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2007年10月

2007年10月29日 (月)

清里・紅葉・キノコ

前回以来ちょうど一月ぶり、幸い好天気続きだったので紅葉とキノコを期待して、ムッシュ共々清里の山荘に行ってきた。往路到着したのは午後6時を少し過ぎたばかりだったが、秋の陽はつるべ落としとはよく言ったもので、あたりはもう真っ暗、清里の森のゲートを入ると木々の色もよくわからず、わずかに見えたのは車のライトに照らされた部分だけ。でも、どうやら植え込みのドウダンツツジが色づいているようだったので、翌日を楽しみにした。キノコの方も、到着してすぐにガス・水道・オイルの元栓を開けボイラーと床暖房の電源を差し込むため地下室へ庭を往復する途中で、地面にライトをかざしてチェックしたら、いつも出るところにシモフリシメジが頭を覗かせていたので一安心。 10月も半ばを過ぎた時期だから、夜間はもう相当寒いはずと来る前から覚悟はしていたけれど、標高1400メートル地点の気温の下がりようは、やはり半端ではなく、床暖房を入れても、暖炉を焚いても、しばらくの間はなかなか室内が暖まらず、熱いスープを飲んでも、風呂で身体ごと温まっても、ベッドの冷えでなかなか寝付けなかった。だが、考えてみたら、いつも冬季にはそうしていた布団乾燥機で事前に暖めておくことを忘れていた。

翌日、窓から外を見て“アレー”と思った。というのも、わが家の庭はまだほとんどグリーン一色で、例年だったら茶ばんで散りかかっているカラマツの葉も付いたまま。ほんの一部の樹木だけが黄葉し、あるいは枝先がわずかに紅くなっているだけで、いつもの年の同時期とはまったく様子が異なっていた。やはり今年は異常な暑さが長く続いたせいなのかと、首を捻ってしまった。

かくなる上はキノコだけが楽しみと地上に目を転ずると、これもおかしい。この時季には群生するはずの当家の庭特産のチャナメツムタケが一つも見当たらない。その代わりというわけでもなかろうが、9月初旬でとうに終っているはずのハナイグチがまだ出ていた。昨晩見当をつけていたシモフリシメジは、本来ならその名の通り霜の降りる頃、11月初めにならないと姿を見せないはずなのに、既に数株、食べごろの状態に。異常気象で、ついに自然のサイクルに狂いが生じたか。

次に来るのは今から1ヵ月後の11月下旬になるだろうが、この調子だとヒョッとしてそのときまでも、何か残っているかも知れない。

山荘黄葉

ハナイグチ

シモフリシメジ
この日、二日目は、午後から雨が降り出したのでどこへも出かけず、これ幸いと身体を休めることに。自分は今回あえてコンピューターを持ってこなかったので、仕事をするわけに行かず、家内も、横浜の家にいるときのようにアチコチ忙しく出かけるわけにも行かなくて、二人でローカルテレビの退屈な番組を見たり、普段は話題にしないどうでもいいことを語り合ったり、ひたすらノンビリしていた。でも、こうしていることも、この歳になると必要なのかも知れないと自己納得。
...と思いながらも、快晴の三日目は大奮闘。前回、細め(と言っても径15㎝ほど)の中木を1本伐採した後、径20㎝のとてつもなく堅い2本目に取りかかって外れてしまったチェーンソーのチェーンを取り付け直し、改めてその木を、辛抱強く時間をかけて切り倒した。ところが、倒す方向は考えていたのだが横枝の長さまでは計算に入れていなかったため、完全に地上に倒れず別の木の俣に引っかかってしまった。力いっぱい押しても、どうにもそれ以上動かず、斜めになったまま。時間が経てばやがて枝が枯れ、自然に倒れ落ちるとも思ったのだが、近いうちに管理センターの人たちにカラマツやミズナラの高木を間伐してもらうことになっていたので、ついでに引きずり下ろしてもらえないかと頼んだら、一緒に始末してくれるとのこと。有難や。

