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2007年4月

2007年4月30日 (月)

書店の楽しみ

いまは、本やCDを買うのにオンライン・ショップがあって、とても便利だ。自分も大いに利用しているが、だからといって書店やレコード店に行かなくなったかといえば、そんなことはない。特に書店についてはそうである。ビジネス書や実用書など、あらかじめジャンルやキーワードなどである程度の見当がついているものは、オンライン・ショップで検索して買うことが多いが、楽しむための読み物は、書店を訪れて棚や平台をざっと眺め、気になったものを手にとり、目次や奥付をチェックしたりして、あえて手間をかけて買うことがほとんどだ。そうしないと、本を買うときの喜びと楽しさが半減(以上)する。
そう、書店へ行って本を買うということは、単なる実用上の行為ではなくて、一種のレジャーであり、憩いでもあるのだ。

だから、自宅の近所にある書店に散歩がてら足を運ぶのはもちろんだが、仕事で出かけたときに大型オフィスビルの中で、あるいは他の買い物でデパートなどに入った際に、また電車の乗換えで地下街や駅ビルのショッピングモールを通るときなどは、時間のある限り、つい書店に立ち寄ってしまう。
たまに授業や学会などであちこちの大学に行ったときには、必ず傍に何軒か書店があるので、それらをハシゴするのも序でながらの楽しみだ。

だが、書店に入っても、すべてのセクションを万遍なく見てまわるというわけではなく、チェックする分野はだいたい決まっている。
まずは最初に、やはり仕事柄ということで、一応ビジネス書のセクションを見る。オンライン・ショップに当然取り揃えてあっても、文体や編集スタイルなど、実物を見ないともう一つわからない場合もあるからだ。そしてそこでは、コッソリ横目で、自分の著作が置いてあるかどうかも確かめる。超大型店ではだいたい置いてあることが多いので、まあまあ安心していられるが、中途半端な大型店では、あるべきところにないので独り落ち込む。予想外に、私鉄沿線や大学周辺などの古くからある小さな本屋さんなどで発見することもあって、そんなときには、思わず店主の見識に頭が下がる...思いだ。

書店で探して購入するジャンルは、昨今では非常に偏っている。8割方は“古代史もの”で、残りの2割が“海外紀行・ドキュメント”、“お笑い・風刺エッセー”などで、それぞれのジャンルの間にまるで脈絡がない。強いていえば、みんな電車やトイレの中で欠かせない、肩の凝らないエンターテインメントだというところか。
これで結構へそ曲がりだから、ベストセラーなどになったものはとたんに買う気が起きなくなり、新刊もハードカバーのうちは我慢して、文庫版になってから買う。なにもケチっているわけではなく、外出するときに、重くて厚いハードカバーは物理的に携帯に不便なのだ。(自分の本がそうなのは棚に上げているが...)
というわけで、文庫・新書のセクションには最も時間をかけ、本を探す楽しみを心行くまで味わい、何冊もまとめ買いして、常に自宅の在庫を切らさないようにしている。

雑誌はこのごろ買わなくなったし、立ち読みすらあまりしなくなったので、このセクションに寄ることはめったにない。大部分の情報がインターネットで間に合ってしまうせいか、編集者の世代交替で自分たちにアピールするコンセプトのものがなくなったせいか、それとも単に文字が小さくて読みにくいせいか...その何れでもあるかも知れない。
外出携行用の文庫や新書の在庫がたまたま切れたとき、やむを得ず駅のキオスクなどで週刊誌を買うことがあるが、読み応えがなくて後で必ず失望する。何か、そうさせない知恵はないものか。私見では、次の号、先の号へと後を引くような、インターネットでは真似のできない独自の“連載”を(できたら何本も)考えたらいいのになどと思っている。

ところで、購入する本のジャンルの筆頭に挙げた“古代史”だが、知る人ぞ知る、自分はかなりのマニアだと思う。このテーマがらみではいろいろな引出しがあるから、これから折りに触れて書かせてもらうかも知れない。
興味を持ち始めたのは、40年前、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」を読んで以来。今では時代を縄文以前から平安末期まで、舞台を日本に限らず東アジアから中東にまで広げ、学者・好事家の諸論はもちろん、紀行・ドキュメント、文芸作品やSF・ミステリー、その他ややキワものと思われるものまでも、ともかく日本という国とその文化および日本人という民族の成り立ちに関する本は、片っ端から買い求め読破してきた。
だいぶ前に、この類いの本だけで自宅の書棚が満杯になりその分を山荘の方に移したが、その後またスペースがなくなってしまったので、先日オープンに行ったときにダンボール一杯分を運び込んだ。まだ残っているし、すぐに増えてしまうので、近いうちにまた運ばなければならない。あらためて数えたこともないが、多分、全部で1000冊近くあるのではないだろうか?チッとも自慢にならないが、もちろん仕事関係の本より多い。

