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2007年8月

2007年8月27日 (月)

あの暑い八月の空の下で

今となってはあまり、夏の定番イベントである高校野球甲子園大会にも、のめり込んで視聴することはなくなったが、以前にも書いたように、何を隠そう、元は高校球児。やはり、テレビや新聞をチラと横目で見ては、心のどこかで、どの高校が勝ち残ってきたかなどの経過はチェックしていた。
決勝戦は、実況ではなく夜遅い時間帯の特集番組で見た。押し出しフォアボールの後に逆転満塁ホームランなど、高校野球らしさの中にもドラマティックな展開があり、ゲームとしてもて面白かったのだが、優勝校の佐賀北高が、野球ではほとんど無名だった県立の進学校ということを知って、選手が汗だらけで走り回る姿を見ながら、脳裏に、半世紀以上前の暑い八月の空の下の自分を思い浮かべていた。

自分の母校は、福島県立福島高校といい旧制中学系の男子校で、進学校としては多少知っている人もいるかもしれないが、自慢じゃあないけれど野球では全国的にはまったくの無名校。明治31年創立と校暦は古いが、最近まで100年以上経つ間に、県レベルで優勝または準優勝したことが通算3回あるだけ(それも同校のホームページで初めて知った)で、少なくとも自分が物心ついて以来は、甲子園に出場したことなど一度もない。特に、自分が入学した当時は学校として、クラブ活動を多少犠牲にしても難関大学への合格率を上げようという方向に大きく梶を切りはじめた頃だったので、柔道部や卓球部はそうでもなかったけれども、野球部にはまったく力が入っていなかった。
だから、野球には門外漢の先生が部長だったし、練習も、どういうコネだったのかは知らないが早稲田大学野球部の控え選手という人がコーチに来て、普通のメニューを一通りこなした後は、ひたすら根性重視の訓練を強いられるだけだった。

今考えるとよく熱中症で倒れなかったと思うが、“練習中は一切水分をとってはいけない(喉が渇いたらウガイするだけ)”とか、“とにかく走れ”の一点張りで、真夏の炎天下に、一周400メートル近くあったと思う校庭を10周以上もさせられるのが日常。目の前がだんだん薄暗くなり足元ももつれてくるのを部長先生も見かねて、コーチに“そろそろ止めさせては?”というと、“ナーニ、ブッ倒れるまで放っといて大丈夫ですよ”と答えるのが聞こえて、よけい気が遠くなることもしばしばだった。
唯一の楽しみは、練習が終った後、グラウンドの隅の水道の水をバケツで頭からかぶって(当時の田舎高校には室内シャワーなどという洒落たものはなかった)汗を流し、ユニフォームから開襟シャツに着替えて、下宿への帰り道にカキ氷を2杯平らげること。毎度、練習中に首筋から後頭部全体が異様に火照って(もちろん野球帽はかぶっていたのだが)気分が悪くなる寸前だったのが、このカキ氷の痛いほどの冷たさで、スーッと消えて行くような気がしたのが今も忘れられない。

一年でいちばん暑い時期にこんな練習をしていたのも、野球弱小校だった哀しさ。常に地方予選の1回戦か2回戦で敗退してしまうから、“来年こそは...”ということで、負けた試合の翌日(だったかどうか覚えてはいないが何しろ直後)からの猛練習になってしまうのだ。もっとも、内心は誰しも“だけど来年も無理かな...”とも思っていたはず。
何しろ周辺・近隣の強豪校の選手と比べると、体格的にも技量的にも練習の質・量にも明らかな差があり、練習試合でたまに善戦するのがせいぜいというところ。公式戦では格の違う相手校のピッチャーに手も足も出ず、コーチに“打てないのなら、デッドボールを喰らってでも塁に出ろ!”とハッパをかけられる始末だった。自慢にもならない思い出は、練習試合で、後にプロになった投手(もと南海ホークス皆川投手、2005年没)のシュートを辛うじてバットに当て、サード・ゴロしたことで、息子たちが高校でやはり野球をしていた頃、繰り返し話しては笑われた。

野球は弱かったし、感動的な思い出とて何もないが、3年間(正確には夏までだから2年半か)一つのスポーツに愚直に打ち込んだことで何か(多分“頑張る”精神)を得たような気はするし、あれこれ気をとられる時期に余計なことに迷わずに済んだことは確かだ。
家内も、都立の旧制女学校系の名門高校出身で、やはりバリバリの体育会系(バスケットボール)だったので、他の事はともかく、この点についてだけは完全に意見が一致し、二人の息子と一人の娘にも、どうやら少し、その“頑張る”DNAが伝わったようだ。

