« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月

2006年11月27日 (月)

クラムチャウダー

“言うまいと思えど今日の寒さかな”(作者不詳)。
めっきり冷え込むようになった。あと2~3日で12月になるのだから、当然だが。

家内に、“こんな時は温かいものがいいナー”と、それとなくおねだりしたら、晩ご飯のスープにクラムチャウダーが出てきた。温まっただけでなく、すこぶる美味。
自分は内陸部で育ったせいか、シジミの味噌汁以外は貝類が苦手(ハマグリの吸い物やアサリの味噌汁も身は食べられず、生牡蠣や貝類の握り寿司などは特にダメ)なのだが、どういうわけかクラムチャウダーだけはいけるので、時々つくってもらっている。

家内のクラムチャウダーは、ボストンのそれにとてもよく似ている。家内は小澤征爾のコンサートを聴きに郊外のタングルウッドに行ったことがあるだけで、市内のレストランの味は知らないはずなのだが、どうしてだろう?自分とは対照的に魚介類が大好きなので、いろいろ追求しているうちに偶然、同じ味に行き着いたのかもしれない。
ボストンのクラムチャウダーは、“ニューイングランド風”と呼ばれる、牛乳や生クリームをベースにした白いスープだが、同じ米国内でも地域によって濃度や風味にいろいろな違いがある中で、自分はここの、あまりドロッとしていないやつが好きだ。

近頃は日本でも、その辺のカフェやファーストフード店で、これをメニューに載せている店が出てきた。だが、期待してどれどれと注文してみると、どうもイマイチの味でがっかりさせられる。ちゃんとしたレストランで頼めば、それなりのものを味わえるのはわかっているけれど、もともと気軽なものなのだから、こういうところでもまずまずの味のものを出さなくっちゃ。(って、ちょっとうるさ過ぎるかな?)

ニューヨークへ行くとこれは、“マンハッタン風”と呼ばれる、赤いトマトスープになり、水煮のトマトやベーコンなども入って、見かけも味もミネストローネ・スープに似てくる。これはこれでまた美味しいのだが、自分はやっぱり、トマトスープならミネストローネそのものがいいし、クラムチャウダーならクリーム味のニューイングランド風の方がいい。
だからというわけでもなかったのだが、考えてみるとニューヨークでは、昔、セントラルステーション地下のオイスターバーで食したぐらいで、その後ほとんど記憶がない。この街では、チャイニーズやイタリアンばかり食べていて、シーフードを食べようという気にあまりならなかったからかも知れない。

ただ、ニューイングランド風も、西海岸の方へ行くとまた違った食感のものになる。東海岸のものとくらべるとよりネットリとクリーミーで、スープというよりもシチューという感じだ。サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフの屋台には、紙カップ入りと、デカい球形のパン(サワードゥー)を刳り抜いた中によそってくれるものとがあるが、どちらもボリュームはたっぷり。自分などの場合は何しろ中身だけでお腹が一杯になってしまうので、とてもカップ代わりのパンまでは食べられず、いつも紙カップにしている。
ボストンの味とは違うが、ここに来るとやっぱり一度や二度はこれを味わわないと気が済まない。わざわざレストランなどには入らず、漁港独特の匂いが漂い頭上にはウミネコが飛び交うワーフの車止め石などにチョイと腰を掛けて、屋台で買った熱々の一杯をフーフー言いながら啜ると、なお一層気分が出る。

ボストンの味が好きだと言ったが、実は自分も、そんなに能書きをタレるほど何度もボストンに行き、何軒も試しているわけではない。印象に残っているのは、ジョン・ハンコック・タワーの傍の「スキップジャック」というレストランや、名前は忘れてしまったがウォーターフロントのレストラン、それからショッピングアーケード「コープリープレイス」内のフードマーケット「マルシェ」などで、旅行ガイドによく名前が出てくる「リーガル・シーフード」にはまだ行っていない。