誰もそんなに興味がないかも知れないのに、思わず長々と書いてしまったが、実はいま書店で探すのが最も楽しみなのは、この分野のもの。
近所であるいは出先で、今日もまた自分は、何かその手の本が新しく並んではいまいかと期待に胸をふくらませながら書店のドアを開ける(といっても大概自動ドアだから独りでに開くが...)。

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2007年4月23日 (月)

SP(セールスプロモーション)広告賞をどう考える?

毎年、もう寒さはブリ返さないだろうと思える頃になると、「広告電通賞」の選考会が始まる。例年4月・5月の2ヶ月にわたって、予選会・最終選考会・最終承認総会と3つの審査ステップがあるのだが、今年もまた先週末にその予選会があって、汐留に足を運んだ。
自分はこのアワードのSP部門の選考委員の一人でもあるので、昨年4月27日のブログにも書いたように、“広告”賞という概念の中にSPをどう位置づけたらよいのか、何を基準に評価すべきなのかということについては、かねがね問題意識を持っており、これまでも問われるままに、また問われなくとも、さまざまな機会に自分なりの意見を述べてきた。

そのポイントは、要約すれば、“SPは「メディア」ではなくてマーケティングの「目的」だから、アワードの部門として「雑誌」「新聞」「ラジオ」「テレビ」「ポスター」「インターネット」などのメディアと同じライン上に位置づけられているのには基本的に違和感がある”ということと、“その評価の基準は、「創意性」や「話題性」は当然のこととして、「ROI(費用対効果)」にこそ最も重く置かれるべきではないのか”ということの2点だったが、事務局や他の委員の中にも同じような見解を持った方々はおられたようで、本年からは、このSP部門の中での応募区分と審査基準が全面的に改新された。

昨年までの応募区分は、マス4メディアにならって歴史的に、“業種別”に3分類されていたが、それが今年からは、“プロモーション目的・タイプ別”に三分類されることになった。これまでは一つの応募区分の中で、プロモーションの意図やタイプの異なる、したがってキャンペーンや作品の規模も異なるもの同士が比較評価される不公平感が避けられなかったのを、同一タイプ・同一規模の作品は可能な限り同じ土俵上で競うことができるようにと、応募区分の視点を改めたのである。
そうするとまた選考のポイントも、必然的に、区分ごとに異なってくることになって、結局、新しい応募区分と審査基準は次のようになった。

応募区分は3つあって、第1区分は、消費者の店頭での直接購買を促すことを目的とし、店頭ツールやデモンストレーション、景品・懸賞・クーポンなどを使った“購買喚起型”のプロモーション。第2区分は、屋外広告・イベント・サンプリング・PRなどのかたちで、消費者にマスメディア以外の場でのインパクトある体感・体験をさせることによって購入への波及効果を狙う“話題喚起型”のプロモーション。そして第3区分は、認知拡大・購買喚起・ブランド理解・口コミ等の複合目的のために、複数のプロモーション手法およびメディアを組み合わせて消費者の行動を喚起する“複合展開型”のプロモーション。
審査基準は、全区分に共通する①商品(ブランド)との整合性はあるか②核になるアイディアに独創性があるかというポイントのほか、各区分それぞれに、第1区分では①戦略的に購買を喚起する仕組みになっているか②(売り上げなど)高い効果をもたらしたかという点、第2区分では①インパクト・話題性があったか②そのインパクト・話題は二次的効果を喚起したかという点、そして第3区分では①メディアやプロモーション手法が戦略的に組み合わされているか②それが(売り上げなどの)より高い効果の発生に反映されたかという点、などに細分された。

