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2006年3月

2006年3月28日 (火)

アメリカの中の日本人

いやー、先週はサッカー・ワールドカップ以来久し振りに熱中して、テレビでWBCの準決勝と決勝を見た。日本が優勝したことも喜ばしいが、ともかくゲームそのものが面白かった。陳腐と思っていた“野球はドラマ”というたとえを実感させられる好展開だった。
自分も元高校球児で、野球は見るよりもする方が好きだったが、それでも昔はプロにもアマにも相応に贔屓のチームがあり選手がいて、見る方も楽しんでいた。しかし同世代のプレーヤーがすっかり引退してからは、あまり身近なものに感じられなくなり、どこが勝とうと誰が活躍しようとどうでも良くなってしまっていた。でも、これでまた野球に対する興味が復活して、ときどきは見ようという気が出てきた。

実は、WBCが話題になり始めてからずっと、ゲーム自体の展開や結果とは別に、ある日本選手の言行に注目し、その深層心理に思いを馳せていた。イチロー選手のことである。
チーム内で強烈なリーダーシップを発揮し、個人的にもメジャー・リーガーならではの堂々たる成績を残した彼を、優れたアスリートとしてだけでなく、アメリカという社会で強く生きている国際的日本人として見て、今回のWBCを通じて取り沙汰された一連の過激とも言えるナショナリスティックな発言の背景・内面について考えていたのだ。

MLBで活躍するようになってもう5年、イチローは、会話や食事や移動など生活技術的には何不自由なくすっかりアメリカ人になり切っているに違いない。だが、変な言い方だが、そうなればなるほど彼は、強烈に日本人としてのアイデンティティを意識するようになっているのではないだろうか。日本人が外国(特にアメリカ)人の社会の中で生きて行く必要に迫られ、そこに同化しようと努力して適うようになったとき、それが外面的にはいかに完璧に見えても、内面的には絶対無理だったことを否応なく悟らされるからだ。

イチローのような、1年のほとんどをアメリカで暮らし、しかもその中で現地の人間も及ばぬような仕事上の実績を上げている超一流のプロフェッショナルの生き様を、自分のような者のささやかなアメリカン・ライフになぞらえて主観的に語るのはまことにおこがましいが、あえて言わせてもらえば自分には、経験的・感覚的に、誰も予期しなかった彼のナショナリスティックな発言の影の部分が見えるような気がする。

自分は米国に留学した経験があるわけではないし現地勤務が長かったわけでもないが、社会人になると同時に当時の典型的な米資企業に入社、ビジネス・ライフの大半を、そこを初めとするいくつかの米資企業で過ごした。海外ではもちろん日本にいても、周囲には常に多くのアメリカ人がおり、何事もアメリカン・ウエイで運ぶ環境に長く身を置いていた。概して、オープンで率直な気のいいヤツが多く、年齢や国籍にかかわらず専門的実力のある人間を尊敬する気風があり、それが好ましく理想的に思えて、いつの間にか自分の方からそれに染まって行った。

しかし、“合衆国”というくらいだからあの国には、実にさまざまな祖国、歴史・宗教観、そしてそれらに基づく行動規範を持った人々が居る。すべてのアメリカ人とは言わないが、何かの問題をきっかけに普段は見えない彼らの考え・意識がむき出しになって、我々日本人との間には、どうしても相容れないものがあると思い知らされることも度々あった。
それは、表面的同化の度合が進み、彼らの実像について知識として精通するにつれて、感覚的にもわかるようになり、そういう時には、否応なく自分が日本人であることを意識させられた。アメリカの会社にいたからこそなお一層、日本人としてのプライドを貫きたいという刺激を受けたのである。

話は飛躍するようだが、自分で言うのもなんだけれども私は日本古代史のマニアである。だからどうしたと言われるかも知れないが、それに目覚めたのは実は、このようにアメリカ企業で働くようになり、かえって“日本”というものを強く意識するようになったからなのである。「なぜ連中と我々は相容れないのか」「我々日本人とは何なのか」「日本人の思考・発想はどこから来るのか」といった自分たちの根元について知りたいという欲求が次から次へと湧き起こってきて、この道に入り込んでしまった。

