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2007年7月30日 (月)

新宿いま・むかし

元来の低血圧のため梅雨は苦手、湿度の高い日は頭痛に悩まされるので、毎年、早く明けてくれと願っている。今年もそう思いながら鬱々としていたら、ここ数日は急に真夏のような太陽が照りつける日が続き、“暑くてかなわん”などと言いながらも喜んでいるところ。

さて、そんな暑くなり始めの日、仕事で久しぶりに新宿に出た。行く先は顧問をしているT社で、場所は京王プラザホテルとKDDIビルの間にある新宿モノリスビルだが、地上を歩いて行くと熱射病になりそうなので、JR駅の西口から都庁方面へ向かう中央地下道を通って行った。汗をあまりかきたくなかったので“動く歩道”に乗ったが、前後の人々につられてツイその上を早足で歩いてしまった。それでは意味がないっつーの。

動く歩道が地下道の右側に沿っているので、途中見るともなしに進行方向の左手に目をやっていると、様々なビル名や会社名の中で、工学院大学入口という表示が目についた。
工学院といえば、電子技術化という時代と新宿副都心化という一大プロジェクトの波に乗って大きく変貌し、今では一躍、繁華街に隣接し高層ビル街の一角を占める人気校になったが、自分たちが学生の頃は、そういっちゃあ何だが、新宿の外れという感じの場所にあった、建物も学風も地味な専科大学だった。そしてあの頃、その先は淀橋浄水場だったので、風向きの悪い日には、えも言われぬ臭いがプ~ンと漂ってきたものだった。

その一帯が今では、京王プラザホテルや都庁を初めとする高層ビル街に大変身。だが現在そこで働いている人々のほとんどは、恐らくそんな昔のことは知らないだろう。あれからずいぶん年月が経ったものだ、自分も歳をとるはずだ...などと、ぼんやり回想に耽っていたら、オッと足元に気をつけなきゃ。いつの間にか動く歩道が終っていた。

昭和30年代、小田急線も京王線もまだ路面を走っており、小田急線の発着はJR(当時は国電)の中央線下りホームから見えたのを記憶しているが、京王線の発着ホームがどこだったのかはどうしても思い出せない。若しかしたら南口の甲州街道沿いだったか。
ともかく、山手線の外側は、まだまだ戦後の混乱から抜けきっていない未整備の状態で、西口の線路沿いには、バラック建ての大衆食堂、飲み屋などが、狭い路地の両側に所狭しと並び、ラーメン・おでんの湯気にモツ焼きとアルコールとアンモニアのにおいが混じったような空気でむせ返るようだった。今でもその面影は、青梅街道の大ガード横から入る「思い出横丁」として残っており、「小便横丁」と通称されていた当時の雰囲気を彷彿とさせてくれる。コーヒー一杯が50円だったあの頃、30円で美味い手打ちのラーメンを供してくれた「岐阜屋」、30円あれば暖かいご飯と味噌汁とおかず一品にありつけた「鶴亀食堂」など、貧乏学生にとっては有難かった店が今も健在なのは嬉しいことだ。

T社からの帰りは、甲州街道沿いの地下道ワンデーストリートを通って南口に出た。南口も、線路を挟んで「サザンテラス」だの「タイムズスクエア」とかいうどこの国だかわからない名前のショッピング・ゾーンができて、様相が一変してしまった。 “欧米か!!”
そんな新宿で、街の区画がほぼ往年のまま残っているのが、東口の新宿三丁目一帯。洗練・整備はされて、店の種類や名前が変わり、行き交う人々のタイプも様変わりしたが、昔も今も相変わらずの賑わいだ。

今ではオフィス・ビルが駅の西側に集中していることもあって、自分はどうしてもそちら側に行くことが多くなり、東側にはめったに足を運ばなくなってしまったが、当時の自分たちにとって新宿と言えば、もっぱらこちら側だった。
学生の分際ではチョッと覗いて見ることはあってもなかなかショッピングとまでは行かなかった「伊勢丹」「三越」は、その頃から街のランドマークだったし(まさか両者が後年業務提携するようになろうとは夢にも思わなかったが...)、カレーライスと伊府麺が思い出しても美味しい「中村屋」には、アルバイトで懐が多少暖くなったときだけ足を運んだ。欲しい本探しに足しげく通い、思わず時間を忘れることもあったのは「紀伊国屋」。あの頃は入口付近でペットなどを売っていたような気がするが、今はどうなのだろう。

音楽と映画に夢中だったので、なけなしの小遣いをはたいては、よく「コタニ」や「帝都無線」にレコード・楽譜を買いに行った。そして「武蔵野館」や「スカラ座」や「日活」とその「名画座」では、ずいぶん沢山の洋・邦画の名作を見た。家内と知り合ったばかりの頃、グレン・フォード主演の「ポケット一杯の幸福」という映画を見るため、駅の向かい側にあった食品デパート「二幸」前で待ち合わせをしたこともあったっけ。
お腹が空くと、何でも50円均一で和洋中華食からコーヒー紅茶はもちろん大概のソフトドリンクまで揃っていた大衆食堂「三平」へ。100円で十分幸せな気持ちになって下宿への帰途についたものだった。

あれから半世紀近く経って、「日活」は「マルイシティ」に変り、「二幸」は「アルタ」になったが、「食堂三平」は総合食品企業に発展し、「帝都無線」も「武蔵野館」も全国に拠点を拡大して頑張っている。

新宿に来ると、人の多さには圧倒されるが、同時にエネルギーをもらえるような気もする。

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