採点もその結果、各個の選考委員が、どの応募区分においてもすべての作品を、これらそれぞれの四つの基準にしたがって評価して、上位3作品だけに順位に応じた点数を与え、各作品の合計スコアを算出し、さらに全選考委員合計のスコアを算出する(この説明だけでは理解しにくいかもしれないが)ということになり、正直言って非常に面倒ではあった(何度もキャンペーン概要に目を通し作品ボードを見返した)が、これまでとくらべて視点がきわめて多角的になり、自分などが考えていることも反映されている部分が見えてきたように感じられて、かなり納得はした。

ただ、前のブログにも書いたように、いま自分が関わっている部門の応募作品は、そのうちのある一部の作品、または大部分の作品それぞれの一部分を除いては、“SP広告”として受け止めるにはどうもシックリとこない。このアワードの歴史的事実の延長線上で“メディアタイプ別”に考えるならば、これらは実態として「マルチメディア・キャンペーン」ということになろうし、それらとは視点の違うこの「SP広告」や「公共広告」などのように広告を“目的別”に考えるならば、「ブランド認知広告」「レスポンス広告」「複合目的広告」といった部門区分もあってしかるべきではないかとも思う。

もっと言うと、「ダイレクトマーケティング」と同様に「セールスプロモーション」も、「広告」という概念の基準に合わせ枠内に収めようとするには無理があり、したがってそれぞれのアワードは別々に存在すべきではないかと、自分は思っている。広告は確かにメディアの進化と共に歩んできたが、ダイレクトマーケティングにとってもセールスプロモーションにとっても、メディアは決してそのすべてではなく、手段・構成要素の重要な一つ以上ではないからだ。広告自体にとってさえもそうではないかと思うのだが、どうだろう。

...ってなことを、予選会の選考を終えて会場から出てきたところで、事務局長やスタッフの方々と話しこみ、“「広告電通賞」とは別に、「SP電通賞」とか「ダイレクトマーケティング電通賞」なども実現されるといいのにね”などと、気ままな提案をしてきた。

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2007年4月16日 (月)

山荘山開き

平地では春がどんどん進んで行くような気がして、例年より早めの山荘オープンに清里へ。4ヵ月ぶりで、昨年とくらべると2週間ほど早い。
長距離ドライブに出かけるとなると、小犬のムッシュは生活ペースに気を配ってやらないと体調を崩すので、彼の日常生活サイクルに合わせて出発と到着の時間を見計らう。

午後から雨になると天気予報で言っていたが、そういう時だけはよく的中するもので、中央高速の小仏トンネルに差しかかるあたりから降り出した。だが、低気圧の進行方向とは逆の西に向かっているので、笹子トンネルを抜けるといつの間にか上がり、目の前一杯に広がる甲府盆地の、桃とすももと桜の花の入り混じった春の色が美しかった。

しかし、高速を下りて141号線を登り始める頃には再び雲行きが怪しくなって、いつもなら前方に見えているはずの八ヶ岳が見えなくなる。でもこの辺は今が春爛漫。淡いピンクの桜とまっ白いコブシが、何処にも彼処にも満開だ。

それが、標高7~800メートルくらいの地点になるとパッタリ目に入らなくなり、気温もぐっと下がる。八ヶ岳を覆い隠していたものの正体は雪雲で、山荘に着いた時には、薄っすらとではあるが地面には雪が降り敷き、気温は3度。暦の上では春とは言っても、ヤッパリこのあたりの自然は平地ほど甘くはない。

翌朝目が覚めると幸い空はカラッと晴れ上がり、地面の雪も消えていた。だが八ヶ岳颪は散歩を躊躇させるほど寒く、この日の午前中2人と1匹は、前日の疲れもあり、どこにも出ずに家の中に。
木々はまだロクに芽吹いていないので、森は妙に空間が多くて物音もなく、その中を飛び回る小鳥の声だけが、ときどき静寂を破っていた。わずか2~3時間のことだったが、時がやけにゆっくりと流れていたような気がした。

午後からチョッと戸外に出てみたが、ご近所はどなたも見えてないようだ。時期が少し早かったのかも知れない。寒いの何だのとばかりも言っていられないので、そのまま庭で、冬の間の風雪で折れ落ちたままになっていた大枝・小枝の片付けに精を出す。毎年のことなのだが、こんな軽作業でもだんだん疲れを感じるようになってきた。