今年は、3年ぶりにニューヨークを訪れてボストンにも足を延ばし、チャイニーズとシーフードを堪能してくる積りだったが、ホテル事情がはっきりしなかったりしてマゴマゴしているうちに、寒くて行く気がしなくなってしまった。が、松坂投手がレッドソックスに入団するかも知れないし、来年暖かくなったらぜひ行きたい。
でも、やっぱりプレクリスマスの頃にはどこか海外に行っていたいということで、急遽、ハワイに行くことになった。慣れて気楽なところだからだが、今回はこれまで行っていないハワイ島がメイン。キラウエア火山などを見てこようと思う。

帰りにオアフ島にも寄るので、ハワイ風のクラムチャウダーもトライしてみる積りだ。ホノルルのアラモアナ通り沿いのワードウェアハウスの中に「チャウダーハウス」という店があって、ニューイングランド風とマンハッタン風の両方を出してくれるらしい。オアフ島には何度も行っているのに知らなかった。

ムッシュには、しばし淋しい思いをさせるが、外国旅行の時はいつもホテルをお願いしている近所のペットクリニックのお姉さんが、きっと優しく面倒をみてくれるに違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月20日 (月)

DM大賞

先週末、日本郵政公社と日本ダイレクトメール協会が主催する「全日本DM大賞」の審査会があった。これは、ダイレクトマーケティング関係ではおそらく国内唯一の作品コンテストだが、主催者の顔ぶれからもわかるように、この場合のDMとはダイレクトメールを指し、関連業界だけのイベントながら歴史は結構長く、今年で21回目になる。

この賞が設けられたばかりの頃は、自分もダイレクトメール協会の役員だったので、初期の数年間はこのコンテストの審査に加わっていたが、その後仕事の範囲や方向性の変化などもあって、この15年ほどはそこから遠ざかっていた。けれども、今回はまた縁があって、久しぶりに審査を引き受けることになった。

20年前とは市場環境もメディア環境も大きく変わって、マーケティング全般の中でのダイレクトマーケティングの価値と重みも増してきている今日、これは、その中の基幹メディアであるダイレクトメールが、あの頃からどう変化し進化したかを網羅的・集中的に観察できるまたとない機会だと、自分的には、実はひそかに楽しみにもしていた。

応募総数や最終審査対象数、入賞点数などは、今の段階で自分が発表する立場にはないと思うので、ここでは触れないが、さすが郵政公社の組織力というべきか、数的規模では決して欧米の同種のコンテストに見劣りしないだけのものが集まった。が、さて、内容と質はどうだったろうか。

15年前とくらべて変化を感じたのは、本来中心的ダイレクトメール・ユーザーだった通販会社などだけでなく一般大企業のエントリーが、意外と思えるほど増えてきたこと。自動車、クレジットカード、不動産、百貨店などは以前からもあったが、今は時代を反映して、情報・通信・運輸・サービスなどがそれに加わってきた。また、B-to-C(対個人消費者)だけでなくB-to-B(対企業)が目につくようになったのも、ダイレクトメールに対する一般企業のマーケターの認識が深まってきたということなのかも知れない。

ただ、このことからは、ダイレクトメールがさまざまな企業の広告メディア・ミックスの一環に取り入れられることが多くなったということは言えても、必ずしも、主要メディアとしての一角を占めるようになったとまでは言い切れないようだ。というのは、応募作品に添付するキャンペーン詳細の記入用紙をよく見ると、とても主要な役割を果たしたとは思えないほど発送通数の少ないものが大部分で、効果(レスポンス率)の確認をしていなかったり、発送通数すら記入していないものも少なからずあったからだ。その意味で、これまでにも重々認識していたことではあったが、草の根的なマーケターへの広がりだけでなく、伝統的な大企業のマーケターへのさらなる啓蒙の必要性を再確認させられた。

対照的に意外だったのは、通信販売のエントリー企業が少なかったこと。これは恐らく、コスト効率上の問題で、郵送ダイレクトメールから、宅配カタログとウェブサイトおよびEメールにウエイトがシフトしているからではないのだろうか?