その日の昼食は藤乃家へ。シーズンでさぞ混み合っているかと思ったが、予想外にもすぐに座れ、車の中で留守番するムッシュをあまり待たせずに済んだ。

往復の八ヶ岳高原ラインからは四方の山々がきれいに見えた。富士山の冠雪は事前に承知していたが、八ヶ岳の主峰赤岳も、北側の頂上付近が白くなっていた。この道路の途中には、川俣川東沢渓谷に架かる通称“赤い橋”と呼ばれる絶景紅葉スポットがあって、いつもならこの時季は全山見事に紅く染まった中で大賑わいの人出になるのだが、この日はイマイチ。それもそのはずで、山は紅葉には程遠い状態だった。

出かけたついでに寄ったいずみキノコ園の奥さんや清里の森管理センターの人たちとも話をしたが、“夏が長かったせいで今年は遅い、下手をするとこのまま行ってしまうかも”ということだった。ただ、管理センター周辺の樹木だけはいい色になっていた。周辺の空間が広く、陽当たりがよくて風がよく抜け、昼夜の気温差が大きくなるからだろうか。
富士山冠雪

赤岳冠雪

赤い橋

管理センター前

四日目も、寒かったけれど爽快な晴天。自分は電動刈り払い機と剪定鋏みを振るって庭の笹を刈り、家内は春に咲く花々の球根を花壇に植え、ムッシュは人影のほとんどない森の中の小径を元気に駆け回った。体力を使った後の疲れの残り具合が年々少しずつ増えているなと実感しないわけには行かなくなってきたこの頃だが、肉体労働で頭の中を空っぽにすることができて気持ちはよく、久しぶりにリフレッシュした。 夜は、庭で採れたキノコと管理センターで購入した地元の野菜を使って、家内がパスタとミネストローネスープを作ってくれ、秋の我が山荘ならではの滋味に舌鼓を打った。

今回は4泊5日で随分ゆっくりできた感じがしたが、次回はおそらく今年最後、2~3日の忙しいスケジュールで、来春までクローズのための諸々の作業をすることになるだろう。何だかんだいいながら、八ヶ岳の秋は深まってゆく。
   

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2007年10月22日 (月)

昭和39年

少し前、「昭和タイムズ」というタイトルのグラフ週刊誌の創刊CMが、テレビでけっこう目立っていたが、第一号が昭和39年の記録だということでチョッと気を引かれ、書店で買い求めてみた。カレンダーにしたがって当時の世相・事象を記録写真などと共に振り返る、だいたい予想していた通りの編集内容だったが、ページをめくるうちに、43年前のさまざまな身の回りの出来事も脳裏に浮かんできた。昭和39年(1964年)は、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるという、日本の国自体としても一つのエポックだったが、自分と家内にとっても、印象深い年だった。

その前年の4月、自分たちは東京都文京区小石川柳町に世帯を持った。だから本籍はここで、今では町名が小石川一丁目に変っているが番地はそのまま。狭い玄関と小さな台所そして1間幅の廊下と押入れがついていた木造アパート2階の6畳一間に、家内の嫁入り道具だった箪笥3本と、自分の勉強机を置いていた。トイレは水洗だったけれども室外で、洗濯場は共用。2階には確か、他に4~5部屋あったような気がするが、1階は店舗で、新築で作りがしっかりしていたのが取り柄だった。やはり共用の物干し台は屋根の上にあって、夜間は、ナイターの照明が煌々と空を照らす後楽園スタジアムが目と鼻の先に見えた。
場所は、伝通院の脇の善光寺坂を下り、千川通り(後楽園~大塚)を横切って白山通りへ抜けるチョッと手前。外へ出ればゼロ分で、活気のあったアーケード商店街。デパートなどへ行かなくても何でも揃っていた。白山通りにはまだ、志村坂上~神田橋間の都電が走っており、小石川柳町が最寄りの停留所、次の初音町(現在の西片交差点)まで歩いても5分とかからなかった。当時リーダーズダイジェストの旧社屋のあった竹橋へはこの都電で通い、一ツ橋で乗降していたが、気候のいい時節の帰り道などは水道橋まで歩くこともザラで、時には話しに夢中になって歩き続けて、気がつくとアパートの近くまで来ていたなどということもあった。元気だったのだなあ、あの頃は。