三日目も晴れて、気温も上昇。本日は、久しぶりに藤乃家で蕎麦を食した後で、山里のお花見と洒落込みたいと思い、ムッシュにはお昼をあげたが、自分たちは食べずに出かけた。ムッシュを車中でお留守番させていたので、大急ぎだったが、久しぶりの天盛りは、すこぶる美味だった。

藤乃家は標高6~700メートルくらいに位置しているため気温も平地に近い暖かさで、この高さの地域の桜は今が満開。ソメイヨシノが1000本近くもあると言われる谷戸城址はもちろん、2~30本ずつはある八ヶ岳神社や大泉小学校なども、いずれもまさに観桜の絶好のタイミングのようで、人も出ており、イベントなども催されていた。

一時停車したり、徐行周回したりしながら、大泉の桜を十分に堪能したので、今度は長坂の町を越えて、やはり桜の名所、清春白樺美術館へ。例年だと、自分たちが出かけてくる4月末には咲き終わっているので、ここの桜を見るのも久しぶり。
何というのかは知らないがクラシックな建築様式のアトリエが中央に位置する広い庭園を取り囲んでいるここの桜は、かなりの樹齢の巨木・老木が多く、なかなかの壮観だ。

美術館では丁度「ルオー展」が開催されており、花見の時期と重なってかなりの人出。駐車場には串焼きの屋台や地元農産物の売店まで出ていた。
周辺も絵に描いたようなのどかな田園風景なので、桜だけで帰るのは惜しいとしばし散策。ムッシュも、のんびりとした田舎道のお散歩を楽しんでいたようだった。

中二日で、横浜に帰る日が来た。本日も快晴で、まだ白雪に覆われたままの富士、八ヶ岳、南アルプスの峰々がクッキリと見えた。

今日は、帰途「美味しい学校」の「ぼのボーノ」で昼食。このブログでも何度か紹介しているイタリアン・レストランだ。往復路の途中にあるので、どうもタイミングを上手く合わせることができず、考えてみたら昨年は夏に一度来たきり。ムッシュの再度の協力で、やっと今回、思いを遂げることができて幸せだ。筍やグリンピースなど季節の自家栽培野菜を使ったオリジナル・メニューのパスタが滅法美味しくて、大満足した。

余談だが、ここ「美味しい学校」(旧津金小)の桜も観光名所のはずなのに僅かしか花をつけていないので、どうしたのかと聞いてみたら、鳥に啄ばまれてしまったのだとか。そんなこともあるのだと初めて知った。

年初としては、いろいろな予定・希望がほとんど果たせた、まずまずの山荘行だった。

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2007年4月 9日 (月)

国立新美術館に行ってきた

いつも「日展」「示現会展」の招待券をいただいている成田禎介画伯から今年もまた頂戴して、家内と一緒に示現会展へ行ってきた。昨年までは上野の「東京都美術館」で開催されていたのだが、今年からは六本木の「国立新美術館」になった。
都心へは車だとけっこう時間がかかるので、たまプラーザの駅前に駐車し電車で行くことに。表参道で千代田線に乗換え乃木坂で下車し地下道を出ると、目の前に館がそびえ立ち、入口までは館外のデッキ状の通路を歩くようになっていて、そこからフェンス越しに、思ったより近く「六本木ヒルズ」と「東京ミッドタウン」のビルが見え、寒くはないけれど風のある日だったので、向かいの青山公園の散り遅れの桜が頭上を舞っていた。

館の前壁面は総ガラス張りで、大きく波状にうねり、やはり美術館ともなると意表をついたデザインにするものだなと思ったが、中に入ってみてまた驚いた。ロビーのスペースがえらく広く、かつそのまま3階まで吹き抜けになっており(天井高が21メートル以上あるそうだ)、その中央部にはドでかいコーヒーカップを置いたような2本の逆円錐柱(てっぺんがそれぞれレストランとカフェになっている)が屹立している。
入口で館内ガイドのパンフレットをくれたのだが、どうも案内表示がわかりにくく、トイレやエレベーターのある場所がなかなかわからず、建物の中を端から端まで、散々歩いてしまった。で、これらは、両端のよく注意して見ないとわからないところに位置していたわけだが、デザイン優先のために、足の弱い人や高齢者などにはやや不親切になってしまったのではないかという感想を持った。