応募作品そのものの印象としては、郵便法の規制がある程度ゆるやかになったこともあってか、表現形式が豊かになったように思う。定形郵便物のフォーマットにこだわらず、さまざまなサイズや形状のものが考案されるようになり、ダイレクトメール・パッケージという概念が自由な広がりを持つようになった。極小のもの、特大のもの、三角形のもの、円形のもの、立体的なもの、紙以外の素材を使ったもの、実用的なサンプルを同封したものなど、ずいぶんとバラエティに富んできた。

反面、メッセージ性がなく何を訴求しているのか判然としない(挨拶状やそれに該当するコピーが含まれていない)もの、ホームページのURLやフリーダイヤルのナンバーは記載されていてもそれによって何を求めるのかが語られていないものなど、クリエーティブ以前にマーケティングが分かっていないのではないかと疑わざるを得ないものが少なからずあったのには、暗然とさせられた。
また、応募用紙への記入だけからは、そのダイレクトメールが全体戦略の構造と流れの中でどんな位置にあり、他のメディアやチャネルとどうつながっているのかなどがよく見えて来ず、フラストレーションを感じさせられるものも多々あった。

思うに、企業規模の大小にかかわらず、デザインの感覚や技術はそれなりに進化したが、どうも、マーケティング戦略としてのプランニングが、そして一人一人のターゲットに語りかけるということが、忘れられているような気がする。“ダイレクトメールをどう作るか”“レスポンス率を上げるにはどうしたら良いか”といった本やセミナーには時々お目にかかるが、そこだけに関心を持つのではなく、みんなが分かった積もりになっているその前のところを、もう一度おさらいする必要がありそうだ。

2月22日にも書いたように、マーケターの道をダイレクトメールから歩み始めた者として、そのために役立つならば、できる限りの貢献をしたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月13日 (月)

秋日和

このところずっと、晴天で日中は比較的気温も高く過ごしやすい日が続いた。自分は血圧が低めな体質なので、こんな高気圧で低湿度の季節はほんとうに有難い。とは言えやはり、日の暮れるのが早くなったし、朝夕の冷え込みは暦相応で、紅く染まっていた庭のハナミズキの葉もあらかた散り落ち、生垣の山茶花が濃く薄くピンク色に咲き出してきた。

ムッシュと近所に散歩に出ると、歩道に降り積もったイチョウの黄葉がめっきり多くなり、歩いていると足元でカサコソと音がする。公園の大樹の下で銀杏を拾っている人も時々見かける。単純な条件反射で、いつの間にか“♪枯葉よ...”と口ずさんでいた。

三連休だったせいか、だいぶご無沙汰でどうしているかと案じていたディザイナーの次男が、本人も好物のケーキ持参で、ひょっこり顔を見せた。多くは言葉を交わさなかったが、少しフックラしたような感じがし、穏やかな顔つきをしていたので、仕事のペースが落ち着いてきたかと安堵した。

数日おいて、これまた久しぶりに長女が、もうすぐ1歳になる娘を連れてやってきた。家内は2~3ヵ月前にも外で二人には会っているし、そもそもが3人の子供を産んで育てた専門家だから赤ちゃんの抱っこは慣れたもので、された方の赤ちゃんも喜んで活発に動きバブバブ言っていた。だがこちとらは、どうしたら良いものやらさっぱりわからず、少し離れてぎこちなく言葉をかけるだけだった。
自分の子供が赤ん坊のときはどうだったのか、一向に思い出せない。正直なところまだ、“おじいちゃんでチュヨー”などと手放しで言える心境には達しきれていないわけだが、そんな自分を孫娘は、何か不思議な生き物でも見るような瞳で見つめていた(ような気がする)。

我がパソコンの私設ヘルプデスクをしてくれている長男も、しばらく音沙汰がなかったので、こちらから電話をしてみた。ちょうど、セキュリティ関係のソフトウエアの更新とプリンターの不調のことで相談しようと思っていたところでもあったからだが、電話で説明しているより直接の方が手っ取り早いと、結局、彼も家にやって来た。家を離れた子供たちは、来ないときは何ヵ月も来ないが、来るときは集中して来るものだ。