そしてこの年の4月、長男が生まれた。内風呂などはもちろんないから、最初の数ヵ月は室内でベビー・バス。折悪しく東京は大渇水で給水制限の夏だったので、十分にお湯を使わせられず、長男はいつもパウダーでおデコを真っ白にしていた。やがて普通の風呂に入れるようになると、定刻に退社できた日はいつも、片手で長男を抱っこし、もう一方の手には入浴用具と着替え一式をぶら下げて銭湯通い。そういう父子が何組もいて、脱衣場には赤ん坊の着替えを面倒見てくれる朴訥な娘さんたちもいた長閑な時代だった。
同じ年、社屋の建替え(現パレスサイドビルの建設)工事がスタートしたので、本郷二丁目の仮オフィスに移ったが、ここは小石川からは竹橋よりもはるかに近かったこともあり、ときどき家内が長男を乗せた乳母車(ベビーカー)を押して後楽園前から壱岐坂を上ってきて、手作りの弁当を届けてくれた。

10月の10日から東京オリンピックが始まったのだが、自分たちはその最中に引越しをすることになった。引越し先は大田区の久が原――といっても高級住宅地のある高台の方ではなくて、第二京浜国道から池上寄りに少し入った本門寺近くの下町。大森に住む家内の実家が経営する、いま風に言えば“2Kバス・トイレ付き”のアパートで、ガレージもあった。かねてから勧められていたのだが、どうも人の世話になるのが嫌いな性分もあって、それまでは辞退していたけれども、小石川のアパートがベビー・ベッドを置くようになってますます手狭になり、とうとう頭を下げることに。けれども、チャンと家賃は払わせてもらうことにした。安月給だったから、半額にしてもらったが。
ここでは、運転免許をとったり、中古の車を買ったり、それから3年半ほど住むことになるのだが、居住スペースは広くなった反面、何かと近所付き合いが難しく、その上そばを流れる呑川の改良工事の影響で地盤が沈下したりして、家内はストレスから体調を崩してしまった。今では叩いても壊れそうもないほど頑丈になった長男も、その頃はひ弱で病気がち。なぜかこの町には、とりたてていい思い出がなく、再訪してみたい気にはならない。むしろ、期間はわずか1年半だったが、小石川柳町の方がずっと懐かしい思い出が多くて、今も家内と当時のことを語り合うと、あれこれ話題が尽きない。

30年前に神奈川県に移り住んでからは、小石川にはほとんど行く機会がなかったが、これまでに二度ほど、たまたまあの近くに用事があったので、ついでの足を伸ばした。ところがその一度目、15年ほど前にそこを訪れたときには、四十数年前には活気に満ちていたあの街が、地上げの跡も痛々しい虫食いだらけになっており、そこかしこが千川通りから白山通りまで見通せる青空駐車場状態で、あまりの惨状に正視できなかった。
だが、アパートのところへ行ってみると、何と、まだそのまま人が住んでいる様子。1階の店舗の商売は変わっていたが、建物自体は、風雪に色褪せてはいたものの外から見る限りどこも歪んでいる様子もなかった。
二度目、3年前に行った時は、かつての商店街は再開発され虫食いはなくなっていたが、通りに沿って巨大な集合住宅が立ち並び、やはり昔日の面影は偲ぶべくもなかった。かすかに雰囲気が残っていたのは横丁と路地裏で、アパートは依然として健在だった。そのとき既に築40年以上になっていたはずだが、よほどしっかりした建て方だったのだろう。