佐賀北高の甲子園優勝から、自分の高校時代の思い出に話が跳んでしまったが、今年に限って何でかな?と考えてみた。これまでの優勝校のときは、初優勝とか無名校とかであっても、これほど気を引かれなかったのに、今回は、県立の進学校という点で何か共感するところがあり、当時自分がいた高校を佐賀北になぞらえてみたくなったのかも知れない。
いや、もっと単純に、選手の誰かが言っていた“やればできるということがわかった”という、無名校らしい素直な物言いが、半世紀あまりの時空を超え、一瞬、自分を少年の心に帰してくれたからかも知れない。

8月の日差しはまだまだ厳しく、ムッシュも散歩に出られない。自分も午後になると、室内でエアコンを点けていても、机に向かっていてツイ後頭部がモワーッと熱くなってくることがある。「高齢者が室内で椅子に座ったまま熱中症」などというニュースにならないように、サア、これから冷たい麦茶でもいただいて、もうひと頑張りするか...。

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2007年8月20日 (月)

熱帯からの脱出

愛犬・ムッシュ仕事関係の予定や、前々回に書いたような自身の健康上の問題もあって、かれこれ40日間も山荘にご無沙汰。めっきり体力の衰えた夫婦と小犬は、どんどん上昇してゆく気温に最早ダウン寸前だったが、やっと先々週の金曜日に、熱帯化した横浜を脱出した。
標高1400メートルの山荘に着いてみたら、その夜の気温は何と21度。寝具も、前回来たときのままのウールの毛布と普通の掛け布団でちょうどよく、こんなに涼しかったのなら、無理をしてでも、もっと早くから来ていればよかったとつくづく思った。

ソバナ翌日からもずっと快晴続きで、陽射しはさすがに夏のそれだったが、湿度はほとんどなく、連日報道される全国的な猛暑のニュースがピンと来ないほどここは快適だった。
この暑さの中で、休まずに汗を流しながら働いている方々も沢山居られるだろうにと、申し訳ない気もしたが、これまで長年ハードに働き続け、今もそこそこ頑張っていることに免じて、たまにはこういう贅沢もお許し願いたいと、誰に言うともなくつぶやいた。

ハギそれにしても清里は、日中も涼しかった。関東や中京で40度をえた日でも、ここの木蔭や室内は25度を超えることはなく、 横浜の家ではエアコンで冷やした室内に閉じこもってばかりだったムッシュも、すっかり元気回復。カラマツやシラカバやミズナラの葉が茂った裏庭や、車はもちろん人もあまり通らない家の前の道を、飽きずに走り回っていた。
でも、人通りがないからと言って近所に人ッ気がないわけではなく、さすがにこの時期は、辺り一帯の家にも大勢の人が来ていて、あちこちから賑やかな話し声が聞こえた。ムッシュを連れて散歩に出かけたら、森の中としては珍しく、お友達(ムッシュの)にも会え、ムッシュは大はしゃぎだったが、相手がシャイな女の子だったのでスベッてしまった。

ギボシ着いて三日目の朝にN君夫妻が来訪。N君は、ITにあまり強くない自分のその方面の作業を何かと手伝ってもらっているH君の会社の若手技術者だが、ちょうど自分たちと同じタイミングでこの辺りを旅するという知らせを予め受けていたので、声をかけてあった。 
バイクに二人乗りで、中央道に上がったり下りて寄り道したり、宿はその日その日で探すという気楽で気ままな旅だそうで、その日は午後から、小淵沢から白州の方へでもまわってみようかということだった。彼らを見送ったあと家内と顔を見合わせ、“若いっていいネ”と、しばし遠くなった日々を懐かしんだ。

13日の夜だったか、自分は室内で仕事をしていたので、「ペルセウス流星群」のことを忘れていたが、家内は長時間、バルコニーと自室の天窓から夜空を観察していたようだ。“群”というほどではないが、肉眼でも結構よく見えたらしい。
後で話を聞いて、それは残念をしたと自分も翌日と翌々日に、バルコニーに出たり、家の外まで出てみたりしたが、どうもうまく見えなかった。既にタイミングを逸していたのかもしれない。子供たちが一緒に来ていた頃に使っていた天体望遠鏡もあるのだが、使い方を忘れたし、正直言ってそこまでしてというほどの情熱もない。これも老化現象か?
でも、真っ暗な森の夜空を見上げて、久しぶりに、文字通り“降るような”満天の星を体感した。横浜の自宅も割りと空が大きく広がり、星もよく見えるのだが、それと比べても段違いの、圧倒的な眺めだった。