そんなに電話もよこさないで、親がどうしているか心配じゃあないのかと聞いたら、みんなが口裏を合わせたように言うには、ブログを読んでいれば大体の様子はわかる、だと。気ままに書いている積りだったが、家族内広報に役立っていたとは気がつかなかった。

ムッシュも満6歳になった。3キロにも満たない小犬(ヨークシャーテリア)で童顔(?)なものだから、よく幼犬と間違えられるが、人間でいえばもう立派な大人。我が家に来てからも1年半以上経ち信頼関係もできて、すっかり家族の一員となり、長女の赤ちゃんが来たときも、程よい距離を置いて落ち着いて座り、あやすように尻尾を振っていた。

元来がとても人懐っこく、毎日の散歩コースでは決まって立ち寄って可愛がってもらえる場所もでき、通りすがりの方に思わず“可愛いねえ”と言っていただくことも多い。

近所には、公園の中のグラウンドやまだ家屋の建っていない造成地など、ドッグランに好適な場所が2ヵ所ほどあって、いつも大・中・小型のワンちゃんが沢山集まって仲良く遊んでいるのだが、そこでも、お蔭様でムッシュは人気者。何人もの方が、自分の飼い犬そっちのけで可愛がってくださる。幸せなことで、こちらまで嬉しい気持ちになる。

ところで家内は、自分などとは対照的に、記憶力と計算力のかたまりというか、本人自身がコンピューターのような人なので、ついこの間まではパソコンなどは不必要と、ケータイも持とうとしなかったが、必要に迫られて先月から、遂にケータイ・デビューした。
家族割引を享受するため、自分と同じa社のものにしているが、二人とも、やたらな多機能は不必要、何よりも表示される文字の大きさとキーボードの見易さ・タッチし易さが必要なので、使っているのは、いわゆる“簡単ケータイ”に属する機種だ。

自分は、メールはもっぱらパソコンで間に合っているので、ケータイ・メールはまったく使っておらず、家内にやり方を聞かれたときにも、いちいちマニュアルと首っ引きしなければならなかったが、さすが人間コンピューターの家内は、たちまちマスター。請求書の額を心配しながらも、先日清里の山荘に同行した友人たちや娘と、楽しげに、早くも絵文字まで使ったメールのやりとりをしている。

スポーツの秋というのに、自分は相変わらず机にへばりついていることが多く、なかなか、計画しているジム通いが実現できない。誰のせいでもなく、自分がグズグズしているのがいけないのだが。こんなことではそのうち、ジムどころか医者通いになってしまうと自戒。

小津安二郎の名作「秋日和」には及びもつかぬ、我が家のどうということのない秋日和でした。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月 6日 (月)

秋なのに“早春会”?

実はこれ、“早稲田のキャンパスで青春時代を共有した仲間の会”という意味。早い話が我々の“クラス会”で、今年も、10月末の秋晴れの午後、大隈庭園内の完之荘に集まった。

5月の末に商学部で講義をしたので、早稲田はそんなに久しぶりというわけでもなかったのだが、その時には気がつかなかった高層ビルが庭園の木立ち越しに聳え、見慣れた景観がだいぶ変ってしまっていた。手前の大隈講堂の時計台が、改修とかでシートに覆われ、まったく見えなくなっていたせいもあって、余計にそう感じたのかもしれない。

卒業してからもう45年になるが、ここ20数回の会は、だいたい10月末から11月初旬にかけて、毎年欠かさず開催されている。けれども、40数人いたはずの級友は、生まれ故郷に戻る者も多くなり、3~4年前からは、出席者が20人を割るようになった。
欠席者からの連絡を読んでも、出席者の近況を聞いても、どこかしら具合が悪い、大病を患った、手術をした、闘病中、といった話が増えてきて、何の問題も無いという者はだんだん少なくなり、故人もすでに3人を数える。