自分たちが住んでいた頃、その一角はすべて、家主だったパン屋さんの土地で、その中に、表通りに面した大きなお店も、裏通りに面した工場も、母屋もアパートも建っていた。が、3年前に行った時には、その敷地は、小さなクリーニング店や電器店や不動産店などいくつにも細分化され、わずかに裏通りに、当時の大家さんのお孫さんがやっているという小さな喫茶店だけが残っていた。
その頃よく買いに行った、やはり横丁の和菓子屋さんはどうなったかと訪ねてみたら、こちらは店構えも大きく新しくなり、洋菓子まで扱うようになっていた。久し振りの味をお土産にしたら家内も喜ぶだろうと思い中へ入ると、どこか見覚えのあるような気がする老婦人が奥から顔を覗かせた。一瞬アレッ?と思ったが、よく聞けばあの頃店に出ていた方の娘さんだという。他に客がいなかったのを幸いに、思わずしばらくの間、この街の変り様と当時あったお店の消息などについて話し込んでしまった。

あれから、また3年経つ。あのアパートは今も残っているだろうか?

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2007年10月15日 (月)

食欲の秋というが...

つい2週間前まで、あんなに暑い暑いと言っていたのに、一気に涼しく...というより夜間などは寒くさえなってきた。考えてみればもう10月も半ばなのだから、これで当たり前なのかも知れない。いつの間にか、庭の虫の声も聞こえなくなったが、蚊だけは未だにしぶとく生き残っていて、チョッと外へ出たとたんにわんわんとまとわりついてくる。ムッシュのように全身毛皮を着ていれば、家の中に入る前にプルプルするだけでほとんど振り払うことができるが、人間様の場合には手で払ったつもりでも、背中かどこかにへばりついてくるらしく、耳の後ろあたりでプ~ンと音がし、気がつくと刺されている。痒くてたまらないし、そのしつこさにはほんとに腹が立つ。もう、紛れもない秋なのだから、いい加減に退散して欲しい!

ともあれ、天は高くなり食欲もいや増すと言われる季節。だが、前にも書いたように自分はこの頃、意識して大食いをしないように気をつけており、そう宣言し、実行するようになってからもう3ヶ月経つ。けれども、協力してくれている家内は今もって、亭主の大食い時代の記憶がトラウマになっているのか、好物のメユーの時にはツイ多めにつくって出してくれるので、こちらも思わず全部それを平らげそうになる。“折角出してくれたのに残したら失礼だろう”という心理なのだが、どうやらそこまで気を遣わなくともいいらしいことが最近やっとわかったので、今では無理をしていない。
結果、胃腸の調子はすこぶる良い。以前は、好きなもの美味しいものだとトコトン食べ尽くし、後で胃腸薬のお世話になるということもしばしばだったが、ここのところ、そんな馬鹿げたことはしなくなった。

例の胃部検診の結果ドクターから受けたアドバイスを素直に守って、少しずつ、ゆっくりと、よく噛んで食事をするのが習慣になったのも、いい結果に結びついているようだ。そうすると確かに、より少ない食事量で満腹するようになる。
したがって今度は、最初から、出してもらう食事の量を少なめにすることになる。たとえば以前は、家内と二人で一回1パックの納豆を(家内はほんの一口しか食べないからほとんどは自分が)食べていたが、今は二人で半パックで十分間に合っており、一体それまで何でそんなに食べていたのかと、我ながら不思議に思う。

別段、減量をしようと思って食べ方改善を始めたわけでなく、ただ年相応に胃腸を労わろうと思って一念発起しただけだったが、思わぬダイエット効果が出て、体重にして3キロ、腹囲にして3センチは減少した。そんなことまで期待していなかったので、かえって心配してしまったが、そこで下げ止まりしているから、大丈夫なのだろう。
お蔭で、この数年(フルタイムで通勤しなくなってから)腹部に少しお肉がついて穿けなくなりクローゼットで眠らせていたノータックで細身のパンツが、すべて穿けるようになった。中年の一時期を除いて、もともとそれほど太っていたわけではなく、近年もいわゆるメタボまでは行っていなかったが、好みのスタイルでしかもサイズの合うパンツを探すのに苦労していたところだったので、これは有難かった。が、気がついてみるとすっかり、独り者の頃の痩せっポッチの体型に戻ってしまい、今度はもう少し筋肉をつけなければなどと考え込んでいる。いい歳なのだから、もうどちらでも良いようなものなのだが。