自分は別にアブナイ極右の国粋主義者ではないが、根元的なところでどうしても連中と相容れることができなかったような時には、思わず大和魂が疼いて、「もうこりゃあ戦争だア」と叫びたくなることもあった。もちろん、本当の戦争をしたいと思うわけではないし、個人的には大好きな国なのだが、それぐらい、思いが交錯し鬱積するのだ。
勝手な想像に過ぎないが、MLBでの地位と名声を極めたあのイチローであってもなお、彼の活躍する最もアメリカ的と言える社会の中で、言い知れぬこのような思いを味わうことがあるのではないかと思う。だから彼は、WBCという国別対抗の戦いの場で、日の丸を背負って高揚し、燃えたのだろう。

言っても仕方のないことだが、できればあの場に、日本人としてのMLBパイオニアであり、きっとイチローと同じ思いを胸に抱いて今日まで戦ってきたに違いない野茂もいて欲しかった。3年後には元気で会えるのだろうか。

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2006年3月20日 (月)

春が来た(のかな?)

このところやっと、暖かい日が続くようになってきた。「三寒四温」とか「暑さ寒さも彼岸まで」とか昔の人は上手いことを言ったものだが、その彼岸が近いというのに嵐も吹けば雪も舞い、今年に関しては当たらないのではないかと思っていた。が、夜間になるとまだ冷え込むことがあるものの、どうやらギリギリで春到来の帳尻は合いそうだ。

愛犬ムッシュを散歩させる時にも、ようやく完全防寒仕様(私のこと)にしなくともよくなったし、日中はほとんど室内暖房が要らなくなって助かる。実は今年はとみに手足の指が冷えて、恥ずかしながら、田舎での少年時代以来久し振りに、ひどい霜焼けになってしまった。いまだに医者にかかって、外用薬を塗布しビタミン剤を服用している。
そして霜焼けが治りかかったと思ったら今度は、例年の花粉症。15年前くらいまでは何ともなく、他人事だったのだが、ある年から突然そうなってしまい、今年も目はウルウル、くしゃみがハックションの状態だ。
「暑いの寒いの、痛いの痒いのと、年中あれこれ言ってるのね」とは、さる方のツッコミ。

前にも報告した腱鞘炎はまだ治っていないが、それと花粉症以外には今のところ、高齢化(!)に伴う諸々の病気には縁がない。もともとアルコール類はダメだし、タバコも約20年前から断っていることも幸いしているかと思うが、まずは、日ごろから食事に気を遣ってくれているあの方に感謝すべきなのだろう。

先月、近所の総合病院で横浜市の中高年向け基本健診とガン検診も受けたが、特に異常はないとの所見だった。今後も1年に1回は受診するようにと言われているが、2~3年ぶりに飲んだバリュームには参った。ありゃあ以前とくらべて量が増え、レントゲン撮影も複雑かつ長時間になったような気がするが、どうなのだろうか?

ともあれ、いつもより寒く長く感じた冬がやっと終って、春が訪れたのを実感させられる。庭の木々も蕾がふくらみ、早いものはほころび始めた。花水木やライラック、ブルーベリーなどはまだ開花していないが、豊後梅や白木蓮そして沈丁花などは五分咲きで、ほのかに良い香りを漂わせている。
寒さを我慢しながら寒肥をやったのはついこの間だったが、それが余計なところにまで効いてきて、いろいろな雑草がどんどん顔を出し始め、こんどは草むしりだ。夏が来る頃には芝刈りが待っている。また、遅くとも4月の半ばを過ぎたら清里の山荘にも出かけて、風雪で折れた唐松やミズナラの大枝・小枝の片付けやら、昨年は放ったらかしにしていた下草刈りをしなければならない。
2~3年前まではそうでもなかったが、さすがにこの頃は、この種の肉体労働は「きついなー」と思うようになった。しかしこれも健康法と前向きに考えて、身体が動く間は続けることにする。(だが子供たちよ、たまには手伝いに来い!)