何となくさびしい気がしないでもないが、もう、我々の人生は、そういう時期に差しかかっているのだから仕方がないのだろう。皆で一致した意見は、ここまで来たら、家族や他人に迷惑をかけながら生き永らえるような存在にだけはなりたくない、死ぬまでボケずにいて、コロッと逝きたいね、ということだった。

とは言えそれぞれ、まだまだ意気だけは盛んで、ゴルフ三昧や山歩き、趣味の俳句やスポーツ観戦、あるいはボランティア活動といった悠々自適の引退生活を送っている者も少なくないし、現役の家業経営者、弁護士、税理士、放送ディレクターなどもいる。自分も一応、マイペースながら今も仕事を続けているわけだが、そのことの幸せを改めて思う。

まあ、人それぞれ、どんな過ごし方をしようとその人の自由だし、悠々自適だろうと仕事だろうと、ここまで来れば好きでそうしているわけで、お互い悪くない晩年じゃないかと勝手に納得。自分なども、何も好き好んでスケジュールで自分を縛るような生活をしなくても良さそうなものと我ながら思うのだが、かといって何もしないで遊んでいろと言われたら、つまらなくて、かえってそれがストレスになって寿命を縮めてしまうかも知れない。

さて、開会から2時間もたつと、幹事を初め大多数はもうホロ酔い気分。だが、体質や健康上の理由から食事とお茶だけで済ませた面々は、まだ何となく物足りない。そこで一たん中締めとなって、隣のリーガロイヤル・ホテルのカラオケ・ルームに場所を移す。完之荘も今はホテルの経営なので、手回しよく一緒にリザーブしてあったのだ。

それぞれが勝手気ままに歌うのだが、この顔ぶれの時ばかりは周囲とのジェネレーション・ギャップを気にする必要がないので、唄は自然にあの時代を懐かしむものになる。だが、必ずしも同じ傾向の曲とは限らず、ある者は演歌やムード歌謡(これはもはや死語か?)だったり、またある者はうたごえ(これも死語?)ナンバーだったり、そして別の一派は横文字のアメリカン・ポップスだったりして、当時はあまりわからなかったお互いの青春時代の心のひだを、何となく垣間見た気がした。

自分は歌なら何でも好きだが、なぜか横文字の歌が多くなる。昔のポピュラー・ソングは、歌詞の発音やアクセント自体に音楽性があって、歌っていて気持ちがいいのだ。そう言えば、クラスが英語の授業を単位として編成されていたこともあり、他の科目の授業にはあまり真面目に出席しなかった自分も、英語の授業にだけは、ちゃんと顔を出していたっけ。

自分で言うのもなんだが、英語の授業では、今でも笑える落語のような思い出話がある。

フォークナーやヘミングウェイなどのアメリカ文学を専門とする、斉藤先生という方がいた。いつも厳しい授業態度で、我々学生達からはどちらかといえば畏怖されていたが、こともあろうにその先生の授業で、自分は友人3人分の代返を引き受けてしまった。
出席点呼の際に、自分を入れて4人分、いろいろと声色を変えて返事した積もりだったが、どうやら先生は、とうにお見通しだったらしい。

何人かが当てられた後に、自分が代返をした友人の名前が呼ばれたが、そういうこともあろうかとは思っていたので、バレていたとは知らずに、何食わぬふりで本人になり代わり音読と訳を行った。すると先生は、次も、その次も...、自分が代返した友人を指名するではないか! まさか、そこまで行くとは想定外で、焦りまくったが、最早と観念し、再々立ち上がってやりました。図々しくも! そして止めは、アア、自分本人の番。必殺の四連発で、さすがに教室は爆笑の渦。

やや間を置いて、斉藤先生は二コリともせずに言ったものだ。「キミはなかなか義理堅い男だな」と。 ただそれだけ。 
昔の大学の先生は何ともイキだった。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »