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2006年5月

2006年5月24日 (水)

健康体操

4月半ばから毎週金曜日、横浜市青葉区がスポンサーの「高齢者健康体操」なる教室に参加している。ヒエー~ついに私も、自分で“高齢者”であることを認めてしまった!(マ、事実そうなのだから仕方がないが...。)
場所は、田園都市線「あざみ野」駅近くの、もと区役所で今は区民の活動施設になっている建物。今までは図書館をたまに利用するぐらいで、ほとんど様子がわからなかったが、行ってみると、大・中のホールに小部屋、和室まであって、卓球や囲碁や舞踊の愛好会、書道や華道やパソコン教室などに、連日、時間刻みで使われている。他人事のようだが、高齢化社会を実感してしまった。

まだ50代の頃は、定期的にジム通いして、ハアハア言いながらもストイックに汗をかいていたが、ここ10年ぐらいというものはゴルフにすら出かけず、トレーニング・ウェアはストッカーに仕舞ったまま、ゴルフ・バッグは自室の片隅でほこりをかぶっている。
自宅で仕事をするようになってからは、どうしても運動不足に陥りがちなので、一昨年は半年間「気功教室」に通ったが、それがクローズすると共にまた何もしなくなってしまった。それでいて、あっちが痛いのこっちが痒いのとこぼしてばかりいるものだから、“何かしたら!”と家内が区の広報紙で見つけてくれたのが、この「健康体操」である。

週一回の“体操”でも、何もしないよりはましだろうと始めてみたが、これがどうして、なかなかキツい。が、同時にキモチもいい。理屈はまだ頭に入っていないが、“高齢者体操第1・第2”とでも言うのか(誰も言ってないが)、どうやらパターンが二つあって、一つは日本の体育会系共通の柔軟体操をベースにしたもの、もう一つは中国の気功や太極拳の流れを汲むもののようだ。
要するに、ストレッチとバランスが中心になっており、ラジオ体操的メロディーではなく、一方はエイト・ビートのスローなロックに乗って、もう一方はエキゾティックなアジア旋律にしたがって、ゆるやかに身体を動かすわけだが、途中5分ぐらいのブレークをはさんでの1時間あまりで、かなり汗をかく。

と、ここまでは納得で、丁度良いというか十分な運動になって結構楽しくもあるのだが、残りの20分ぐらいが、どうも苦手だ。

お見かけするところ60歳台には見えるが元気いっぱいの小母さま先生が、“サアー、お楽しみの時間よー”と声をかけると、多い時で100名以上、少ない時でも70名は下らない、生徒全員によるダンスが始まる。言いそびれていたが、男性はその中でわずか10人ほど。あとはすべて女性(小母さま、おばあさまではあるが)なので、全体としては楽しそうに見えるのかも知れない。が、少数派の男性陣にとっては、この時間帯は苦痛だ。一箇所に固まって適当に手を抜きたいのだが、あえてバラバラにさせられて恥をさらす破目になる。

いっそ、タンゴ、ワルツ、フォックス・トロットなどのいわゆる社交ダンスや、ジルバ、ラテン、ツイスト、ゴーゴー(古いね!!)などならば、昔取った杵柄で今でも踊れなくはないし、嫌いではない。
だが、「昴」の歌詞とメロディーに当て振りした“日本舞踊風”のダンス、テレビ童謡に乗って左手を腰に当てホールを周りながら片足ずつスキップしたり振り上げたり、反対周りしてくる人たちと次々に右手でパチンとハイタッチするスクエアダンスは、我々世代の男子にとってはチョッと辛い。真面目にやろうとすればするほど、周囲からはきっと珍妙に見えるに違いなく、心なしか小母さま方も、気の毒そうに見て見ぬふりをしている(ような気がする)。

90分経って全コースが終ると、ヤレヤレ今日も何とか乗り切ったと本当にホッとする。これがたまらなくて、はや1ヶ月で止めてしまった男性もいると誰かが話していた。教室は来年の3月末まで続くのだが、自分は果たしてそれまでもつだろうか?体操の方は積極的に続けて行きたいのだが...。

案外その頃、このダンスが好きになって嬉々として踊っている自分がいたりして?