さて、ムッシュを近所のペットショップに預け、自分たちはランチをせずに出てきたので、最初に食事を済ませてしまおうかとも思ったが、やっぱり見る方が先だろうということで、まずは2階の示現会展示場へ。
いつも思うのだが、示現会展には、奇を衒わない写実的で清澄ないい絵ばかりがそろっているので、見ていて、疲れた神経が癒やされるような気がする。あまり適切な譬えではないかも知れないが、油彩なのに淡彩の透明感がある。その代表格が成田画伯で、同じ画風を目指す後進会員の作品が年々増えているのが今回の展示会からも見てとれた。

時間を忘れて多数の作品群を堪能していたので、見終わると急にお腹が空き、急いで3階のレストラン「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」に駆けつけると、何とランチタイムが目の前でクローズ!では、カフェでサンドイッチでもと、2・1・地下1階を往き来してメニューを見比べているうち、それも品切れに!!
何と間が悪いのだろうと嘆きつつ、館外のどこかで食べようかと乃木坂駅の地上出口から外へ出てみると、そこは車の往来の激しい大通りで、見渡す限り飲食店などは存在せず、また地下へ逆戻り。結局は、勝手知ったる地元たまプラーザ駅前のイタリアン・レストランでやっと遅いランチにありついたというお粗末で、時刻はすでに午後4時過ぎだった。

後で、美術館の入口でもらったガイドマップを見たら、どうやら自分たちが出入りしたのは環状3号線側のいわば裏口だったようで、その正反対の方向にメーン・エントランスがあり、そこから至近距離でミッドタウンに行けたらしい。そこまで行けば美味しいものが何でもあったろうにと臍を噛んだが後の祭り。
何しろ初めての場所なので方角がよくつかめなかったの、ガイドパンフレットが見にくいのと、ブツブツ言い訳していたら、“しっかりしてよ!”と喝が入った。ハイ、その通り。タマの夫婦水入らずの外出というのに、チャンと事前学習をしてなかった自分が悪かった。

ところでこの日、成田さんの「白い峰と山里」という絵の前で家内を立たせ写真を撮っていたら、人品卑しからぬ2人の老紳士に“どちらの山ですか?”と尋ねられた。当てずっぽうを言って間違えたらいけないので“私は存じ上げないのですが”と答えたら、“作者の方かと思ったので...失礼しました”とその方たちは頭を下げて去って行った。恐縮してしまったが、どうやら自分は成田さんと間違えられたらしい。タートルネックのセーターに茶色のコーデュロイ・ジャケットなどを着ていたので、画家らしく見えたのだろうか?
そういえば自分はこれまでにも、他のある種の職業の方に間違えられることがよくあった。第一線を退いてからはほとんどなかったのだが、この日は久しぶりだった。

だいぶ前のことだが、東京シティエアターミナルのリムジン乗場で、サングラスをかけ大きなパイロット・ケースを提げていたためか、“乗務員の方はこちらからどうぞ”と優先入口に案内されたことがあった。また、家内が入院していた某大学病院に見舞いに行っての帰りにエレベーターに乗り込んだら、客員の先生とでも思われたのか、何人もの看護婦さんたちから“お疲れ様でした、失礼しまーす”と最敬礼されたこともある。さらに、都内のさる名のある中規模ホテルでパーティーがあったときには、ロビーの入り口近くで人を待っていたら、入ってくる人々の何分の一かに宴会場やレストランの場所を尋ねられた。スリーピースのダークスーツだったので支配人に間違えられたのかも知れない。他にも、いろいろな職業の方に間違えられたことが度々ある。

今更どうでもいいのだが、こういうことって、どう解釈したらいいのだろうか?

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2007年4月 2日 (月)

植木等 逝く

稀代のエンターテイナーが天国へ旅立った。その知らせをインターネットのニュースで目にしたとき、さまざまな想いが胸を去来した。自分がまだ若くて威勢のよかった日々のこと。そして、いつかは迎えることになるであろうそう遠くはないその日のこと。