そんなところに、先日のテレビ番組で、“レコーディング・ダイエット”なるタイトルが目に入った。毎日毎回の食事の内容を欠かさず記録し続けることで1年間に50キロの減量に成功し、「いつまでもデブと思うな」というベストセラー本まで出した人の話だったが、そこでピンと来るものがあった。それなら自分もやっている...さては、食べ方改善もさることながら、それが減量に利いたのか!と。
実は、かれこれもう1年以上、自分もまったく同じことをしている。ただし自分の場合は、記憶力チェック、ボケ防止のために始めたことだった。チョッと前に“一昨日の晩ご飯覚えていますか?”というCMが話題になったことがあったが、アレである。そして、始めてみて愕然とした。一昨日どころか昨日ですら、主菜は何とか思い出せても、副菜や味噌汁の中身の記憶はあやふやで、記録チェック係の家内の助けも借りる有様。最初の頃のあまりの正解率の低さに、自分でもこれはマズいと思い、意識して食べ、考え考え記録するようになり、最近やっと、正解率が高くなってきた。

自分の場合には、栄養管理士が傍にいるようなものだから、最初からある程度コントロールが利いているわけだが、何も考えず漫然と出されたものを食べているだけでなく、それを記録しながら振り返ることで、コントロールの利き方はさらに増してくるようだ。意識して食生活を自己管理しろと言われてもなかなかできるものではないが、単純に食事記録をとっているだけでも、確かに、自分の食事の量とバランス、バラエティがよくわかるようになり、知らず知らずのうちに自己管理の方向に向かうようになる。
これは、より卑近なことにたとえれば、金使いのコントロールのために小遣い帖をつけるようなものだろうし、大げさなたとえ方をすれば企業の経営管理のようなもので、要はマネジメント意識の問題と見たが、マア、そんな理屈はつけなくとも、そばに食事をコントロールしてくれる人のいない外食中心の独身男性などは、実行してみた方がいい。別にダイエットの必要はなくとも、健康維持のために。
自分の身近にも、それを勧めたい人物が約2名ほどいるが、本人たちはわかるかな?

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2007年10月 8日 (月)

郵政民営化

今月一日からいよいよ、旧日本郵政公社が完全民営化し、「日本郵政グループ」(日本郵政株式会社)として発足した。仕事柄、この企業がこれからやろうとしていることには大いに関心があるので、どんなことを発信しているかと思い早速ホームページを開いてみたら、スローガンが“あたらしいふつうをつくる”、メッセージが“ひとりを愛せる日本へ”ということで、何だか前内閣の“美しい国”みたいな感じがし、いまひとつピンとこなかった。が、多分前者は、国営でなくなったことについての自己確認なのだろうし、後者は、合理化を追求するだけでなくてユニバーサル・サービスも変らず維持してゆくという気持ちを表したかったのかも知れない。
それはさておき、既報されているように、このホールディング・カンパニーの下には、郵便事業会社、郵便局会社、郵貯銀行、簡易生保の4つの株式会社が配置されているが、この中で自分が最も注目しているのは、専門分野であるダイレクトマーケティングと極めて関係の深い郵便事業会社(JP日本郵便)。なので、その部分のコンテンツが完全民営化を機にどう変ったかに非常に興味があり、ちょっと覗いてみることにした。

けっこう他国のケースも研究し検討したに違いなく、トップページの構成は米欧の主要な郵便事業会社・公社のそれとよく似ている。よりシンプルにまとまってはいるものの、シンプル過ぎて味気ない気がしないでもない。どちらかと言えば一般個人ユーザーを最大・最優先的に意識しているつくりで、“商売っ気”があまり感じられない。やはり、これまでのように、公共事業という性格をまず打ち出さざるを得ないのだろうか。
郵便局会社は確かに、そういう部分をないがしろにはできないだろうが、この事業会社は、自らグループ全体の40%にあたる約10万人の社員を抱えつつ、郵便局会社がユニバーサル・サービスのクォリティを維持するためのサポートの役割も果たさなければならないわけだから、積極的に収益を上げる事業展開をして行くという意味で、もっともっとビジネス・ユーザーにアピールしてもいいと思うのだが。