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2006年5月16日 (火)

リーダーズダイジェスト同窓会

先週の週末、竹橋のパレスサイドビル9Fのレストラン「アラスカ」で、我がビジネス・キャリア上の母校とも言える日本リーダーズダイジェスト社の出身者が集っての懇親会があり、顔を出してきた。と言っても同社自体は、もはや日本には存在しない。
米国の本社は、一頃ほどの勢いはないにしても、今も世界61ヵ国で20ヵ国語版による合計2100万部の月刊「リーダーズダイジェスト」誌を発行し、一応、発行部数世界最大の多国籍雑誌出版企業の名目を保っているが、日本市場からは1985年に撤退した。終戦直後は国際社会への窓として貪るように読まれて一世を風靡した同誌も、今では伝説上の雑誌となり果てている。

「アラスカ」で会が開かれるようになってから今年で3回目になるが、その理由はパレスサイドビルにオフィスがあったからで、もっと言えば、1966年にパレスサイドビルが建つ前から、この場所には、リーダーズダイジェスト日本支社が存在していたのだ。その頃のことを知っている人は、今では随分少なくなっていると思うが、1961年、自分が入社した頃のリーダーズダイジェスト社屋は、イサム・ノグチ氏が設計したという、アメリカの都市郊外などでよく見かける、広い芝生と築山に囲まれた瀟洒な二階建ての自社ビルだった。

率直に言って、世間のあるいはかつての在籍者によるこの会社に対する想いは、毀誉褒貶あって様々だが、少なくとも自分にとってのリーダーズダイジェストは、社会人になって最初の15年を非常に中味濃く過ごすことができた、今思っても得難い経験の場だったと言える。
自分はここで、マーケティングの基本をしっかりと学び、国際舞台も数々踏ませてもらい、ビジネスの管理・経営の難しさも味わった。今日の自分の原型はこの時期に形成されたと言っても過言ではなく、記憶に止めておきたい数々の思い出があるが、その辺りのことは、2004年4月から06年3月までの2年間にわたって「アイ・エム・プレス」に連載した「ダイレクトマーケティング・グラフィティ」に書いたので、ここからリンクして読んでいただければ幸いだ。

ところでこの日集まった人々は約60人。最高時は100人近くもあった参加者も年々数が減ってきているが、それでも、既に物理的な拠点もなくなってしまった会社の同窓者が、なおこれだけ集まるというのは異例ではないだろうか。きっとそれは、この会社にはかつては良き日々があり、集まった人々はその思い出を共有しているということなのだろう。

自分がこの会社を退社したのは1976年だから、中には約30年ぶりの再会という人もいるが、皆それなりに幸せそうで元気そうだ。感心したのは、70歳台後半以上の人たちが変らず元気なこと。80歳台の方も若干名おられ、90歳を超えた方もいる!この会の世話役を積極的に引き受けてくださっているのも、実は70歳台後半の方々だ。ここに来ると、本人としては相当齢を重ねたと思っていた60歳代の自分は、どちらかと言うとまだ若手(?)であることを意識させられてしまう。
特に誰もが感銘したのは、91歳になられたS氏。自分が入社から間もない“本当の意味での若手”だった頃の大部長で、つい先年まで会社を自営されていたと言い、今なお髪は黒々、姿勢はシャンとし、会話を交わしていても何の違和感もない。S氏と話をしていて、自分もまだまだやれそうだという元気が出てきた。

いささか余談になるが、かつてのリーダーズダイジェスト社は、自由な社風を持った古き良き時代の外資企業で、女性社員がとても多く、いわゆる“社内結婚”もむしろ祝福されていたこともあって、数え切れないほどのカップルが誕生している。この会も夫婦同伴は大歓迎ということで、この日も、ペアでの参加が何組かあった。
実は何を隠そう(前にも書いているのでもう隠せないけれど)自分のところも、当時ヤンチャ坊主としっかり娘の組合せということで社内の物議をかもしたレッキとした社内結婚で、毎回、家内を連れて来いと言われていた。だが、二人揃って出かけてムッシュを一人(一匹?)にしておくのは忍びないと、今回も彼女は出席しなかった。そういう場よりも、小犬との暮らしの方が、今では心休まる楽しみになっているのだろう。

単純なもので、その夜は、今はもうないはずの日本リーダーズダイジェスト社で、米国本社に対して何事か電話交渉している自分の夢を見た。場所はパレスサイドビル以前の旧社屋、当時座っていた大きな木製デスク上のダイヤル式黒電話の送受話器を握っている。なのに、何故かその自分は、若くて勢いだけで突っ走っていた当時の自分ではなくて、さんざん経験を積んで交渉にも老練になっている今の自分なのだった。

何で今更あんな夢を見たのだろう? 夢とはおかしなものだ。

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2006年5月 8日 (月)

八ヶ岳は春未だし

先月末28日から6日間ばかり、約5ヶ月振りに、家内および愛犬ムッシュと清里の山荘へ行って来た。世間でいう大型連休よりやや早めだが、往き帰りの高速道・国道の渋滞を避けるため、早く行って早く帰ってこようと思ったのだ。