ところで今回、あえてハイタイムのこの時期に出かけてきた理由の一つは、この森の住民有志による親睦と活動の団体「清里の森の21世紀を考える会」の総会があったから。知る人ぞ知る10年越しの“水道料減額裁判”に決着がつき(最高裁で勝訴)、今後の会の活動をどうしようかということがメイン・テーマだった。これまでの苦労を考えると、ここらでチョッと一休みしたいというのが皆の本音だったが、ともあれ特定の活動はしなくとも、会自体は解散せずに続けようという、ごく常識的な結論に落ち着いた。
この10年という歳月は、人によって長いとも短いともいろいろな受け止め方があるだろうが、久しぶりに顔を会わせ、話を聞いて、その間にもさまざまな転変があったことを知った。意見が合わず脱会して行った人、家屋と土地を手放さざるを得なくなり森から去って行った人、大病を患って動けなくなっている人、とりあえず回復したが見る影もなく様子が変わってしまった人、ときどき顔を見ていたはずなのにいつの間にかすっかり老け込んで足元もおぼつかなくなっている人、そして不幸にして鬼籍に入られた人、等々...。それを考えると、自分たちは今、まずまず元気でこうしていられることを有難いと思わずにはいられない。

今年の夏休みは、思ったよりも長くとれたが、何せお盆どきと重なったので、どこへ行っても混雑しているだろうと、ロクに外出しなかった。でもそれでは、あまりにも家内にばかり負担をかけるので、横浜に帰る前日に、「萌木の村」のプチホテル「ハットウォルデン」のレストラン「ネスト」でランチをした。やはり混雑していて30分待たされたが、ランチ・タイム最後の客だったようで、結果的に落ち着いて食事でき、味も結構だった。
ムッシュにお昼寝をさせたまま出てきたので、食事が終ってすぐに家に戻ったが、しばらくしていきなり雷鳴が轟き篠衝くような雨。梅雨明け前は、雨が降るとまたかと文句ばかり言っていたが、こう久しぶりだと恵みの雨という感じがする。まったく勝手なものだが。

夕立だったようで雨は間もなく止んだが、シットリと濡れた八ヶ岳の森は、何となく秋の気配が忍び寄ってきたように感じられた。気がつくと、ギボシが薄紫に群生し、ソバナが可憐に俯いた青い花々をつけ、ハギの花もピンクに色づいてきた。今度来るのは多分9月だろうが、その頃はもうすっかり秋になっているに違いない。

さて、仕事を持ち込んでしまったせいか、大して働きもせず、かと言って大して遊んだわけでもなく、なんとはなしに同じような毎日を繰り返してしまった8日間だったが、帰宅後に振り返ってみると、ともあれリフレッシュだけはできたように思う。
帰った翌日、横浜もちょっと涼しくなったので、このまま行くかなと思っていたら世の中そう甘くはなかった。でも今回の充電で、どうやら残暑は乗り切れそうな気がする。

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2007年8月13日 (月)

広告の“パーソナライゼーション(個人化)

自分のビジネス・キャリアの3分の一近くは、エージェンシー(広告代理店)で経営とプロフェショナル・サービスに携わっていたので、今でも、業界の動きにはなかなか無関心ではいられない。中でも興味があるのは、数年後にやってくるテレビの地上デジタル放送への全面切り替えを控えて、在来型のエージェンシーがどう舵を切ろうとしているかだ。
米国ではすでに、マイクロソフト、グーグル、AOL、WPPグループ、ピュブリシス・グループがそれぞれ、aQuantive、DoubleClick、Tacoda、24/7Real Media、Digitasを買収するなど、インターネット・ポータル、オンライン広告会社そして伝統的なオフライン・メディア主体の広告会社の間での結びつきが加速しているが、日本では業界全体としてはあまりそのような動きが活発化していない(ように見える)。しかし調べてみると、某超大手エージェンシーなどは、数年前から着々と手を打っているようである。

ところでインターネット・ユーザーなら、今どきグーグル、マイクロソフト、AOLを知らない人はいないが、WPPとかピュブリシスと言われても、広告業界の現役にしかわからないのではないかと思う。両社とも名の知られた伝統的国際広告代理店を束ねる世界規模のコングロマリットで、これにオム二コム、インターパブリックを加えた4つのグループがそれぞれ、絶えず傘下会社の争奪戦を繰り広げ勢力地図を塗り替えているので、この世界から離れて久しい自分などには、最近の状況がどうなっているのかサッパリわからない。

