、ダイレクトマーケティングの方法論の実践を通じて学んだわけである。

またまた話しが飛躍するが、いまこの部分の日本経済の閉塞状況を打破するには、マーケティングにおいて、顧客に対する“共感の獲得に止まらない誠意のアピール”と“満足を超えた感動の創造”を考えることが必要になってくるのではないだろうか?
ホリエモンはいつの間にか創業の志を忘れて数字に走り、村上世彰は“金儲けはいけないことでしょうか“と叫んだが、たしかに金儲け自体は別に悪いことではない。正統な知恵と労働の報酬としてであれば。だが、企業の最終目的がそれだけになってしまい、そのための手段を選ばなくなることが問題なのだ。

自分には金儲けの才などはないから、考えも及ばないのだが、優秀なマーケターだったはずの起業家が経営者になるとどうして、規模を追い始め、業界売上ナンバーワンとか、長者番付ナンバーワンといった勲章を欲しがるようになるのだろう?日本のマイクロソフトとかビル・ゲイツとか言われるようになりたいからか?それとも、金儲けを極めることが経営の醍醐味なのだろうか?どうもよくわからない...。
規模には必ず限界があるし、行過ぎた巨大化は何れ破綻に行き着く。幸か不幸か、自分はそれを何度もこの目で見てきた。だから自分の現役時代は、できるものならば、経営者としても個人としても、地位や収入でのナンバーワンよりも、何かの分野でのオンリー・ワンになりたいと思い続けてきた。

もっとも、そんなことを忌憚なく言えるようになったのは、自分がいまのように組織に所属しなくなり、どこにも誰にも気兼ねをする必要がなくなってからのこと。現在第一線にいる人たちにとっては、そう言われたからといって、現実がなかなかその理想通りには運ばないことはよくわかる。
だが、各々方、この辺で一度立ち止まり(できたら拙著などもお読みいただき)、マーケティングの原点に立ち返って、ビジネス哲学を考え直してみられるのはいかがなものだろうか?ひたすら大金儲けを狙わなくとも、顧客に対する誠実さを忘れなければ、適正な売上と利益は、黙って後から付いてくると思うのだが。

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2008年3月 3日 (月)

漫画少年

フジテレビの朝8時からの情報番組「とくダネ!」の中で毎週火曜日に放送される「温故知人~天国からのメッセージ」というコーナーがある。故人になってしまった著名人を偲ぶ番組だが、対象となるのは、物故間もないときのショックも薄らいで、むしろ懐かしむ心の余裕も出てくるという、ほど良い時間経過の後にとり上げられる人物がほとんどなので、若手噺家の柳家花禄の人情噺風の語り口による味付けもあって、なかなか見せる(聞かせる?)ある種のエンタテインメントになっている。わが家では、かなりよく見ている。
先週、2月26日は、“漫画の神様”とか“日本のウォルと・ディズニー”とか称せられた手塚治虫が取り上げられていた。手塚治虫というとたいていの人は、あの一世を風靡したテレビ・アニメ「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」を思い起こすだろうが、自分たちの世代は、あの時代ではなくて、もっとず~っと前の、もうセピア色にぼやけかかっている、いわゆる“赤本”漫画の時代に思いが飛ぶ。

小学校(当時は国民学校といった)の低学年で太平洋戦争の終結を迎えた自分は、家に経済的な余裕がなかったこともあり、買ってもらえた本は数えるほどしかなく、そのころからとみに旺盛になってきた読書欲を、もっぱら、医者や旧家などの裕福な友人宅にあった本を片っ端から借りては読むことで満たしていた。
その中には、戦前発行の立派なハードカバー布装丁の少年向け読み物「怪傑黒頭巾」(高垣眸)、「嗚呼玉杯に花受けて」(佐藤紅緑)、「亜細亜の曙」(山中峯太郎)、「吼える密林」(南洋一郎)などがあり(戦後生まれの世代は知らないだろうなあ)、むさぼるように、何度も何度も読み返しては血沸き肉躍る(表現が古いかな?)思いをしたものだったが、実はその読み物の内容もさることながら、それ以上に、椛島勝一、鈴木御水、齋藤五百枝、伊藤畿久造などの挿絵や、同時に借り読みさせてもらっていた、やはり戦前発行の、「のらくろ」「蛸の八ちゃん」「タンクタンクロー」などの漫画単行本にも夢中になり、教科書の裏やノートの空きスペースや、果ては教室の机の上にまで、それらの主人公を落書しては楽しんでいた。ときにはせがまれて、友人の机にも描くことがあった。