明るいうちに到着するよう、昼過ぎすぐに出発する積りでいたが、久し振りに出かけるとなるとついあれこれ準備に手間取り、家を出たのはかれこれ午後3時近く。それでも、中央高速道に入るまではいささか時間がかかったものの、八王子インターからは快調に走ることができた。当日の横浜は日中20度以上あり汗ばむほどだったが、談合坂SAで一休みする頃には頬をなでる風も心地良く、周囲の山々を淡く彩る山桜が目を和ませてくれた。 韮崎を過ぎて国道141号線に入る頃は、もうあたりは薄暮。上り勾配にかかると、それに反比例してどんどん気温が下がり、たちまち17度ほどに。でもここらあたりは、東京・横浜ではとっくに散ってしまった染井吉野がいま満開で、宵闇の中のそこかしこに、それが仄白く浮かび上がる。

だが、標高が1000メートルを超える清里高原に入るとまた、目に入る夜景が異なってきて、141号線から分かれる牧場通りでは、道の両側には真っ白な花を一杯につけたコブシの並木がライトに映えて続く。昼間だったら、♪コブシぃ咲ぁく、あの丘北ぁ国ぃの...♪と、鼻歌の一つも出るところだが、この辺りの夜間はそれどころではない。外気温はぐっと下がって、標高1250メートルの小海線の踏切を渡ったときは遂に7度。それから5分もかからない標高1400メートルの我が山荘に着いた時は...ご想像願いたい。

さすがに雪はもう残っていなかったが冷え込みは半端ではなく、暖炉までは焚かなかったけれども、床暖房を最高温度にセットしても、屋内が完全に暖まってくるまでには2~3時間かかった。家の周りは漆黒の闇で、中の明かりが届く至近の木々しか見えなかったが、昨年の秋の終りにクローズした時とまったく変っていないように見えた。それでも、気にしていた水道管の凍結や水漏れ事故などもなく、今年も無事オープンできたことはたいへん幸い。ヤレヤレ一安心というところだ。

夜が明けて翌朝、外の景色を見て驚いた。例年なら落葉松の枝に一斉に新芽が膨らんで森全体が浅緑色に見えるところなのだが、今年はまだ冬の茶色のまま。どうやら、春の到来が大幅に遅れている模様だ。外に出て冷えと寒風に堪えながら、どこかに春の兆しが見えないかと懸命に落ち葉に埋もれた前庭を観察していたら、3~4本のニオイスミレだけが、いつもの場所に小さな紫色の花びらを覗かせていた。 山荘の前庭

最近はただでさえ出不精になっているので、とりわけこんな寒い日はあまり出かける気がしない。しかし、せっかく山に来ていながら家の中にばかりいても仕方がないと、ムッシュの散歩がてら、地元の農家の小母さんたちが直売市を開いている「まきば公園」(電話:0551-38-0220)へ車を走らす。たまたま、美味しそうな自家製の味噌と季節最後の筍が手に入った。これがほんとの“犬も歩けば棒に当たる”か。

その翌日は一転快晴で、気温が急上昇。平地は軒並み30度以上の真夏日とか、山荘近辺も20度弱の程よい陽気になったので、久し振りに蕎麦を食しに「藤乃家」(電話:0551-38-3370)まで下りたら、そこは春の終りの高気温。冷たい湧水でしめた打ち立ての天盛りが実にうまかった。今日は、ムッシュが留守番をしてくれているので、馴染みの「いずみきのこ園」(電話:0551-38-2432)でシメジも買えた。往き帰りの八ヶ岳山岳道路からは、目の前の八ヶ岳連峰はもちろん南アルプスや奥秩父の連山そして富士山など、まだかなり雪の残る四方の峰々がくっきりと見えた。

山荘へ来ても、自分が食事を作る(れる)わけでなし、往復の運転もこの15年くらいは家内まかせ(運転歴45年なのだがあなたの運転は怖いと言ってさせてもらえなくなった)なので、せめてもと、こちらではいつも、チエンソーでの倒木裁断や刈り払い機での笹刈りなどの力仕事を引き受けている。冬越しということもあって今回もその積りでいたのだが、寒風や雷雨にたたられたり、体調がいま一つだったこともあって、とうとうできず終い。結局、ムッシュのお守りぐらいの役にしか立たなかった。残念!! ただ、帰る当日の午前中は、「清里の森」の開設20周年記念ということで植樹祭などのイベント、樹木の苗や伐採した檜材のプレゼントなどがあり、八ヶ岳の見える広場に集まって顔見知りの管理センター職員の人々や森の住民の方々と、ひと時の共同作業ができたのは楽しかった。 愛犬ムッシュ 広場より八ヶ岳を望む

帰途は思惑通り、まったく渋滞に遭わず、往路と同じく午後3時頃に出発したにもかかわらず、明るいうちに着いた。時間が中途半端だったので、残念ながら、4月19日に紹介したイタリアン・レストラン「ぼのボーノ」には立ち寄らず。この次、仕事も一段落して気候もすっかり良くなった6月の初め頃にまた来て寄ろうと思う。

その頃はきっと、山荘の周りには、レンゲツツジや山桜が花をつけ、タラの芽が顔をのぞかせていることだろう。

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