ところで3月は、関係している会社の人たちとの打ち合わせスケジュールが、例月とは違って月の後半に寄っている。企業人として働くことがなくなってからはあまり意識しなくなっていたが、考えてみればこの時期、大方の会社は年度末で、営業の追い込み、経理の決算、組織変更、人事異動、そして新年度の事業計画最終調整と、何かと取り込んで予定が“押せ押せ”になっているからだろうと自己納得した。そういう慌しさとは縁がなくなった自分の現在に、ときどき、安らぎと同時に一抹の空虚感を覚えることもある。

自分としても今月は一つの節目だ。2年間続けた「アイ・エム・プレス」の連載も3月末発売号でひとまず終了、その先どうするかはまだ確定していない。誌上になるかウェブ上になるかはわからないが、いずれにしても、マーケティングに関わるシリーズ的なコラムを新しいテーマのもとに書いて行くことになると思う。書いたものは多分、このサイトからもリンクできるようになるはずである。

今は内外の資料・情報を手広く当たって、もっぱらジックリと読み込むことに精を出しているが、だんだんメモリー容量の減ってきた頭が一杯一杯になり、早く書き始めてそれを消化しないと、折角詰め込んだものが自動消滅してしまいそうな気がする。いや、単に気温上昇と花粉症のせいで、頭の回りが鈍くなっているだけかも知れない。

サテ、桜の花は来週末あたりから開き始めるのかな?




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2006年3月14日 (火)

テレビCMはイメージ&レスポンス

テレビは、朝昼晩の食事の時間にダイニングルームで“ながらウォッチング”するのがほとんど。自室では起床時と就寝時に習慣的にスイッチオンするほかは、よほど興味のある映画や特集番組でもなければあまり真面目に見ていない。CMについても同じことで、特にわずらわしいとも思わないがさりとて興味津々というわけでもなく、日常生活の一部として淡々と接しているだけである。

そんなわけで決してテレビのヘビーウォッチャーではない私だが、たまたまいつも同じタイミングで番組やCMを見る結果になっているせいか、以前は職業的な関心以上のものを持たなかったテレビ広告に、この頃では個人的な感慨をも抱くようになってきた。

もちろん、目に入るすべてのCMについていちいち感慨を抱いているわけではなく、特に、同じような市場を対象とするある2社のものが気になっている。一つは九州に本社のある健康食品Y屋の、もう一つは米国に本社のある傷害保険A社のものだ。どちらも、イメージ形成とブランド認知までをとりあえずの目的とするいわゆる“アウェアネス(衆知)広告”ではなく、その結果として販売に結びつく何らかのアクションまでを求める“ダイレクトレスポンス広告”なのは、やはり自分がダイレクトマーケティングに関わっているからだろうか。ただ、「気になっている」と同じように言ってはいるが、Y屋の方は「寡言だが心に響く」という意味で、A保険の方は「饒舌過ぎて心に響かない」という意味でだ。

私自身はいま健康食品の必要を特に感じてはいないので、Y屋のCMに実際にレスポンスしたことはないが、もしその必要が出てきたら、思わず“Y屋、Y屋”とつぶやきながらフリーダイヤルに電話をかけてしまうかも知れない。それほどこのCMには、どこか深いところで心を揺り動かされ、自然にリアクトさせられてしまうものがある。円熟の域に達した男優のゆったりとした語り口、それと調和した画面と音楽には、まるで1編のミニ・ドラマを見ているような気にさせられ、その先のストーリーを知りたくなる。

Y屋の事業形態は通信販売だから、広告したら可及的速やかに受注する必要があるわけだが、テレビというメディアの特性と自社の商品イメージを熟慮してY屋は、CMのその場では無理にそのプロセスを完結しようとしていない。テレビには惹き付ける役割だけを担わせ、詳しい説明と販売訴求の役割はそれに適したダイレクトメール会員誌という印刷メディアに任せている。テレビは決して“理”のメディアではなく“情”のメディアであることを承知し、“情”の部分に訴えることによって視聴者が自ら動くように仕向け、しかも、あえて多くは語らない中にも肝心要のフリーダイヤル番号は明確に印象付けている。実に巧みなレスポンス広告だ。自分も著書や講演などで、“イメージ&レスポンス”というキーワードで広告の極意を述べているが、これはその数少ない好例と言える。

