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2007年10月22日 (月)

昭和39年

少し前、「昭和タイムズ」というタイトルのグラフ週刊誌の創刊CMが、テレビでけっこう目立っていたが、第一号が昭和39年の記録だということでチョッと気を引かれ、書店で買い求めてみた。カレンダーにしたがって当時の世相・事象を記録写真などと共に振り返る、だいたい予想していた通りの編集内容だったが、ページをめくるうちに、43年前のさまざまな身の回りの出来事も脳裏に浮かんできた。昭和39年(1964年)は、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるという、日本の国自体としても一つのエポックだったが、自分と家内にとっても、印象深い年だった。

その前年の4月、自分たちは東京都文京区小石川柳町に世帯を持った。だから本籍はここで、今では町名が小石川一丁目に変っているが番地はそのまま。狭い玄関と小さな台所そして1間幅の廊下と押入れがついていた木造アパート2階の6畳一間に、家内の嫁入り道具だった箪笥3本と、自分の勉強机を置いていた。トイレは水洗だったけれども室外で、洗濯場は共用。2階には確か、他に4~5部屋あったような気がするが、1階は店舗で、新築で作りがしっかりしていたのが取り柄だった。やはり共用の物干し台は屋根の上にあって、夜間は、ナイターの照明が煌々と空を照らす後楽園スタジアムが目と鼻の先に見えた。
場所は、伝通院の脇の善光寺坂を下り、千川通り(後楽園~大塚)を横切って白山通りへ抜けるチョッと手前。外へ出ればゼロ分で、活気のあったアーケード商店街。デパートなどへ行かなくても何でも揃っていた。白山通りにはまだ、志村坂上~神田橋間の都電が走っており、小石川柳町が最寄りの停留所、次の初音町(現在の西片交差点)まで歩いても5分とかからなかった。当時リーダーズダイジェストの旧社屋のあった竹橋へはこの都電で通い、一ツ橋で乗降していたが、気候のいい時節の帰り道などは水道橋まで歩くこともザラで、時には話しに夢中になって歩き続けて、気がつくとアパートの近くまで来ていたなどということもあった。元気だったのだなあ、あの頃は。

そしてこの年の4月、長男が生まれた。内風呂などはもちろんないから、最初の数ヵ月は室内でベビー・バス。折悪しく東京は大渇水で給水制限の夏だったので、十分にお湯を使わせられず、長男はいつもパウダーでおデコを真っ白にしていた。やがて普通の風呂に入れるようになると、定刻に退社できた日はいつも、片手で長男を抱っこし、もう一方の手には入浴用具と着替え一式をぶら下げて銭湯通い。そういう父子が何組もいて、脱衣場には赤ん坊の着替えを面倒見てくれる朴訥な娘さんたちもいた長閑な時代だった。
同じ年、社屋の建替え(現パレスサイドビルの建設)工事がスタートしたので、本郷二丁目の仮オフィスに移ったが、ここは小石川からは竹橋よりもはるかに近かったこともあり、ときどき家内が長男を乗せた乳母車(ベビーカー)を押して後楽園前から壱岐坂を上ってきて、手作りの弁当を届けてくれた。

10月の10日から東京オリンピックが始まったのだが、自分たちはその最中に引越しをすることになった。引越し先は大田区の久が原――といっても高級住宅地のある高台の方ではなくて、第二京浜国道から池上寄りに少し入った本門寺近くの下町。大森に住む家内の実家が経営する、いま風に言えば“2Kバス・トイレ付き”のアパートで、ガレージもあった。かねてから勧められていたのだが、どうも人の世話になるのが嫌いな性分もあって、それまでは辞退していたけれども、小石川のアパートがベビー・ベッドを置くようになってますます手狭になり、とうとう頭を下げることに。けれども、チャンと家賃は払わせてもらうことにした。安月給だったから、半額にしてもらったが。
ここでは、運転免許をとったり、中古の車を買ったり、それから3年半ほど住むことになるのだが、居住スペースは広くなった反面、何かと近所付き合いが難しく、その上そばを流れる呑川の改良工事の影響で地盤が沈下したりして、家内はストレスから体調を崩してしまった。今では叩いても壊れそうもないほど頑丈になった長男も、その頃はひ弱で病気がち。なぜかこの町には、とりたてていい思い出がなく、再訪してみたい気にはならない。むしろ、期間はわずか1年半だったが、小石川柳町の方がずっと懐かしい思い出が多くて、今も家内と当時のことを語り合うと、あれこれ話題が尽きない。

30年前に神奈川県に移り住んでからは、小石川にはほとんど行く機会がなかったが、これまでに二度ほど、たまたまあの近くに用事があったので、ついでの足を伸ばした。ところがその一度目、15年ほど前にそこを訪れたときには、四十数年前には活気に満ちていたあの街が、地上げの跡も痛々しい虫食いだらけになっており、そこかしこが千川通りから白山通りまで見通せる青空駐車場状態で、あまりの惨状に正視できなかった。
だが、アパートのところへ行ってみると、何と、まだそのまま人が住んでいる様子。1階の店舗の商売は変わっていたが、建物自体は、風雪に色褪せてはいたものの外から見る限りどこも歪んでいる様子もなかった。
二度目、3年前に行った時は、かつての商店街は再開発され虫食いはなくなっていたが、通りに沿って巨大な集合住宅が立ち並び、やはり昔日の面影は偲ぶべくもなかった。かすかに雰囲気が残っていたのは横丁と路地裏で、アパートは依然として健在だった。そのとき既に築40年以上になっていたはずだが、よほどしっかりした建て方だったのだろう。

自分たちが住んでいた頃、その一角はすべて、家主だったパン屋さんの土地で、その中に、表通りに面した大きなお店も、裏通りに面した工場も、母屋もアパートも建っていた。が、3年前に行った時には、その敷地は、小さなクリーニング店や電器店や不動産店などいくつにも細分化され、わずかに裏通りに、当時の大家さんのお孫さんがやっているという小さな喫茶店だけが残っていた。
その頃よく買いに行った、やはり横丁の和菓子屋さんはどうなったかと訪ねてみたら、こちらは店構えも大きく新しくなり、洋菓子まで扱うようになっていた。久し振りの味をお土産にしたら家内も喜ぶだろうと思い中へ入ると、どこか見覚えのあるような気がする老婦人が奥から顔を覗かせた。一瞬アレッ?と思ったが、よく聞けばあの頃店に出ていた方の娘さんだという。他に客がいなかったのを幸いに、思わずしばらくの間、この街の変り様と当時あったお店の消息などについて話し込んでしまった。

あれから、また3年経つ。あのアパートは今も残っているだろうか?

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