精一杯アピールしているという反論もあるかも知れない。トップページの大項目の一つ、「ビジネス・法人用サービス」という見出しのついた入口ボタンは、なるほど、目立っていないことはない。でも、「USPS」「カナダポスト」「ドイツポスト」などと比べると、ビジネス・ユーザーに対する訴求はまだまだ控えめで、具体性も足りない。
その見出しの下に記載されている3つのサブ・カテゴリーは、「メールメディアサービス」「エクスプレスサービス」「ロジスティクスサービス」という、彼らの側から見た“商品別”になっていて、ユーザーにとってどういうことに役立つのかという“目的別”になっておらず、そこから入った時に目に飛び込んでくるメッセージ、得られる情報も、必ずしも、求められ期待されているものと噛み合っているとは思えない。

新事業会社自身、ビジネスの柱となるのは、既有のインフラ、ネットワーク、人的資源を活かすことのできる“コミュニケーション・メディア・ビジネス”(早い話がダイレクトメール)と“物流ビジネス”だと当然わかっているはずで、事実、物流の方は、「ゆうパック」などの商品を武器にした既存市場・チャネルでの猛烈なシェア拡大攻勢が展開されているが、もう一方のダイレクトメールについては、“認識再啓発”、“用途拡大提案”、“新市場開拓”といった本格的テコ入れについての意気込みが、今のウエブサイトからはなかなか伝わってこない。
それでも、「メールメディアサービス」を開くと、「ダイレクトメディア」というカテゴリーに「DMファクトリー」というコンテンツが入っている。これは公社時代から存在し、この種の事業体にしては異色のものと自分も注目しており、その存在自体は大いに評価していた。しかし、巨大民間事業会社となった今では、その“方向付け”(ビジネス・コミュニケーション全体の中での“ダイレクトメールの位置付け”と“ターゲット・ユーザーについての想定”)にちょっと物足りなさを感じる。

「DMファクトリー」のコンテンツを概観するかぎりでは、どうも初めから、適用目的とターゲット・ユーザーを“限定的”に、したがってターゲット市場を“過小”に認識しているような印象を受ける。ダイレクトメールというものを、無意識のうちに伝統的な立場だけから近視眼的に見てしまっていて、その“つくり方”とか“レスポンスを高めるテクニック”といったハウトゥーの方向にばかり関心を集中させているような気がするのだ。
もちろん、そういう市場も、そういうコンテンツも大事だが、新事業会社にとっていま最も必要なことは、ダイレクトメールがこの時代必須の、汎用性あるコミュニケーション・システムとして、年間6兆円とも言われる巨費が投下されている広告市場の一角にしっかりと根付くように、あらゆるマーケターの認識を新たにさせることではないかと思う。そしてそのためには、このサイトを通じて、ダイレクトメールが、“どんな業種・業態”の企業の、“どんな目的”のために、“どんな機会と段階”に適用されて威力を発揮するのかという、根本的かつマクロな視点からの“利用啓発コンテンツ”を発信して行く必要があると思うがどうだろう?

言うまでもなく今は、販売だけでなく顧客の形成・維持とそれによるブランド・ロイヤルティの確立をマーケティングの目的とする時代。そしてその目的を達成するためには、マスメディア広告だけでなくワントゥワンメディアによる個別直接コミュニケーションが不可欠というのが常識。そのプロセスにおいてダイレクトメールは、インターネットと共に、単に広告メディア・ミックスの一つのオプションとしてではなくて、マスの関係から個の関係への架け橋になるという点で重要な役割を果たす。そこに注目を喚起し、投下する費用をシフトすべきと提言する必要があると思うわけだ。
と、ここまで来て、念のためにもう一度よく読み返してみると、DMファクトリーにもそういう意味のことが全く書かれていないわけではない。が、それを最重要ターゲットに対する訴求ポイントとして際立たせていないので、物足りなさを感じたわけだ。