さて、こんな業界話を前フリにしたのには訳がある。8月6日付のニューヨークタイムズ(正確にいうとnytimes.com)に掲載された、前述のピュブリシス・グループのDigitas買収に関する記事に興味を惹かれたからだ。
ピュブリシスは約半年前にDigitasを買収したが、その狙いは、コンピューターや携帯電話の画面を通じて、さらに行く行くはデジタル化されるテレビの画面をも通じて、オーディエンス(視聴者)の一人一人に適合させた広告(パーソナライズド広告)を発信する世界的規模のデジタル広告ネットワークを構築しようというところにあるという。

「パーソナライズド広告」とは、言ってみれば、テレビのスポットCMに代表されるマス市場に対する画一的メッセージではなく、データに基づいて、一人一人の消費者・顧客に対しどの瞬間・機会にどんな広告を見せたらよいかを見極め、対象者のプロファイルによって、またタイミングによって、発信する広告のコンテンツ(コンテクストと言った方がより正確かもしれない)を多様に変えて行くもので、“データベースマーケティングの広告版”とでも言ったらイメージし易いかも知れない。
それには、広告の対象となる個々の消費者・顧客に、その年齢・居住地域・購入履歴・広告接触歴・行動パターンなどによって、“最初に見せる広告”、“それをフォローする広告”、“商品購入後に見せる広告”等々、一つのブランドについて多種・多様なバージョンを用意する必要が生ずるが、消費者・顧客との満足に裏打ちされた関係を維持して行くには、今やそうすることが不可欠という考え方になっている。つい10年前までは、一つのブランドについてせいぜい3~5バージョンの広告を用意しておくというのが普通だったが、米国ではすでに、4000バージョン以上を使い分けている企業も何社かあるという。

このような動きは、情報のかたちと消費者の情報への接し方が変化してきたことに起因するものであると同時に、広告会社がグーグルやヤフーやマイクロソフトとの競合状況を意識しての対応策とも考えられるが、ピュブリシスはあくまでも、これらの“オンラインの巨人”たちと広告主との間の“最も適切な仲介者”の立場を確立しようとしている。
“WPPグループの総帥マーチン・ソレル氏はこの3社を広告エージェンシーの敵であると公然と言い放っているが、私はそうは思わない。彼らは広告エージェンシーよりもメディアであることの方に関心を持っており、したがって私は、かつてCBSやABCやタイムワーナーやその他のメディア・グループとパートナー関係を維持してきたように、彼らをパートナーと考えている。”というモーリス・レイ会長の談話は、それをよく表している。

「パーソナライズド広告」すなわち“データベースマーケティング的広告”という発想は、本来、マスメディア広告に慣れきった伝統的な広告エージェンシーの中からは出てこなかったはずのものだが、市場の拡散と情報総デジタル化という環境の変化、そして広告主企業のより厳しいROI(投資効果)の要求の中で、否応なくそれに目覚めたのだろうか?
この記事を読んで、これこそ、自分が常日ごろ繰り返して叫んでいる“在来型マーケティングにおけるダイレクトマーケティングの原理とシステムの適用”ではないかと思っていたら、果たせるかな、一連の買収・提携劇の一方の主役はダイレクトマーケティング・エージェンシーであった。ピュブリシスの相手のDigitasは、永年にわたりダイレクトメールによるデータベースマーケティングを極め、インターネットの出現に伴いそれをオンライン広告の細分化に適用することに成功した、紛れもないダイレクトマーケティング・エージェンシーだし、AOLの傘下に入ったTacoda(このブログの2006年12月18日参照)にしても、基本的にそうである。

“世界中の広告のほとんどがデジタル化されパーソナライズド広告が一般化するのはもはや時間の問題だ”と、Digitasのデービッド・ケニー会長は言っているが、その日は思っているよりも早くやって来るかもしれない。

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2007年8月 6日 (月)

健診顛末記

この10年来、毎年定期的に、いわゆる“半日人間ドック”(簡易総合健康診断)を受けている。また、家内のサポートもあって、食事にも気をつけてきたつもりだった。だから、ときに貧血気味とか加齢による視力低下などを指摘されることはあっても、ほとんどの検査項目が“特に心配はありません”ということで、“要精密検査”などと言われたことは一度もなく、自分でも年齢の割にはまあまあ健康で、さしたる問題はないものと思って過ごしてきた。