しかし、読み物にしても漫画にしても、そのような戦前ものは、そのころの少年が想像できる世界からそんなに懸け離れたものではなかったので、だんだん夢が膨らまなくなり、小学校の高学年になって野球や相撲などのスポーツにも関心が広がるにつれ、相対的に興味が薄れていった。
が、あるときをキッカケに、漫画への情熱が、再びそれまでにも増して高まることになった。それは、そのころ町の神社の縁日で、露店の戸板の上に無造作に並べられていた赤本漫画の山を、幼友達と一緒に何か掘り出しものはないかと夢中で探りまわしていて、その中から群を抜いてスマートな描法の一冊を見つけ出したときのこと。そのときの、くじにでも当ったような嬉しさは、いまでも忘れていない。その本が、後に手塚の最初期の作品とわかった「新宝島」だった。粗末な花仙紙に確か二色刷り、製本も雑でページ数もあま多くはなかったような気がするが、画面の描写アングルと、コマからコマへの展開に、まるで映画を見ているような動きがあって、それまでのクラシックな漫画を見慣れていた目にはたまらなく新鮮に映った。自分もこんなふうに画けたらどれだけ素晴らしいだろうと思わせられ、またまた模写に夢中になって行った。

その後手塚は、関西を拠点に続々と新作を発表するようになる(とは後で知った)のだが、本屋が一軒しかない東北の田舎町では、そんなマニアックな本は、おいそれと手に入りようがなかった。けれども、どうした伝手でかわからないが友人たちの家では、「ロストワールド<前世紀>」「地底国の怪人」「月世界紳士」「メトロポリス<大都会>」「平原太平記」などを手に入れることができたので、こちらはまた、それを借り読みさせてもらうことになった。
そしてそれらを通じて、こんどは画風だけでなく、手塚が好んでとりあげていた“有史前”とか“未来世界”などのストーリー・テーマにも興味を持つようになり、同じキャラクターがいろいろな作品にコスチュームを変えては登場するという配役の面白さにも気付かされ、どんどん手塚ワールドにのめり込んで行った。

そのころ発行されていた少年雑誌にも、手塚作品が連載されるようになってきた。光文社の「少年」には「鉄腕アトム」、学童社の「漫画少年」には「ジャングル大帝」の連載が開始されたが、一人で何誌もというのはとても無理なので、友人と一誌ずつ分担して購入し、後で交換して読み合った。
が、そのうちに、読んでいるだけでは物足りなくなってきて、自分でも漫画を描きたくなり、彼の作品によく登場する“ヒゲオヤジ”、“アセチレンランプ”、“ハムエッグ”、“ケンイチ君”、“ミッチー”、“ヒョウタンツギ”などのキャラクターを勝手に使い、気に入ったギャグをパクって、漫画キャラ化した自分や友人も登場させた四コマ漫画や短編ストーリー漫画を、ノートに何冊も描きまくった。頼まれもしないのに、中学校の夏休みの絵日記を、手塚タッチの漫画にして提出したりもした。そんなわけで、手塚キャラクターの何人かは、今でも何とか描ける。でも、後年漫画家になる少年たちのように、オリジナル作品を投稿するという知恵は浮かばなかったのだから、何とも幼稚なものだった。

子供のころは、手塚の漫画を読みながら、これが本当の映画になったらどれだけ楽しいかと空想し、大学進学のために上京したばかりのころは、ニュース専門映画館(テレビのない時代には10円くらいで見られるそういう映画館が各盛り場にあった)で併映の米短編カラー漫画映画を見ては、日本にもそういう日が来るのを待ち焦がれていた。
だがテレビの時代になって、実際にアトムやレオが毎週ブラウン管の中で活躍するようになったころには、いつの間にかその、少年時代の夢はどこかへ消えていた。手塚治虫は、アニメに雑誌連載にフル回転し始め、「火の鳥」や「ブラックジャック」や「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」などの大作を次々に発表するが、自分でいくらでも好きな本が買えるようになってみると、不思議なもので、少年のころ借りて読んだものを改めて購入したいと思うことはあっても、それらの新長編を揃えようという気にはならなかった。自分にとっての漫画とは、あくまでもあの初期の手塚作品で、そのころの自分は確かに、野球選手になりたかった“野球少年”であったと同時に、漫画家にもなりたかった“漫画少年”でもあった気がする。

野球選手にも漫画家にもなり損ねたが、自分の古代史ミステリー好きや宇宙SF好き、そしてナンセンス・ギャグ好きのルーツは、きっとこの、初期の手塚漫画の影響を受けているに違いないと、あの番組を見ていてそう自己納得した。大発見でもしたかのように、思わず家内にも話したが、もちろん無反応。まあ、“この世の中、他にもっと大事なことがいろいろあるのに、どうでもいいことを言ってないで!”ということでしょう。(爆!)

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