決して簡単なことではないと思うが、このコンテンツを再検討してみてはどうだろうか?まずはポジショニングを一転して、ネーミングも一新し、視点を変えた新情報も加えて、全マーケターにとっての“ソリューション・センター”的な情報/コンサルティング・サイトにするといいかも知れない。ビジネス・ユーザーはどんなメディアよりも頻繁にインターネットに接しているはずだし、後は、そういうユーザーがソリューション情報を求めてブラウジングしているときに、このページにヒットするような何らかの仕掛け(いろいろ考えられるはず)を施せばよい。インターネットはダイレクトメールにとって、競合ではなくて利用し合うべき存在なのだから。
これは机上の空論ではない。事実、海外の郵便事業組織体も、伝統的なダイレクトメール・ユーザーだけでなく新しいメジャー・ユーザーを開発するために、ホームページのビジネスユーザー・セクションの情報・コンテンツの充実に非常に力を入れている。USPSの“Success Stories”、カナダポストの“Integrated Solutions for...”、ドイツポストの“Best Practice”といった事例紹介も、そのための効果的な戦略の一つに違いない。

ただしこれには、同時に別の面での難題をクリアしなければならないという前提条件がある。それは、郵便料金の合理化と郵便物の形状・表現の自由化。どこまで可能かはわからないが、考え方はいろいろできるはずだ。それによって、マーケティング・コミュニケーション目的でのダイレクトメールの利用度は飛躍的に高まり、たとえ単価を下げたとしても、それに見合う採算は十分とれるようになるだろう。ぜひ、念入りな検討と調査、そしてできればテストとシミュレーションを勧めたい。

オット、頼まれもしないのにツイ世話焼き癖が出て、勝手な能書きをタレてしまったが悪しからず。拙案に限らず知恵を出し合って、ダイレクトメールについての認識と発想をこれまでとガラリと変え、それによってこの事業を採算ベースに乗せることができたら、まわりまわって国民一般のためにもなってくると思うのだが...。
イヤハヤ話しがデカくなり過ぎた。ともあれ完全民営化のスタートを祝し、今後を期待して見守ることにしよう。

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2007年10月 1日 (月)

秋桜(コスモス)

ただBGM代わりに点けているテレビは、時たま目を遣った画面が印象に残っても、後になると何の番組だったかなかなか思い出せないことがある今日この頃。最初から真面目に視ていないからかも知れないし、単に忘れっぽくなっただけのことかも知れない。まあ、そんなことは歳相応なのだろうし、たかだかテレビのことだから、どちらでもいいが。
数日前にも、どのチャネルかで、青々とした空の下に何色ものコスモスが微風に揺れている風景を目にしたが、信州のどこかという以外には、ニュースだったか、旅番組だったか、それともドラマだったか、サッパリ覚えていない。だが、ごく短い時間だったにもかかわらず、カメラ位置をほとんど変えず、余計なナレーションや音楽をかぶせていなかったその映像からは、かえって、視ているこちらの気持ちの中の、さまざまな琴線に触れるものが伝わってくるような気がした。

まず自然に脳裡に浮かんだのは、山荘のある清里の森の昔の光景。20年以上前の遅い夏、分譲地の見学にと森を訪れたときには、どの区画も、道端から奥の方まであたり一面に、カラマツやシラカバの木漏れ日を受けて、紅と白のコスモスの花が咲き乱れていた。いま自分の家が建っている区画にもひときわ多くの花が風に揺らめいており、その涼やかな印象が、そこに山荘を建てようと心を決めた大きな要因の一つになった。
ところが今は...残念ながらあの頃の跡かけらもない。建築工事のときに建物本体や埋設物のため敷地をかなり掘り返してしまったので、念のためわざわざ種を蒔き直したのだが、翌年花をつけたのはそのうちのごくわずか。いつの間にかそれも姿を消してしまった。自分のところだけでなく、他のお宅も、空き地のままになっているところも、そのあたり一帯がそうなってしまったのだ。栽培種を丹精して育てているらしい場所以外、最初あったような野生種は、もはやどこにも見当たらない。森の外へ出ると毎年今ごろは、街道沿いなどにいくらでも見かけることができるのに。