ところが先々月(6月)末、前々から予約をしていたので、ニューヨークから帰ってきたばかりではあったが最寄りの総合病院で健診を受けたら、2週間後に担当医から直接電話がかかってきた。何事かと思って話を聞くと、X線撮影(例のバリュームを飲んでグルグルまわされるヤツ)の結果での所見では、“胃内壁に異常を認める”とのこと。
それだけでは結論的にどうこうとは言えないが、実態精査のため、内視鏡(いわゆる胃カメラ)による検査と該当部分の組織摘出による病理診断を受けることをお薦めするという。昨年夏と今年の夏前、同年輩の友人が同じような所見で手術を受けているし、自分の血縁者にもその類いの病気で亡くなった者がいるので、自分もこの歳になれば何かあってもおかしくはないと、特に驚きもしなかったが、ともあれ、疑いがあるのなら早く結論を聞いて、必要な手を打つしかないだろうと、早速、内視鏡検査の申し込みをした。

実は胃カメラは、仕事でのストレスの真っただ中にあって心身を酷使していた時代、25年くらい前と20年前に、それぞれ一度ずつ呑んだことがあったが、そのときは正直言って、こんな苦しいものは二度と呑みたくないと思った。でもそんなことを言っている場合ではないので、その時点から可能な一番早い日時を予約、10日後ということになった。
“苦しいかもしれないが仕方がない”と観念していたが、今は鎮静剤を注射して無痛のうちにできるというので、ぜひそれをとお願いした。当日は午前9時半に検査室へ入室、胃の中のガスを抜くということで小さなカップ一杯の液を飲み干すように言われ、その後すぐに鎮静剤の静脈注射、ベッドに横になったところまでは覚えているが、そこから先は記憶が途切れている。“中澤サーン”と看護士に呼ばれて目を覚ましたのが何と11時。1時間半も眠ったきりだったようで、もちろん胃の中に内視鏡が出入りしたことや組織を摘出したことなど、トンと意識がない。これなら“胃カメラ恐るるに足らず”、“胃療技術も進歩したもんだ”と感心した。ここからの担当は“消化器外科”になる。

結果は1週間あまり後にわかるという。ともかく悪いところがあればそれを、きれいサッパリと取り除いてもらって、一日も早く日常のペースに復帰したいし、ここであれこれ思い煩ってもしょうがないと、それまでの間はいつも通り仕事をし、人に会った。
ただ、仕事がらみで、また個人的に、このブログをはじめ予定している先々までのことがあるので、外科医の話をもとに心中ではいくつかのケース(①内視鏡手術で1~2週間のオフ、②腹腔手術で2~3週間のオフ、③開腹手術で3週間~1ヵ月のオフ、など)を想定し、そうなった場合には今からでもケースに応じた手を打っておく必要があると考え、ごく近しい関係者だけに見通しを知らせておいた。

いよいよ結果通告の日がきた。こんなことは初めてなのでさすがに家内は心配し、一緒に医師の話を聞きたいと病院に同行してきたが、本人は至って暢気。たとえ手術になってもおそらくは軽く済むはずだし、もしかしたら、“調べた結果、悪性のものではありませんでした”と言われるかも知れないと、何の根拠もないのに勝手にそう信じていた。
待つこと約30分。順番が来て呼び出され、診察室に入ると早速、内視鏡で撮影した数点の写真を見せられながら、医師からの話があった。

“なかなか立派な胃をお持ちで...”(褒められているのかナ...)、“此処と此処に扁平隆起があり、糜爛しているところも認められます”(ウーン、やはり只では済まないのか...)、“2ヵ所の組織を摘出して病理検査というものをいたしましたが...”(それはわかっているから、早く結果を言って欲しい!)、“ガンとかポリープの心配はありませんのでご安心ください”。(楽観はしていたが、医師からそう言われるとやはり嬉しい)
家内の表情にもやっと安堵の色が浮かんだ。で、いろいろ補足説明や指導があるのかと思って、そのまま医師の顔を見つめていたら、“ハイ、以上です”で終わり。(問題ない人には、そんなに長く付き合っていられないらしい)でも、あまりにアッサリし過ぎていて物足りない気がして、こちらから質問した――“この症状は結局何なのか?今後の食事や日常生活の送り方は?特に何か気をつけるべき点は?”等々。
すると、この状態は「慢性胃炎」で、今まで通りの食事・生活で構わない。ただ、年一回の内視鏡検診を欠かさぬように――ということだった。

肩の荷がいっぺんに軽くなった気はしたが、今回の経験を健康管理のいいクスリにしなければとも思った。自分は若い頃から、好物だとつい量を過ごして食べてしまう傾向があったが、それ以来(といってもまだ数日だが)隠忍自重している。
前に知らせていた関係者にも早速報告すると、みんな喜んでくれた。有難いことだ。

いよいよ本格的な猛暑。折角お墨付きをもらったのだからしっかり自己管理しなければ...。

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