一方A保険のCMだが、全テレビ広告の中でも有数の高頻度でオンエアされており、しかもY屋に優るとも劣らない人気・実力兼備のベテラン男優を起用しているので、少なくとも認知度だけは抜群に高くなっていることは想像に難くない。だがこれが、ターゲット層の率直な共感を十分に呼び起こしているかどうかには疑問がある。実際の成果は知る由もないので違っているかも知れないが、ターゲットの一人でもある私にはそう感じられる。

あれもこれもと一度の機会で伝えないと不安なのか、このCMは多弁過ぎる。詳しい情報を提供しようとすること自体は悪くないのだが、まるで販売員がパンフレットを見せながら滔々と展開するセールストークを聞かされているような気がして、私などは辟易としてしまう――というよりも、飽きてしまうと言った方がいいかも知れない。

このスタイルは、衝動買いを誘う“物品通販”のテレビショッピングでは定番になっているが、“保険”という、合理性の産物でありながら抽象的で、意思決定には多分に感情の影響を受ける商品のテレビを使ったレスポンス獲得手法としては、ちょっと適しないと思う。せっかく渋い演技派男優を出演させているのだから、彼には単純な広告塔の役をさせるのではなく、さまざまな人生ドラマのシーンを演じてもらって視聴者の感性に訴え共感を呼び起こし、より自然に、もっと深く知りたいというモチベーションを発生させるのだ。セールストークはそれをフォローする印刷メディアに任せたら良い。

しかし多分、このことを米国人マーケターに話しても、左脳でしか考えない彼らには理解されないだろう。「自分の本にもそう書いているじゃないか」と訝られ、「それは物販ダイレクトレスポンスの一般論としてだ」と言っても、「保険にだって通用するはず」というオチになるのが、米国資本の企業で長年仕事をしてきた自分には容易に想像できる。

私は、顧客または見込客に親切であろうとするならば、そして投資効果をシビアに考えるならば、いずれ、あらゆるメディア広告はダイレクトレスポンス化せざるを得ないはずと思っているが、それが妙な方向に曲がって行かないよう、現在“ブランド衆知CM”“通販CM”を制作しているそれぞれのサイドの人々に、先入観を捨てて虚心坦懐になれと言っておきたい。話題になったり認知率を上げたりすることができれば広告にはそれ以上何も求めなくとも十分というわけではないし、逆に、心からレスポンスさせるためには形振り構わず速射砲のようにしゃべりまくり迫りまくれば良いわけでもないのだから。

要は「イメージ&レスポンス」だ。30秒で、また見たくなる、続きを見たくなる、そしてもっと深く知りたくなる、味わい深い短編ドラマを見せて欲しい。右脳的感性の持ち主である日本人がつくるどのCMにも、その可能性は秘められている。

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2006年3月 7日 (火)

アイス・スケートあのころ、このごろ

トリノ冬季オリンピックが閉幕した。メダルの数や色がどうのこうのというよりも、終盤の荒川静香選手の氷上の舞がすばらしかった。それで十分満足できたし、この結果を通じて日本のウィンター・スポーツの決して十二分とは言えない環境が浮き彫りにされたことも、それはそれで今後のために意味があったと思う。

自分の少年時代は、オリンピックと言えば今でいう夏季五輪のことで、猪谷千春というスキーヤーが外国で快挙を成し遂げたというニュースを聞いても、それが冬季五輪でのことだったとはあまり意識していなかった。何しろ、東北でもそれほど雪深くはない阿武隈川沿いの梁川という町で生まれ育ったもので、橇すべりやスケートには小さい頃から親しんでいたものの、スキーをする人の話など町で聞いたこともなかったのだ。