ナマ植木を初めて観た(聴いた?)のは早稲田の大隈講堂で、大学祭の出しものとしてクレージー・キャッツが出演し、コミック演奏を聴かせ(観せ?)てくれたときだった。あれは確か1956年か57年のことだと思うから、今になって調べてみると、植木がクレージー・キャッツのメンバーになった直後だったようだ。
メンバーはみんな、ジャズ・ミュージシャンとして一流なので、いい気持ちでスイングしているうちいつの間にか冗談演奏に脱線して、散々笑わせてくれた。単なるコメディアンがトークやアクションだけで笑わせるのではなく、彼らの笑いは十分な音楽性に裏づけられたシャレだったから、そこがわかると二重に楽しめた。中でもギターとリードボーカルの男は、よく響く美声で容貌もどちらかといえば二の線に近いのに、なんともスッとぼけて力の抜けた可笑しみのあるキャラで強く印象に残ったが、これが植木等だった。

当時(昭和30年代)、“実演喫茶”なるものが都内の盛り場に何ヵ所かあって、普通の喫茶店(アルコールを出さないので“純喫茶”といった)でコーヒー・紅茶・ジュースが一杯50円のところ、100円~150円で、売り出し途上の歌手やグループの、または非主流ジャンルのミュージシャンたちの、ナマ演奏と唄を気軽に楽しめた。
古くから、ジャンル別に、銀座にはカントリー&ウエスタンの店「テネシー」やシャンソンの店「銀巴里」が、新宿にはシャンソンとタンゴの店「ラ・セーヌ」が、渋谷にはハワイアンの店「プリンス」などがあったが、その頃から新しく、“ロカビリー”(ロックがかったポップス)をメインに、ジャズもラテンもハワイアンも聴かせる「ACB」(“アシベ”と読む)という店が、銀座・新宿・池袋に出店した。まだテレビの人気者になる前のクレージーは、よく「新宿ACB」に出演していたので、大隈講堂以来すっかりファンになった自分は、なけなしの小遣いをはたいては新宿に通い、カブリツキの場所をとるため、ときに授業を早めに切り上げる(つまりサボったわけ)こともあった。

1961年は自分が日本リーダーズダイジェスト社に入社した年だが、古きよき時代の米資会社のオープンな社風のお蔭で、一年生のときから、仕事も遊び(と言っても社内野球とマージャンぐらいで可愛いものだったが)も、ノビノビとさせてもらっていた。
“お呼びでない?...コラマッタ失礼をいたしましたっ!”のギャグを生んだ「シャボン玉ホリデー」など、植木らの出演するテレビの番組が爆発的な人気を呼ぶようになったのもこの頃からで、昨年のブログにも書いたように、いま思い出すと恥ずかしいが、自分の日常の端々にも多分に当時のそんな世相が影響していたような気がする。

と言っても自分は、その頃から一人歩きし始めた植木の“無責任男”のキャラには、素直について行けなかった。それ以前からの彼を知っていたので、あれは、どこか抜け抜けとした彼の印象をもとに故・青島幸男がつくりあげた、流行歌手・喜劇役者としての仮面だとわかっていたし、リベラルで自主性が尊重されるとはいえ責任と実績追求にも厳しい米資企業のスタイルに否応なく適応させられていた自分は、彼の唄や映画の“サラリーマンは気楽な稼業...”といったフレーズに、まったく実感が湧かなかったからだ。

植木を好きだったのは、彼の中に、“楽しがり面白がり”、“頑張っている姿を人に見られるのが嫌でわざと馬鹿をする”という、ジャズ・ミュージシャン独得のダンディズムを見ていたからだが、あのつくられたキャラの中でも、底抜けの陽気さだけは彼本来のものだったと思う。で、あまたある彼の唄の中で一曲だけ、たまらなく好きな唄がある。

ゼニのない奴ぁ 俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな
見ろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとか なるだろう

彼女のない奴ぁ 俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな
見ろよ 波の果て 地平線 そのうちなんとか なるだろう

仕事のない奴ぁ 俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな
見ろよ 燃えている あかね雲 そのうちなんとか なるだろう

青島幸男詞、萩原哲晶曲の「だまって俺についてこい」だが、植木のあのやたらとデカくて明るい声で唄われると、単純な自分は、たちまちポジティブ・シンキングになれたから不思議だった。高度成長期で自分も行け行けドンドンの時代の唄だったが、それが過ぎてからも、壁に突き当たる度に、独り口ずさんでは自分を奮い立たせた。

彼は80歳で逝ってしまったが、早かったのか、十分生きたと言えるのか、判断はなかなか難しい。考えれば、自分もあと10年。してみると、チョッピリ早すぎるような気がしないでもない。
いや、今ここであれこれ考えても仕方あるまい。そのうちなんとかなるだろう。

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