また、コスモスの映像が目に入ると、やはりどうしても、自然にあの唄が聞こえてくる。自分のような年配にはあまり似つかわしくないと思われるかも知れないが、さだ・まさしのあの曲が無条件に好きだ。で、自分の好みは、オーケストラ・バックの山口百恵の唄ではなくて、さだ本人の、アコースティック・ギター弾き語りの方。
自分としてもこの唄を、シャンソンのようにしみじみと唄えたらいいと、かねがね思っているのだが、練習を家族に聞かれると柄にもないと言われそうで恥ずかしいので、家の中では決して唄わず、独り、ないしはムッシュと一緒に散歩に出たとき、呟くように口ずさんでいる。つい先日までは、カラオケで唄ったことも一度もなかった。

そう言えば、カラオケ自体もだいぶご無沙汰だった。公私共に多忙だったり体調の問題もあったりして、早稲田の友人たちとの“歌唱付月例懇談会”にもずっと顔を出していなかったが、“たまには気分転換してきたら...”という正式許可もいただいたので、9月最後の週末、半年ぶりに、大森の例会場に足を向けた。
その日は、たまたま午後に都内での仕事があったが、一度出かけただけで済むからかえって好都合と、続けて回ることに。その翌日もまた都内へ出ての仕事が入っていたので、疲れはせぬか、大丈夫かと、このところ無理を重ねている自分を家内が心配していたが、なんとか無事に乗り切った。

ところでその宵、顔を合わせたのは自分も入れて4人だけ。全員集まれば倍以上の人数になるのだが、来られなかった連中の方が多かった。自分もこの夏は胃部の精密検査で心配させられ、問題はなかったものの節制中だが、欠席の一人は術後で無理ができず、もう一人は投薬治療中、さらに他の一人も、連絡はないが手術を受けたと聞いた。
だから、面子がそろってしばらくの間は健康談義。続いて政局と国際情勢を論じ、さらに昨今の学校や家庭内の問題にまで談論は風発。で、程よい時間が来て本来の目的に移行し、誰からともなく唄い出す。何しろ宵の6時から開場してもらい、他の客が居るわけでもないので、銘々がテーブルに置いてあるリモコンで勝手に検索しては曲を入力しているのだ。

いつもなら自分は、唄い慣れたポピュラー・ソングから始めるのだが、あのコスモス映像以来、機会があったらトライしてみたいと思っていたのを抑えきれず、まだ完成度は低いと自覚しつつも、今宵は「精霊流し」「無縁坂」「秋桜」と、さだ・まさしを三連発。友人たちは、ヤツは何を急にセンチメンタルになったかと初めは訝しげだったが、だんだん共感が湧いてきたらしく、素直な表情になって一緒に口を動かしているのがわかった。
しかし、これまでウン十年、唄っている曲に過度に感情移入したことなどなかったのに、「秋桜」はセーブが利かなかった。2番の“今更ながら我儘な私に唇かんでいます...”という部分から、“ありがとうの言葉をかみしめながら生きてみます私なりに...”という部分に来て、思わず鼻の奥がツーンとなり声が詰まった。この曲には、父親の気持ちなど何処にも出て来ないのだが、心の準備も十分でないうちに娘が手許から離れて行ったときの家内の落胆の様子、一緒に暮らしていた期間の方が短くてロクに孝行もできなかったが何も愚痴らず寡黙だった自分の母親の姿などが、あの切ない歌詞とメロディーに重なり、いい歳をして不覚をとってしまった。いやお恥ずかしい。

こんど清里へ行く頃、まだ路傍のコスモスは花をつけているだろうか。

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