いま考えると比較的近くにスキー場があったはずの福島市の高校に行くようになっても、スキーは道具にも場所にも金がかかるスポーツで普通の高校生には縁のないものと思い、あまり興味も持たなかった。もっとも、硬式野球部に所属していたので、冬でも他のスポーツに時間を割いている余裕がなかったことも理由だったかも知れない。
早稲田大学時代は貧しくてアルバイトに明け暮れ、社会人になってからは仕事と家庭で手一杯、ゴルフは何とか仕事の延長で嗜むようになったけれどスキーまではなかなか手が回らず、前にも書いたようにとうとう50歳を過ぎるまで機会がなかった。

そこへ行くと、スケートを始めたのは小学生の頃。と言っても、スケート靴を持っていたわけではなく、町にリンクがあったわけでもない。初めは手製の“竹スケート”(20~30センチの長さに切った孟宗竹を縦半分に割ったものに下駄のように鼻緒をすげたもの)で、真冬の夜更けにカチカチに凍った町の大通りがリンク代わりだった。
その次が少しレベルアップして“下駄スケート”。7~8ミリ角で長さ30センチほどの鉄棒の先端と後端の部分を曲げ上げて歯のない高下駄の裏側の峰の部分に打ち付けたもので、当時は主流派の商売だった下駄屋さんで作ってもらった。と言っても今では、下駄ですら履く人はほとんどいないから、下駄スケートなどと言っても想像もつかないだろう。これは竹スケートよりは滑りが良かったが、重くてバタバタしていた。
そして中学に入る頃、やっと誰かから“靴スケート”を借りて使うことができるようになった。しかしこれとて、今のようなエッジと靴の一体型ではなく、ゴム長靴を履いた上に前後部2箇所のバンドで取り付ける方式のものだった。本来は編み上げの皮靴に取り付けるべきものだったが、そんな靴は高価でとても買ってもらえなかった。それでも、これで初めて天然のリンク(町の城跡の周濠が凍結したもの)にデビュー、本格的に滑るようになり、そこで一通りのスケーティングの技を覚えた。

大学時代から社会人になりたての頃(1950年代末から60年代初期)のアイス・スケートは、割りあい近場で、一人でも多人数でも、また時間内ならいつ行っても、そして貧乏学生の乏しいお小遣いでも楽しめる、極めて身近なスポーツだった。正確に覚えているわけではないが、当時は郊外にはもちろん、後楽園、新宿、東雲、芝、品川、池袋(?)など東京のど真ん中に、アイス・スケートのリンクが沢山あったような気がする。

土地投資効率の問題か、かつてとくらべるとアイス・スケート場は全国的に激減しているようだが、オリンピック・バックアップのためはもちろん大衆スポーツ文化の維持のためにも、何とか昔のように増やせないものだろうか。カーリングもいいけれど、スケートはもっと底辺が広いと思う。ニューヨークのマンハッタンでは冬になると、ロックフェラーセンターやセントラルパークのリンクで、年配者も小さな子供も、男性も女性も、夢中になって滑っており、米国がアイス・スケートに強いのも成る程なと思わせられる。

そう言えばこんな事もあった。日本リーダーズダイジェスト社に入社して2年目の春だったと思うが、友人からスケート・リンクの利用券を2枚もらったので、どこのリンクの券かもよく見ずに、早速、気になっていた1年後輩の社内の女の子を誘った。休日の午後に水道橋で待ち合わせて後楽園へと足を運んだが、入口で券を取り出すと、何とそれは後楽園ではなく、江東区の東雲スケート場のものだった。(ガ~ン!! これはもうダメだ)と思ってうなだれていたら、彼女はニコニコしながら、“まだ時間があるから行ってみましょうよ”と言ってくれるではないか。 
たちまち立ち直り、そこからバスに乗って東京駅まで引き返し、さらに東雲桟橋行きの別のバスに乗り換えて、合計1時間半かかった後やっと現地にたどりついたが、その時にはもう日も暮れかかっており、滑れる時間もあとわずか。どこからか、この間抜けさ加減を揶揄するかのように、植木等の「スーダラ節」が聞こえてきた。

それからウン十年、懲りもせず相変らず、ときどき間抜けをやらかしている。そしてその度に、あの時ニコニコ笑って許してくれた女の子は天を仰いで、「あーあ、ワタシ、後楽園で逃げてしまえばよかったのよね。失敗したわ。」とぼやいている。

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